幸福な娘
エポニーヌは星界育ちで、両親がとても若い。星界の時間の流れは下界よりずっと速いせいだ。それは城内では当たり前のことだったが、一歩城の外へ出ると、やはり自分は普通ではないのだといつも思い知らされる。
父親のゼロにしても、母親のベルカにしても、親子というより兄弟の方がしっくりくるような年頃だった。
「エポニーヌ、お前ついこの間までこんなに小さくて可愛かったんだぞ。もちろん今も可愛いけどな」
などと、ゼロはよくにやけながら言う。まったく子供扱いで、娘の成長にまだついて来かねているらしい。
ゼロもベルカも、一度だって自分たち親子は普通と違うのだと、口に出して言ったことはなかった。
(でも、やっぱり変よね)
と、エポニーヌはときどき思う。
ある日、夜更けのことだった。
「エポニーヌ、お前あんまり夜遅くまで“読書”してると目が近くなるぞ。せっかく射手の才能があるのに目を悪くしちゃ――」
と相変わらず口うるさい父親を振り切って自室に戻ると、エポニーヌは寝具へ勢いよく飛び込んだ。
「あーもー、父さんたらうっとうしいんだから」
枕元のランプへ手を伸ばして明かりを点けようとしたが、途中でなんとなく手が止まってしまう。
(――別に父さんに言われたからってわけじゃないけど)
確かに目が悪くなっては弓を射るにも難儀するだろう。明かりを点けるのは止めて、ごろんと寝返りを打って枕に顔をうずめ、目をつぶった。途端に、昼間街で見かけたイイ感じの二人組みの紳士がまぶたの裏へ浮かんできて、暗闇の中でにやにやする。
(うふふ――)
誰にも邪魔されず空想に浸っている時間が何より幸せだった。子供の頃からそうだったろうと思う。空想している間は、嫌なことは何もかも頭から追い出すことができた。たまにしか会いに来てくれない両親は、自分のことが疎ましいのではないかという不安さえ忘れていられた――
目を閉じてあれこれ空想を巡らせているうちに、いつの間にかエポニーヌは寝入ってしまっていた。
夜半ふと目を覚ました。
「―――」
天幕の外はまだ真っ暗で、夜明けは遠い。妙な時間に目が覚めたものだと思った。
(水でも飲んでこようかな)
ひどく喉が渇いている。汲み置きがまだ台所にあったことを思い出し、もぞもぞと寝床を抜け出した。
両親も眠っている刻限だろう。できるだけ足音を忍ばせて、手探りで進んでいく。
台所の手間まで来たときのことだった。
「?」
あれ、と気が付いて、エポニーヌは足を止めた。台所の入り口からうっすら明かりがもれている。ごく小さくしぼったランプの光だった。
(誰かいる――父さん? 母さん?)
耳をすますと人の声もぼそぼそと聞こえてくる。一人ではない。二人、台所で何かささやき合っているらしい。
エポニーヌは、気配をうんと潜めて、入り口から台所をそっとのぞいた。
そこにいたのはやはり両親、つまりゼロとベルカであった。
エポニーヌは、
「ぎゃっ」
と悲鳴を上げそうになったのをどうにかこらえた。手のひらで口元をしっかり押さえた。頬が少し熱くなっていた。
エポニーヌは台所の中を凝視した。
台所のテーブルのそばへ置いた安楽椅子にゼロが深く腰かけ、膝の上にベルカを抱えて、ゆらゆらと椅子を揺らしながらあやすように背中をなでてやっている。二人とも衣服こそ身に着けていたが、エポニーヌの前では見せたことのない、親密な雰囲気だった。
二人がキスしたのを見て、エポニーヌは思わず目をそらしてしまった。
ゼロはすぐにベルカから離れたらしく、
「なあ――」
と、誘いかけるような声が聞こえる。エポニーヌの知る父親の声ではなく、男の声になっていた。
「ダメよ」
と答えたベルカの方は、いつもの調子とあまり変わらない。それでも多少優しげに聞こえるような気もする。
「エポニーヌが目を覚ますわ……」
「お前が可愛い声を上げなきゃ平気さ」
「からかわないで」
「悪い」
とゼロは口では謝りつつ、気の早い両手をベルカの体に這わせている。
「でも我慢できそうにない」
「………」
「ここのところご無沙汰だったしな?」
「……嬉しそうに言わないで」
「だって幸せだろ? 信じられないくらい――」
「………」
ベルカはゼロのなすがままになっていた。衣服の中にまで手を入れられても拒まず、
「ん……」
と鼻にかかった声さえもらした。それを隠すように、ゼロの首根っこへ腕を絡めて自分からキスした。
エポニーヌは、気配を殺してそっとその場を離れた。
逃げるように自室へ戻ると、息を殺して寝床へ潜り込んだ。喉の渇きのことなどすっかり頭から消え、代わりに薄明かりの中の両親の姿がちらつく。
エポニーヌは枕に突っ伏し、ふー、と熱いため息をついた。まだ胸がドキドキしている。
(だけど、と、当然よね――二人ともまだすごく若くて、結婚してからそんなに経ってもいないんだもの)
普通なら、自分のような大きな娘が家の中にいるはずがないのだから。
エポニーヌはもう一度深いため息をついた。目が冴えてしまって、無理やり目をつぶってみても寝付けそうにない。いつもなら没頭できる空想も、今は考えようとしても全然集中できなかった。
それでも、エポニーヌはいつしか眠りの中に引きずり込まれていた。浮かんでは消えるたくさんの夢に捕らえられて、寝苦しくはあったが、夜が明けるまで目覚めることはなかった。
* * *
翌朝、エポニーヌが起き出した頃には、もうベルカは身支度を整えて、一人長椅子でくつろいでいた。
「父さんは?」
とエポニーヌが聞くと、ベルカは言葉少なに答えた。
「寝てるわ」
「ふ、ふうん――ねえ、隣に座っていい?」
「ええ、いらっしゃい」
ベルカは少し脇に体を寄せて席を空けてくれた。その細い腰の辺りに、昨晩父親が腕を回していたのだ、とエポニーヌは思い出して照れた。
「? エポニーヌ、顔が赤いわ」
熱でもあるの? とベルカが首をかしげる。
「ううん、べ、別に」
「そう?」
エポニーヌには、ベルカがなんだかいつもより優しく、機嫌がいいように思えた。口に出してそのことを言うと、
「私が?」
とベルカは意外そうだった。
エポニーヌは、その訳までは聞かず、
「母さん、髪結うの手伝ってくれない」
と言った。エポニーヌは起き抜けで、長い髪を背へ垂らしたままにしていた。
「いいわよ。ブラシを貸して」
ベルカはエポニーヌの手からヘアブラシを受け取ると、娘の髪を丁寧にとかし始めた。
「あなたの髪、子供の頃よりも癖が強くなったわね……」
「そう?」
「父親に似てきたわ」
「やめてよ、あたしは母さんに似てる方がいい」
エポニーヌは顔をしかめた。でも自分でも、いくらきつく三つ編みにしても跳ね回るこの毛先は父親譲りな気がする。
ベルカはちょっと笑って、
「子供のあなたの髪をこうやって結ってあげたのも、ついこの間のことなのに……」
と、つぶやいた。
「――母さん」
「ええ、何……?」
「あの――」
とエポニーヌは、だいぶ長い間まごついていた。ベルカは別に急かしもせず、黙って待っていてくれた。
「あのね母さん――あたし、うちにいて邪魔じゃない?」
ようやく、エポニーヌはそれだけ口に出した。
ベルカは素朴に首をかしげた。
「どうして?」
「ど、どうしてって、だって普通じゃないっていうか、変じゃない。母さんも父さんもまだそんなに若いのに、いきなりあたしみたいな娘ができたら」
「それの何が変なの」
「な、何がって」
エポニーヌの方が困惑してしまう。ベルカは落ち着き払って言った。
「私は
「父さんが物心つく頃には、もう両親はいなかったって聞いたわ」
「私にも親はいなかった。母親に捨てられたから……」
エポニーヌは、丸い目をいっぱいまで見開いて母親を振り返った。ヘアブラシに絡まった髪が引っ張られて痛かったけれど、気にしていられなかった。
ベルカは、きっと血を分けた子にしか見せないような表情で、優しげに目をうんと細め、笑いながらエポニーヌのもつれた髪をほどいてやった。
「こうしてあなたとゼロがともにいてくれるのよ……世間と少し違うからといって、なんだっていうの」
ふいに、エポニーヌがベルカの体にしがみついて、強く抱き締めた。
ベルカも、今では自分とそう変わらない大きさになった娘の体を抱え、
「どうしたのエポニーヌ、まるで子供の頃に戻ったみたい」
「あたし――あたし絶対母さんのそばから離れないわ! そ、その、もちろん母さんと父さんの邪魔はしないけど――」
「エポニーヌ……」
ベルカは不器用な娘の背を撫でながら言った。
「ありがとう……優しい子ね……」
「母さんの母さんの分まで、あたしがこれから一緒にいる」
「父さんもいるぞ」
と急に低い声が割り込んできて、
「きゃっ!」
エポニーヌはびっくりしてベルカにすがりついた。
部屋の入り口のところに、ゼロが眠たげな顔をして立っていて、あくびをしながら寝癖で髪の跳ね回る頭をかいている。
「何やってるんだ? 朝っぱらから母親と娘で抱き合っていやらしいな」
「な! いやらしいのは父さんの頭でしょ!?」
「俺の頭はお前にそっくり遺伝してるぞ」
髪のことを言ったのか、それとも頭の中身のことなのか、今ひとつはっきりしないが、どちらにしてもエポニーヌがむくれたことに違いはない。
ゼロはのそのそと妻と娘へ歩み寄ると、娘の目の前にも関わらず、ベルカの頭上へ屈み込んで頬をすり寄せた。
「おはよう。よく眠れたか?」
そしてエポニーヌにも同じことをしようとして、
「や、やめてよね気持ち悪い!」
と押しのけられたので、ゼロは不満げである。
「ずるいじゃないか、母さんばっかりお前とイチャイチャして。お前も小さい頃は、父さん父さんって抱きついてきてくれたのに」
「子供の頃と一緒にしないで! あ、あたしはもう大人の女なのよ?」
「オトナのオンナねぇ」
「な、なによ、いけない?」
「いや。年頃で瑞々しい妻と娘に囲まれた生活なんてちょっと不道徳でイイ感じだ」
「変な言い方しないでよ、もう!」
二人のやり取りを聞いていたベルカが、ふっと優しい顔つきになって目を細めた。
それに気付いて、ゼロもはにかむようにして相好を崩した。
そんな両親を見て、エポニーヌの胸に潜んでいた不安も霧のように溶けてどこかに消えてしまった。
(了)