柔らかなさざ波

「あのぅ――ええ、その――その、い、一緒に、浴場に行きませんか?」
 などとファルダクが言い出したので、言われたファラジは目を点にして、ファルダクから離れる方へじりじりと後退あとずさりを始めた。
「や、やだ」
「ちち、違いますよ誤解です! 決してそういう﹅﹅﹅﹅意味では」
 とファルダクは両手を振り回して狼狽うろたえ、
「そうじゃないんです! ただ単に誰かについて来てもらいたいだけで――私は一人であそこに行くのは苦手なんです」
 と弁解する。
「私一人だとどうも目立つようで――なんとなく周りからじろじろ見られているような気がして」
「いやまあ、君が目立ってるのはわかるけども」
 北方の出身のファルダクはこの辺りの男では少ない白磁の肌の上に、その肌を豪奢ごうしゃな金のアクセサリーや見慣れぬ紋様の刺青で飾り立てている。どこへ行っても人目をくに違いない。それにスルタンやアルトの“関係者”としても有名人だ。
「いつもはザジイと一緒に行くんですよ。彼にも最初は同じような反応をされましたけど――」
「だろうねぇ」
「彼、今日はお母上に早く帰るように言われてるんですって」
「それで私?」
 ファラジは困ったように首をかしげ、長い前髪の下へ片手を入れて生え際をいた。
「迷惑ですか?」
「いや迷惑とは思わないけどさ。だけど、私たち二人でお風呂っていうのは、なんか、変じゃない?」
「へ、変? ですか」
 ファルダクはしばし考えて、
「――じゃあ、アルトが宮廷から帰ってきた後に彼を誘って」
 と言いかけた途端に、
「よぉし私と一緒に行こう! それがいい!」
 とファラジが承諾したので、そういうことになった。


「ねえファルダク、君、魔性の男だって言われない?」
「言われません。――私がアルトを浴場に誘おうとしたから? 別に下心なんてないですよ」
「君の方にそーいうつもりがなくても、アルトにもないとは限らないんだって」
 ファラジとファルダクは取り留めもないことを話しながら共同浴場へやって来た。
 日が暮れかかり、大通りを行き交う人の姿もだんだんと増えてきた。今頃になってようやく庶民の昼が始まる。設備の整った家や日がな一日あおいでくれる下僕を持たない彼らは、灼熱になる午後は日陰で休んでいるしかないのだ。
 働きに出る人々を尻目に、貴族やその子弟たちは社交場浴場へ一人また一人、あるいは数人連れ立っては吸い込まれていく。ファラジとファルダクもその一員に加わった。
 内部は男湯と女湯に隔たれている。
「そういえば、混浴の風呂場を作るのじゃなかったか?」
 どういうわけかスルタンが急にそんなことを言い出して、家来たちを狼狽ろうばいさせたことがあるという。皆そんな話は寝耳に水だった。
 どうしてスルタンが記憶違いをしていたのかは今でも謎のままで、混浴の案も風紀を乱すからという理由で当然ながら立ち消えた。
 美麗な石造りの大浴場には、むせ返るような花の香りの湯気が立ち込めている。
(この時間は混んでるなぁ)
 ファラジは入口のカーテンをめくってその中に足を踏み入れた。あらかじめ洗い場で三助に背中を流してもらい、清潔になった体に麻の腰巻きだけ身に着けている。
 腰巻きは浴槽に入るときには外す。
 巨大な長方形の浴槽の辺に沿ってぐるりと一周段差が設けられており、そこに腰掛けて座るとだいたいへその辺りまで湯にかる。
 ファラジはいているところを見つけて入り、半身を温かい湯船に浸した。
 他の入浴客はいくつかのグループに分かれておしゃべりに花を咲かせている。幾人かがちらりとファラジの方へ視線を寄越す。ファラジが望めば仲間に加えてもらえるかもしれないが、今日は情報収集に来たわけではないから、ちょっと手を振って見せただけで遠慮しておく。
 一足遅れて、ファルダクがカーテンをくぐって入ってくるのが見えた。
 ファルダクは中を一瞥いちべつしてファラジの姿を見つけた。近寄ってきて、腰巻きを取り隣に座った。ファラジはファルダクの体が湯船で隠れるまでよそ見をしていた。
 また入浴客たちの視線を感じる。なんとなく、さっきとは意味合いが違う視線を。
「―――」
 ファルダクは段差を下りて肩まで湯にかった。
「ザジイと一緒に来て、いてるとね、彼よくその辺りを泳ぎ回ってます。真ん中のもう一段深くなってるところ」
 とたわいのない話をする。
「大人ぶっててもやっぱりまだ子供だね、あの子」
「彼の水泳は見事でしたよ」
「君は泳がないの?」
「私はもうそんな年じゃ。泳ぎもさほど得意じゃないし」
「君の故郷ではオアシスで水遊びするようなこともないか」
「その代わりアンテロープに乗るのは自信があるかな。子供の頃はよく遠乗りに出て遊びました」
「ええほんとに?」
 いかにも良家の箱入り息子という感じの今のファルダクからは想像がつかない。
 ファラジは、ファルダクが閑談を装いながら、ひそかに周囲の入浴客たちの話に耳を澄ませている様子に気がついていた。
 おそらく、故郷の話を――何でもいい、些細ささいなことでも――口にする人がいないかと期待しているのだろう。
 しかしファラジが気がついたように、他の入浴客も聞き耳を立てられていると感じるらしく、話し声をひそめたり、ファルダクをじろじろめつけたりもする。
 ファルダクはいたたまれなくなったのか、彼らに背を向け、浴槽の縁を握りしめた。
「―――」
「ファルダク、あんまり長くかってるとのぼせるよ」
「――すみません、私が一緒にいるとあなたまで奇異の目で見られてしまうってわかってたのに」
「みんなが君を見るのは君が素敵だからだよ」
 とファラジは言った。
 ファルダクの両頬が一瞬にして薔薇バラ色に染まった。
 ――が、すぐに、ファラジは慰めとか気休めの意味合いで言ってくれたのだ、と気がついて苦笑いする。
「ありがとう、ファラジ。あなたっていい人ですね」
「前にどこかで同じ科白を聞いた気がするな」
「あなたが言ったんですよ、初めて会った日に」
「そうだったっけ」
「うん――」
 ファルダクは浴槽の縁に手を置いたまま、優美に伸び上がるベキ夫人のような身ごなしで湯船から出ると、ファラジと肩を並べて座った。
 ファラジは前髪の生え際をいていた。
「ごめん、よく覚えてないや」
「あなたの方が素敵ですよ」
 とファルダクは不意打ちで矛先を突き返してくる。
「よしてよ」
「本当にそう思ってるんです。アルトがあなたのことを特別大切に想う気持ちがよくわかる」
「――めようよ、そんな話」
「ごめん」
 ファルダクは口をつぐみ、手で湯をすくっては胸元や刺青のある腕にかけていたが、しばらくするとまたその話を蒸し返した。ただし、さっきより遠回しに切り出した。
「ねえ、おへそに銀のピアスを着けていますよね。あれってお風呂では外してるんですか?」
「着けてるけど? 外すと着け直すの面倒くさいから」
「痛くない?」
「最初だけだよ」
「触ってみてもいいですか?」
「ちょ、だ、だめ! だめに決まってるでしょう」
 ファラジは慌ててへそかばう。湯船に波が立ち波紋を呼ぶ。ファルダクは小さく吹き出して笑った。ファラジは顔をしかめた。
「私をからかってる?」
「そんなつもりは。――私もピアスを増やそうかな」
 ファルダクは自分のへそを見下ろして、ファラジがピアスをしているのと同じ辺りを指先で摘んでみた。まんざら口先だけでもなさそうである。
「そんなに着けててまだ足りないわけ?」
 とファラジは仕返しのつもりで、少々意地悪な言い回しを選んだ。ファルダクはなんとも言えぬ微笑を浮かべ、
「自分に自信がないから、せめても飾り立てずにいられないんですよ。でも、飾れば飾るほどますます自信がなくなる」
 と答えた。
 ファラジは、ファルダクが何を考えているのかわからなくなり始めていた。
 今の返答も本心からそんなことを言ったのかどうか読めない。生まれ育ちも美貌も知性も、およそ他人が羨望するものを持ち合わせているのに自信がないとは。
 薄命の身を持て余しているばかりだった異郷の青年が、急に何かのスイッチが入ったように攻略しがたい城の主に変わった。どころかこちらの心の城を攻めてくる。
 スイッチを押してしまったのは自分か? いつ?
(手玉に取られてるな)
 と思うと、弁舌にはいささか自信があっただけに悔しい。
「他のアクセサリーはアルトを意識してるんですか? それに髪型なんかも」
「どうだろうね――」
「アルトは黒髪だけど、あなたはどこか――違う色みたいだ。からすの羽根みたいな色。不思議で、綺麗ですね。とっても」
「それはどうもありがとう――」
「あ、体を鍛えてるのもきっとアルトを見習ってるんでしょう? ずっと格好いいなぁと思ってて」
「い、いやちょっともう、畳みかけてくるじゃん」
 ファラジは防戦一方だった。
「降参するから、からかうのはめてよ」
 と白旗を上げる代わりに、手で湯をすくってファルダクへぱしゃりとかけた。
 ファルダクは笑いながら湯をかけ返してきた。
「だから、そんなつもりじゃないのに」
「君って思ってたより口が上手い」
「それは、まあ、父に任されてスルタンに拝謁するくらいですから」
「その調子でスルタンも言い負かせばよかったんだ」
「あのかたは苦手」
 ファルダクは声のトーンを下げたが、次に口を開くときには戻した。
「ねえどうやったらそんなふうに筋肉が付くんですか? 私は何をやっても全然だめで。体質かなぁ」
 ちょっと腕を触ってみてもいい? と小首をかしげる。
(おへそなんか触られるよりはよほどましかな)
 いいよ。とファラジは許した。
 ファルダクの手がそっと伸びてくる。二の腕の筋肉を押してみたり、摘んでみたり、弾力を確かめて面白がっている。ファラジはくすぐったく感じたが、それだけだった。
「私が触るのは平気なんですね」
 とファルダクは手を離して言った。
「なんだって?」
「だってファラジ、アルトに手を取られたときは――やっぱり覚えてない? 初めて会った日に、あなた――」
「―――」
 ファラジは突然顔面が燃え出すかと思うくらいカッと熱くなり、咄嗟とっさにそれを隠そうとそっぽを向きかけて、
(これじゃまたファルダクの手玉だ――)
 と思い直してこらえる。絶対に一矢報いてやりたい。
「――そうだったかな――。だけどさ、好きな人に触れられたら舞い上がるのは当然じゃない? それに誰でもいいわけじゃない。君は違うの? 他の誰でも――」
 ファラジが最後まで言い終える前に、ファルダクはなまめかしい仕草で身を乗り出してきた。顔はさらにもっと近づけ、いざなうようにささやく。
「試してみる?」
 ファルダクの方が一枚どころか二枚三枚も上手だった。
 で上がったように赤くなったファラジを見て、ファルダクは初めはいくらか愉悦を覚えたが、彼が絶句して自失のまま十、二十数えても我に返らないとなるとにわかに心配になってきた。
「あの――おぉい――大丈夫? ですか? まさか真面目に受け取られるとは思わなくて」
「はっ!」
 抜け出ていた魂が突然帰ってきたようにファラジに生気が戻った。
 周囲の入浴客たちの方へサッと目を走らせ、
「そ、そろそろ出よう。ねえファルダク、君も」
 と勢いよく湯船から上がる。れた体にそそくさと腰巻きを着ける。
「えっもうですか?」
「長湯はよくないんだよ、ほら、特に君は――あー、北の方の生まれだし、慣れてないから」
「?」
 ファルダクはもうしばらく一人で湯にかっていたいと言ったが、
「だめだよ」
 とファラジからなにやら強い口調で真剣にたしなめられたので、よくわからないままに腰巻きを手にして立ち上がった。
「ファルダク早く隠して早く」
「なんなんですかいったい?」


「ええとさっきは――すみません、最後の方はからかってました。調子に乗ったのは否定しません」
 と、浴場のサロンで涼んでいるときにファルダクは白状して、隣の寝椅子に寝そべっているファラジへ謝った。
「でも冗談だってわかってくれるだろうと思って。あなたって意外と」
初心うぶだとか? 可愛いとか? 何とでも言いなよ」
 と青年はむくれて天井を仰いでいる。
 冗談であれ﹅﹅なら本気を出したらどうなるというのか。――想像したくないな、と思う。そういうファルダクの姿はアルトなら知っているだろう。だから考えたくない。
「はぁ」
 め息が漏れる。ファルダクはバツが悪そうにしているが、別にそのことでめ息をついたのではなかった。
「みんなが君を見るのは君が素敵だからだよ」
 と湯殿で言ったのは単なる気休めに過ぎなかったのに、ファルダクの悩ましい姿態に向けられた周囲の視線ときたら――瓢箪ひょうたんから駒が出たようなものだった。
 否、それとも自分の察しが悪かっただけで、本当は皆最初からそういう目つきをしていたのだろうか。
 いずれにしても、ファルダクに向けられた視線をよこしまなものだと感じたとき、ファラジは、
(私が守ってあげないと)
 と雷に打たれたように思ったのだった。
 自分のことながらなぜそう思ったのか、今になってみるとわからない。ずいぶん考えてもわからないのでめ息をついている。
(まあほら――あれだ、ファルダクに万が一のことがあったらアルトが悲しむだろうし。アルトが悲しいことは私も悲しい)
 そうそう、きっとアルトのためだ。そうに違いない。
(いや、でもそれは、なんか変だよな)
 何が変なのかと問われると困るが、なんとなく欺瞞ぎまんだという気がする。
 うーん――とファラジが苦悶するようにうなっているのを見て、ファルダクは勘違いをしたようだった。
「怒ってるのかと思ったけど、もしかして具合が悪いんですか? だからすぐお風呂から出たの? それならそうと言ってくれれば」
「え?」
 ファルダクがひょいと手を差し伸べてその手をファラジの額に置いた。
「あなたの方こそ湯当たりしたんじゃ? 冷たい水をもらってきましょうか」
 考え事にふけっていたファラジは完全に油断しており、ファルダクの手を避けたり押し返したりする暇がなかった。だいいちそんなことをする必要もなかった。湯殿で肌を触られたって別になんともなかったのだから。
 なのに今度は違った。
 ファルダクの手はファラジの額よりもいくらか温かく、白く柔らかく、滑らかだった。重労働など一切したことのない、貴公子の証だ。その手が優しく触れているところがざわざわした。
 その細波さざなみのようなざわざわ﹅﹅﹅﹅が自分にこれから何をもたらそうとするかファラジは知っている。官能である――体の髄を貫いて全身を駆け巡る狂おしい官能。
「わっ」
 とファルダクが驚きけ反った。ファラジが彼の手を無理やり振り払ったからだ。
 そして狭くて肘掛けのない寝椅子の上でそんな無茶な動作をした青年はそのままバランスを崩し、椅子のむこう側へどてんと転げ落ちた。
 ファルダクは慌てて寝椅子の反対側から身を乗り出してきて、石の床に突っ伏しているファラジを心配そうに見下ろした。
「だ、大丈夫ですか? 私また何かあなたの気に障るようなことしました?」
「そうじゃないけどさぁもおぉ――」
 とファラジは答えはしたが顔さえ上げない。「もう、もう――」とやるせないめ息ばかりが口からこぼれ、ファルダクをおおいにいぶかしがらせた。

(了)