曖昧な円環の輪郭

 アルトの家で家業や客人の接待を手伝うのは決して楽な仕事ではないが、ときどきはいいこともある。
 宿舎の厨房を任されているハビーブが、甘い香りの漂うまだ温かい包みを抱えて家の方に来て、
「試作品ですが、どうぞよかったら、皆様でお召し上がりください――」
 と、それを書生の青年少年たちに差し入れてくれた。
 ハビーブはメギが他出しているのを知ると残念そうにしていた。それでも家の料理人に調理の手ほどきなどして、まめまめしく働いたのちに帰っていった。
「今日はもうお客さんの予定もないし、おやつにしちゃおうか」
 とファラジがファルダクやザジイを誘って、若者たちは手ずからお茶や水煙草の支度をし、それを囲んで座った。
「わぁー美味おいしそう」
 ザジイが、食べ盛りの少年らしくさっそく差し入れの揚げ菓子に手を伸ばす。一口、二口であっという間に一つ食べ終えると、すぐにお代わりした。
 少年の旺盛な食欲を前に菓子の山が消えないうちに、ファラジとファルダクも取って食べた。
「ねえファルダクその、砂糖が付いてるのと、クリームが挟んであるのどっちがいい?」
「うーん――クリームの方がいいです」
「じゃそっちをあげるよ」
「――なんていうか二人ともアルトを取り合ってるのに、表面上はちゃんと仲良くしてて偉いよね」
 と、菓子を頬張っていたザジイがいきなりぶっ込んできたので、青年二人はそろって飲み込んだ菓子が変なところへ入ったような顔をした。
「げ、げふ――ちょっと、なんてこと言うの少年。めてくれる、私だってできるだけ考えないようにしてるんだから」
「いや、べ、別に取り合ってるわけじゃないでしょう?」
 ファラジとファルダクはそれぞれに返答したが、思いは微妙に噛み合っていないようである。
「だいたいそういう君もアルトが好きでしょう。知ってるからね」
 とファラジはザジイに矛先を突き返した。ザジイは赤面したが、しかし煮え切らないような調子で、
「それはさぁ、えっと、確かになんかそんな気がしてたんだけど――でもアルト先生は僕のことそういう目で見てないみたいで」
 となにやらもごもごしている。
「も、もっと強気で浴場? とかに? 誘えばよかったのかなぁ?」
「かなぁ? って私たちに聞かないでよ」
「アルトは君の父親のように振る舞っていますから、さすがにそんな人の道を外れるような行為には及ばないのでは――」
「やっぱりよくないのかなぁ」
 ザジイはいかにも少年らしく、食欲にも負けず劣らずこんこんと湧き上がる色欲を持て余しているようである。
「だけどさ、そのぅ、気持ちいいんだよね? 手で触ってなくても出ちゃうとか? お腹のずっと奥の方まで入って頭が真っ白になるんだとか? とにかくすんごい﹅﹅﹅﹅んだって聞いたんだけど、ねえほんと?」
「―――」
「―――」
 ファラジとファルダクは一瞬顔を見合わせたが、お互いにサッとそっぽを向き、
「よしわかったこの話めよう!」
 とファラジが無理やり話を終わらせたので、この件についてはそれきりになった。


 ファルダクが菓子をいくつか取り分けておいて、
「ルメラさんにも残しておいてあげましょう。そろそろ図書館から帰ってくる頃だろうし――」
 と言う。
「――優しいねぇ君」
 ファラジはくわえていた水煙草を離して、その細い飲み口をザジイに回してやった。ザジイは一口んでむせ、
「ごほ――はあぁ――ファルダクさんてルメラちゃんのこと、えふ、気に入ってるの?」
 とせき混じりに何気なくファルダクへ尋ねた。
 ザジイの質問に特に深い意味はなかったが、ファルダクは明らかにまずいことを聞かれた様子で狼狽ろうばいし、取り繕うこともできないようだった。
「えぇなに、そういうことなの?」
 とファラジが半眼になってファルダクの方を見やる。
「あの子、アルトが娘同然に可愛がってるんだよ? そのうち本当に娘にするのかもしれない。義父ちちおやとやることやっておいて娘にまで手を出すのはさすがに私でもひいちゃうなぁ」
「出さないですよ!」
 ファルダクはきっぱりと否定した。否定はしたが――多少物憂げにその端整な目元を伏せた。
「ただまあ、それは、私がこんな境遇でなければ、彼女のような聡明で可憐な妻をめとって――と考えたかもしれないですけど」
「でもルメラちゃんてまだ子供じゃん。貴族じゃないのはどうにでもできるんだろうけどさ」
 とザジイが余計なことを言って、「こら」とファラジにたしなめられた。
「自分だって煙草もめない子供なのによく言うよ」
「僕はもう領主だもの」
「お母さん付きのね」
 ファラジはザジイの手から水煙草を取り返すと、
「いる?」
 とファルダクにもそれを差し出してやった。
 ファルダクは受け取って吸い、やるせないようなため息とともに煙を吐いた。


「――そういえばアルトが好きな煙草ですね、これ」
「そうだよ」
「あなたも好き?」
「アルトが好きな味だからね」
 青年二人は代わりばんこに水煙草を吸い、一口で懲りたザジイは花の香りがするお茶を飲んでいた。
アルト先生を抜きにしたら何が好きなの?」
 とザジイがファラジに尋ねた。
 ファラジの答えはある意味では単純明快だった。
「アルトを抜きになんてできない。アルトが好きなものは私も好きだし、嫌いなものは嫌いだよ」
「え、えぇ、なんかもっとこう自分の好みとか、意思とか」
「私の意思でアルトに全部委ねるって決めてるんだからいいでしょう、別に」
「うひゃ」
 ザジイは理解が追いつかないとでも言うように肩をすくめ、それ以上言うことも思いつかないからお茶を飲んだ。
 ファルダクが煙草の煙を吐いて、
「アルトと知り合う前は何をしてたんですか?」
 と、少年とは手を変えてファラジに尋ねた。
「何って言われてもなぁ、普通に父の領地にいて普通の暮らしをしてたよ」
「お父さんいたんだ!?」
 とザジイ。
「そりゃいるよ、父も母も。木の股から生まれたんじゃないんだから」
 ファラジもそんなことで驚かれるのは心外だと、口をとがらせる。
 ファラジが自分の父親の名前を言うと、ザジイやファルダクでも宮廷で何度も耳にしたことがあるような大領主だったから二人はますます驚いた。
「全然そんなふうに見えないのに」
 とザジイがまた余計なことを言う。
「こら少年。まあでも、私もその方が気楽かな。生まれた家がどうであれ、今の私は貧乏書生。悪くないよそれも」
「あの、家に帰らなくてもいいんですか?」
 ファルダクは、自分が故郷に帰りたくても帰れない境遇だから、複雑そうな表情になっていた。
「ああ――ごめんファルダク、君の前でこんな話して。でもねぇ、私はここにいる方がいいよ。帰ってもどうせ父には嫌がられると思う」
「ど、どうして?」
「私が跡継ぎとしてするべきこともしないで、アルトと国事を論じ合ってばっかりいるからじゃない?」
「ドラ息子だなぁ、ファラジさん」
 ザジイが――もう何度目になるか――余計なことを口に出したが、少年らしい天衣無縫の現れとも言える。それにファラジ自身ろくな跡取りではないと認めるところらしく、別段気分を害したようでもない。
「ファルダク、煙草ちょうだい」
 とファラジはファルダクへねだった。ファルダクが水煙草の飲み口を差し出すと、ファラジはそれをファルダクに持たせたまま、身を乗り出して口を付け、吸った。
 それはよしんば友達同士だとしてもずいぶん距離の近い行為だった。ファルダクはびっくりしてなにやらドギマギしてしまったし、ファラジもはたと我に返ったような顔をし、
「あ、ごめんつい――ちょっと変な目で見ないで。違うからね――いや、なんでこんなことしたんだろ?」
 と慌てて弁解する。
「前――にもこんなことがあったような気がして――誰か﹅﹅に差し出してもらった煙草をんで――」
 んで――その後は? どうしても思い出せない。記憶というにはあまりに不明瞭で、いつか見た夢の中の出来事のようにあいまい。思い出そうとするほどに輪郭を見失うようなもどかしい感覚があった。
「もう、見てるこっちが恥ずかしいじゃんめてよね」
 とザジイが率直に文句を言ってくれて、おかげでファラジは現実に引き戻された。
「そりゃアルト先生が好きなものが好きだって聞いたけどさぁ、アルト先生が好きな人も好きになれるってこと? ライバルでも? 一周回って感心しちゃうよ」
「私もそこまで徹底はしてないってば」
 ファラジはファルダクへ非礼をび、
「ごめんね」
 と改めて謝った後は、なんとなく黙ってしまい、いつも胸元に掛けている琥珀こはくのペンダントを指先でもてあそんでいた。
 大粒の透き通った琥珀こはくは太陽のこぼした一滴のしずく。それが胸にありさえすれば、ファラジはなぜだか安堵あんどできるのである。

(了)