恋一雨

「君、れてるよ」
 と言って雨傘を傾けてくれたひとの顔を見上げれば芥川で。
 蛇の目傘の、ほとんど黒に近い濃紫の裏地を背負って芥川はにこりともしない。
「子供じゃあるまいし――
 と、島崎の返事を待たずに相傘で歩きだした。一息遅れて、島崎も並んで歩きだした。帝國図書館まではまだいささかの道のりがある。
 道路沿いの民家の垣根の向こうに赤と青の紫陽花がいくつも折り重なって咲いている。
「助かったよ……」
 と、島崎がレエンコートのしずくを払いながら、陰気な声でお礼を言った。
「ねえ君も外出? どこへ行ってたの」
「取材なら断る」
「社交辞令だよ」
 島崎がふと足元を見ると、芥川の足袋から着物の裾にまで泥が跳ねて、いまだみずみずしくれていた。よほどここまで急いで来たらしい。そのくせ、今はそつなく島崎に歩調を合わせていた。
「……このまま帰ると、みんなに僕たちが相合傘してるところを見られちゃうね」
「別に、構わないよ」
「いいの?」
「いいも悪いもないよ。僕一人傘を差して、君がねずみで帰ったんじゃ格好がつかない」
「恋の一雨ひとあめぬれまさり、ぬれてこひしき夢のや……」
――何だって?」
「何でもない」
 肩に雨がかかるからと二人寄り合っては、今度は互いの足がもつれそうだと言って離れる。
「ねえ君」
 と、あるとき芥川が呼んだ。前を向いたままで言った。
「今度の休みは暇かい」
「……デートにでも誘ってくれるの?」
「違う」
 芥川はムッと顔をしかめて島崎を振り返った。
「違うけれど――近頃のような雨続きじゃ、昼も夜もみんな図書館に残っていて落ち着かない」
「そうだね、毎晩声を抑えるのが大変だよ」
 島崎は根暗な声で笑った。芥川は「じゃあ決まりだ」と言った。島崎は、なんとなくホッとした様子の芥川へ、ちらと流し目を寄越した。
「そういうのさ、やっぱりデートっていうと思うんだけど……」
デイト﹅﹅﹅は恋し合う仲の人がするものだよ」
 僕らは違う。と芥川は暗に言っている。
「ふふん……」
 と、島崎は薄ら笑いをしながら、しばし何か思案している面持ちであった。芥川は芥川で、片手を細い顎に添えて「ふむ」と思い巡らしている風である。
「銀座へでも行こうか――パウリスタに、人の少ない頃合いを見て――珈琲コーヒーとグラノフォンで時間を潰して」
 そんなことを、ぶつぶつと、島崎に聞かせるようなそうでもないようなあいまいな声で独りごちていると、しかし島崎は急にそれを振り払ってパッと傘から飛び出した。
 島崎は再び雨に打たれるのも辞さず、二、三メートルほど先まで駆けてから芥川を振り返った。芥川は、きょとんと立ち尽くしているばかりだった。
「やっぱりだめだよ、次の休みには永井さんと一緒に出かける予定があるからね……」
 と断ると島崎は、雨の中を身軽に走って先に行ってしまった。
 芥川は、全く置いてけぼりで。島崎の背がどんどん小さくなっていくのをぽかんと眺めていた。

「よかったのかい」
 と永井が古書店の軒先をのぞきながら言った。
「何が?」
 と島崎も同じようにして聞き返すと、永井はフフンと笑って、
「図書館を出るとき、芥川君がなんともいえず恨めしそうな顔をして僕たちを見ていたよ」
 と言った。
「芥川君と先約があったのでは?」
「彼の方が後から言ってきたんですよ」
「僕に気を遣う必要はなかったよ」
 永井は古びた雑誌を一冊手に取ると、ぱらぱらとめくって立ち見をしている。
 島崎は芥川とのことを永井に話したことはないし、永井の方も詮索してくるような為人ひととなりではない。が、永井は二人の間の微妙な感情を鋭敏に嗅ぎ取ってくれているようだった。
 島崎は永井の手元を見ながら陰気につぶやいた。
「僕、芥川にはあんまり﹅﹅﹅﹅好かれてないから……」
「ふむ」
 とうなずいただけで、永井はそれ以上何を問うでもなかった。
 二人は古書店の中へ入った。
 書店の老主人は永井を見知っているらしく、店の奥からぼそぼそと声をかけてきた。
 永井は島崎のことを「“ともだち”だ」と形式的に紹介した。
「ところで、何か新しい物は入ったかい」
「古い物でしたら、蒟蒻本こんにゃくぼんがいくつか――あとは錦絵が」
「絵の方だけ見せてもらおう――
 島崎は一人ぽつねんと離れて、永井と店主のやり取りを見ていた。
 こぢんまりした店内は昼間でも薄暗く、古紙のじんわりと甘いバニラ香で満ちている。天井を見上げれば蜘蛛の巣がほこりをかぶっており、そこら中シミだらけで。
 身軽なシャツにスラックスのいでたちの永井は、古びた書店の景色の中にまるで元からそこにいたように馴染なじんでいた。図書館で伊達な三つ揃いに身を固めている永井とはまた別の永井がいることを島崎は興味深く思った。
「島崎君」
 と永井が呼んだ。永井は春信の絵を一枚島崎へ見せて、
「どう思う?」
 と尋ねた。
「………」
 島崎は永井が手に持ったままのその絵をじぃっと見つめた。独特の淡い色調で、少女がすねまであらわに着物の裾を乱しつつ悄然しょうぜんとして障子に寄りかかり、外で雨の斜めに降る池の水草を眺めている絵であった。
「綺麗ですね……でもあでやかで綺麗っていうのとは違って、なんとなく今にも散りそうな花を見てるような、少し寂しい感じがする……」
 という島崎の評に、永井は満足そうに目を細めている。
「……ねえ永井さん、絵はいいと思うけど、それ複写コピーか何かなんでしょ? だって本物ならすごく高価だろうし、永井さんもそんなふうに素手で触ったりしないと思うから」
「目利きというよりも、鋭いな君は」
 永井は結局眼鏡にかなう物がなかったらしく、何も買わずに店を出た。
 来たときにはぱらぱらと降っていた雨が、今は傘がいらないほどになっていた。
「相合傘をしなくて済むな」
 永井は店先の傘を取って往来へ出た。島崎はレエンコートを羽織った。
「迷惑でしたよね……」
 と島崎は、行きに傘へ入れてもらったことを謝った。
「迷惑ではないが――君がそういった若者の姿なので人目をはばかる」
 やがて二人は隅田川沿いの道へ出て、橋を渡り、濹東の地へ足を踏み入れた。
「島崎君、君のその鋭さを見込んで、ちょっと面白いところへ連れて行ってあげよう」
 と永井が言う。

(別にあのひとが誰と一緒に外出しようが僕の知ったことじゃない)
 と芥川は思っている。今朝は朝からもう五回は同じことを思った。
(僕には関係のないことだ)
 と、またしても思いながら停留場で乗合自動車バスを待っている。今日も朝から雨模様。降ったり止んだりで、蒸し蒸しした空気も不快な感じがする。頭痛持ちの芥川にはつらい気候であった。悪天候で乗合自動車バスを利用しようという人は多く、行列を作っていた。
 定刻を十分ほど遅れ、やがて来たのは寺島玉の井行きの乗合自動車バスであった。
 今朝、芥川が洗面所でたまたま﹅﹅﹅﹅島崎と鉢合わせたとき、島崎は、
「今日は永井さんの外出先を取材しようと思ってるんだ……」
 と、洗面器の上に顔を伏せてひげっている芥川の後頭部に向かってつぶやいた。芥川は知らん顔をして顎に残った泡を洗い落とすと乾いたタオルを取った。タオルへ鼻先をうずめているところへ、島崎がさらに言った。
「永井さん午後から古書店へ行くって言ってたけど……隅田川を渡って玉の井の辺りまで足を伸ばすかもしれないって……」
―――
「面白い話が聞けそうで楽しみにしてる……」
―――
 芥川は終始無言であった。島崎もそれ以上のことを話すでもなく、身支度を終えると先に出て行った。
 乗合自動車バスは満員の乗客で車内に熱気を立ち込めながら出発した。
 隅田川に架かる吾妻橋を渡り、広い道を左に折れて源森橋を渡り、まっすぐに秋葉神社の前を過ぎ、またしばらく行くと車は線路の踏切で止まった。タクシーや自転車が幾台となく並ぶ傍ら、子供たちが泥で汚れるのも気にせず遊んでいる。
 停留場で降りると、むしろスッとした感じの外気が襟の下へ入ってきた。
 空はいつの間にかところどころ青い部分がのぞくほどになっていた。
 芥川は傘を片手に歩きだした。ただの散歩﹅﹅﹅﹅﹅である。別にどこへ行く宛があるわけでもない――
(あのひとが永井さんと一緒にいるところへ万が一出くわしたら格好が悪いな)
 という心配があるばかりである。
 しかしそれは芥川の杞憂で、歩いてみると、かえって二人を探せと言われても惑ってしまうような土地だった。
 トタン屋根の陋屋ろうおくや商店がごたごたと建て込んで、通りや路地がまるで迷路の様相を呈している。薄暗い路地のあちこちでちかちか光るネオンサインや、どこからともなく聞こえてくるラジオのかすれた音が余計に方向感覚を狂わせるようである。
 芥川は同じ道を何度も行ったり来たりしながら、ついに降参して古い駅跡そばの土手へ登った。そこから下町の迷宮ラビラントが一望できた。
 土手下はすぐ繁華街。と確かめて、湿った土手をずるずるといささか危ない足取りでまっすぐに降りた。
 にぎやかな通りへ降り立つと、その辺りもいっそう迷宮ラビラントで。商店の合間合間にある先のよく見えない路地に、
「ぬけられます」
 と書いた古い看板がかかっているのが、なんだか芥川を誘い込もうとしているようであった。

 芥川はだいぶその辺りを彷徨さまよった後、ポストのある路地口の煙草屋で煙草を買った。その釣り札を持っていたときのことである。
 突然、
「降ってくるよ」
 と叫びながら、白い上っ張りを着た男が向側のおでん屋らしい暖簾のれんの陰にけ込むのを見た。続いて割烹着かっぽうぎの女や通りがかりの人がばたばたけ出す。辺りがにわかに物気立つかと見る間もなく、吹き落ちる疾風に葭簀よしずや何かの倒れる音がして、紙屑かみくず塵芥ごみとがもののけのように道の上を走って行く。一度は晴れかけたかと思った天気は、再び泣き模様になっていた。
 芥川は静かに傘を広げた。その下から空と町の様とを見ながら歩きかけると、いきなり後ろから、
「お兄さん、そこまで入れてってよ」
 と言いさま、傘の下に真白な首を突っ込んだ女人がある。古風な島田まげの髪は油の匂いで結ったばかりとわかる。芥川は、さっき通りがかりに硝子戸を明け放した美容院のあった事を思い出した。
 浮世絵からそのまま抜け出して来たかと思うような女人の姿に、芥川はぽかんと見入った。吹き荒れる風と雨とに、結いたてのまげにかけた銀糸の乱れるのが痛々しく見えたので、少し肩を縮めて、女人に傘の中央を譲った。
「どうぞ――
「じゃ、よくって。すぐ、そこ」
 と女人は傘の柄につかまった。そのとき芥川の手に熱い指先が触れ、「ご免なさい」と謝った。もう片手に浴衣の裾を思うさままくり上げた。
 天に稲妻がぴかりとひらめく。
「あら」
 と叫んで、今度はわざと芥川の指に触れた。
「早く行きましょう」
 と、もうれしい調子で芥川をかす。
 路地へ入った。幾角か曲がり、やがてどぶに架かった橋を越えると、一帯に葭簀よしず日蔽ひおいを掛けた家の前に立ち止まった。
「大変にれちまったわ」
 女人は自分のものよりも先に芥川の肩のしずくを拭ってくれる。
貴女あなたの家ですか」
 と芥川は畳んだ傘を振りながら尋ねた。女人はそうだとうなずき、中で芥川のれた着物を拭いてくれると言う。
「寄っていらっしゃい」
「いや、でも」
 妙なことになった――と芥川は思った。この辺りは建物の様子からして色街に違いなかった。それも随分古風な。ソッと後ろを振り返って見ると、雨の向こうに薄汚れた木造の娼家が連なる灰色の景色は現代を遠く離れて来たようである。
 芥川は色街に立って差し迫った肉欲を感じるよりもむしろ、鏡花の小説のごとく女によって魔境へ連れ込まれたような気分がした。
 少し遠くなった雷の音を聞いていると、雨はかえってつぶてを打つように強くなってきた。芥川はたまらず、とやかく言う間もなくその家へ入った。
「お邪魔します」
「あら、そんなにかしこまらなくっていいのに」
 芥川はかまちに腰かけて汚れた足袋を脱いだ。
「この家には貴女あなた一人?」
 女人は端折はしょった浴衣の裾も降ろさず、座敷の電灯をひねり、長火鉢の火を見ている。
「ええ、おんな﹅﹅﹅は」
「気楽ですね」
 芥川は女人の顔を盗み見た。二十四、五歳、器量よしだった。結いたての島田まげの生え際も若々しく、黒目がちの瞳も清らかで。
――ツ」
 と、芥川が座り込んだまま手で頭を押さえたのに気がついて、女人は火鉢から顔を上げた。
「どうなすったの?」
「僕、頭痛を持ってるもので――この天気が少々つらい」
「まアそれは大変ね」
 とかまちへ出てくると膝を着き、ひんやりした指を芥川のこめかみへ当てる。芥川はその白魚の指へ自分の指を重ねた。女人は、別段嫌がらなかった。
「あなた綺麗な目の色をしてるのねエ――
 と、女人はそのとき初めて気づいたように言う。
「そうかな。色が薄いから――血が上ると色が変わりますよ」
「珍しいのね」
「見せてあげてもいいけれど――
 と芥川がささやくと女人は「馬鹿ね」と彼の肩を打って、そのくせ頭に触れている手を離すでもなかった。
 芥川はいっそ己の体を女人の方へ押しつけてしまおうかと不埒ふらちなことを考えていたが、ちょうどそのとき、
「早技だね、君……」
 と、二階へ上がる階段の方から、こちらを見ながら陰気に笑う声が聞こえてきた。

 芥川はギクリとして声の聞こえた方を見た。
 かまちを上がってすぐ左手に二階座敷へ上がる階段があって、声の主はその中ほどに立ち、細い足の片方を一つ下の段へかけて、こちらを見下ろしていた。
「君も迷宮ラビラントに迷い込んだらしいね……」
 とくすくす笑っているのは、芥川がどう目を凝らして見ても島崎藤村であった。
「おやおや、見せつけてくれるじゃないか」
 と、さらに上から声が降ってきて、永井が静かに階段を下り、姿を現した。女人は、永井に見つかるとパッと芥川から離れた。
 目を白黒させている芥川へ、島崎が、
「『濹東綺譚』の世界へようこそ……」
 と冗談を言った。
 女人の勧めで、男三人は下の座敷で長火鉢を囲んだ。この土地では夏でも火鉢に炭火と薬缶やかんを欠かさないのだと永井が言う。
「お客が来たら、その合図に上の座敷へ茶を持って行くのが習慣になっているわけだ」
「永井さんも彼女の“お得意様”というわけですか?」
 と、芥川はずばり尋ねた。永井は口の端にあいまいな笑みを浮かべている。
「まあ、そんなところかな」
「恋人だって言えばいいのに……」
 と島崎がくちばしを挟んだ。
「よしたまえ島崎君、君はそういうところが田舎風やぼでいけない」
「でも実際……」
「僕は浮世絵が好きでね」
 と永井は言って、芥川の顔を見た。
「特に鈴木春信などが好きだ。君も一度くらいは見たことがあるだろう。あの淡くまろやかな、薄暮の花を見るような色彩で描かれた世界に僕は寂しくも懐かしい感情を呼び覚まされる」
「はあ」
「ここへはやはり浮世絵を見に来ているわけだよ」
 と永井は言うが、こんな家の浮世絵といえばふすまの貼りまぜくらいのもので。永井の見つめる先には、鏡台の前で古風に着物を諸肌もろはだ脱ぎにして化粧をしている女人の姿があるばかりである。
「芥川君、君も隅田川のほとりに生を受けた者であれば、わかるのではないかな」
「そうですね」
 そうですね――と、芥川は宙を見つめ、清流色の双眸そうぼうを細めた。ぽつりとつぶやく。
と住むべくは下町の、どろは青きみぞづたひ――
「……なんて?」
 よく聞こえなかったらしい島崎が芥川の顔をのぞき込んだが、芥川は微笑して口をつぐんでしまった。
「ううん、何でもないよ」
 と芥川は永井がいる手前、島崎に対してよそ行き﹅﹅﹅﹅の態度であった。島崎はなんとなく不服そうに小さな口をとがらせている。
 芥川は永井の方を見た。
「永井さん――申し訳ないのだけれど、僕は江戸趣味にはあまり尊敬を持っていないんです。ただ、この辺りのどぶにおい、これは、懐かしい――
「ふむ」
「こんな天気の日には、どぶの水があふれるんです。道路の上まで泥鰌どじょうが泳いでいることだろうと思います」
 日暮れが近くなって外の雨足は弱まってきた気配であった。しかしその変化がかえって芥川には文字通り頭痛の種になったようで、
「二階で寝てらしたら。まだお客が来るには早いから」
 と永井の情婦おんなに勧められたこともあって、芥川は一人その場を離れてのろのろと階段を上って行った。
 階下に残った永井と島崎は顔を見合わせている。
「帝國図書館に、帰りが遅くなるって電話でもした方がいいのかな……」
「まだいいだろう、芥川君の具合を見てからでも。この辺りで電話をかけるとなれば大通りの方まで出なくてはいけない」
 と永井は芥川を口実にしてはいるが、先ほどからちらちらと情婦おんなと視線を交わし合ってひとかたならぬ話のある気配で。

 二階にはちゃぶ台の置かれた三畳間と、次が六畳と四畳半の二間しかない。
 四畳半の部屋は壁が薄く裏隣の話し声や物音までまざまざ聞こえるので辟易へきえきして、芥川は六畳間へ布団を敷いて寝転がった。こちらは外の雨の音が強く聞こえる分、いくらかましであろうと思って。
 煙草を吸おうかと懐からバットの箱を出して一本くわえた。が、燐寸マッチの箱を振っただけでこめかみがうずくのだから興ざめであった。頼りない手元でどうにか煙草へ火をけた。
 まだ日は落ちていないが、電灯をけていないと宵の口のように暗い。寝ながら吐く青い煙が、薄闇と境目もあいまいに立ち上るのをぼんやり見ている。
 煙草を指の間に挟んだまま、頭だけ枕へ押しつけると階下の音が伝わってきた。
――僕がもう十年――だから、ほんとの――
―――
 永井のよく通る声は遠くとも割合に聞き取れた。不機嫌、というほどでもないが何やらわだかまりのある口ぶりで。しかし話している相手が島崎なのか情婦おんななのか、はっきりとしない。
 そのうちに階段をひそひそと上ってくる足音が聞こえた。
 芥川はバツの悪さから煙草を手近な灰皿へ押しつけ、掛布団を引き上げた。耳を澄ますと、階上へ上がった足音に柔らかな衣擦れの音が混じっている。
 情婦おんなの方だ、と思った。具合を見に来てくれたのかもしれない。寝たふりをした。
 部屋に入ってきたその人は、入り口のところから芥川が眠っているらしいと見て取ると、声をかけずにソッと近づいて来た。芥川の背中の方へ回って、畳に膝を着いた。茶碗ちゃわんを載せた盆を置く音がした。
 ひやり、
 と冷たい手が芥川の額へ置かれた。小さく肉の薄い手である。
 芥川は悪戯とも嫉妬ともつかぬ心を起こして、背中でその人の様子をうかがった。どうやら永井の情婦おんなであるらしいということが、それに不埒ふらちをしたときに永井のあの涼しい顔がどう変わるであろうという興味も覚えさせ、また永井への意趣返しのような気持ちもある。
 掛布団の脇からツと右足を出し、足の指をうんと曲げてその辺を探ると膝の骨らしき硬いものに触れた。
「………」
 相手が不審がり、こちらの顔をのぞき込もうと身を乗り出してくる。そこをパッと早技で捕らえて寝床へ引きずり込んでみると、
「ひゃう……いきなり何するの、君、こんなところで……スケベ……」
 と、しかし耳に入ってきたのは聞き慣れた根暗な声で、芥川は仰天してその人の顔を確かめた。島崎藤村であった。
「わっ!」
 と芥川は飛びのいた。
 島崎は白けた顔をしていた。
「……いったい、誰と、間違えたんだろうね?」
「き、君、声くらいかけて入ってきてくれないか」
「だって寝てるように見えたから、起こしても悪いと思って」
 島崎は階下から持って上がった鎮痛薬と着替えとを芥川に勧めた。着替えは、男物の吉原つなぎの浴衣と夏羽織であった。
「そんな湿った着物を着たままじゃ体に悪いだろうって……あのひとのお馴染なじみさんのじゃないかな」
 と島崎は浴衣を差し出してきたが、芥川は断った。永井もそれに腕を通したかもしれぬと思うと、ちょっと気が進まなかった。

 薬の方も、
「いらない」
 と芥川は言った。ねたような調子である。
「? なんで?」
 と島崎が首をかしげたが、芥川は何とも答えず向こうを向いてごろりと転がってしまった。
 島崎は小さくため息を漏らした。
「君って意外とそういうボウヤなところがあるよね……図体は大きいのに、中身は子供っぽいっていうか、頑固っていうか」
 ムッ、と芥川は不愉快そうに顔をしかめて、何か言い返そうとこちらを向きかけた。途端に島崎の手が伸びて芥川の顔をぞんざいにつかむと、その口の中へ白い錠剤を無理やり押し込んだ。
「んぐ!」
 島崎は目を白黒させている芥川の口に手で蓋をしておいて、枕元の盆の上から湯茶碗ぢゃわんを取り白湯さゆを口に含んだ。それを芥川へ口移しで与えると、また手で彼の口を押さえて飲み込むまで離さない構えである。
 芥川は、観念して飲み込んだ。口が自由になってから文句を言った。
「げほ、君、暴行だよ今のは」
「ちゃんと薬飲み込んだ……?」
「飲んだよ」
「本当かな」
 確かめてあげる……と島崎はささやいて、もう一度唇に唇を押しつけてくる。差し込んだ舌で芥川の口の中をぐるりとめた。芥川が仕返してやろうとした寸でで島崎は離れ、
「少しは機嫌が直った?」
 と小首をかしげる。
――ふん」
「それにしても君、今朝ちゃんと鏡見ずにひげってたから……ちょっと痛かったよ」
 島崎は芥川の頬をぐいとこすって、聞いた。
「そんなに僕が永井さんの取材に行くの嫌だった……?」
 芥川は答えず、再度そっぽを向いて寝たふりをしている。背中の方から島崎が布団の中へ入ってきた気配がした。
「永井さんのところへ戻らなくていいのかい、君」
「いいんだ、今頃階下したでは男と女の話の最中だと思うから。君があのひとに妙なちょっかい出したりするからだよ」
 島崎は後ろから芥川の耳飾りを摘んで引っ張った。
「ああいうひとが好みのタイプ?」
「それ、“取材”かい――それとも、君にもヤキモチを妬くくらいの人の心はあるのか」
「さあ、どっちかな……」
 島崎は芥川の耳たぶを唇で吸ったり、耳の裏をすんすん嗅いだりしながら、だんだんと興奮の混じってきた声を漏らした。
「たぶんだけど……永井さん、あのひとに手は出してないんじゃないかな。僕たちはこういう人間﹅﹅﹅﹅﹅﹅だし……その辺は永井さんもわかってるんだと思うよ。でも、女の人の方はそういう事情を知らないだろうから、寂しいだろうね」
「何が言いたいんだい」
「つまり、あのひとが君にちょっかいを出されて満更でもなさそうにしてたのは、永井さんへの当てつけだったんじゃないかってこと」
 特別君に魅力を感じてたってわけじゃなくてね……とわざわざ付け加えた辺り、(嫌なやつだ)と芥川は思った。
「ねえ」
 と島崎が甘えかかるように接吻キスしてきた。
「ん――
 舌と舌と深く絡ませ合いながら、島崎は体を芥川の背に押しつけた。芥川は尻の上に硬くエレクトしたものを感じた。
 島崎の腕が芥川の背後から白蛇のように胸や腹をいずって、乳首を指先でツンとつついた。
「んっ!」
「大声出すと、下まで聞こえるよ。板が薄いから……」
 これ好き? と芥川の耳元でささやきながら、華奢きゃしゃな指でぽっちりした乳首をゆっくり転がす。
 たまらず、芥川は手のひらで口を押さえて身を縮めた。

 じっとりとぬくく湿った布団が甚だ不快で。
 人肌同士触れ合っているところから汗がにじみ出してぬるぬる滑る。
「暑いね……」
 と島崎は額の汗を拭うと、掛布団をはぐった。膝で芥川の腹をまたいで、胸と胸、腹と腹を合わせて最後に芥川の首筋へ顔をうずめる。
 芥川が軟らかい喉の皮膚で感じた島崎の吐息もまた多量の水分を含んでいた。島崎は芥川の着物の懐を広げながら下へ下がって、指でさんざんにいじった乳首を唇と舌とでも愛撫あいぶした。
「ッ――――
「必死に口押さえてるの可愛いよね……」
 と、島崎は上目遣いに芥川の顔をチラと見て可笑おかしそうにしている。芥川がにらんだところでこたえた様子もない。
「そんな顔してるけど……ほんとに嫌なら、君の方がどう考えても力が強いんだから、僕くらい簡単に押しのけられるよね」
―――
「ね……」
 ちゅうと芥川の胸元に吸いつきながら、手を下腹部へ滑らせる。布地越しにもわかる熱く硬く大きくふくらんだ感触に触れて阿利襪オリーブ色の瞳をうっとり潤ませる。
 島崎は芥川の下肢の上にうずくまると、陽物のふくらみに鼻先を擦りつけた。そこの蒸れたにおいにかえって興奮を覚えるらしく。こぢんまりした鼻をひくつかせて、男根の形をなぞるように根元まで下りた。着物の裾をまくって手を差し込み、指で陰嚢いんのうの底をくすぐった。
 島崎は芥川の下穿きを引き下ろすと性急にそこをめ始めた。小さな舌をちょろちょろ懸命に動かして陰茎の裏側をくまなくめた。
「っうく、んんン――ッ!」
 と芥川が鋭敏な反応を寄越してくれるのが島崎には嬉しい。陽物を頭からくわえ込んでねっとり吸い上げた。吸いながら、睫毛まつげの恐ろしく長い目元をますます潤ませた。
「ン……ふ」
 布団へ膝を着いて立った芥川が帯を解き、着物の前が開く。それ待って、島崎は芥川の膝先へい寄った。また陽物をくわえた。
 芥川は左手で口を覆い、
「まだ足りないのかい、君――
 と指の隙間からささやいた。ぐび、とつばきを飲んだ。
 反対の手で島崎の頭をで、腰をゆるゆる前後させる。喉の奥を突かないように上手に動いた。
 粘膜のこすれ合う粘った音と、湿った呼吸と、少し遠ざかった外の雨音と。薄暗い室内に水の音ばかり満ちていた。その中に、ふと、階下の男女のやりきれぬため息が混じり込んできて、
「芥川君、島崎君、僕たちは少し外へ出てくる――
 と永井の低い声が二階まではっきりと通った。
 芥川と島崎が息を殺している間に、階下ではにわかに足音がざわついて、やがて傘を一つ広げる音と戸口が閉まる音とが聞こえると後は静かになった。
 芥川は、急に島崎を寝床へ押し倒すなり貪りつくようにその少年のごとき体を愛撫あいぶした。
「ああ芥川、芥川、ああアァ……!!
 と島崎もたがが外れたかと思うほど乱れてそれに応えた。

「あぁ……」
 後ろの穴へ熱い肉叢ししむらを押しつけられた感触にさえ島崎は切なくあえいだ。
「辛抱たまらないって様子だけど――
 と、芥川も言いつつ気がいて、四足よつあしを着いている島崎の臀部でんぶをさらに引き寄せた。
「ごめん……ほしくて……」
 と島崎は自ら尻を芥川の腰に擦りつけてきさえした。
 お望み通りと、芥川は島崎を犯した。半分くらい入ったところで軽く抜き差しして「痛くないかい」と聞いた。
 島崎は、中にいる芥川をきゅうと締めつけてきた。
「平気……気持ちいい……」
「じゃ――奥まで入れるよ」
「ぁふ……!」
 容赦なく肉壁を割ってひだをこすりながら芥川は禁忌のぎりぎりのところまで入ってくる。そのまま二度三度と突き上げられると、島崎はほとんど悲鳴に近い声を上げた。
「あっ、あっ、ああァ~~……!!
 突かれる度に体を刺し貫かれるような思いがした。
 おや、と、芥川が気がつくと、島崎はとろけた姿で布団に崩折れて、片手は自らの陰茎に添えていた。自慰をしているのかと思えばそうではなく、
「だって出ちゃうかも……」
 と弱った顔で言う。布団を汚すのが心配なのだと言う。芥川は、何か快い可笑おかしみのようなものを感じて「そう」と笑った。
 芥川は島崎を抱き起こし、体の上下を入れ替えて自分が下になった。これなら布団は汚れないと言い、島崎の薄赤い陰茎に手を伸ばした。さっき舌でもたっぷり鈴口をこじって愛撫あいぶしてやったそこは、先走って汁を垂らして、指との間に蜘蛛の糸を引くほど。
 島崎は後ろに手を着いて体を支えながら自ら動き出した。
「あっ、いい……気持ちいい……」
 君は? と見下ろす目で島崎が問いかけてくる。芥川は答えなかった。その代わりに島崎の下肢へ手を伸ばして淫らな動作を手伝った。
(ときどき――
 と芥川は思う。愛情と呼んで差し支えないような感情が湧くこともある。けれど――それもいずれ島崎の“取材”だの“芸術”だのいう言葉にまれてしまうのではないかと。あたかも大雨であふれたどぶの水が、路面に生臭いにおいばかり残していくように。
「……ねえ、何考えてるの?」
 難しい顔して、と島崎が言った。
――雨は、嫌だって」
「忘れようよ、そんなこと……」
 島崎が夢中で尻をこねくる動きで芥川も追い詰められていった。
「ッあ、アッ、あっく――!」
 全身に汗を垂らしながら官能にあえいだ。島崎は小刻みに下肢を揺すって自分の内側の泣き所を男根にこすりつけようとした。「ごめん」とささやいて芥川の腹へ白濁した液を滴らせた。芥川はそれを嫌悪もしなかった。
 芥川は下から貪るように突き上げて島崎の中で放出した。
「……僕が女の子だったら怒るどころじゃ済まないよ」
 と、済んだ後、島崎がちょっとむくれながらちり紙で尻を押さえているのを見て、芥川はやはり快い可笑おかしみを覚えた。
 やがて永井たちの帰ってきた足音を聞きつけ、二人は衣服を直して階下へ下りた。
「芥川君、頭痛はもういいのかい」
「あら、せっかく貸してあげたのに、着替えなかったの」
 と、永井と情婦おんなが代わる代わる言った。二人とも、出る前のわだかまりはひとまず薄らいだという調子で。
れて恋しき夢の間で、少しは仲直りできた?」
 と島崎が言った。永井が「ふむ?」と首をかしげると、島崎はくすりと笑った。
「永井さんたちが出るとき、傘の音が一つしかしなかったってことですよ……」
「なるほど。いや、機嫌を直したのはこのためさ」
 と永井が言い、情婦おんなが運んで来たのは氷白玉だった。甘い物好きの芥川が嬉しそうな顔をした。
「雨の中をわざわざ買いに行かれたので?」
「君の病状を図書館へ電話するついでだ、芥川君」
「ああ、それはわざわざどうも――
「とにかく白玉が喉につかえる。食べるうちは仲良くしよう」
 シャクシャクさじで氷を突き崩す音と、窓際から香る蚊り香のツンとした匂いが涼しい。

「まあ、彼女とは早晩手を切ることになるだろうさ。彼女の芥川君への媚態びたいを見てわかった。潮時というやつだ」
 と、帝國図書館への帰り道、隅田川に架かる吾妻橋を渡りながら永井は言った。
 日がとっぷり暮れた後も雨は降り続いていたが、もう随分小降りになっている。永井が一人先を歩き、その後を芥川と島崎が相傘でついて行く。
 永井は橋の下を青黒い油のように流れる隅田川を見下ろし、
「彼女の後半生をして懶婦らんぷたらしめず、悍婦かんぷたらしめず、真に幸福なる家庭の人たらしめるものは、僕のような者ではなくて、前途になお多くの歳月を持っている人でなければ」
 と、言う。
「それにこんなことが政府にばれては、大目玉では済まないだろう」
「いいんですか? ……永井さん、お雪さんの面影を探してたんじゃないのかなって」
 と島崎が言った。雪は永井荷風の傑作『濹東綺譚』のヒロインたる売笑婦である。
「僕にはそれがどんな気持ちかはわからないけど……」
 永井は軽く傘を上げ、肩越しに後ろを返り見た。
「島崎君、君も鋭いのだか鈍いのだかわからないな」
「今どんな気分なんですか?」
「知りたければ僕の本を読みたまえ」
 と、永井はいなした。
「お雪の面影などというものはどこにもない、またどこにでもあるようなものだ。まろやかな、薄暮の花だ――
 芥川君、と永井は急に芥川の方を呼んだ。
「君があの家で詠んでくれた詩歌には、きっと下の句があるのじゃないか」
 それを教えてほしいと言う。芥川は請われるままに教えた。

 と住むべくは下町の
 どろは青きみぞづたひ
 洗湯あらひゆの往き来には
 昼もなきづる蚊を聞かん

 と住むべくは下町の
 昼は寂しき露路ろぢの奥
 古簾ふるす垂れたる窓の上に
 鉢の雁皮がんぴも花かさむ

―――
 永井はそれをいいとも悪いとも言わず、柔らかな雨音の中に夏のうたを詠み上げる芥川の涼な声に感じ入った。
「芥川君」
「何ですか」
「今日は島崎君を独り占めにしようとして君には悪いことをした」
 芥川は急にエヘンとせき払いをした。
「僕は別に――
「君たちが二階でどんな話をしたものか非常に興味がある。ひそかにのぞいてみようかとも思ったのだが」
のぞいたんですか!?
「そういった欲求に駆られたという話だよ。島崎君が君にはあまり好かれていないと言っていたから」
 芥川はじろりと隣の島崎へ流し目を送った。島崎は川面を眺めて知らん顔をしている。
「僕は別に――
 と芥川は同じ文言を繰り返してから、それを自覚して少し照れくさそうに目を伏せた。
「まあ、好きとか嫌いとかで片付かないこともありますよ」
「そうだな――そうだろうとも」
 永井は、ふと芥川の足元を見、下駄履きの割合がっしりしたそれが島崎の長靴に合わせてちょこちょこと動くのと、二人の足がもつれそうになっては離れるのとを可笑おかしく思った。
「芥川君、君も今度は長生きしたまえ」
 やがて橋を渡りきると、ほど近くに乗合自動車バスの停留場がある。三人はそこで車を待った。
 定刻きっかりに、乗合自動車バスの前照灯が道路の向こうから長く伸びてきて宙空を照らした。雨は霧雨に近いほどになっていた。

(了)