夢分析
「い、いや、ただの夢の話なんですけどね――」
と中島は慌てて言い添えた。
「別に私が夢の中で虎になったからといって、それに何か意味があるとも思えませんし」
「いえいえ、そんなことはありませんよ」
と答えたのは江戸川乱歩である。
中島と乱歩の二人は、図書館の中庭でお茶のテーブルを挟んで座っていた。天気のよい日の昼下がりのことで、外で午後のお茶を飲むのも気持ちがよかろうと中島の方から声をかけたのだった。乱歩は快く応じたが、約束の時間に現れたときには、なぜか外の陽気に不似合いな黒ずくめの書生姿であった。中島が訳を問うと、
「この方が趣があると思いませんか? こう景色から浮いて、作りごとめいていて」
などとのたまう。ひねくれている。
どうも聞くところによると、乱歩は野外の心地よさに素直に親しむといったことにはあまり興味が湧かないらしい。
「なんだ、そうなんですか? だったらそう言ってくださればよかったのに」
と中島が言うと、乱歩は苦笑した。片眼鏡を着けていない素顔だったから、それが案外人のよさそうな笑みであるのが中島にもはっきりと見て取れた。
「中島さん、
と乱歩は話をはぐらかした。中島は図星を指されて「うっ」とどもってしまった。乱歩は別段気を悪くしたようでもない。
「ま、鏡花さんと言えばあの潔癖症ですからねぇ。こういった場所で物を飲み食いするといったことは、ちょっと、難しいのでしょうけども」
と言って、乱歩はテーブルからティーカップを皿ごと手に取った。舶来物の華奢で美しい茶器を愛でてから、口元へ運んだ。
中島も同じようにティーカップに口を付けた。中身はただの出がらしの番茶だったので、妙な顔をしている。ティーセットと揃いの食器に盛られた茶請けも煎餅だのどら焼きだの、なんともちぐはぐな感じであった。縁側で日向ぼっこでもしながら喫する方がよほど似合いだ。
そんな変な茶会のうちに、冒頭のような話になったというわけである。
そのとき乱歩は、探偵小説と精神分析の関係について中島に話して聞かせているところであった。
「私の敬愛するポオは、小説の中で探偵デュパンにこう言わせています。『世間の人はたいてい胸に窓を開けていて、自由に覗かせてくれる』と。我々探偵小説書きは、もっともっと、その窓から人間の心を覗き込むべきなんです。そのための方法の一つとして、精神分析学を用いるのもむべなるかな。私も自作で試みたことはあるのですが」
「何という題ですか?」
「『疑惑』という小品です。出来はよくないので読まないでほしいのですけどね」
「そう言われると余計読みたくなります」
「あまり嬲らないでくださいよ」
乱歩は本心から困った顔をしている。
「精神分析学を取り入れようとして上手くいかなかった失敗作なのです。そうそう、そういえば、初めは『虎』という題にするつもりだった覚えがあります」
「虎?」
「主人公に虎の夢を見させようと思っていたとか、そんな理由だったと思いますが――」
「げふ!!」
と中島が急に番茶にむせて、げほげほやり始めたものだから、乱歩はハテと首をひねった。
「虎の夢がどうかしましたか?」
「い、い、いえ別に――」
中島はごまかそうとしたが、それが却って乱歩の興味をそそった。手を変え品を変え追求されて、中島は結局先日見た虎に変じる夢のことを白状してしまった。もっとも、核心の、つまり“彼”との痴戯の部分については一切触れなかったが。
「よく言われるところでは、虎は富や権力、強い力の象徴ですね」
と乱歩が言う。
「夢の中で虎の姿になっていたというのは、そういう力を持ちたいという願望の現れなのかもしれません」
「はあ」
「と、普通の人の夢分析なら考えるところですが」
「?」
「中島さんにとって『虎』は重要なキイワードではありませんか? 『虎狩』『山月記』、虎を題材に取った小説をいくつか書かれているでしょう。なぜ虎だったのですか?」
「な、なぜと言われても」
「虎でなければならなかった理由は何ですか? 強い動物なら他にもいくつも挙げられます。熊や狼ではいけなかったのはなぜでしょう?」
「―――」
中島は、いきなりそんなことを聞かれても、返答に詰まってしまった。まごまごと手の中でティーカップをいじくっていると、乱歩がその様子を見て、すまなそうに微笑む。
「まあ、精神分析とはそんなようなものでして、万事にいちいち猜疑心でもって理由や意味を付けていくのです。フロイドなどはことさらにそうですね」
「フロイドは私も著書を読んだことがありますが、猜疑心の塊のようなものですね、彼は」
「その上、彼の場合全てが性欲に帰結してしまうから凄まじい。それゆえに同業の分析家たちからは非難されているのですが、私はあの徹底した疑り深さには脱帽します」
と、乱歩はわざとらしい手振りで本当に黒帽子を脱いで見せた。それを頭に乗せ直し、
「中島さんが見た虎になる夢をフロイド的に解釈すれば――」
「し、しなくていいです」
中島は慌ててかぶりを振った。どうせロクな分析結果にはなるまい。虎の尾が男根の象徴だとかそういう話にしかならないのはわかりきっている。
「そうですか」
と乱歩は引き下がった。
なんとなく、二人とも黙り込んでしまった。
ちょっと気まずいな、と中島は思った。沈黙が心地いいというほどの仲ではないし、かといってすぐに新しい話題も思いつかない。それはおそらく乱歩も同じなのだろう。
中島が番茶をすすりながらもじもじしている横で、乱歩が茶請けのどら焼きに手を伸ばした。それを一つ取って、
「中島さん中島さん」
と呼ぶ。
「?」
中島が視線を上げると、乱歩は、おもむろにどら焼きを餡子のところから上下の皮に分けて、左右対称になるように開いて、餡子の方を中島に向けて見せた。
「ロールシャッハ試験です。何の形に見えますか?」
「―――」
わからない人だなぁ。と中島は心底思った。
「――あの、とりあえず食べ物で遊ぶのはよくないと思います」
と中島が言うと、乱歩は照れくさそうにどら焼きを元のようにくっつけて、口に押し込んだ。
「私はどうもユーモアのセンスというものが欠けているのです」
と、乱歩はどら焼きを飲み込んでから言った。
(ようするに、私を笑わせようとしてくれたのかな?)
と中島は思った。そう思って乱歩の顔を見ると、いつもの役者か興行師のような作り物めいた仮面は今はかぶっておらず、どこにでもいる内気そうな青年の横顔をしている。
乱歩でさえ
私と同じように。世の人と同じように。
そういう風に思うのは高慢なような気もしたが、乱歩のそんな一面を見るのはなんだか楽しくて、中島はついにやにやと笑い出してしまった。
笑われているのに気がついた乱歩は首をかしげた。
「おかしかったでしょうか」
「どら焼きのことじゃありませんけどね」
「では何が?」
中島はちょっとためらった。が、そのとき胸の奥でなんとなく暖かくうずくものを感じ、それに後押しされて、勇気を出して言葉にしてみようかな、という気になった。
「あの、怒らないでくださいね」
「怒りません」
「案外、馬鹿なんだなぁと思って――」
乱歩は一瞬面食らった顔をしたが、すぐに人のよさそうな笑みを浮かべて言い返した。
「その通りですとも。でも中島さん、貴方がそう仰るなら、私もこれからは容赦なく言いますよ。その程度で私が腹を立てると思っているなんて、貴方もお馬鹿さんですね」
「そのようです」
中島も笑った。
心地のいいそよ風が、後ろに建つ図書館の上の方から吹き下ろしてきて、二人の肌といって髪といって撫でていく。
乱歩が不意に真面目な目つきになって中島を見た。中島の心の窓を覗き込もうとする探偵小説家の目であった。
「ねえ中島さん、さっき貴方が私を案外馬鹿だと言ったの――
「さあ――」
中島ははにかんでますます笑うばかりである。
(了)