崇拝と献身と秘密

1

 ファラジは近頃実に魅力的な青年になった。
(と、認めざるを得ないか。さすがに――)
 アルトとしては――かの若者を弟分のように思って庇護してきた者としては――誇らしいような、いささかさみしいような、複雑な気分である。
 ファラジは、この国のありように異議を唱えんとする革新派貴族たちの間でめきめき頭角を現しているという。今日もそれらしい会合に招かれて顔を出しているようだ。アルトも何度か様子をうかがいに行ったことがあるが、良家の子息たちを相手取ったファラジの弁舌は立派なもので、日頃召使いのように大人しくアルトに従っている彼とは別人かと思われるほどだった。
 宵闇の降りてきた頃、ファラジは会合からの帰りにアルトの邸宅へ立ち寄った。
「今日はお仕事を手伝えなくてごめんなさい――」
 と心から申し訳なさそうに言う青年は、貴族の集まりのためにすっかりおめかししていた。よそ行きの豪奢ごうしゃな絹織物や宝飾品――上流の人々と渡り合うにはそういうけれん﹅﹅﹅も必要だろうと、アルトが見繕って買い与えたのである。
 アルトはファラジを邸内へ迎え入れながら、会合はどうだったかと尋ねた。
うちのことなんか気にしなくていいんだ。君の弁舌の見事さは、こんな狭いところに閉じ込めておくには惜しい――何か楽しいことはあったか?」
「そんな集まりじゃないことはわかってるでしょうに」
 とファラジは苦笑いしている。
「あでも、部屋を貸してくれたお宅の飼ってる大っきな犬が途中で急に乱入してきて、大騒ぎになって。それはちょっと楽しかった」
「そうか」
「そうそう、今日例の――が来てて、自分もあなたに非常に共鳴するところであるから、援助を――公にしない形で――申し出たいって言いましたよ」
「ふむ――」
「それにほら、あの――」
 それに――ああそれに――。ファラジは土産話をいくつも持ち帰って聞かせた。
 貴族たちが彼をアルトの代弁者とみなしているのは明らかだった。ファラジにその役の自覚があるのかはアルトには判じかねるところだったが、青年は彼らに演説し、論じ合い、きつけ、日ごとにとりこを増やしていることは間違いない。
 にも関わらず、それがアルトのそばにいるとなると途端に縮こまって大人しくなってしまう。何でもいいからアルトに褒められたいと、子犬のように愛玩されるのを必死になって切望しているようである。

2

「香油が切れそうだ――」
 家の手伝いが身に染み付いているファラジは、応接間へ通されても、ランプの油の残り具合だの、長椅子の上の刺繍布団クッションの数だの、そんなことばかり気にしているようだった。
「明日出入りの商人に言いつけておきますよ」
「ファラジ」
 と、アルトはファラジを呼び寄せて長椅子を勧めた。
 ファラジは素直にやって来て、椅子の隅にかしこまって座った。アルトは一度はその隣に腰を下ろしたが、しばらくすると思い直したように立ち上がり、長椅子の周りをぐるりと歩いて回る。
「? えぇ、と――?」
 怪訝けげんそうな顔をしているファラジの背後で立ち止まる。
 ファラジは、今頃邸内の静けさに気がついたように、
「あの、そういえば、奥様メギは」
 と尋ねた。
「アディレを連れて浴場に行った。二時間はかかる。ハビーブは宿舎の方かな」
 アルトはファラジのからす色のくせっ毛のてっぺんに、ぽんと手のひらを乗せた。くしゃくしゃと頭をでてやると、「わ」とファラジは初め首をすくめたが、たちまち嬉しそうに顔をほころばせる。
 アルトが別段何も言わずとも、ファラジは今日の会合の成果を褒められたものと受け取ったようである。
「―――」
 ファラジは子犬のようにでられて、くすぐったそうに双眸そうぼうを細めていた。
 しかしやがて、その目元は切なげに潤んで、瞳に映るランプや燭台の光を悩ましく揺らめかせ始めた。
(あ)
 とアルトは慌てて手を引っ込めたが、
「あ――」
 とファラジの口から漏れた名残惜しそうなため息はすでに官能を帯びていた。が、ファラジも自分で自分の媚態びたいにハッとすると顔中真っ赤になり、
「ご、ごめんなさい――あの」
 とうつむいた。
「あなたが触れてくれるとぼんやりして――あいや、ええと――。――あぁ、私の方から『だめ』って言わないとと思ってはいるんですけど」
「なんだって?」
「だ、だってあなたは、今は色欲のカードを持ってないでしょう? だから、私ばっかり、そう? そういう気分? になったところで、あなたの助けになるわけでもないのだし」
「そんなことを思ってたのか」
 いったい何がファラジをそこまでの崇拝、献身に駆り立てるのか。彼の中の、あるいは自分の中の何が? ――正直なところアルトには理解不能だった。
 理解不能ではあるが、たかだか頭をでられたくらいで、恍惚こうこつとして媚態びたいを示すこの過敏な青年はいじらしい。

3

 再びアルトが手を触れてきて、ファラジは身を縮こめた。
「うぅ――」
 アルトの手は頬を滑り降り、顎の下まできた。そこをそっと押してファラジに上を向かせると、
「スルタンカードは君にはもう使えない。スルタンは私が君の話をするのに飽きていて、退屈だと言ってカードを破るのを許さないだろうからな。もっとも、あのかたの場合そのときの気分次第だが――」
 と言った。ファラジの顔色が(あっ)と変わり、アルトは憐れにも思ったし、また多少愉快にも感じた。
「そう――そうですよね、それは、スルタンが許してくれないなら」
「たぶんな」
「―――」
「それで、君はどうする」
 と、アルトは問いかける。ファラジは、何を問われたのかわからないようだった。
「どうする? どうするって、どうもしませんよ」
「君はもう一人前の男だよ」
「確かに私は男ですけど――?」
「そうじゃなくて、大事なのは『一人前』の方だ、一人前。君は自分の力で何にでも挑める。宮廷勤めは決っっっして勧めはしないが、君がやってみたいなら反対しない。学問でも冒険でも。妻をめとるのもいいだろう。君は――近頃特に魅力的だし、貴族たちからも一目置かれているからすぐにでも――」
 アルトが最後まで言い終わらないうちに、ファラジは今度は顔色どころか血相を変えて彼にすがりつき、
「いやだなんでそんな話をするんです!? そんなの考えたこともない! いやだ。あなたから離れて生きていけるはずない」
 とわめいた。
「だってそんな、そんなの無理ですよ。あなたのためなら、あなたがやれと言うなら何でもするし、何だって耐えられますけど、あなたがいないのは耐えられない」
「お、落ち着いてくれファラジ。こっちはまだ話し終わってない、な?」
 ファラジは動揺が相当に大きかったようで、存外乱暴にしがみついてきた。アルトがよしよしとなだめても、腕に食い込んだ青年の指は力を失いそうにない。
「ファラジ」
「いや――」
 と、またわめき出しかけたファラジの口をアルトは口吻キスで塞いだ。腕の中で青年の体が跳ね返りそうになった。
(頼むから噛むなよ)
 と祈りつつ舌も使って慰めてやると、ファラジはわななきながらそれを従順に受け入れた。
 いくばくかの慰撫いぶと沈黙ののち、アルトはファラジの体から手を離した。ファラジは支えを失って、すとんと元の長椅子の隅に座り込んだ。
「びっくりした――」
 と口元を押さえて言葉を失っている。いつもの大人しい青年に戻ったようだった。
 アルトは密かに安堵あんどの息をつき、長椅子の背に手を掛けながら前方に回ってきて、ファラジが座っているのとは反対側の隅に腰を下ろした。

4

「えーだからつまり、私は別に君を追い出そうだとか遠ざけたいとかそんなつもりはないんだ。本当、本当に。本当だから」
 アルトは何重にも念を押してから言った。
「だが君が一人前になったと思ってるのも本当だ。狭い世界に押し込めておいては惜しい力が君にはある」
「あなたにそんなふうに言ってもらえるのは嬉しいですけど――私は今のままで満足してるんですよ」
「あー――いや、そのな、まあ君が私のところにいたいと思うのはいいとして、君は一人前の男として自己に向き合うべきなんじゃないか、とな」
「私の? 自己?」
「今の状況で言うと」
 と、アルトはファラジが腰に巻いている高価な絹布を指差す。
 指差した脚の付け根の辺りはこんもりしていて、青年の色欲の証が下から絹布を押し上げているのは明らかだった。ファラジはうろたえて、だぶついている布をその辺りにき寄せた。
「な、何が言いたいんですかもう」
「いやいや大事な話だろう。君の欲望を捧げるスルタンカードはもうないんだから。君は自分でソレをどう解決するか決めなくては。つらいだろう、君、なんというか、なんだ――感度がよすぎるのも」
「ああそれでさっき、私に妻がどうとか?」
 でもそんなことで婚姻するのって前時代的だなぁ――とファラジはもっともな感想を寄越し、その後はしばし黙り込んでいた。
 彼が再び口を開くのを待ちながら、アルトはいささか高をくくっているところがあった。
 ファラジの思いつく解決法﹅﹅﹅は結局一つしかあるまい――と。今夜はまったく都合のいいことに、アルトの細君と料理人も他出していていないのである。
 問題はその先。
 アルトとしては青年にどう応じるべきか。ここでビシッ――と拒絶するのが彼を導く者メンターとしては正しい行いであろう。何か建設的な対策を一緒に考えてやるのがファラジの将来のためにもなるだろう。
 しかし――だ。事態はすでに、窮しているのではないか? 若々しい肉欲を持て余している青年に対して、それはちょっと脇に置いておいて話し合いましょうというのは酷ではなかろうか。それに下手に拒むと今度は首でも締められるかもしれないし――
「―――」
「あの――あの、アルト」
 とファラジに呼ばれて、アルトははたと我に返り居住まいを正した。
「あ、ああすまん。だがなファラジ、確かに今この時はつらいかもしれないが」
「えぇっと、私は自分の欲求は自分で処理しますから大丈夫ですよ」
「やはり私たちは気高、えっ!?」
「え?」
「え――いや? 自分で。自分で――?」
「へ、変ですか? じ、自分でしたら?」
「変じゃない」
 変じゃないが――そうじゃなくないか? 今そういう流れじゃなかったぞ? という顔つきでアルトは訴えかけたが、ファラジはきょとんとしているばかりである。

5

「なんでこういう展開になるんですかね?」
 と、ファラジは気後れしている様子ながらも、腰に巻いている絹布におずおずと手を掛ける。
「あんまり、見ないでほしいんですけど……」
 布の端をほどいて、少しずつ前をくつろげていく。
 銀細工を通したへその下まで丹念に香油が擦り込まれていると見え、照明に当てられると駱駝らくだ色の肌が悩ましげに艶めく。ファラジの息が乱れるのにつれ、そのぬるりとした丘も沈降してはまた隆起する。
 やがて布をすべてはだけると、ファラジはやや斜めにうつむいた。そうしてみたところで、無言でこちらを凝視しているアルトの視線から逃れられるわけでもないが。
 自らあらわにした陽根にそっと手を伸ばす。反り返っている。熱い――。肉茎の根元から五指を順に絡ませていったとき、視界の外でアルトが重いため息をつく。
(何をして――いや、ファラジに何をさせてるんだ私は)
 ファラジも「なぜこんな展開に?」と言っていたがアルトにもわからないのだ。ただ、青年の色欲の処置について大真面目に議論していたつもりだったのに、気がついたら、
「そんなに言うならここでやって見せてくれ」
 という話になっていた。もちろん、ファラジは恥ずかしがってたじろいだ。
「え、えぇ」
 若者としてというか、人間として当たり前の反応だった。
 が、
「君はさっき、私がやれと言ったら何でもするって」
 と弱みを突いてやると、青年は羞恥心に駆られはしても、拒絶することはあり得ないのだった。
「……おかしいですか?」
 とファラジが自涜じとくの手を止め、うつむいたままで恥ずかしそうに問いかけてきた。
「ため息つくなんて……」
「私も他人ひとのを見るのは初めてだから――どうするのが当たり前で何が当たり前じゃないのかなんて知らんよ」
「うぅ……私だって他の人に見せたことなんてないですからね」
「それにしては手慣れてるんじゃないか?」
 アルトは青年を言葉でなぶってみた。
「そんなことあるわけない……」
 ファラジの声は半ばあえぐようだった。
 アルトに視姦されているだけでもうどうにもたまらなくなってくるらしく、止めていた手をためらいがちにまた動かし始めた。滑らかな駱駝らくだ色の肌は、彼の神の言葉や視線も愛撫あいぶと同じように性感に変えるらしい。
 なぜこんな事態になったのか?
 こんなに感じやすい青年に手淫を強要するのが色欲助平心の発露でなくて他に何があるというのか、こんちくしょう――と、アルトはもはや完全に開き直ってファラジの痴態を前に釘付けになっていた。
 グビリ――と音を立てて生唾を飲み下す。

6

「っ……」
 官能の頂が差し迫ってくるとファラジは手の動きを緩め、過熱した肉欲をなだめては、少し落ち着くのを待って再び愉悦を貪る。自分で自分に「おあずけ」を課すようなやり方は彼の無意識の癖らしかった。
「そういうふうにらすと余計感じるのか?」
 アルトがふとそれを口に出して言う。そんなことでさえズキンと髄を駆け抜けるような甘美な刺激になる。
 ファラジは今にも暴発しそうになったのをきつく握り込んで抑えた。
「は――っあ、ああああ」
 と急にあえぐ声が激しく乱れたのは、アルトが手を差し伸べて体に触れてきたからだった。
 アルトはファラジの両足を長椅子の上へ引っ張り上げた。初め足首の辺りを持っていたその手は、じわじわと鼠径部そけいぶまでさかのぼって玉茎に到達する。
「あぁだめ我慢できない――!」
 とたちまちファラジが切羽詰まった悲鳴を上げる。アルトは一旦手を離した。刺激しすぎないように優しくしてやる方がよさそうだった。
 とはいえ羽根が触れるほどの愛撫あいぶに変えられたところで、ファラジは高まる一方の絶頂への期待に悶絶もんぜつしているばかりだったが。
「―――」
 首の後ろに刺繍布団クッションをあてがわれたときに、いくらか自我を取り戻した。
「あ、え」
 知らぬ間にあお向けにさせられていて、両脚の間にアルトがいた。
 鶏姦けいかんをするところになにやらぬるついたものを塗られ完全に我に返った。たぶんランプの香油かなにか――はいいとして、そこへアルトがすかさず怒張した一物を押しつけてきたのでさすがに驚き、
「ちょ、ま、待っていつの間に」
 弱々しく押し返してはみたが、上からのしかかられてどうにもならない。
「わ、わぁあの、メギが――お風呂かそういえば――あ、う、あああ」
 ――脳裏にあの一夜がよみがえる。スルタンカードを破るために歓喜さえして貞潔の身を捧げた夜のこと――今ではなんだか夢の中の出来事だったような気もしていたが、再征服される衝撃とその後に押し寄せてきた快楽で、
(あぁやっぱり現実だった)
 と思い知った。
 彼の神アルトはあの夜に神性を欠いたけれど、ファラジは彼をいっそう強く信奉するようになった。そして今夜も、彼が抽送を繰り返すたびに飽くなき陶酔を得る。
「あぁ、あっ、あっ、あぁっ、ああぁ……!」
 ファラジはひときわ切ない声を上げてわなないた。
 さんざん刺激を与えられていた青年の肉茎の先から何かの拍子に精液が垂れ落ちてきて、へそに通した銀の飾りを汚した。

7

 ファラジは、最後にアルトが肉棒を引き抜くときまで恍惚こうこつとして声もなくあえいでいたが、しばらく横になっているとき物も落ちたようだった。
 ぬ――と鎌首をもたげ、自分の胸元から腹にかけての有り様に「うへ」と顔をしかめる。胸まで飛び散った己の精液もあまり気持ちがよくないが、へそにそれが溜まってこぼれそうになっているのにはもっと辟易へきえきした。
「やだなぁ、もう」
「自分のは自分で拭きなさい」
 と、アルトが水で絞った布を持ってきてくれた。
 布で体を拭いたり拭かれたりしながら、
「本当にびっくりしたんですから」
 とファラジはささやかな不満を漏らした。
「自慰行為を見せてほしいだとか普通見せないですし、待ってって言ってるのにれるとか、よくないですよそういうの――」
「まあ後の方については今回は事後承諾ということで」
「事後承諾って」
 そりゃそうじゃなきゃそんなところまで拭いてもらいませんけど、と脚の間にいるアルトの頭頂部に向かってぼやく。
 アルトは汚れた布を片付けて戻ってくると、ファラジの横に肩を並べて座った。
「今度こそ幻滅したんじゃないか?」
 と言う。
「幻滅?」
「幻滅」
「――あなたに抱かれるのってなんだか夢の中で起きたことみたいで。今夜もそう――その、なんというか、最中にはね、はっきり記憶に刻んでるつもりなんですけど、済んでみると明け方の夢みたいに遠く感じる」
した﹅﹅後ぼんやりするよな、頭」
「そういう夢の中のあなたは、確かに思ったほど立派な人じゃない。けど――夢から覚めるたびに、あぁいっそう素晴らしい人だと思うようになるんです」
「そこがわからない」
 アルトは「わからない」とは言ったものの、ファラジの想いを否定はしなかった。彼のくせ毛の頭をぽんと小突く。
 ファラジはむずがゆそうに立ち上がって、床に丸まって落ちていた絹布を拾い、それをピンと伸ばしてから腰に巻きつけた。
「またしばらくは宮廷でじろじろ見られるだろうなぁ。メギの機嫌も悪いだろうし」
「何言ってるんだ。カードを使ったわけじゃない、スルタンにも、誰にも言う必要はないし、言うなよ、特にメギには」
「え?」
 ファラジはきょんとアルトの方を見やった。その数瞬の間で、この遊興ゲーム規則ルールに気がついたようである。
「そういうこと――」
「スルタンは私が罪や背徳を公にする代わりにカードを破り捨てることを許した。スルタンカードを使わないのなら? 秘密を持つことを禁止する取り決めはない」
「さぞ秘密が多いんでしょうね、あなたは」
 とファラジは一方で感心したような、もう一方では複雑そうな表情をする。アルトは返答に困ったが、青年はさほど気分を害しているようでもなかった。
「あなたにとってはこんなこと、数多あまたの秘密の一つなんでしょうけど」
 私にとっては初めての、ただ一つの秘密ですよ――と言い、言ってから気恥ずかしくなったのか、無邪気にはにかんだ。

(了)