月夜の二人

「……いつもここへ来て月を眺めてるの?」
 ぬっ、と急に脇から目の前に突き出た首は最初月明かりに逆光になっていたが、すぐに目が慣れて誰だかわかった。
 ベルカだ。
 野に寝転がって月を見上げていたゼロは、空と自分の間にふいに割り込んできたベルカの顔をきょとんと見つめた。ゼロは眼帯を外して胸の上に乗せていた。ほとんど左目だけをしばしパチパチとしばたかせていたが、やがて慌てたように眼帯をつかみ、ベルカから顔をそむけてそれを右目に着けた。
 ベルカは眼帯のことについては何も言わず、
「……隣は空いてるんでしょう?」
 ゼロの返事を待たずに脇へ腰を下ろした。
「ベルカお前、どうしてこんなところへ――」
「ゼロ、あなたの背中には目は付いてないみたいね」
「尾行したのか?」
 俺を?
 なぜ。
 とはゼロは口に出さないが物問いたげに見える。
「たまにはあなたも尾行される身になってみたらいいわ」
「俺の知らない間ずっと後ろからねめまわされて堪能されてたのかと思うとゾクゾクするな」
「気が付かなくて悔しかったと素直に言ったら?」
「別に悔しくはない」
 ふん、と鼻を鳴らす。
「で、何か用か」
「近頃夜になると、あなたどこへともなく姿を消すようだったから」
「なんだ、俺の心配でもしてくれたのか? 優しいな」
 ゼロは意地の悪い口調になった。でもどこか嬉しそうに声が弾んでいて、それを隠すためにわざと口調を変えたようである。
「……カミラ様の迷惑になるようなことをしていないかと思ったのよ」
「してるように見えるか?」
「いいえ」
 ベルカはかぶりを振り、それからおもむろに空の月を見上げた。
「こんなに月がよく見える場所があるなんて知らなかったわ」
「だろうな。俺もここで誰かに会ったのは初めてだ」
「あなたの秘密の場所?」
「そういうわけじゃないが」
 ゼロも上を向いた。青白い月光が浅黒い肌を照らした。
 まぶしそうに目を細めているが、月明かりが日の光のように苛烈なはずもない。青味がかった光は優しい。
「月を見るのが好きなのね」
 と、ベルカが視線の先をゼロの横顔へ移して言った。
「好き――というか何と言うかな」
「違うの?」
「さあ」
 ゼロの返答はどうも要領を得ない。
 ベルカは視線を月へ戻した。
 今夜は、満月にはまだいくらか足りないが、楕円の月が雲一つまとわず明るい。少しいびつな真珠が浮かんでいるようだ。
「世間ではこういうのを綺麗な月夜と言うのかしら……」
 ベルカ自身は今一つピンとこないようだったが、そんなことをつぶやいた。
「あんなのはただの照明代わりだろ」
 と言いながら、ゼロは背中の辺りの据わりが悪いらしく寝返りを打った。
「貧民街ではそうだっただろ。誰も彼もランプの油を買う金さえなかった。見ていられないほど貧しいやつばかりでよ」
「………」
「だからこんな月が明るい夜になると、明かりがなくてもいろいろよく見えるってんで――」
 夜這いが横行したものだ、と言いかけてやめた。
 ゼロが中途半端なところで黙り込んでしまったので、ベルカは首をかしげたが、別段続きを促すようなことはしなかった。
「……そうね。貧民街にいた頃は、改めて月を眺めようなんて気にはならなかった」
 ベルカは空を見上げている首がだんだんだるくなってきた。隣ではゼロが仰向けになって体ごと月光を浴びている。それに倣おうという気になった。
 ゼロと肩を並べて背中から地面へ倒れ込んだ。柔らかい草原に押し返されるのが心地よかった。葉と土の匂いを吸い込んで満足げに手足を伸ばした。
 そんな自分とは逆に、ゼロがなぜかすぐそばで体を強張らせたことにベルカは気が付いた。が、その理由にまでは思い至らない。ただ不審に思っていると、
「うわっ!」
 と、ゼロがワンテンポ遅れて跳ね起きた。
「何なんだベルカお前、いきなり――まさか俺を誘ってるのか?」
「?」
 ベルカは、意味がわからないようで、ただただ不思議そうにこちらを見つめているばかりである。
 ゼロは口をとがらせた。
「説明しろ。どういうつもりだ、ベルカ」
「あなたに倣って月を眺めようと思っただけ。いけなかった?」
「――無防備すぎる」
「私が?」
「そうだ。男の前でそういう真似をしてだな、誘ってるんだと勘違いされて襲われたりしたらどうするんだ?」
「私がそう簡単に寝首をかかれるように見える?」
「そういうことを言ってるんじゃない」
「わからないわ」
 もどかしげにゼロはうなった。
 どう言ったものか考えあぐねているらしく、長く垂れた前髪に手を突っ込んでばさりとかき上げる。流し目をベルカへ送った。
「――いっそ実践して教えてやりたい」
「教えてちょうだい」
 ベルカはごく素朴に言った。
 ゼロが深呼吸でもするように深く息を吐いた音が聞こえる。そして、間を置かず、意を決してベルカの体の上に覆いかぶさってきた。
「っ!」
 ベルカはさすがに驚いて目を丸くした。
 逆光になったゼロの顔が間近に迫った。が、ベルカはやはり純朴そのもので、
「それで今から私の首でも締めようというわけ?」
「俺がお前に男として見られてないことはよーっくわかった」
 もう盛大にため息でもつくしかない。
「首は締めないが――多少息苦しくはなるかもな」
 言いながらゼロが鼻先まで顔を近付けてくる。ゆるく開いた口元から舌先がのぞいていた。それが上唇の縁をなぞって湿らせ、物欲しげにわななくのを見て、ベルカはようやくその意味を悟ったらしかった。
「きゃ!」
 と彼女らしからぬ悲鳴が小さな口からもれる。
 同時にベルカに両手で顔面を押さえつけられたゼロは、届かなかった唇の感触を恋しがるようにうめいた。
「くそ――」
 名残惜しそうに体を引き剥がすと、脇へごろんと寝転がった。ベルカへぷいと背を向けて、まるですねた子供の体ていである。
 ベルカはその背中を見つめ、
「びっくりした……」
「そうかよ」
「やっと私にも意味がわかった……でもそんなこと、あなたが心配する必要ないわ。だって私をそんな目で見る男がいるとは思えないから」
「いただろ、たった今」
 ゼロは不機嫌な声を出した。
 ベルカは困った表情になった。
「あなたは私をそういう目で見てるの?」
「俺は」
 しばしためらって言葉を選んだ。
「――俺にとっては、普通の一人の女だよお前は」
 ゼロが肩越しにちらっと振り返って見ると、ベルカはじっと夜空を見上げて何か考え込んでいる様子だった。
 黙って視線を元に戻した。
 ふいに、ベルカが問いかけてきた。
「私もあなたを一人の普通の男として見ていたとしたら、あなたも嬉しい?」
 ゼロは、何も知らない初心うぶな少年のように胸が高鳴った。さっきベルカを押し倒そうとしたときよりももっと激しい脈動だったような気さえする。
 年甲斐もなく顔がかっと熱くなった。
「そ、そりゃ」
 嬉しいに決まってる。
 貧民街のゴミクズでも、『商品』でもない。一人の男として見てくれる相手が、たった一人でもいれば。
 そのたった一人はベルカがいい。
「だけどお前、俺のことなんて、その、さっきのことだって――」
「あなたのこと、今みたいにお互い王族の臣下になった後も、前のことも私は覚えてるわ……ちゃんと思い出せるわ」
 そう言いながらベルカは月を見ている。
 どんなに境遇が変わっても、夜空の月は少しも変わらない。その光が胸に深く眠った思い出まで照らして目覚めさせてくれる。
「思い出の中のあなたがどんな男の人だったか、今からひとつひとつ確かめるのでは遅すぎる?」
 ゼロは返事をしなかった。
 ずっとベルカに背を向けたままでいる。ベルカも何も促しはしない。
 随分経ってから、
「遅くない」
 とだけ、ゼロはぽつりと答えた。その声がひどく震えていた。


「好きなんだベルカ。お前がほしくて死にそうなくらい」
 といっそためらわずに言ってしまえばよかったのかもしれないが、結局今夜は言えずじまいである。
 何のためにこんな場所まで来て一人頭を悩ませていたものやら。毎夜脳裏に浮かぶ愛の言葉はいざとなると一つも出てこなかった。
 口には出せなかったそれらの言葉の代わりに、ゼロはベルカへ、
「お前の天幕まで送ってやるよ。一応夜道だしな」
 と言った。
「私なら一人で平気よ」
「普通の男は普通の女を送って帰るもんなんだよ、こういうときは」
 気恥ずかしげなゼロを見て、ベルカもそれ以上断らなかった。
「……でもあなたに送ってもらう方がよほど危なそう」
「何か言ったか?」
「いえ別に」
 月明かりがあるので足元まで明るく、夜道でも歩きやすい。
 道すがら、子供の頃の思い出話をつらつらとした。といっても、ゼロには思い出らしい思い出はなく、ベルカに教えられることばかりだったが。
「ごくたまに貴族階級から貧民街へわずかな施しがあったわ……するとたいてい柄の悪いやつらが少ない食料も物質も一人占めしようとするのよ。それを法外な値段で貧しい人に売り付けようとしたり……」
「そんなこともあったかもな」
「でもそんな柄の悪い連中相手にケンカをして物質を取り返してる変わり者もいた……子供の私にはよくわからなかったけど、こうして思い出してみると今はわかるわ。その人も善人とは到底言えなかったけど、貧しい人には優しかったのね」
「ふぅん、貧民街にそんな変わり者のイイやつがいたかね。覚えがないが」
「あなたのことよ、ゼロ」
 きょとん、と間の抜けた顔をしているゼロにベルカは笑いかけたようであった。
 あるいは月光の影の具合でそう見えただけだろうかと、ゼロがよく確かめようとして近づくと、ベルカはすっと逃れて先へ行く。
「ベルカ」
 月夜の下で二人の黒い影がもつれ合ってはほどける。やがて一つに落ち着くと、遠く林の闇の中へゆっくり消えていった。

(了)