短い休暇

 久しぶりの帰港だった。――年中船の上で寝起きをしていて、今更帰る家も何もあったもんじゃないが、それでも海賊湾にあるこの港へ入るとなんとなく、
(帰ってきた)
 という気分になるのだ。
 船員たちには短い休暇を与え、浮かれたやつらは思い思いのところへ出かけていった。一人船に残った俺は上甲板アッパー・デッキに出て、そこで素っ裸になって旅の汗とあかと海水にまみれた衣服を洗濯した。雲一つない洗濯日和だ。ついでに体の方にもシャボンの泡をこすりつけて、頭の先から足の先まで汚れを落とすと、長旅の疲労がまった体に生気がよみがえるような心地がする。
 帆柱マストの間にロープを張り、洗ったシャツとズボンを干した。折よく風も吹き始めて、これなら洗濯物も体もじきに乾きそうである。
 他にも伸びた髪を切ったり、靴を直したりと細々した用事を片付けたが、日暮れも間近くなってきた頃、
「おーい――!」
 と桟橋から呼ぶ声がして、すぐにその声の主の顔が思い浮かんだ俺はにわかに慌てた。まだ素っ裸のままだったのだ。
 干してあったズボンを急いで取って穿くと、今少し湿っていたが構っていられなかった。シャツは――まあいいかと、とにかく最低限の身繕いをして、桟橋の方へ身を乗り出す。
 思い浮かんだとおり、例の赤毛の女剣士がこっちへ手を振っている。
「おーい、帰ってきてたんだって? そっちへ上がってもいいかい?」
 俺は、別に嫌じゃないしむしろ喜んでいるくせに、わざともったいつけてから、いいぜと答えた。
「誰に聞いたんだ?」
船縁ふなべりに立って尋ねると、そいつ﹅﹅﹅も隣に来て、
「酒場に行く途中であんたのとこの乗組員に会ったんだよ」
 と言う。言ってから、形のいい鼻をスンとひくつかせた。
「なんかいい匂いがする――
 と、その鼻をこっちの肩先まで近づけてこようとするので、俺は一歩後に下がった。
「よせよ。ただのシャボンの匂いだ」
「なんだ」
「なんだって――何だと思ったんだ?」
「? 何って?」
「いや――
 いい、なんでもない、と俺はかぶりを振った。こいつの口から色っぽい話が出ることを期待してもしょうがない。
「そういえばずいぶん痩せたね」
 と、まじまじ見られながら言われた。
(おまえは相変わらず健康的で結構なことだな)
 と、俺は心の中でだけ言い返した。こういうことは悪意がなかったとしてもデリケートな話題だからである(これをたとえば酒場の女主人に言ってしまったら、「どういう意味!?」と詰め寄られての拳固げんこの一、二発は覚悟するところだ)。
 そいつは、俺の内心のことなど知らず、勝手に続きをしゃべっている。
「酒場に行って、たっぷり食わせてもらうといいよ。近頃はロブスターが美味うまいんだ」
 俺はそいつの、そのいかにも健康そうな体ばかり見ていた。いつでも生命力が全身に満ちている。しかもその力が絶えず内側からあふれ出ようとしているように、みっちりと張り詰めた肉体の持ち主だった。
「酒場では、ローストと、殻ごと煮込んでしたビスクにしてくれるんだけど、このビスクがなんといっても美味うまくてさ。アリーナで一日へとへとになるまで戦った体に染みるんだよ」
 と言いながら唾を飲み込んで動いた喉の下、首から下げた革紐の掛かった深い鎖骨、そこからさらに下りて、ペンダントが微妙な陰影を作っている胸の谷間――シャツの胸元からのぞいている裾野だけ見ても、ツンと張ったみずみずしい二つの乳房の弾力が想像できた。
「ローストの方も絶品だよ。身がずっしり重くて、プリッとしてて。しかもジューシーで、あふれてきたスープまで口を付けて全部すすりたくなるくらい」
――美味うまそうだ」
 と俺も生唾を飲んだ。
「だろう? なあ食べに行こうよ。もう腹ぺこなんだ」
「そうだろうな」
 俺はつい笑ってしまった。こいつのさっきの熱心な話しぶりからすれば、さもあらんと思ったのである。
 洗濯物の方へ行ってシャツを取ると、こっちはもうすっかり乾いていた。
「早く早く」
 と俺の支度を急かす声が後をついて来る。俺が船橋ブリッジへ置いてきたピストルを取りに行くのにもついて来た。
 日が暮れ始めており、甲板デッキの上はもういささか暗くなっていた。
「足元に気をつけろよ。その辺でさっき靴を直したんだ、まだ片付けてない――
 と、俺が注意を促そうとした甲斐かいもなく、すぐ後ろをついて来ていたそいつはハンマーか何かにつまづいたらしく、わっ、と前につんのめった。俺の背中でそいつの体が弾んだ。
 思わぬ味見﹅﹅をさせてもらった俺は、しかしそんなオヤジ臭い言い回しは口には出さなかったし、船橋ブリッジでピストルを二丁腰に差したときも、それが実は三丁め﹅﹅﹅だなどという下品な冗談ももちろん言わなかったのである。

(了)