柔らかなさざ波
「あのぅ――ええ、その――その、い、一緒に、浴場に行きませんか?」
などとファルダクが言い出したので、言われたファラジは目を点にして、ファルダクから離れる方へじりじりと
「や、やだ」
「ちち、違いますよ誤解です! 決して
とファルダクは両手を振り回して
「そうじゃないんです! ただ単に誰かについて来てもらいたいだけで――私は一人であそこに行くのは苦手なんです」
と弁解する。
「私一人だとどうも目立つようで――なんとなく周りからじろじろ見られているような気がして」
「いやまあ、君が目立ってるのはわかるけども」
北方の出身のファルダクはこの辺りの男では少ない白磁の肌の上に、その肌を
「いつもはザジイと一緒に行くんですよ。彼にも最初は同じような反応をされましたけど――」
「だろうねぇ」
「彼、今日はお母上に早く帰るように言われてるんですって」
「それで私?」
ファラジは困ったように首を
「迷惑ですか?」
「いや迷惑とは思わないけどさ。だけど、私たち二人でお風呂っていうのは、なんか、変じゃない?」
「へ、変? ですか」
ファルダクはしばし考えて、
「――じゃあ、アルトが宮廷から帰ってきた後に彼を誘って」
と言いかけた途端に、
「よぉし私と一緒に行こう! それがいい!」
とファラジが承諾したので、そういうことになった。
「ねえファルダク、君、魔性の男だって言われない?」
「言われません。――私がアルトを浴場に誘おうとしたから? 別に下心なんてないですよ」
「君の方にそーいうつもりがなくても、アルトにもないとは限らないんだって」
ファラジとファルダクは取り留めもないことを話しながら共同浴場へやって来た。
日が暮れかかり、大通りを行き交う人の姿もだんだんと増えてきた。今頃になってようやく庶民の昼が始まる。設備の整った家や日がな一日
働きに出る人々を尻目に、貴族やその子弟たちは
内部は男湯と女湯に隔たれている。
「そういえば、混浴の風呂場を作るのじゃなかったか?」
どういうわけかスルタンが急にそんなことを言い出して、家来たちを
どうしてスルタンが記憶違いをしていたのかは今でも謎のままで、混浴の案も風紀を乱すからという理由で当然ながら立ち消えた。
美麗な石造りの大浴場には、むせ返るような花の香りの湯気が立ち込めている。
(この時間は混んでるなぁ)
ファラジは入口のカーテンを
腰巻きは浴槽に入るときには外す。
巨大な長方形の浴槽の辺に沿ってぐるりと一周段差が設けられており、そこに腰掛けて座るとだいたい
ファラジは
他の入浴客はいくつかのグループに分かれてお
一足遅れて、ファルダクがカーテンを
ファルダクは中を
また入浴客たちの視線を感じる。なんとなく、さっきとは意味合いが違う視線を。
「―――」
ファルダクは段差を下りて肩まで湯に
「ザジイと一緒に来て、
とたわいのない話をする。
「大人ぶっててもやっぱりまだ子供だね、あの子」
「彼の水泳は見事でしたよ」
「君は泳がないの?」
「私はもうそんな年じゃ。泳ぎもさほど得意じゃないし」
「君の故郷ではオアシスで水遊びするようなこともないか」
「その代わりアンテロープに乗るのは自信があるかな。子供の頃はよく遠乗りに出て遊びました」
「ええほんとに?」
いかにも良家の箱入り息子という感じの今のファルダクからは想像がつかない。
ファラジは、ファルダクが閑談を装いながら、
おそらく、故郷の話を――何でもいい、
しかしファラジが気がついたように、他の入浴客も聞き耳を立てられていると感じるらしく、話し声をひそめたり、ファルダクをじろじろ
ファルダクはいたたまれなくなったのか、彼らに背を向け、浴槽の縁を握りしめた。
「―――」
「ファルダク、あんまり長く
「――すみません、私が一緒にいるとあなたまで奇異の目で見られてしまうってわかってたのに」
「みんなが君を見るのは君が素敵だからだよ」
とファラジは言った。
ファルダクの両頬が一瞬にして
――が、すぐに、ファラジは慰めとか気休めの意味合いで言ってくれたのだ、と気がついて苦笑いする。
「ありがとう、ファラジ。あなたっていい人ですね」
「前にどこかで同じ科白を聞いた気がするな」
「あなたが言ったんですよ、初めて会った日に」
「そうだったっけ」
「うん――」
ファルダクは浴槽の縁に手を置いたまま、優美に伸び上がるベキ夫人のような身ごなしで湯船から出ると、ファラジと肩を並べて座った。
ファラジは前髪の生え際を
「ごめん、よく覚えてないや」
「あなたの方が素敵ですよ」
とファルダクは不意打ちで矛先を突き返してくる。
「よしてよ」
「本当にそう思ってるんです。アルトがあなたのことを特別大切に想う気持ちがよくわかる」
「――
「ごめん」
ファルダクは口を
「ねえ、お
「着けてるけど? 外すと着け直すの面倒くさいから」
「痛くない?」
「最初だけだよ」
「触ってみてもいいですか?」
「ちょ、だ、だめ! だめに決まってるでしょう」
ファラジは慌てて
「私をからかってる?」
「そんなつもりは。――私もピアスを増やそうかな」
ファルダクは自分の
「そんなに着けててまだ足りないわけ?」
とファラジは仕返しのつもりで、少々意地悪な言い回しを選んだ。ファルダクはなんとも言えぬ微笑を浮かべ、
「自分に自信がないから、せめても飾り立てずにいられないんですよ。でも、飾れば飾るほどますます自信がなくなる」
と答えた。
ファラジは、ファルダクが何を考えているのかわからなくなり始めていた。
今の返答も本心からそんなことを言ったのかどうか読めない。生まれ育ちも美貌も知性も、およそ他人が羨望するものを持ち合わせているのに自信がないとは。
薄命の身を持て余しているばかりだった異郷の青年が、急に何かのスイッチが入ったように攻略しがたい城の主に変わった。どころかこちらの心の城を攻めてくる。
スイッチを押してしまったのは自分か? いつ?
(手玉に取られてるな)
と思うと、弁舌にはいささか自信があっただけに悔しい。
「他のアクセサリーはアルトを意識してるんですか? それに髪型なんかも」
「どうだろうね――」
「アルトは黒髪だけど、あなたはどこか――違う色みたいだ。
「それはどうもありがとう――」
「あ、体を鍛えてるのもきっとアルトを見習ってるんでしょう? ずっと格好いいなぁと思ってて」
「い、いやちょっともう、畳みかけてくるじゃん」
ファラジは防戦一方だった。
「降参するから、からかうのは
と白旗を上げる代わりに、手で湯を
ファルダクは笑いながら湯をかけ返してきた。
「だから、そんなつもりじゃないのに」
「君って思ってたより口が上手い」
「それは、まあ、父に任されてスルタンに拝謁するくらいですから」
「その調子でスルタンも言い負かせばよかったんだ」
「あの
ファルダクは声のトーンを下げたが、次に口を開くときには戻した。
「ねえどうやったらそんなふうに筋肉が付くんですか? 私は何をやっても全然だめで。体質かなぁ」
ちょっと腕を触ってみてもいい? と小首を
(お
いいよ。とファラジは許した。
ファルダクの手がそっと伸びてくる。二の腕の筋肉を押してみたり、摘んでみたり、弾力を確かめて面白がっている。ファラジはくすぐったく感じたが、それだけだった。
「私が触るのは平気なんですね」
とファルダクは手を離して言った。
「なんだって?」
「だってファラジ、アルトに手を取られたときは――やっぱり覚えてない? 初めて会った日に、あなた――」
「―――」
ファラジは突然顔面が燃え出すかと思うくらいカッと熱くなり、
(これじゃまたファルダクの手玉だ――)
と思い直して
「――そうだったかな――。だけどさ、好きな人に触れられたら舞い上がるのは当然じゃない? それに誰でもいいわけじゃない。君は違うの? 他の誰でも――」
ファラジが最後まで言い終える前に、ファルダクは
「試してみる?」
ファルダクの方が一枚どころか二枚三枚も上手だった。
「あの――おぉい――大丈夫? ですか? まさか真面目に受け取られるとは思わなくて」
「はっ!」
抜け出ていた魂が突然帰ってきたようにファラジに生気が戻った。
周囲の入浴客たちの方へサッと目を走らせ、
「そ、そろそろ出よう。ねえファルダク、君も」
と勢いよく湯船から上がる。
「えっもうですか?」
「長湯はよくないんだよ、ほら、特に君は――あー、北の方の生まれだし、慣れてないから」
「?」
ファルダクはもうしばらく一人で湯に
「だめだよ」
とファラジからなにやら強い口調で真剣に
「ファルダク早く隠して早く」
「なんなんですかいったい?」
「ええとさっきは――すみません、最後の方はからかってました。調子に乗ったのは否定しません」
と、浴場のサロンで涼んでいるときにファルダクは白状して、隣の寝椅子に寝そべっているファラジへ謝った。
「でも冗談だってわかってくれるだろうと思って。あなたって意外と」
「
と青年はむくれて天井を仰いでいる。
冗談で
「はぁ」
「みんなが君を見るのは君が素敵だからだよ」
と湯殿で言ったのは単なる気休めに過ぎなかったのに、ファルダクの悩ましい姿態に向けられた周囲の視線ときたら――
否、それとも自分の察しが悪かっただけで、本当は皆最初からそういう目つきをしていたのだろうか。
いずれにしても、ファルダクに向けられた視線を
(私が守ってあげないと)
と雷に打たれたように思ったのだった。
自分のことながらなぜそう思ったのか、今になってみるとわからない。ずいぶん考えてもわからないので
(まあほら――あれだ、ファルダクに万が一のことがあったらアルトが悲しむだろうし。アルトが悲しいことは私も悲しい)
そうそう、きっとアルトのためだ。そうに違いない。
(いや、でもそれは、なんか変だよな)
何が変なのかと問われると困るが、なんとなく
うーん――とファラジが苦悶するように
「怒ってるのかと思ったけど、もしかして具合が悪いんですか? だからすぐお風呂から出たの? それならそうと言ってくれれば」
「え?」
ファルダクがひょいと手を差し伸べてその手をファラジの額に置いた。
「あなたの方こそ湯当たりしたんじゃ? 冷たい水をもらってきましょうか」
考え事に
なのに今度は違った。
ファルダクの手はファラジの額よりもいくらか温かく、白く柔らかく、滑らかだった。重労働など一切したことのない、貴公子の証だ。その手が優しく触れているところがざわざわした。
その
「わっ」
とファルダクが驚き
そして狭くて肘掛けのない寝椅子の上でそんな無茶な動作をした青年はそのままバランスを崩し、椅子のむこう側へどてんと転げ落ちた。
ファルダクは慌てて寝椅子の反対側から身を乗り出してきて、石の床に突っ伏しているファラジを心配そうに見下ろした。
「だ、大丈夫ですか? 私また何かあなたの気に障るようなことしました?」
「そうじゃないけどさぁもおぉ――」
とファラジは答えはしたが顔さえ上げない。「もう、もう――」とやるせない
(了)