湯けむり慕情

「ユリワカマル! てめー何しやが――もがっ!!
 じたばた暴れていたスマッシュの頭へ、大きな麻袋が躊躇ちゅうちょも何もなくかぶせられた。窒息するぞおい、と普通の人なら心配になるところであるが、まあスマッシュだから大丈夫だろう。
 首から下はす巻きにされて、とても常人には身動きがとれる状態ではなかった。いざ息ができなくなったときは――とは考えまい。スマッシュだから大丈夫なのである、たぶん。
「これでよし」
 と、袋の口をきつくしばって、ようやくユリワカマルは得心がいったらしい。やれやれと立ち上がった。
 もがもがとまるで苦しそうにあえいでいるスマッシュは置いといて、
「さあ、行こう」
 とファーリンをうながし、森の奥へ。獣道をしばらく行くと小さな滝が見えてくる。白いしぶきを上げている滝つぼの脇に、ごつごつした岩に囲まれた一間四方ばかりのよどみがある。
  ファーリンが水面へ手の先をふれてみると程よく温かい。
「こんなところに温泉が湧いてるなんて知りませんでした」
「ここはふもとの町の人間も知らないんだ。おれも山沿いの農家から聞いて初めて知った」
「そうでしたか。旅の楽しみが一つ増えましたね」
 念のため辺りに誰もいないのを確かめてから、二人は衣服を脱ぎ始めた。
「だけどユリワカマルさん、スマッシュさんをああまで動けないようにしなくてもよかったような気も」
「なに言ってるんだ。あのスケベ犬のことだ、あれくらいしておかないとファーリンの裸をのぞきに来るに決まってる」
 着物の帯をほどき、羽織をするりと肩から落とす。白い襦袢じゅばんまで脱いでしまうと、均整の取れた若くみずみずしい裸体があらわになった。
「おれ一人ならバカ犬でものぞいたりしないだろうけどな」
「そんなことはありませんよ」
「いや、あいつはおれのことは女だと思ってないからな」
「本当は女の子だと思ってもらいたいんじゃないですか?」
「冗談はよしてくれ」
 脱いだ着物をたたんで重ね、その上に刀を置いた。
 足の先からそっと温泉に入る。少しぬるめの湯加減。肩までつかると思わず、ふーとため息がもれる。
 その隣にファーリンも静かに入ってきた。
「スマッシュさんは、ユリワカマルさんのこと、ちゃんと女の子だと思ってますよ、きっと」
――そんなわけないさ」
「最初はユリワカマルさんのことを男の人だと思っていたから、今さら優しくするのが恥ずかしいんじゃないかしら。スマッシュさんはああ見えてちょっと素直じゃないところがありますから」
「やめてくれ、バカ犬に優しくされるなんて想像するだけで寒気がする」
 ユリワカマルは大げさに両腕を抱いて震えて見せた。そしてふいに黙り込み、何か考えているらしい。
「どうかしましたか?」
「いや、その、ファーリンはスマッシュのことがよくわかってるんだなと思ってさ」
「それは、まあ、何度も旅にお付き合いしていますから」
「もしかしてあいつが好きなのか?」
「ええっ?」
 ファーリンはファーリンとも思えぬ引きつった声を上げた。
「そんなわけないじゃありませんか。よりにもよってスマッシュさんだなんて。スマッシュさんはただのお友だちですわ」
「ふ、ふーん、そうなのか――
 と、またしばし考え込み、ようやく何かしら納得したらしい。
「そうだよな。あんなスケベ犬なんかに惚れる女がこの世にいるわけないよな」
 ファーリンも何もそこまでは言ってないと思うが。
「じゃあファーリンは他に好きな男はいないのか?」
「いえ今のところは」
「それじゃおれの兄上なんてどうだい?」
 ユリワカマルは笑いながら言った。
「ファーリンみたいに可愛い嫁が来れば、きっと兄上も城に腰を落ち着ける気になると思うんだがな」
「まあ、それならユリワカマルさんも早く素敵なお婿むこさんを見つけないといけませんね」
「おれは今の生活の方が性に合って――
 言いかけて、急に声をひそめる。
 ユリワカマルの表情がにわかに厳しいものに変わった。
「ユリワカマルさん?」
「しっ!」
 ユリワカマルに口を押さえられ、ファーリンも声を上げずにじっとしているしかない。
 耳を澄ますと、背後の木立の影から何者かの気配を感じた。
「ああまで縛り上げておいたってのに」
 ユリワカマルは手近な石を拾い上げた。
「やっぱり来やがったなこのスケベ犬っ!」
 力いっぱい投げられた石は鋭く弧を描いて大きな樹木の陰へ飛び込む。鈍い音はした。生き物に命中したらしい。が、スマッシュらしき悲鳴の一つも聞こえない。
 それもそのはずであった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 ユリワカマルとファーリンは同時に悲鳴を上げ、湯の中で一歩後ずさりした。
 木の陰から、のそりと鎌首を持ち上げた大蛇がこちらを見ている。その様は人の背丈ほどの大きさもあろうか。
 シャアッ、
 と二本の牙をむいてやにわに飛び掛ってきた。
 一息ばかり早くユリワカマルの手が大刀へ届いている。
 抜き打ちの一撃が大蛇ののどをかすめた。
 大蛇はひるんで横へそれた。が、そのときしなるように動いた長い胴体がまっすぐユリワカマルの方へ向かってきたと思うや、腹を大きくいだ。
「ユリワカマルさん!」
 ユリワカマルは木立の方へ数間も跳ねて倒れた。気を失いまではしなかったものの、
「げっ、げほっ!」
 と、はげしくむせかえり、ようよう顔を上げた先に麻袋があった。
 否、麻袋に覆われたスマッシュの頭が草むらから突き出ているのを見つけた。
―――
 ユリワカマルがあ然としていると、麻袋の中からくぐもった声がした。
「むっ、このにおい――ユリワカマルか?」
「こ、このスケベ犬! どうやってここまで来たんだ!?
「うるせー! てめえよくもオレをこんな目に遭わせやがって! 一体何が起きてるんだ。さっきからファーリンちゃんの悲鳴が――
 言ってるそばから、
「きゃあっ!!
 ファーリンの甲高い声と水がしぶきを上げる音が山中を響き渡る。
「ファーリン!」
 ユリワカマルは立ち上がろうとしたが、地面に叩き付けられたとき打ち所が悪かったのかもしれない。あばらに激痛が走った。
「スマッシュ――
「な、なんだ?」
「こっちを見るなよ。いいな!」
 言い終える前に膝でスマッシュの方へにじり寄り、刀で麻袋と手足を縛っている縄を切ってやった。
 体と視界が自由になったスマッシュは、いきなり隣に裸のユリワカマルがいたものだから少なからず驚いたらしい。
「うおっ! お、お前なんて格好を――
「いいから早く行け! ファーリンを頼む」
「お、おう」
 と、一旦は行きかけたスマッシュはふと足を止め、
「お前なぁ、いくら色気がねーとはいえ、女なんだから少しくらいは隠せよな」
 そう言って、襟巻きをほどいて広げ、ユリワカマルへと放っていった。
 さて大蛇、一般に龍蛇のあやかしには異類婚姻譚が多いものである。この大蛇もご多分にもれないのか、心なかしいやらしい目つきでファーリンに迫ってくる。
「それ以上近づくと――いくらわたしでも手加減いたしませんよ」
 ファーリンが低い声で告げ、手をかざして呪文の詠唱に入ろうとした、そのときであった。
「うおおおおおっ! ファーリンちゃんに指一本ふれさせるかあああっ!!
 一陣の風のように飛び込んできたスマッシュは忍び刀を抜いていた。柄を沈めて下段に構え、気合もろとも横殴りに一閃した。
 太刀筋は乱れのない一文字を描く。
 それをなぞるように大蛇の首を赤い直線が走り抜けた。どうと地面へ倒れこんで、二度と鎌首をもたげることもあるまい。
 スマッシュは刀の血しぶきを落とし、背の鞘へ納めた。
「ふっ、決まった」
 今のはなかなかカッコよかったぞスマッシュ。きっとファーリンも君の勇士にメロメロだ!
「おっと礼にはおよばないぜファーリンちゃん。当然のことをしたまでさ。オレに惚れちゃヤケドするぜ――ってあれ?」
 ――まあそんなことは全然なくて、それどころか「蛇には手がないから指は触れられませんよ」というツッコミすら入らない。
 スマッシュが怪訝けげんに思って後を振り返ると、ファーリンの姿は温泉から消えていた。いつの間に身に着けたのかちゃんと僧衣を着て、うずくまっているユリワカマルの方へ駆け寄っている。
 ユリワカマルの肩から胸にかけて、スマッシュが貸してくれた襟巻きで隠していてもはっきりとわかるくらい赤くれ上がっている。
「大丈夫ですかユリワカマルさん! 今傷を治して差し上げますから」
「ああファーリン、無事でよかった。いてて」
「ユリワカマルさんの方がご無事じゃありませんわ。じっとなさって」
 ファーリンに抱きかかえられて回復の呪文を施されているユリワカマルの姿を見て、スマッシュが、
(あんにゃろ、なんてうらやましい)
 などと情けないことを考えていたのは言わずもがなである。
 山を降り町に戻ってからも、スマッシュはなんとも言えず残念そうな顔をしていた。
「まったく、全部顔に出てるぞバカ犬。ファーリンの裸を見ようなんて百年早い。いや永久に見せてたまるか」
 と横を歩いていたユリワカマルが悪態をついた。
「なんだよユリワカマル、お前そんなにファーリンちゃんが好きなのか」
「ああ好きだね。ファーリンみたいな嫁が来てくれたら、おれも城にとどまる気になろうってもんだ」
「女だろ、お前は!」
 と、言い返してやると、ユリワカマルはわずかに頬を染めたように見えた。
――冗談に決まってるだろう、本当にお前はバカだな」
 しかしそれが真か嘘か確かめる隙はない。ユリワカマルはほんの心もち顔を伏せるようにして、スマッシュを追い抜き、堀に架かる橋を一人先に渡っていった。

(了)