夜ごとの夢

 世に恋しい相手の心がわからない悩みは多いが、わかっていたらわかっていたで、難しいのだ。
「ああ、いや、いやです――
 と、奴が寝床の上を這いつくばって逃れようとする、その足首を中島は捉えて追いすがり、背中へ取り付いて抱き締めた。
「ああ」
 と、腕の中で奴の体に震えが走る。
「やめてください――
 と口では許しを請う。しかしそれは、言うなればこの羞恥心の獣が、つがいに向かって喉をごろごろ鳴らす音のようなものだった。
「やめない」
 と中島が耳元で低い声を出すと、奴はますます震え上がった。中島は奴の衣服に手をかけた。いささか乱暴な手つきで袴と上着を剥ぎ取っている間、奴は唇を噛んでじっと耐えていた。屈辱に、ではなく、興奮をこらえている。厚い眼鏡のレンズの奥の瞳にうっすら涙さえにじむ。
(我ながら、困ったやつだなあ)
 と中島は思う。
 奴の頬を掴んで、無理やりにこちらを向かせて接吻した。
「んんっ――!!
 舌と舌とを根元まで絡ませ合いながら、中島の腹の下で奴が蛇身のようにうねる。二人同じ体温のはずなのに、奴の張りつめ火照った体の方が熱いような気さえ中島はした。
「ま、待ってください」
 と、奴が手で手を押さえようとするのを振り払い、中島は奴の洋シャツの釦を上から外していった。奴の襟元へ鼻先を突っ込み、素肌が露わになるそばから唇と舌を這わせる。軟らかい生き物が這い回るような、熱く濡れた感触に奴はぞくぞくするらしく、手もなくあえいで四肢を寝床へ突っ張った。鎖骨の付け根から、胸、鳩尾、腹へと中島の頭が下がっていく。
「あ、だ、だめ――!!
 いやいやと奴がかぶりを振っても構わず中島はさらに下がった。
「あ、あっ! んんン」
 はぁあ、と奴の口からとろけるようなため息が漏れる。とっくに屹立していたところへ中島の舌先がちろちろ這う。奴はたまらなそうに身をうねらせて、その愚息も中島の舌の上で脈打った。
 はぁはぁ、と、奴は羞恥心と愉楽が混ぜこぜになった荒い息をして、潤んだ目で中島を見下ろした。中島は好きなだけ見させてやった。
「こっちの方がよほど素直だ」
 言葉で奴を嬲った。そうして陰部にかかる息にさえ奴はのけぞり、肉棒の先からたらたらと先走って滴らせた。
 恥ずかしいから嫌だと奴は言う。そうやっていつも心に着物を着せている。中島にはその下にある奴の裸の心が見える。
(まったく、困ったやつだ)
 困ったやつだが、やっぱり自分だから、どうしたって愛おしい。それに、奴が素直でない分、俺は自儘だからたぶん役割分担ができているのだ、と思う。
 中島は、手で奴の陰部をもてあそびながら、
「お前一人よくなって」
 となじった。
「だって、それは、あ、あなたが」
 と、奴が喘ぎ喘ぎ言い返してくるのがいじらしい。
「ああぁだめ、だめです、そん、そんなにされると――
 中島が手の動きに熱を入れると、切羽詰ってきた奴が腰を浮かせたり、揺すり立てたりする。絶頂が目の前にちらついて、いっそ恥も矜持もなく、中島の手のひらに自分からこすり付けてしまおうかと、きっちり止めてあった心の釦がわずかにゆるむ。それを見計らったように、中島は手の動きを止めて焦らす。
「あ――
 奴が物欲しげに喘ぐ。奴自身、己の痴態におののいて、ぶるっと身震いをした。中島はいろいろに手を動かして責めたり、焦らしたりを繰り返した。
「あっく、あああッ――!!
 奴が寝床に手足の爪を突き立てて昇りつめようとした寸でで中島は体ごと離れた。
「起きろ」
 いきそこねてくちおしげに身悶えしている奴の腕を掴んで起き上がらせ、今度は奴の方が上になるように促した。
 中島が言いつけもしないのに、奴は中島の袴の紐に手をかけ、脱がせにかかってきた。中島も奴のしたいようにさせたまま、さっさと上着を脱いだ。
 奴が情欲に濡れた不気味に光る目で中島の裸体を見下ろす。中島が、その頭の後ろをそっと押さえると、奴は逆らわず中島の腹の上にうずくまった。
「っ」
 中島がたまらず呻くほど、奴は喰らいつかんばかりの愛撫と愛咬を加えてくる。陽根の根元まで一呑みに咥え込まれると、そのまま食いちぎられそうな気さえ中島はした。
「げほっ、げほ」
 と、奴は一度むせて口を離してから、改めて付け根の方までゆっくりと咥えていった。
「んん」
 咥えながら喉の奥でくぐもった声を上げる。中島がふと目をやると、奴は右手を脚の間に差し込んで自分で自分を慰めていた。中島は目もくらむような思いがした。
 中島の方だって気持ちいいのである。
「は――
 と熱い息を吐きながら、中島は奴の手を握って自慰を阻んだ。もう片手も取って、両手とも奴自身の背へ回させた。その腕には脱ぎかけのシャツが未だだらしなくまとわりついていた。
「じっとしてろ――
 わざと有無を言わせぬ怖い声で言う。奴は逆らわなかった。小さく、こくりとうなずきさえした。
 中島が奴の背中に回した手元を探り、シャツの右の袖の釦を左の袖に留めてしまうと、奴はもう腕を動かせない。緩慢に拘束された格好になった。
 その身動きの不自由な格好で、懸命に口を動かして肉棒をしゃぶっている。あさましい姿であった。中島は心から愛おしそうに奴の体を撫で回した。頭といい、手足や胴といい、壊れ物の細工でも触るように優しく撫で回した。
 奴の厚い眼鏡の奥で、濡れた双眸が弦月になった。今が幸福なのだと、その目が語る。
 口の中で中島の限界が近くなってきたのを察して、一旦顔を離してから、再度屈み込んで裏側の筋や鈴口をそろりそろりと舐めて焦らした。
――欲しいのか?」
 と中島に問われ、
「欲しいんでしょう?」
 と問い返すと、中島は負けん気の強い目でにらんできた。中島の手がこちらの腰へ回り、抱き寄せて、膝で中島の腹の上を跨ぐようにさせられた。
「あっ、ちょっと」
 と、奴が口ばかりは抗うようなそぶりを見せる。中島は構わず奴の両脚の間へ腰を押しつけた。
「あぁ――
 奴はもどかしげに息を吐き、唇を噛んだ。中島はまだ入ってはこない。尻の谷間にこすりつけてくるだけで、蛇の生殺しだった。
 奴は中島の腹の上に自らもぺたりと腹をつけた。芋虫のように這いずり中島の喉に食いついてくる。喉から首筋を通ってせり上がり、顎の骨に牙を当ててから最後に唇に吸いつく。
 どちらともなく呻き声が漏れた。
 奴がたまらなくなって腰を揺すろうとするのを中島は腕の中に押さえ込んで、執拗に愚息をすり付けた。
「ん! んっ、んんっ!」
 奴が、喘ぎ声を口の中に直接ぶつけてくる。中島も、どうにもたまらない気持ちだった。
「言えよ」
 と、中島は強がった。言ってくれ、と心中では思う。愚息の根元を掴んで、鈴口をしかるべきところへあてがった。
「欲しいだろ――
「っあ、うぅ」
「言えよ」
「うぅ」
「言え」
――欲しい」
「俺も欲しい」
 中島もようやく白状した。熱に浮かされたような声を出した。
「入れたい」
「あっ、い、入れて」
 と言いながら、奴は自分から腰を下ろしてきた。
 中島は手を貸して奴の体を起こしてやった。いくらか自由に動けるようになると、奴は貪るように尻を揺すり立てた。
「あぁ、いい、いい、動いて――
 請われるままに中島は、両足を踏ん張って懸命に動いた。
「あ、あッ、あッ、ああぁッ!!
 後ろを突き上げられながら、前の方にはそっと指が絡みついてきて上下に撫でさすられた。
「ううッ、あっ、く――
 白濁した精液をぼたぼたと垂らして愉楽に溺れる。
 気がつくと、背中で手首を縛してしたシャツは脱げてしまっていた。あるいは中島が脱がせたのかもしれない。二人はきつく抱き合って、一つの生き物のようになって寝床の上を転げた。
 電光影裏斬春風。ほんのひととき、二つの魂は和合する。夜ごとの夢の蜜月のときを、たとえ朝には忘れてしまっても、また次の夜の帳が思い出させてくれる。


「いやだなぁ、わかっていますよ。私は恥ずかしがり屋なので、つい、いやだとかやめてとか言ってしまうんです」
 と、身仕舞いを終えた“奴”が夢のように絢爛な寝台の縁に腰かけながら、ぬけぬけと言うのを聞いて、まだ寝床に転がっていた中島は、きょとんと間抜けな面をさらしてしまった。それを見て“奴”がにこりと笑う。
「あなたはいつも偉そうに、悪そうに、努めて自儘な風に振る舞っていますけど、口が素直でない困った人間の私のためにそうしてくれているんでしょう?」
「お前も俺の心を知り尽くしているのか?」
 と、中島は真面目に聞き返した。“奴”はますます笑った。
「そうじゃないですけど、まあ私もこれでも文学を志す者ですから、人心のことには聡くありたいと思います」
 もちろん自分の心のことにも。と言い添える。
「ねえ、好きですよ」
 と言う。中島は何も応えられなかった。言いたいことは山ほどあった。そのうちの何一つ、言葉にすることができないのが、文士たる者として情けない。
「以前の私は、自分があなたを少しも愛していないと、本気で、そう考えたこともありました。人間は何と己の心のありかを自ら知らぬものかと、今にして驚くの外はありません」
「俺もだ――
 と、中島はやっとそれだけ応えることができた。そのとき、中島の心は、初めて、本当に天に遊んだような気がした。
「現世に転生する前も、した後も、私の文学は」
「俺の文学は」
 “奴”が語りかけ、中島は応えた。二魂は表と裏、全きつがいである。
「自分の心の中からあなたを探し出す旅でした」
「お前が見つけてくれるのを、待っていた」

(了)