夫のため息妻のため息

 アルトはその日宮廷にいて、税務官のツィアードと細々したことを話し合っていた。
 と――そこへ顔なじみの官吏がバタバタと駆け込んできて、
「大臣! 大臣!」
 と血相を変えてアルトに飛びついた。
「い、今、いま今さっき」
 官吏はよほど急いで来たらしく、呂律ろれつも回らないほどに息が上がっていた。
 アルトの手元には高級な葡萄ぶどう酒がそそがれた杯があった。アルトが勧めもしないうちに、官吏は勝手にそれを飲み干して美味うまそうに喉を鳴らし、
「あぁ――いや、生き返りました」
 やっと人心地がつきました、というような顔をしている。
 アルトは、とりあえず葡萄ぶどう酒の恨みは言わないでやっておいて、
「で、今さっき、何があったんだ?」
 と尋ねた。
「あああそうでした、あの、つまり今さっき――言いにくいことなのでその前にもう一杯頂いていいですか?」
 と官吏はツィアードの杯まで狙っているようである。ツィアードは杯を引き寄せ、飲んだくれの同僚から守らねばならぬはめになった。
「だめですよ僕のは」
「私が後でおごってやるから」
 とアルトは約束してやり、官吏に話の続きを促した。
「大臣がそうおっしゃるなら。ええでは――一大事でございます大臣! 今さっき、大臣のお屋敷から急使がいらして!」
 官吏は気を取り直したようにアルトへすがりついて、彼の家の危機を知らせた。
「白昼堂々と強盗団がお屋敷を襲撃したそうです。なんでも賊は大臣がスルタンの遊興ゲームに選ばれたことを聞きつけていて、その、戯れに犯した罪の報いを今こそ受けるべきだとかなんとかまくし立てたそうで」
「なに!?」
 それを聞いてさすがのアルトも思わず腰を浮かせ、
「それで? 賊はまだうちにいるのか? 状況は。無事なのか――」
 と官吏に詰め寄り、詳細を伝えてくれるように迫った。


「――言いたいことはそれだけですか?」
 メギは落ち着き払って、自らを義賊と主張する強盗団の頭目と相対した。そのほっそりした肉体に似合わずきもの据わったたたずまいに賊の方が面食らっているようだった。
「それだけですのね。ではこちらからも、そうですね、一つだけ。あなた方は、あなた方の言う“遊興ゲーム”とやらのために夫が相当な金銭を貯えていると決めてかかっていらしたのでしょうけれど、この家の中を見てもそう思いますか?」
 と、メギは薄暗い屋内を指して言う。
 外観ばかりは建て直して立派になっているけれども、家の中はといえばうら寂しい。
 商談やご機嫌伺いに来ていた客人たちは強盗騒ぎが起きて早々に裏口から逃げており、そうなると人らしい人の姿もないのだった。数多あまたどころか数えるほどの召使いすらおらず、女は慎ましい夫人が一人。侍女さえいない。あとは、夫人の脇で控えている貧相で頼りなさそうな書生の青年が一人きり。これでは用心棒にもなるまい。
「ちょっと、今私の方を見て失礼なこと考えませんでした?」
 と、メギのそばについているファラジが不服そうな声を上げる。
 強盗は「ちっ」とあからさまな悪態をついて寄越した。この閑古鳥が鳴いている家にろくな金品はないと理解したのだろう。手下どもに家探しをさせているのも、時間を稼ぐために義賊と称し家人を脅してみたのも、無駄足だったかと。
「ねえ考えたでしょう? 頼りなさそうだとか、貧乏臭いとか? 人を見かけで判断するものじゃありませんよ。私だってこう見えても実のところは――」
 とファラジは一旦口を開くと、ベラベラとさらに弁じようした。
 強盗は、
「うるせえぞ、痛い目に遭いたくなけりゃ黙って――」
 とファラジを怒鳴りつけようとして、一瞬そちらに気を取られた。
 メギがその隙を逃さず強盗の正面へ踏み込んでいって、完璧に狙いをつけた平手打ちで顔面を張り飛ばした。
 いかに屈強な強盗といえども無防備なところを衝かれ足元がよろけた。
 なんとか踏ん張ったところへ、今度はファラジが手近にあった椅子の脚をつかんで頭上高く振りかざしてきたからたまったものではない。椅子でたたかれたり押さえ込まれたりして悲鳴を上げていると、家の外からがやがやと大勢が突入してきて、
「奥様!」
「奥さーん! ご無事でー!」
「なんかその辺を泥棒みたいな連中がうろついてたから捕まえときました」
 とハビーブを先頭に、宿舎の方でたむろしていた食客たちが騒ぎを聞きつけて現れた。
 先刻客人たちを逃がす先導をしたルメラも戻ってきた。
「奥様、ファラジさん、ご無事ですか?」
「ああルメラちゃんこっちはまだ危ないから、むこうで本でも読んでおいで」
 とファラジが言ったが、メギはルメラを呼び止め、
「いえその前に、アディレや将軍のお宅へ行って、うちのことは心配いらないからと伝えて来てくれないかしら。あの二人も張り切って駆けつけて来そうだわ」
 と頼んだ。
 ルメラが承知して出て行ったのと入れ違いに、
「先生! 強盗団だって! 大丈夫?」
 とザジイとファトナの母子も様子を見にやって来たし、
「おいうちの店で買った本は無事か? られてないだろうな?」
 と、いったいどこから聞きつけたものか、町の書店の主まで馬車を飛ばして来た。
 その他、心配して来てくれた人々や野次馬で家の周りはごったがえして一時騒然とし、メギは彼らを帰すのに苦労した。強盗と対峙たいじするよりも大変だった。
 騒動が落ち着いた後で、ファラジが、
「家の中もだけど、家の外についてももっと事前によく調べてれば、この家に強盗に入るなんて自滅行為だってわかると思うんですけど。それにしてもさっきはお見事でした、さすがメギ」
 と労をねぎらってくれたが、それでもメギの口からは小さなため息が漏れたのだった。


 官吏から事の仔細しさいしまいまで聞くと、アルトはほっと安堵あんどのため息をついた。
「なんだそうか。無事ならよかった」
「本当に。よかったですね、奥様に大事がなくて」
 とツィアードも一緒に安堵あんどしてくれた。
 アルトは「いや」とかぶりを振る。
「いや、メギのことなら心配ない。強盗ごときにひるむような我が妻じゃないよ」
「?」
 じゃあ、何が無事でよかったんですか――とツィアードに問われると、答えて言う。
「だから、強盗団が五体満足で捕らえられたようで安心したのさ。まったく無事でよかった。今ちょうど殺戮のカードは手札になかったんだ」

(了)