イヴ

プロローグ

「人間とは神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそが人間の失敗作に過ぎないのか――なんて言うけど、俺に言わせれば両方失敗だな。およそこの世で完璧な人間、完璧な神は俺たち錬金術師アルケミストだけってことだ」
 と、浮かれた足取りで先を行く少年錬金術師アルケミストアカの背中を、
「随分ご機嫌なんですね」
 と同じく少年錬金術師アルケミストのアオが半ばあきれた様子の声でつついた。歩きながら、どうにも今かけている眼鏡の据わりが悪いようなそぶりで、左右のつるを両手でいじくっている。しかしアカの気を引けないようだと悟ると、手を離した。
「そんなに司書の彼女に会えるのが嬉しいですか?」
「嬉しい!」
 とアカは大きくうなずいて、アオの方を振り返った。
「なぜならば、俺は館長が今朝出張のお土産だって言って、あいつにお菓子の箱を渡してたところを見たから」
「ようするに、お土産のお菓子をお裾分けしてもらうのが目当てなんですね」
 と、アオはやはりあきれた調子で言ったが、どこかホッとしたようでもあった。
 アカは上機嫌で司書室へ入って行った。司書室のドアは開け放してあって、ノックをしても返答はない。
「なんだ、いないのか?」
 と声をかけながら室内へ踏み込んで、執務机の方をのぞいてももぬけの殻である。やがてアオも追いついて来て、
「いいんですか? 勝手に入って」
 と少しばかり不安そうな顔をしているが、アカはどこ吹く風である。勝手に執務机や実験机の上を眺め回して、あーだこーだと品評を加えた。
「ちぇ、あのお菓子の箱は絶対チョコレートだと思ったのにな――あ、こいつ五行相生の計算式間違えていやがる。これじゃ対角化できなくて連立方程式が解けないだろ。実験器具もとっ散らかっててさ、こう、性格が雑だからよくないんだなうん」
「なかなか珍しい薬種をそろえていますね、彼女」
 アオもアカと頭を並べて実験机をにらんだ。ハシリドコロ、キツネノテブクロ――と、瓶に詰めて並べられた漢方の生薬や、毒のある植物の名前を挙げていく。
 実験器具の中で重要なものは炉と蒸留器ランビキである。蒸留器ランビキの丸いフラスコへ薬種、鉱石、金属などを入れて炉にかけ、熱せられて生じた気体を冷却管へ通すことで液体の蒸留物を得る。
 この世のありとあらゆる物は第一質料から構成され、第一質料同士は「小さき歯車」によって結合される(この場合の「歯車」とは無論概念的なものである)。「小さき歯車」は万物に宿る精気のようなものと解釈され、錬金術師アルケミストたちは物質を加熱して生じる気体の中にそれが含まれると考えたために、この蒸留という操作を極めて重要視した。
「まだ卓上炉が熱いですけど、何か実験の途中だったんでしょうか」
 とアオが言った。炉のそばに投げ出してあった小さなふいごを手に取って、持ち手を閉じたり開いたりしながら、
「手入れが悪いですね――
 とぼやいた。
「お前といいあいつといい実験が好きだなぁ」
 アカが言った。アオは言い返した。
「あなたは実験をサボりすぎです」
「だーって式を導けば答えがわかってんじゃん。それをいちいち実験するのがめんどくさいんだよ」
「応用的な実験から新しい事実がわかることもありますよ」
「おっ、実験用のノートがある」
 アカはアオの言葉を聞いていないか、聞いていても右から左に抜けている様子で、見つけたノートをぱらぱらとめくって、一人でふんふんとうなずいたりうなったりしている。
――何が書いてあるんですか?」
 と、アオもいささかねた顔をしながら横から首を突っ込んだ。アカが眺めていたページには、司書の細かい字でびっしりと化学式が書き込んであった。
特殊洋墨アルケミー・インクの生成に必要な反応式だよ」
 とアカは一見しただけで説明した。
「あっでも、普通のとちょっと違うな――また政府から、文豪の“補修”用に新しい組成を試してみろって言ってきたのかね」
「かもしれませんね。上の方々も必死ですから」
 アオも眼鏡の奥で青い目を細めて、懸命に司書の覚書を読み解いた。
「今の実験の様子からすると、――から小歯車を蒸留する工程でしょうか。これに硫黄と水銀を加えて小錬金法で死化させて――
「あとは薬種とか足すって感じか? まあ、細かいとこが違うだけでいつもとだいたい同じってことだな。あーあ」
 つまんないなぁ。とぼやく。
「所詮お役所勤めの錬金術師アルケミストの研究なんてこんなもんだよな。俺はもっとさぁ、スゴイ﹅﹅﹅研究がしたい」
スゴイ﹅﹅﹅と言ったって――そんな素晴らしいアイディアがあるわけじゃないでしょう?」
「へっへっへ」
 と、アカは急に得意げな顔になった。アオへ満面の笑みで笑いかけた。
「実はある! けど、どーせ館長も司書もノッてこないだろうと思って黙ってた」
―――
「なあ聞きたい? もちろん聞きたいよな?」
 別に――とアオは気のないふりをする。アカは「またまた」と肘でアオの肩をつついた。アオは小さな口元をとがらせて、
「聞いてあげますから、早く言ってくれませんか?」
 と促した。
「そんなに聞きたいんならしょーがないな」
 と、アカはにやついている。アオが何か言い返そうとしたのを制して、プレゼンテーションの口火を切った。
「なぜ文豪たちは未完成の人間﹅﹅﹅﹅﹅﹅のままなのか考えたことはあるか? なぜか。神様が作ったアダムに似せて作ろうとするからさ。へっぽこな神様は人間を二種類に分けちまった。なんでそーいう理論的に美しくないことするかな! って、思うだろ?」
「僕に同意を求めないでください」
「ノリが悪い。とにかく、俺たち錬金術師アルケミストがそんなへっぽこ神の真似まねすることはないってことだよ。俺たちはその先へ行くのさ」
「つまり――どういうことですか?」
「つまり――こういうことだな」
 と言って、アカは耳に挟んでいるペンを取ると、それで司書の実験ノートへ二、三の記号を書き加えた。
「あっ! ちょっとそんなことをして」
 とアオが慌てたのをアカは笑って、
「大丈夫だって、論理的﹅﹅﹅には何も間違ってない!」
倫理的﹅﹅﹅には大いに間違ってる気がするんですが。そのノートを見た司書さんが気づかずにそのまま実験してしまったらどうするんです?」
「だから実験はあいつにしてもらうんじゃん」
「いや、それは」
「理論的には絶対に成功する! ――まあ、あいつが実験で失敗しなけりゃだけど。面白いことになるぞ」
 悪戯っ子の表情をアカが浮かべる。にかっと口の端が上がると目元のほくろも高くなった。アオは、向けられたその笑顔をまぶしがるようにそっと目をそらして、指先で眼鏡のつるをちょっと直した。
 司書の婦人が自室へ戻ってきたときにはもはや日暮れが近かった。
 窓から差し込む日の光もすでに赤味を帯びて屋内に不気味な陰影を作り出していた。そして同じように夕日の陰鬱な影をまとって、司書の後から部屋に入ってきた人物があった。島崎藤村である。
「司書室のドア、ずっと開けっ放しだったの……? 不用心だね」
 と、島崎は少々あきれた風に言って、実験机の前に立っている司書へと近づいた。
「実験用の薬には毒もあるんじゃないの?」
「ええ、でも、瓶に封印を施してあります。錬金術師アルケミスト以外には開けられません。記録の類も、皆さんに見られて困ることはありません。錬金術に関することは暗号で記述する決まりですから――私としては、あまり堅苦しいことをして皆さんからこの場所を遠ざける方が心苦しいので――
「相変わらず僕らに対して気をんでいるというわけ」
 と島崎は苦笑している。司書が手にしている実験ノートを脇からのぞき込む。
「それが、例の新しい洋墨の……?」
「ええ、“補修”にかかる時間が劇的に短くなるはずです」
 司書は、島崎へノートの内容をみ砕いて説明したのち、
「今夜にも試作品が完成します――でも、島崎さん本当によろしいの? 生体実験に協力していただけて、嬉しくないと言ったら嘘になりますけれど」
「いいよ」
 と島崎はこともなげに請け負う。
「君には、いつもよくしてもらってるしね」
「ありがとうございます、島崎さん」
「それと、新しい洋墨のことや実験について取材させてくれたら嬉しいな」
 さもついでという風に言うが、島崎にとってはおおかたそちらが本命の目的なのであろう。
「お約束します」
 と、司書は確かにうなずいた。
「ただし実験が全て終わるまでは、皆さんには秘密にしておいてくださいね」

1 狂える侵蝕者

 うん、と体の重心を落とす。
 着物の裾が大きく割れるほど腰を低くして踏ん張ると、下駄の歯が砂の路面をえぐった。芥川は剣をかすみに構えた。間髪入れず襲いかかってきた侵蝕者の鞭先を剣身ではじき返した。
 侵蝕者の懐へ一息に踏み込んで、一太刀、二太刀、三太刀目で侵蝕者は絶命した。
 どこか少年の面影を残していた妖物は今際いまわの際に嫉妬に狂った呪詛じゅその言葉を残し、黒い文字の粒となって霧散した。あたかも、たった一つの歯車を失ったばかりに崩壊した機械のごとく崩れ去った。
「はぁ――
 と芥川の口から安堵あんどとも疲労ともつかぬため息が漏れる。
 ヒュッ、
 と頭上で鋭く風を切る音が聞こえた。続けざまに二度。さらにもう一度。今度は今までよりわずかに高い音が空を切った。
 振り返ると、島崎と徳田が次々に矢を弓につがえ、薄暗い空に向かって放っていた。放たれた矢のおおむね﹅﹅﹅﹅は、宙を舞う洋墨瓶の姿の侵蝕者を貫き、墜落させた。
 射手の二人を警護するように、泉がレイピアを構えて辺りを牽制けんせいしていた。
「いい感じだよ秋声、すごく活躍してる。目立ってるよ」
 と、島崎が、真面目なのか軽口なのかわからない調子で言った。徳田は顔をしかめた。
「今そんなことを言っている場合じゃないよ」
「秋声、せっかく島崎さんが褒めてくださったのですから、素直にお礼を言ったらどうです」
 と泉にくちばしを挟まれて、徳田はますます面白くなさそうな顔をする。泉は気がつかないらしく、
「それにしても、やけに数の多い――
 と、侵蝕者を倒しても倒してもキリのない上空をにらんでいる。芥川は「泉先生」と声をかけて駆け寄った。泉のそばに立つと消毒液のツンとしたにおいが鼻をついた。
「この数はやはり尋常じゃありませんよ」
「ええ、芥川さん――彼らの頭目を成敗しなくては、いつまで経っても終わらないようですね。僕たちの方が先に消耗しきってしまいます」
「では一つ、こちらから攻め入ってみましょうか」
 芥川はまるで「煙草を買いに行きましょうか」とでも言う具合に、気軽に言った。
 泉は思案顔であった。
「それしかないようですが――
「敵の攻撃の手がゆるんだ隙を見て、二手に別れて路地へ入りましょう。彼らの首領は川上の方にいるようです」
 と芥川は道路の脇の堀川をちらと見下ろした。水路を流れる水はまるで洋墨でも垂れ流しにしているように黒々している。
「敵も僕たちに合わせて力を分けてくるようならそれもよし。もし二手のどちらかにだけ襲いかかってくるようなら、そちらが細かいのを引きつけている間に、もう片方が首領を倒しましょう」
「ふむ」
 泉は会派の筆頭文士として悩ましいところであったに違いない。が、射手の文士二人も途切れない敵に疲れが見え始めている。徳田は始終険しく赤らんだ顔をしていたし、島崎の方は顔色こそ変わらないが、額にうっすらと汗がにじんでいる。
「そうですね――仕方ありません、ともあれ一旦敵から離れた方がいいでしょう」
 粛然と芥川の提案を受け入れた。
 問題は、四人の会派をいかにして二手に分けるかということであった。
「僕は――鏡花と一緒に行くよ。一応同門だしね」
 と、いまだ血の気の引かぬ頬をこすり、さもしぶしぶという風に言ったのは徳田である。他の二人に比べれば息の合わない兄弟子でもなんぼかマシ、という内心が顔色にそのまま表れているようだった。
 芥川は島崎を連れて、侵蝕者の攻撃が途切れた隙に手近な建物の影へ滑り込んだ。後から来る島崎が、ふっふと笑う声を背中で聞いた。
「何が可笑おかしいんだ」
「君、秋声にあんまり好かれてない﹅﹅﹅﹅﹅﹅んだね」
「君に言われる筋合いはない」
「僕は……どうだろう。少なくとも鬱陶しがられてはいるけどね」
 芥川は苦虫をみ潰したような顔をしていた。自分で言い出した策だとはいえ、よりにもよって島崎と組む羽目になろうとは。
 芥川は先に立って辺りの安全を順に確かめながら路地裏を進んだ。やがて、元は湯屋であったとおぼしき大きな建物の表へ出た。元は、というのは、侵蝕がすでに重篤で、もはや湯屋としての原形はとどめていないという意味である。
 男湯、女湯と示した暖簾のれんが掛かっていたところには、今はただ大きな「男」「女」の漢字が風に揺れているばかりである。木造の壁などは、一見無事のように見えたが、芥川が下駄の歯に挟まった石を取るために寄りかかると、触れたところから細かな「材木」の字に変じてぼろぼろ崩れた。
 芥川は下駄にんでいた「小石」の字を道端へ放り出して、そのときにちらと後続の島崎の様子をうかがった。島崎は多少息が早くなってはいたが、足取りはしっかりしている。
 芥川は少し歩をゆるめて、再び進み出した。建物の大きな「影」の線と線の間を縫って行く。
「侵蝕者、こっちには来ないね……」
 と島崎が言った。
「となると、秋声たちの方にみんな行っちゃったのかな……あの二人なら大丈夫とは思うけど」
「案じていても仕方がないさ。首領格の侵蝕者の守りが手薄になっているのを祈るしかない」
 二人は川沿いの船宿の裏手へ出た。店の裏口からすぐ船着き場へ下りられるようになっていた。
 黒い水の流れる川からは生臭いばかりの洋墨のにおいが立ち上っていた。船着き場の陰にひそんで川上を見上げると、ほど近いところに鉄骨の橋が架かっていて、その上に目指すものはいた。
 「いた」という表現が適切なのかどうか。それはただ黒々したゼラチン質の洋墨の塊のごときものに見えた。橋の欄干に巨大なうみがへばりついているような景色だった。ぼたぼたと絶えず滴り落ちる洋墨が川を汚染していた。
「気持ち悪……」
 と、不意に芥川は耳元に島崎の息遣いを感じ、驚いて振り返った。
「近い!」
「しっ。僕にもよく見せて……」
 島崎はお構いなしに身を乗り出してきて、侵蝕者の姿へ目を凝らした。それとの距離を測っているような目つきである。
「あそこなら矢が当たるかも」
 と言う。
「本当に?」
 芥川は疑わしく思った。橋の上までは少なく見積もっても七、八十メートルはありそうである。
「たぶん」
「頼りない話だ」
「まあ、やってみてもいいんじゃないかな。だけど、彼らのリーダーだけは射落とせたとしても、他のはだめだよ」
 芥川は不定形な纏まらぬ洋墨の侵蝕者の方へ視線を戻した。その周りにもさっと青い目を走らせたが、他の侵蝕者は鞭を持った嫉妬深い少年が一人と、洋墨瓶の虫が数匹ばかりである。
「他は雑魚ばかりらしい。頭目さえ始末できれば、あとはこちらに気づかれたところでたいした敵じゃないよ」
「君がそう言うなら」
 島崎は弓に矢をつがえた。島崎の右のたなごころに収束した黄金の光の粒――その実は目に見えぬほど微細な文字の集まり――が、深い返しの付いた矢に姿を変える。
 島崎は弓を半分ほど引いた。まだ放たない。芥川の背に隠れて、侵蝕者をにらんでいる。
「どうしたんだ」
 と芥川が問うと、
「静かに……」
 と、島崎は平時になく低い声を出す。
 橋の上でどろどろとうごめく纏まらぬ洋墨を見据え、何かを探している。一見不定形な洋墨の塊だが、生きている以上どこかに中核があるはずだと、島崎はそう考えているらしかった。
「………」
 一瞬、洋墨の塊の中に小さく一点何かがきらめいた。
 島崎は素早く弓を限界まで引き絞った。
「君、頭を飛ばされたくなかったらしゃがんで」
 言いざまに放つ。芥川が慌てて頭を下げたすぐ上空を、ぴぃっと高い音を立てて矢が飛んだ。
 島崎の放った矢は、一筋の閃光せんこうのごとく宙を駆け抜けた。わずかに放物線を描いて、寸分の狂いなく纏まらぬ洋墨の体内で光っていた目を射抜いた。
 侵蝕者の聞くに堪えない悲鳴が暗い天に響いた。
「やったかな?」
 と、のんきな声を上げた島崎の手を芥川がつかんで、すぐさま船宿の方へ駆け上がった。その直後、今まで島崎の立っていたところへ黒い墨の矢が降り注いだ。
 二人は往来へ出た。
 芥川は剣を、島崎は弓矢を構えた。追いすがって来た侵蝕者たちを迎え撃ち、斬り捨て、弓を引いた。
 芥川の前に嫉妬に狂った少年侵蝕者が立ちはだかる。地団駄を踏み、ものものしい鉄球付きの鞭を砂の路面にたたきつける彼は、あちこちボロになってはいるが元は掃除夫だったらしき風体をしていた。きっと勤労少年であったのだろうと芥川は思った。芥川が先ほど斬り殺した少年とどこか面差しが似ていた。
 少年の鞭が芥川と島崎の間へ飛んで二人を分断した。
「! 芥川……」
 と、島崎が形勢を立て直そうとして、しかし突然何かに足を取られた。まるで誰かに足払いを食わされたような格好で地面へ倒れ込んだ。
 「あた……」とうめいて足元を見れば、右の足先から膝の下にかけて黒く細長いつたのような物が絡んでいて、きつく締め上げてくる。そのつたの根元には不定形の纏まらぬ洋墨が不気味にうごめいていた。島崎が射殺いころしたのとは別の個体のようであった。
「一匹だけじゃなかったんだ……」
 死ぬかも、と島崎はぼんやり覚悟した。事実今なら容易に殺せたはずである。けれど纏まらぬ洋墨はそうせずに、触手を手繰り寄せて島崎の体をどこかへ持ち去ろうとし始めた。

2 盗人の河童

「え、ちょっと……」
 さすがの島崎にも、この纏まらぬ洋墨の行動は読めない。「どこへ連れて行くつもり」と声を上げてみても侵蝕者には言葉も通じない。それでもなんとなく伝わってくる異形の者の感情は、苛立いらだちに近い気がした。
 纏まらぬ洋墨は島崎の足を持って地べたをずるずる引きずって行く。
 島崎が地面に張り付いて抵抗しようとしても力では敵わない。ならばと、不自由な体勢で弓を引いたが、どろどろした洋墨の体に矢がみ込まれていくばかりで、急所を捉えることができない。
 芥川も侵蝕者の異常な行為に気づいて血の気の引いた顔をした。が、お前の相手は俺だと言わんばかりに少年の鞭が攻撃の手をゆるめない。
 芥川の剣が襲いかかってくる鞭をはじく甲高い音に交じって、
「君――!」
 と呼ばれたのに島崎は気づいていたが、助けて、とも呼び返すことはなかった。正直なところ、この纏まらぬ洋墨に少なからぬ興味が湧き始めていたのも事実で。取材心がうずく島崎の悪癖が頭をもたげてきた。
 纏まらぬ洋墨は島崎を引きずって元の橋の上まで戻ってきた。
「ここが君の“巣”なのかな」
 と島崎は尋ねてみた。しゃべると、地面をわされた間に口にまっていた砂がじゃりじゃりした。
 纏まらぬ洋墨は返答の代わりに島崎の足に巻きついている触手を高く掲げた。
「わ……」
 宙へ逆さにり上げられた島崎の視界いっぱいに橋板を覆うゼリー状の洋墨が映る。触手は一見その洋墨まりから生えているように見えたが、島崎が目を凝らすとその根元に何か肉塊のような物がうごめいていた。
「興味深いね……見せてよ、君の正体」
 島崎は挑発した。それを纏まらぬ洋墨が理解したとも思えなかったが、洋墨まりで身悶みもだえしている肉塊は次第にその動きを大きくして、狂おしげに触手の付け根を露出させた。
 その部分はおそらく背中にあたる部位で、洋墨瓶の形をしていた。小さな洋墨瓶がこぶのようにいくつも付いて、葡萄ぶどうの房のようだった。
 纏まらぬ洋墨は深い「く」の字に折り曲げていた体を起こし、全身を少しずつ島崎の眼前に現していった。
 全体の形はタツノオトシゴに似ている。丸い大きな腹部があり、曲がった首の先に頭部が、反対側には尾とも触手ともつかぬ渦を巻いた器官が伸びている。辺りにき散らされた洋墨は頭部から絶えずどぶどぶと吐き出されているのであった。
「やっぱり気持ち悪……」
 と、島崎は率直な感想を述べた。その顔の前に、纏まらぬ洋墨の頭部が、ぬっ、と突き出された。島崎は視線を感じた。
「………」
 洋墨を垂れ流している頭部は、しかしどこか人間の面影を残していた。ぐにゃぐにゃとした頭頂の下に髪の毛らしき繊維質なものが生えている。視線はその奥から島崎の方へ向けられていた。
 突然、そこに青い大きな目玉が開いた。
「なるほど……そうやって隠してたんだ」
 と島崎は言いざまに弓へ矢をつがえ、素早く引き絞って放つ。
 纏まらぬ洋墨はゆらりとそれをかわすと、新たな触手を伸ばして島崎の手から弓をたたき落とした。そしてその触手もまた島崎の体へ絡みついてくる。
「っ……!」
 よく見れば、形が文字に似ていた。否、文字と言うには不完全な出来損ない。文字を構成する線の一部、「曲がり」「払い」そういった形に似ている。先端は五本に分かれて、それぞれの先が「入り」「はね」のようにとがっている。
 纏まらぬ洋墨はその五指らしき触手で島崎の体を抱き締めた。
 ぞくっ、
 と、島崎は背中に鳥肌が立つのを感じた。恐怖というよりは、おそらく性感に近かった。
 到底信じられない思いで島崎は纏まらぬ洋墨の大きな瞳を見つめた。
「君……何考えてるの」
―――
 異形の者のぬらぬらとれ光る目つきや、くねくねした手つきには、島崎にも覚えのある感情がこもっていた。
 極めて肉体的で――尊ぶべき理性から遠く、本能に近い。
 島崎の脳裏に、その感情が、今の生でというよりは前世での記憶として生々しくよみがえってきた。
 纏まらぬ洋墨の目が、
「いいだろう、ねえ」
 と語りかけてくる。
「だ、だって……」
「だって何」
 とも異形の瞳は言った。また背中から新しい触手を伸ばして、逆さりになったままの島崎の脚の間に触れようとした。
 島崎はそれをももで防ぎながら「嫌だよ」と言った。
「ねえちょっと僕、男の子なんだけど……」
 言いながら、首の後ろには冷たい汗が流れる。
「侵蝕者にもいろんな趣味があるらしいね」
 纏まらぬ洋墨は島崎に拒まれるほどに興奮を増すらしかった。島崎もそんな様子に興味をそそられないではなかったが、それにしても生理的嫌悪は堪えがたい。
 触手の“指”がたどたどしく動いて島崎の痩せた体を愛撫あいぶする。
 さらに新しい触手が伸びてきて、両膝を開かせにかかった。余った触手は島崎の腰の周りを揺らめいて、入り込む隙間ができるのを今か今かと待ち構えていた。
 一方――
 少年侵蝕者の鞭になぶられている芥川は、
らちが明かない――
 と、いささか疲労を感じ始めた腕に息を込め直すと、うん、と深く上段に剣を構えた。
 芥川の誘いに少年の鞭が乗った。
 うなるように空を切って芥川の下肢へ鉄球の鞭先が飛んだ。芥川の体も跳んだ。地面を強く蹴って鞭を飛び越えた。その拍子に脱げた下駄が乾いた音を立てて転がった。
 芥川は着地した勢いそのまま飛びつくようにして少年に一太刀浴びせた。
(この子はさっきの少年の兄弟かもしれない)
 と思うとやりきれぬ心地がする。相手を人だと思って斬れるものではない。人のようで人でない、河童のごときものだとでも思わなければ。人の万年筆を盗んだ泥棒の河童のごときものだとでも思わなければ。
 “河童”への二太刀目は逆袈裟ぎゃくげさにその急所をえぐった。
 芥川は剣身にべったりと付いた洋墨を振り落とし、下駄を拾って履き直すと、右手に剣をぶら下げたまま走り出した。纏まらぬ洋墨が島崎を連れ去った路面にはおびただしい量の洋墨が染みついていた。
 その洋墨の道を辿たどって行く。着物の裾を乱し、下駄の歯を踏み鳴らしながら芥川は駆けた。
 そうして、やっと島崎と纏まらぬ洋墨の姿を視界に捉えたとき、芥川はその異様な光景に、ぞっと寒気がした。
――君」
 声が届く距離まで来ると、芥川は島崎に向かって大声で呼びかけた。
「君! 君、生きてるのか!?
 島崎は頭から大量の洋墨を浴びた姿で、纏まらぬ洋墨の触手にぐったりと横抱きに抱えられていた。地面に足が着いていない。宙で纏まらぬ洋墨に懐深く抱かれた島崎は、彼が頭部から吐き出す洋墨にまみれて、半ば彼と同化したようになっていた。
 島崎は目を閉じていたが、芥川の声が届いてまぶたを持ち上げた。
「生きてるけど……」
 と言う声は芥川には聞こえなかった。ただ島崎の目が開いたのを見てひとまずホッとした。
 芥川の目にも侵蝕者の様子がおかしいのは明白だった。
 纏まらぬ洋墨の背から伸びた幾本もの触手は島崎の体に絡みつきながら、その命を取ろうとするでもなく、愛撫あいぶするようにそれをで回している。
 芥川は島崎を盾に取られた格好で、攻めあぐねていた。
 そのとき、ふと、気がついた。洋墨の滴り落ちる島崎の脚の間を一本の細い触手がっていて、ゆるく開いた膝の内側にその身を前後にこすりつけていた。
 その行為の意味を芥川は即座に理解して、がんと頭を殴りつけられたような思いがした。なるほど、“河童”には年の若い河童を捕まえながら、しきりに男色をもてあそぶ者もいる。
(急所はどこだ――
 と、芥川の冷たくえた視線が纏まらぬ洋墨を射た。
 脳裏に、島崎の矢がそれを射殺いころしたときの映像が活動写真のフィルムのコマのようにひらめいたとき、芥川はすでに大きく地を蹴っていた。
「そこか!!
 行く手を阻もうと伸びてきた触手をかいくぐり全身ごと飛び込む。青く光っている眼球へ剣先をたたき込んだ。
 耳を裂くような悲鳴を上げた纏まらぬ洋墨は、触手を振り回して暴れ狂った。最後の一仕事に芥川は、空中に放り出される寸前だった島崎の体を抱きとめると、その手足に名残惜しそうに貼り付いていた触手を切り落として逃げ出した。
 橋から離れ、往来に出た。後を振り返ると、纏まらぬ洋墨の姿はとっくに消えていた。彼もまた文字にかえったのだろう。
 やれやれと、芥川は島崎の体を下ろした。剣を片手でくるりと回し肘へ峰を置いて休んだ。二人とも洋墨まみれで、汚れもひどいが臭気もすさまじい。侵蝕者の呪詛じゅそに当てられて気分が悪かった。
「……助けに来てくれるとは思わなかったよ」
 と、島崎が陰気な声を出した。芥川は何とも答えなかった。代わりに、
「これで敵の頭目も始末できただろう。残った雑魚も引き上げるはずだよ―――泉先生たちも無事だといいけれど」
 と言い、懐から煙草を出して火をけ、その煙とともにようやく、ほーっと安堵あんどの息をついた。

3 恋される病

「常に煙を纏うヘビースモーカー」
 幾許いくばくかのからかいも込めたそんな渾名あだなで呼ばれる芥川は、その通りまあ隙あらば煙草を口にくわえている。禁煙を定められた場所でなければ、有碍書への潜書中であっても、食堂でも、談話室でも、中庭でも、勿論もちろん自室においても。
「君、風呂に入った方がいいぞ」
 と皆が言いにくかったことをついに芥川へ言ったのは室生であった。
 ある晩の夕食を終えて食堂から廊下へ出たところで室生に呼び止められた芥川は、「へえ?」と後を振り返って、ぎょっとした。芥川の背に垂れた長い毛の先を萩原が指先で摘んで、おっかなびっくりというようにそのにおいを嗅いでいた。
「タール臭いよ、犀――
 と、萩原は恐れをなしたように室生の隣の定位置へ戻った。
「ほら、朔もそう言ってるぞ。今夜はちゃんと風呂に入って、そのヤニ臭いにおいを落としてきなさい」
 と室生に小言をつかれた。思えばこの人は昔からそうで、前世でも、
「ほら、芥川龍之介、もういい加減に猿股を穿き替えなさい」
 などといらざる世話を焼かれた覚えがある。芥川は口をとがらせた。
「犀星、いつまでもそう子供扱いしないでくれるかな」
「子供の方が素直に言うことを聞く分、よっぽど可愛げがある」
「ひどいなぁ」
「なんなら今から俺たちと一緒に風呂に行くか?」
「い、いや、それは遠慮しておくよ」
 芥川は、仕方なく、夜も更けてから仕舞湯の頃を見計らって浴室へ出かけた。
 風呂場に入ると、まず脱衣場があって、それから板戸で仕切った向こう側に一度に四、五人は入れる浴室がある。親しい者同士相風呂をすることもあり、夜はたいてい廊下まで声が漏れるほどにぎやかである。
 それを避けて芥川は遅い時間に入浴しに来たというわけで。しかし、脱衣場で着物の帯をほどき始めてから、浴室に人の気配がするのに気がついた。
(しまったな――
 人がいるか確かめてから服を脱げばよかった。といって、今から出直すのも億劫おっくうである。
 芥川がぐずぐずしていると、急に、がらりと浴室の戸が開いた。
 絞ったタオルで首の周りを拭きながら出てきた生白い裸体を見て、芥川は思わず「げっ」と品のない悲鳴を上げるところだった。先客は島崎藤村であった。
「ああ……誰か入ってきたなと思ったら、君だったんだ」
 と島崎も芥川の姿を認めた。芥川に裸を見られてもいっこう気にした様子はない。乾いたタオルを取って体を拭き始めた。
 芥川はわざとらしいくらいあらぬ方向へ目を泳がせながら、他に致し方もなくて、着物を脱いで下穿き一枚になった。
 視線を感じて、ちらと流し目を使うと、こちらを見ていた島崎と目と目がぶつかった。
――何を人の体をじろじろと見てるんだ」
「僕と違って立派だなと思って……」
「何の話だい!?
「体格の話だけどね」
 と、とぼけている。島崎が見たところ芥川の立派な﹅﹅﹅部位はエレクトしていないらしい。
(ほっ……)
 内心ため息をつき、床に置いた藤籠から新しい肌着を取って身に着けた。
 反対に芥川はわざわざ島崎に背を向けて下穿きを脱ぐと、浴室へ入っていった。
(何だったんだ、さっきのは)
 と、芥川は湯船に顎の先までかりながら考えた。そもそも島崎がこんな刻限に一人で風呂に入っているのが妙だ。友人の田山などはとっくに済ませて談話室にいたのではなかったか。
 人前に裸体をさらしたくない理由でもあるのか。
 と考えて、思い当たったのは先日の有碍書への潜書であった。例の異常をきたした纏まらぬ洋墨と戦った件である。
 あの侵蝕者の行動については司書を通じて館長にまで報告されていたが、結局詳しいことはわからずじまい。今のところ侵蝕者の個体差という程度の認識でしかないらしい。
 芥川は目をつぶって湯にかっていて、まぶたの裏にあの触手の淫猥いんわいな動作が――島崎のほっそりした少年のごとき膝に絡んで前後していた男性的なそれが――浮かんできて慌てて目を開けた。
(有碍書の世界でのことで、別に陵辱されたわけでもないとはいえ、まあ、あのひともさすがに動揺を感じたのかもしれないな)
 島崎は他人に多くを語ろうとしないようであったし、唯一現場に居合わせた芥川もそれをわざわざ吹聴ふいちょうしてやる義理はない。
「やれやれ――
 と芥川は、他に誰もいないのに、人前でそうするようにぼやいた。
 仕舞湯ならよかろうと、湯船の中で長い黒髪をほどく。手をくしにして髪をけずりながら、島崎についてのあれこれを早く忘れようと努めた。
 それから数日のうちに芥川は、妙なのは島崎ばかりでない、島崎の周囲の人々の調子もまたおかしいのだと気づいた。
 徳田秋声は廊下で島崎とすれ違う度に、頬をひどく赤らめうつむいて彼の顔を見ないようにしている。
 正宗白鳥はあからさまに島崎と目を合わせようとしない。
 国木田独歩も、正宗ほど露骨ではないが、なんとなく島崎を避けている風である。
 永井荷風はかえってしきりに島崎へ向かって、また僕の浮世絵のコレクションを見に来ないかと口説いていた。
 それでも田山花袋のみは平時の通りに島崎に接しているように、芥川には感ぜられた。
 その田山も近頃の島崎と島崎の身の周りの異変については思うところがあるらしい。
「なあ藤村、お前最近なんかあったの?」
 と、島崎と二人になった機会を見計らって尋ねた。二人は司書婦人に頼まれて、帝國図書館の職員の制服を着て返却された蔵書の整理を手伝っていた。司書が事務室を離れた隙に、田山は切り出したのだった。
「何かって、何が?」
 と島崎は聞き返した。田山は、むっと口をとがらせた。
「だからそれを聞いてるんだろ!」
「あ、そうか……」
「とぼけるなよ。お前この頃みんなに避けられてる? っつーか、避けてるっつーか――取材にもあんまり行ってないみたいだし、図書館新聞の会議にも来ねーし、風呂に一緒に入るのも嫌がるし――
「………」
「あとそれ、何だよ?」
 と、島崎の制服のポケットいっぱいに詰め込まれた大量の封書を指差す。「これ?」と島崎はそれを一つ取り出して封を切った。中の便箋を田山へも見せた。
 手紙の文面は、要約すれば「島崎さんのブーツの靴底になりたいのですが、お部屋で素足のままお履きになっている草履となるのも捨てがたく思います」というようなことが、美文を尽くして書かれていた。
「ラ、ラブレタア? になるのか? これ――男からだけど」
 近頃、検閲を通さずにそういう手紙や贈り物を寄越す者が多いのだと島崎は説明した。へぇえ、と田山が目を丸くして、
「なんだよそれ、モテ期ってやつ? 俺にも来ねーかな、ただし相手は美少女限定で!」
「残念ながら僕に手紙をくれるのは男の人ばっかりだよ……なんでだろうね?」
「いや俺に聞かれても――可愛いからじゃないか?」
「えっ」
「まあそうだな、美少女とまではいかねえけど、色白でほっそりしてて、巻き毛が柔らかそうで、目元は睫毛まつげが影になるほど長いし、口元は幼いよな、しゃべらなきゃ声変わりしてるとは思われないんじゃねえの。それに、お前のそばにいるとなんだかいい匂いがして――
「………」
 はっ、と田山が我に返ると、島崎は身を大きく後ろに引いて、田山から離れるようにじりじりと後ずさりし始めている。田山は大いに慌てた。
「あああ違う! いや、お前が可愛いのは違わないけどっていうか何言ってんだオレ!?
 にわかに気まずい雰囲気になった二人の元へ救世主のごとく司書が戻ってきて、
「すみませんが、荷物を運ぶので、どちらかお一人一緒に来てもらえませんか」
 と言う。「僕が行くよ」と島崎の方が早く手を挙げた。
「ではお願いします。動きやすい服装でいらして」
 と、司書に言われて、島崎は制服の上着を脱いで置いて行った。
 田山は島崎と司書を見送ってから、さっきの恋文をもう一度読み返した。内容は一方的な愛の告白(と呼ぶべきかどうか)のていだったが、田山はその文面の中に万一送り主と島崎の秘密を見落としていないかと捜すのに苦心した。接吻せっぷんの痕、性欲の痕がどこかに表れていないか、けれど真の消息はわからない。
 島崎の残していった上着を抱いてそれに顔をうずめてみた。どこか懐かしいような島崎の匂いが言いも知らず田山の胸をときめかした。上着の襟の、ちょうど首の後ろでよく汚れていそうなところへ鼻先を押しつけて、心ゆくばかり懐かしい匂いを嗅いだ。

4 唯一の例外

「そこにいるのは誰だい?」
 つと、芥川は振り返って、木の陰からこちらを見ている人物の正体がまあ想像の通りだったのでげんなりした。
「君か――
「君は僕を見つけるのが上手だよね……」
 と島崎は言いながら庭木の後ろから出てきた。池端のベンチに一人で座っている芥川の背後へ歩み寄った。
 芥川の顔を横からのぞき込むと、くわえた煙草に燐寸マッチで火をけたところだった。ラム酒の香りのする煙を芥川が肺深く吸い込む。
「隣に座っていい?」
 と島崎は聞いた。
「だめ」
 と芥川は答えた。
 島崎は確かに座らなかった。その代わりにベンチの背もたれへ後ろから両腕を乗せて寄りかかり芥川と目の高さを合わせた。
 じっ、
 と島崎に無言で見つめられて、芥川は居心地悪そうに向こうを向いた。
「……ねえ君、僕のそばにいて変な気分にならない?」
「不愉快な気分になるよ」
「僕のこと、好きになってこない?」
「なるわけないだろう」
 苦虫をんだような顔をして吐き捨てる。
「ふーん……」
 と島崎は池の方を見やった。
「じゃあ君だけは唯一の例外ってことだね」
――?」
 島崎は急に話の矛先をそらして、
「そういえば君、この間の潜書のこと誰にも話さないでいてくれたんだね。ありがとう」
 と言った。
「君があの纏まらぬ洋墨の侵蝕者に――襲われた――ときのことかい」
 と芥川は極力簡単な言葉を選んだ。
「そうだよ」
「あんなことは、大騒ぎするようなものじゃないよ。ましてや吹聴して回るようなことでも」
「意外と優しいんだね、君」
「なぜそうなるんだ。それに」
 意外と﹅﹅﹅とはどういう意味だと芥川は不快げに顔をしかめる。さも気分を害したという風に、膝の上の読みさしの本を取り上げてページをめくった。島崎が手元をのぞき込んでくる。
「何を読んでるの……志賀の『暗夜行路』?」
「君には関係ないよ」
「関係はないけど、興味はあるから……」
 と言って、洋服のポケットから取り出した小型のノートへ何事か覚書をしている。芥川はますます不快そうな顔をした。
 ふと、首の後ろ辺りに島崎の気配が近くなった。黙殺して「暗夜行路」に集中しようとしたが、島崎のほっそりした指でいきなり耳たぶを摘まれてはそれどころでなかった。
「うわっ!!
 左の耳飾りをいじくっている島崎の手を慌てて振り払った。
「な、何をするんだ君は――失礼じゃないか」
「やっぱり、君だけは僕が近寄っても触っても平気なんだね。不思議だな……」
「さっきから何の話だい、僕は例外だとか、僕だけは平気だとか」
 芥川は気を落ち着けるために煙草を三口立て続けに吸った。
「近頃君以外﹅﹅﹅のみんなが僕を好きになるらしいんだ」
 と、島崎は大真面目に言う。
 芥川は煙草をくわえたまま「馬鹿馬鹿しい」という表情になったが、
(いや、しかしそう言われてみると――
 と思い当たる節がないわけでもない。このところ島崎や島崎の周囲の様子に感じた違和感の正体はそれだろうか。と、心当たりがあるにはあるが――
「君の自意識過剰だろう」
 とひとまず冷たくあしらった。島崎は、うん、とうなずいた。
「僕も最初はそう思ってたんだけど……だってまさか花袋まであんなふうになるなんて……」
「あんな風?」
「………」
 島崎は黙して左手で右の手首をさすっている。白いシャツの袖からのぞく肌にうっすらと紫色のあざが浮いているのを、芥川は流し目で認めた。
「……花袋ってさ、あれで案外力が強いんだ」
 という島崎の遠回しな口ぶりの中に、陰鬱な声色に、芥川は何かひどく性的な匂いを嗅いだ気がして、ぎくりと胸が震えた。
 強姦ごうかん、陵辱、鶏姦けいかん――といった冷たい性を示す言葉が脳裏に浮かんで消える。
「彼に乱暴をされたのかい」
 と、芥川は抑揚を付けずに言った。
「信じられないよ」
「僕も信じたくないと思ってるんだよ……だから、きっと花袋があんなふうになっちゃったのには何か理由があるんだと、考えたいのかもね」
 島崎にしては甚だ饒舌じょうぜつであった。しかも人に尋ねるのでなく、己が語ることに夢中になっているとは。
 島崎は、少し躊躇ちゅうちょしてから、思い切って右の袖を肘の手前までまくり上げた。白いあめのごとき手首の周りに色濃い手形がそこを握った形のまま残っている。
 昨晩のことだった、と島崎は語った。
「僕は花袋に貸してた物があって、どうしてもそれが必要になったから、花袋の部屋まで返してもらいに行ったんだよね……」
 近頃の田山は、それは、時々は他の文士同様に様子がおかしいこともあったけれど、少なくとも島崎と面と向かってはそんなそぶりを見せなかった。島崎も友達を疑うのは気が引けた。それで、寝巻の上に羽織一枚掛けただけの格好で田山を訪ねた。
「夜遅くにごめんね……」
「いやいいけど、何の用だよ?」
 と気さくに応じてくれた田山も寝巻姿だった。島崎が入り口のところから部屋の中をうかがうと、もう布団も下ろしてあった。
「この間君に貸した英訳ノオトを、しばらくでいいから返してくれないかなと思って」
「ああ、あれか」
「ストリンドベリの本の訳について、有島に質問に行くつもりなんだ」
「今夜?」
「……ううん、明日」
「ふうん」
 と田山は安心したようにうなずいて、ちょっと待ってろ、と机の方へ向かう。島崎に、まあ上がっていけよと勧めた。島崎は断らずに草履を脱いで畳へ上がった。
 島崎が寝床を避けてちょこんと座っていると、田山は机の引き出しからノートを二冊出して来た。
「ありがとう、花袋」
 と、島崎は両手を出してそれを受け取ろうとした。が、田山は遮って、ノートを片方広げた。
「その前にちょっと、ついでだしよ、聞きたいところがあったんだ」
「どこ?」
 二人は向き合って一緒にノートを見始めたが、田山は初めからなんとなくそわそわして落ち着かないようであった。なにかというと島崎の手の近くへ自分の手をやったり、寝巻の袖に糸屑いとくずが付いていると言って触れたりする。島崎は何も言わなかったが、その都度そっと田山の手から逃れた。
 田山は幾度も居住まいを直したり体をゆすったりした。そして話のついでに島崎のそばへ寄る。しまいには島崎の背へ手を回して抱きかかえるような格好になる。
 と今度は顔を近づけ始め、頬と頬が触れそうになった。
 話が切れると島崎はそれをしおに田山から離れようとしたが、田山の手がなかなか放してくれない。しばらくして、
「藤村、オレ、この頃変でさ」
 と田山は言った。
 島崎は黙っていた。
 そのうちに田山はいっそう力を入れて島崎を自分の胸の方へ引き寄せた。島崎が抗おうとして左の手を田山の膝へかけると、それが滑って帯の下へ触った。着物の上から、そこに硬いもののあるのを感じた。ゾクリとした。
 田山は急に島崎の寝巻の帯を解こうとした。
「花袋……!」
 と、島崎は初めて声を上げて拒んだ。
「やめてよ、お願いだから」
 帯をほどかれまいとして田山の手と争い、そのときに手首を強くつかまれてあざが残った。
 そこまで島崎から話を聞いて、芥川は「もういいよ」と遮った。
「それで君はつまり、その後田山君と――
「妙な想像しないでほしいな……花袋は僕の手を握る以上のことはしなかったよ」
「なんだそうなのかい」
 と芥川は拍子抜けがした。島崎は半眼になってにらんだ。
「花袋を君と同じに考えないでよね……」
「だって君の口ぶりでは」
 と弁解すればするほどどつぼにはまりそうな気がして、芥川はむむと口をつぐんだ。
 島崎が言った。
「僕が嫌がると花袋は諦めて、謝ってくれたけど、そのとき気になることを言ってたんだ」
 田山は、
「この頃変なんだよ! 藤村、お前のこと親友だと頭では思ってるはずなのに、お前の近くにいると﹅﹅﹅﹅﹅﹅、それとは関係なく腹の底からいやらしい気持ちが湧き上がってくるんだ! お前を独占して、抱き締めて、接吻キスしたくてたまらなくなるんだ! でもそれは、お前のそばにいる﹅﹅﹅﹅﹅間だけなんだよ信じてくれ」
 と、畳に手を着いてうなだれ、島崎には暴行を受けそうになったことよりも何よりもその友の姿を見るのがつらかった。
 島崎の話が途切れると、芥川は新しい煙草をくわえた。燐寸マッチを軽く振ってから擦った。煙を吐きながら言った。
「それにしても、君、随分よくしゃべるね、今日は」
「……僕にだって、いろんなことを打ち明けたいと思うことはあるよ」
 それに今となっては、君の他にまともな話し相手もいないのだと言う。
「なんで君だけは平気なんだろう。それがわかれば、きっと他のみんながおかしくなっちゃう理由もわかるんじゃないかって思うんだけど」
 島崎は熱心に考え込んでいたが、あるとき何か思いついた顔で芥川の方を振り返った。
「ねえ君、実験してみようよ。本当に君は例外なのかどうか、僕と一緒に」
「絶対に! 御免だ」
 と、芥川は島崎が皆まで言う前に拒絶した。

5 僕ではだめですか?

 芥川に追い払われるようにして島崎は図書館へ戻った。
 館内には他人の視線が満ちている。と、島崎は以前にも増してそう思うようになっていた。自分だけ他と違う血が流れている、異質であるという心地は、近頃の皆の様子によっていっそう強く感じられるようになった。
(まるで醜い家鴨あひるの子……)
 童話と違うのは、家鴨あひるに交じったひな成鳥おとなになっても白鳥にはなれず薄汚れた羽のままということだけである。
 天井の高いエントランスホールを歩いていてさえ、外よりも空気の圧が高いような気がする。中庭で、芥川と肩を並べたことを思い返す。あの場所は絶えず冷たい煙に抱かれているようで居心地がよかった。
「あ、あの――!」
 と突然背中から声をかけられて、島崎はギクリと足を止めた。自分の内部に向かっていた意識を引き戻し外へ向けて、振り返ると、久米正雄がそわそわと右手で帽子をいじりながら立っていた。
「島崎さん――
 と名前を呼んだきり、もじもじしているので、島崎の方から、
「何か用かい……」
 と、尋ねたが、久米の返答は要領を得ない。
「いえ、あの、外から戻ってくる姿が見えたので」
「ああうん、ちょっと散歩に出てたからね」
「芥川くんとご一緒でしたね――
 あの気楽な息をしていたひとときさえも他人に見られていた……と島崎は、何か背筋がぞくぞくして、見えない縄を体に打たれたような思いがした。
「……そうだよ。僕、彼に取材を申し込んでるんだけど、いつも断られちゃうんだよね。いっそ君から頼んでみてほしいくらい」
「僕が芥川くんにですか、とてもそんなことは――
 と久米は自らを卑しめるような調子でかぶりを振りかけて、しかしそれも最後まで続かず、「ああ、いえ」と胡乱うろんな声を漏らす。ところどころ早口になる例の口調で誰にともなく言い訳をした。
「すみませんあの僕――島崎さんにお話したいことがあって、探していたんです。それで、窓から外を見たら中庭で芥川くんと一緒のところを見かけて」
「何の用なの?」
 島崎は再度問いかけた。久米は、
「ぼ、僕の小説を読んでもらいたいのです」
 島崎さんに、どうしても――と言った。
 島崎は頭に浮かんだ疑問をそのまますぐ口に出した。
「なんで僕に? 君には夏目先生だっているし、芥川が嫌なら菊池だっているじゃない」
 それに、と少し真面目に答えてやった。
「それに僕は……君の精神的葛藤を理解してあげられないよ、おそらくね。本当に僕たちのような文学に興味があって、ってことなら、君には花袋を勧めるよ」
「理解してもらえなくてもいいんですただ僕の文学がどんなものか知ってもらえればそれだけで。それに島崎さんの文学も知りたい。主義や派閥でなくあなた﹅﹅﹅の文学を――僕は」
(嘘だね)
 と島崎は見抜いていたけれど、その久米の嘘には島崎にほのかな期待を抱かせる部分があったのもまた事実で。
「……わかった。いいよ、読んであげるよ」
 結局、島崎は久米の願いを聞き入れた。
「それで、いつ原稿を見せてくれるの」
「い、いつでも――島崎さんさえよければ今すぐにでも」
「今はだめだな……今夜にしてくれる? 夕食の後」
「では夕食の後、図書館で――談話室の方がいいですか? でも島崎さんは人の多い場所は苦手かと」
「図書館でいいよ。じゃ、また今夜ね……」
 その日の夕方、夕食までの時間を談話室で潰していた芥川のところへ、ふらりと島崎がやって来て、
「また『暗夜行路』……」
 と芥川の手にしている本をのぞき込んだ。のぞいてかがみ込むふりをして、テーブルに置かれた灰皿の下へ小さく折り畳んだ紙切れを挟んだ。芥川が相手にしないでいると、島崎はすぐにどこかへ行ってしまった。
「?」
 島崎の姿が見えなくなってから、芥川は灰皿の下を探った。島崎がこんな方法で非公式に手紙を寄越してくるのは珍しい。
 紙片を広げてさっと目を通し、元のように折り畳んで着物のたもとへ放り込んだ。文面には手紙というよりは走り書きで、島崎が今夜久米と図書館で会う旨が記してあった。
(久米が――
 芥川の脳裏には嫌でも昼間の話が思い起こされた。島崎は誰彼から好意を抱かれるのだと言う。そんな馬鹿なことがと思うし、島崎の勘違いではないのかと思いもした。
(僕には関係のないことだ)
 と考えようとしてみた。久米が島崎を好いている、本当にそういうことがないとも限らない。と、考えようとしてみた。しかしその思考は、かえって心をき乱すばかりだった。
 夜になると、一般の利用者がいなくなった図書館は文士たちの作品執筆や勉学の場として重宝されていた。節約のためと照明は絞られて、天井の高い室内は今の時節底冷えがするとはいえ。
「島崎さん、寒くありませんか、そんな格好で」
 着物に袴の書生姿の久米はそう言って、羽織ってきた外套マントを脱いで島崎のチョッキの上から肩へ掛けてくれた。久米の外套マントからは洒落しゃれた舶来の香水の匂いがした。
「いい匂いだね……」
「そうですか? 芥川くんや寛にはいっこう褒められたことがないですが――
「ひどい友達だね。気にせずに普段も着けてればいいのに……僕は好きだよ」
「考えてみます」
 島崎が想像していたより、久米は落ち着いた調子で、島崎に原稿用紙を渡したときも、
「島崎さんのお気に召すとも思えませんが――本当に読んでくださるだけでいいんです」
 と、多少卑屈のきらいはあるものの、感じは悪くない。島崎の体へ必要以上にべたべた触ってくることもない。
 久米は島崎が原稿を読んでいた半時間ばかりの間、たいていの文学青年がそうであるように、恥ずかしそうにうつむいて、ノートを取ったり手紙を書いたりして気を紛らわせていた。
 一通り読み終えた島崎は、
「よく書けてるじゃない」
 と言った。久米ははにかんだ。
「ねえ久米、これってさ、君のお父さんのこと……?」
「やっぱり、わかりますか」
 久米が書いて寄越した小説とは、さる学校教師が放火の嫌疑をかけられ苦悩の末に自刃して果てるという内容の短編であった。
「もちろん父そのものではありませんが――
「お父さん……死んだんだったね」
「死なない父親はいないでしょう。ほとんどの父親は子より先に逝くものです」
 と、久米は言ってから、「僕の父も自決を」と低い声で言い添えた。
「……うん」
「島崎さんのお父様も、早くにお亡くなりになったと聞きました」
「うん、頭がおかしくなって死んだんだ。座敷牢の中で……」
 それ以上互いの前世の肉親について深入りした話があったわけでもない。ただ島崎は一つだけ、
「久米、お父さんのようになりたかった……?」
 と尋ねた。久米は寂しげに微笑ほほえんだ。
「父のように立派になるのだと、少年の日に考えた心のまま生きられればどんなによかったか――
 久米は、そっと、島崎の手に手を触れてきた。島崎が机のへりに置いていた冷たい左手へ、自分の右手を覆いかぶせるように重ねた。いやらしい感じはせず、ごく自然な動作で、島崎もそれを避けようとは思わなかった。
「僕ではだめですか?」
 と久米は問うた。島崎の手を握る力が強くなった。
「やっぱり、僕よりも芥川くんがいいですか? 芥川くんでなければだめなんですか?」
 島崎は身を引いて逃れることもしなかった。
 ふと、首の根元にひやりとした風が入ってきた。久米が肩に掛けてくれた外套マントがいつの間にか床に落ちていたことにやっと気がついた。
「久米、君の外套マントが……」
 と言ってみても、久米の耳には届いていないらしい。
 今や久米は島崎の手を痛いほど握り締めていた。興奮で据わった目つきをして、それでもまっすぐ視線を合わせることだけは恐れているところに、この青年らしい可愛げ﹅﹅﹅がかろうじてしがみついていると島崎は思った。
 久米がすでに正気を失いかけていることは明らかであった。

6 島崎の実験

 の雌は匂いで雄を呼ぶという。
 そんな話を芥川は何かの本で読んだ覚えがある。雌のの匂わせるそれに雄はつられて、愚直にその匂いの持ち主を探し出し、交尾をしてはらませそして自らは力尽きていく。最も単純な雄と雌のあり方だろう。
 昼間の島崎の話を思い出しながら、芥川はそんなことを考えたのであった。無論人間は小さな虫とは違う。それに島崎は雄なのだが。しかしどうにも、島崎の話を聞く限りでは、何かそういった動物的な印象がつきまとう。
(いや――あんな与太話を信じたわけではないけれど)
 けれど、心のどこかでそれが本当だったらいいと思っているのも事実であった。今頃島崎は久米とっているという。
 久米が真実島崎などを好いているとは思いたくない。ただ雌のの香に惑わされただけであってほしい。と落ち着かぬ気持ちを持て余しながら、芥川は暗い図書館の廊下を下駄をカラコロ鳴らして歩いて来た。
(あのひとが僕に手紙で知らせてきたのは、何か予感があってのことだろうか)
 とも思った。芥川には、久米はどうかすると――抑圧に耐えかねて愚かな暴走を起こすようなやつだとわかっているが、島崎もまた久米の性質を嗅ぎ当てたものかと。
(あのひとに久米の何がわかるというのだか)
 そんな苛立いらだちもまた心の奥を探れば出てくるのであった。芥川の心は千々に乱れていた。
 薄暗い大図書室の中をぐるりと歩き回ってみたが、椅子に座って書見をしている文士は散見されるものの肝心の島崎と久米の姿はない。
(閲覧室の方だろうか――
 とそちらへ足を向けた。
 閲覧室の中は図書室よりもさらに仄暗ほのぐらかった。人気もなく、芥川は初め、入り口の外から中をちらりと見て、無人らしいと思った。
 しかし一歩踏み入って、ぞっとするような冷たい性欲の気配を部屋の隅に感じた。いる。二人。黒い影が隅の机の上に折り重なって。上になっている方が動物じみた動きで下になっている方の体を貪っていた。
 芥川は反射的にその二つの影から顔をそむけ、
「久米!」
 と、引きった声を上げて己の存在を知らせた。上の方の人影が驚きと恐怖で鎌首をもたげてこちらを向いたのがわかった。
 芥川はどうしてもそれと顔を合わせることができず、といって逃げもせず、立ち尽くしていた。人影は――久米は急にバタバタと島崎から離れると、乱れた着物の前をき合わせながら逃げ出して行った。
 久米は、入り口のところに立っていた芥川とすれ違いざまに、
「彼と僕とは合意の上だった」
 と早口に弁解した。芥川が何か言う隙もない。
―――
 机の上に横たわったままぴくりともしない島崎へ芥川は一瞥いちべつをくれた。よほどそのまま立ち去ってしまいたかった。
「君――
 と芥川は、静かに歩み寄って、ぼんやり天井を見上げている島崎へ低く声をかけた。
「衣服を直したらどうだい」
 と言った。島崎は、上半身はシャツのボタンを全て外されていたけれども、下半身はズボンの留め金が取れているばかりで脱がされてはいなかった。開いた穿き口のところから下穿きの布地が見えていた。その部分はいくらかエレクトして盛り上がっていた。
 芥川は、思っていたよりも島崎がまし﹅﹅な格好をしていたのでほっとして、しかし島崎が呆然ぼうぜんとしたまま何の反応も示さないのには困って、
「君――
 ともう一度呼びかけた。ほったらかしにしておくのも良心がとがめた。自分の羽織を脱いで島崎の体の上へ掛けてやった。
「……君のは煙草臭い」
 島崎は羽織の襟のにおいを嗅いでやっと口を開いた。
「不要なら返してくれないか」
「ううん、ありがとう、借りるよ……」
 島崎は羽織の下でごそごそとシャツのボタンを留め始めた。やれやれと芥川はため息をついた。
「久米に可哀想なことしちゃった……」
 芥川は苦々しげに奥歯をんだ。
「何を言っているんだか。暴力を振るおうとした方が悪いに決まってる」
「僕は久米に同情していたよ」
 島崎とは合意の上だった、と久米が言い捨てて行ったのを芥川は思い出していた。
「同情したからといって承諾を与えたことにはならないだろう」
「久米はそう思っていないよ。僕は嫌だとは言わなかったし、彼に暗がりへ連れて行かれるのにも抵抗しなかった」
「なぜ気をもたせるような真似まねをしたんだ。拒絶すればよかったじゃないか。その方が――
「その方が久米も傷つかずに済んだだろうね」
 君が久米をしんから大切に思ってることはよくわかるよ……と言う。
「だけど僕は知りたかったからね……実験だよ。どうして彼が僕なんかに欲情するのか。ねえ君、久米は最初はまともだったよ。それが僕と一緒にいるうちにだんだんあんなふうになっちゃってさ……といって本気で僕を犯すつもりでもないんだ。だってあれ以上どうしたらいいか知らないようだったもの」
 島崎はシャツのボタンをはめ終えると、ズボンの留め金もかけ直した。
「久米はまるで何か……薬物にでも……狂わされているみたいだったよ。全然正気じゃないんだ……面白いよね」
「面白いだって」
 と、芥川は嫌悪をあらわにして、さっき多少なりとも島崎へ憐憫れんびんの情を覚えたことを後悔した。冷たい視線を島崎の体の上へ落とした。
「……君も僕に欲情してる?」
 島崎は芥川の羽織に隠れるようにしながら、そのくせ身じろぎをして左右の脚を擦り合わせた仕草は媚態びたいのようにも見えた。芥川はかぶりを振った。
「馬鹿馬鹿しい」
「じゃあやっぱり、君は例外なんだ」
「嫌いなひと相手に性欲なぞ感じるものか」
「そんなに自信があるのなら僕に協力してくれてもいいんじゃないかな……僕だって何も、面白がるつもりで久米をもてあそんだわけじゃないよ。僕の何がみんなをおかしくするのか、突き止めなくちゃならないからね……」
 芥川は腕組みをして長い間考え込んだ。
「助けて」
 と、か細い島崎の声が聞こえたような気がして、もう一度見下ろしたが、死魚の瞳が見返してくるばかりで何も言わない。幻聴であったのかもしれぬ。
 芥川はなお考えたのち、
「久米はたぶん、僕のことを君の男だと思ってるに違いないよ。ひどい勘違いだけど、そういうやつだ。そう思って僕に嫉妬している方が気が楽なんだ。そういうやつだ――
 協力してあげよう、とついに言った。
「ほんとに」
 と島崎の目にほんのりと生気がともる。芥川は釘を刺した。
「君のためではないよ」
「久米のためなんだね……優しいね」
「やめてくれ」
「本当のことじゃない」
 島崎が初めて少し相好を崩した。老大家らしからぬ可愛い顔をしていると芥川は思った。
 二人の協力﹅﹅は翌朝からさっそく始まった。
「まずは司書さんに相談すべきじゃないのか」
 と芥川がもっともな提案をしたが、島崎は拒んだ。
「彼女が味方だとは限らないよ……」
「どういう意味だいそれは」
「まあとにかく……僕が今までに一人で調べたところでは、みんなおかしくなるといっても、個人差はあるんだ。君は特に例外だけど……他に泉や森先生なんかも比較的落ち着いてるかな……」
 開館前の図書室で芥川が島崎の調査ノートを見せてもらっていると、にわかに廊下の方が騒がしくなって、数名の文士が、勉強会でも開くのだろう、それぞれ思い思いに書物やノートなどを抱えて入ってきた。彼らは芥川と島崎が同席しているのを見て妙な顔をしたが、別段何も言いはしなかった。
 島崎は気づかないふりをしてノートをめくった。
「あと、場所も関係があるみたいだよ……」
「場所?」
「うん、つまり……僕が身の危険を感じた場所ってこと。食堂や談話室は人の多寡に関わらず割合大丈夫なんだよね。どこが一番危険だと思う?」
「それはやっぱり風呂場とか、かわやの裏手だとか――
「……そういう場所で君に襲われないように気をつけた方がよさそうだね」
「僕は一般論を言ったまでだ!」
「ハズレだよ。一番危ないのはさ……図書館ここ
 図書室に閲覧室、書庫、エントランスホール、と島崎が挙げていくのは芥川にとってもある意味で馴染なじみ深い場所ばかりである。
馴染なじみ深い? っていうと……?」
「だから君、それ禁煙の場所ばかりじゃないか」
「………」
 突然、島崎の細い肩がびくりと跳ね上がった。隣に座っている芥川の手が背に回ってきて抱き寄せるような格好をしたからである。
 島崎が上目になって芥川の表情をうかがうと、しかし芥川は険しい目つきで向こうを見ている。視線の先に、図書室へ入ってきた久米の姿があった。久米は芥川と島崎の姿に気づいていて目をそらした。昨晩は深酒をしたらしく顔色が悪い。
 芥川が久米の去った跡をうつろに眺めている間に、島崎は一人で何やらぶつぶつしゃべっていた。
「つまり……さらに実験が必要だと思うんだよね……どうやれば君が僕を好きになるのかっていう」
 と言われて、はたと芥川は我に返った。
「ならないよ!」
 と、力一杯否定した。島崎が疑わしげに半眼になっている。芥川はいまだ島崎の背を抱いていたのに気づいて慌てて手を離した。
 島崎は、ほっとため息をついた。
「とにかく、君が今のところ﹅﹅﹅﹅﹅どうして平気なのか知りたいんだ。逆に言えばどうすれば平気じゃなくなるのか……それがわかれば、異常の解決方法も見当がつくかもしれないよ」

7 大東京銀座通り

「島崎藤村とデイト﹅﹅﹅だってぇ?」
 と意地の悪い聞き方をしたのは菊池で、くわえ煙草をしたまま、畳の上でだらりとけ反るようにして背を振り返ると、姿見の前に立った芥川が二、三の外套がいとうを取っ替え引っ替え着たり脱いだりしている。全て菊池の持ち物で、芥川は彼の自室へそれを一つ借用しに来たのである。
「龍、アンタなぁデイト﹅﹅﹅に人の洋服を着て行くやつがあるかよ」
デイト﹅﹅﹅デイト﹅﹅﹅とうるさいよ、寛。そんなのじゃないんだから」
「じゃあ何だってんだ」
「これはさ――“実験”なんだよ」
 ときに寛、と、芥川も外套がいとうの襟を指で整えながら振り返った。
「君も懸想してるクチかい」
「あに? 化粧けそう? してるように見えるか」
 菊池はふざけて、手の甲を頬に当てて笑った。芥川は可笑おかしくもないという顔つきである。
「島崎藤村のことを慕っているのかと聞いてるんだよ、僕は」
――まあ正直なとこ、あれの尻に手が伸びそうになったことは何度か」
 と言って、金口の煙草を指の間へ置いて長い煙を吐く。
「だけどみんなそうだぜ。俺だけじゃない。奇妙なこともあるもんさ。あの錬金術師アルケミストのガキ共辺りの悪戯か?」
「それを解決しに行くのさ」
「なあ龍、アンタは島崎と一緒にいてヘンな気分にならないのか」
「僕は例外だよ」
 と、芥川は自信ありげにきっぱり言う。ほおぉ、と菊池は疑わしげににらみ、って行って友の足元に纏わりついた。
「おーおーカシミヤのズボンなんか穿いちまって、随分とめかし込んでるじゃねえの」
「いけないかい? おめかししては」
「ぶえぇつにぃ? 構わねえけどよ。そもそもアンタが洋装なのも珍しい」
「よそ行きの羽織を人に貸したまま、まだ返してもらえていなくてね」
「アンタ、今朝風呂に入ったか?」
 と菊池は芥川の髪の匂いを嗅いで首をかしげた。
「犀星が入れ入れと口やかましいのだもの」
「口が減らねえなぁ、相変わらず」
「寛、この外套がいとう借りるよ。夕方には返すからね」
 芥川は深い焦げ茶のインバネスが気に召したらしく、それを着て「じゃ、失敬しっけ」と出て行った。
「ったく阿呆あほうくさくて見てられねえな。なにが『僕は例外だ』だよめっちゃくちゃ浮かれてやがんの。三度の飯より大事なもんまで忘れて行きやがった」
 菊池は姿見の脇に芥川が置き忘れていったゴールデンバット二箱と燐寸マッチを手に取った。
(しまった、煙草を忘れた)
 と芥川がそのことに気がついたのは帝國図書館の館内を出てからであった。たぶん菊池の部屋だろうと思った。取りに帰るのも面倒だ。待ち合わせの時間はもう過ぎている。
 島崎は正門のところで待っていた。
 ちょっと不良少年のような格好で門柱に寄りかかっていて、図書館の前庭を突っ切ってくる芥川の姿に気がつくと腰を上げた。
「遅刻……」
「十分と遅れてない」
 と芥川は弁解をした。
「君こそ遅れるかと思っていたよ。今日は朝から潜書だったと聞いたけど――もう“補修”も済ませてしまったのかい」
「うん」
「一緒に潜書した人たちはまだ医務室にいたようだったのに、君は早いね」
「まあね」
 島崎は芥川と肩を並べて歩きだした。帝國図書館にいる間は気にならないが、こうして外の世界へ出てみると得体の知れない二人連れである。
「学生二人……にしては君のとう﹅﹅が立ってるしね。兄弟に見えるかな?」
「僕と君とじゃ全然似ていないよ」
「じゃあ、父親が違うことにしよう……」
「小説の人物みたいに人の境遇を設定するのはやめてくれ」
 と他愛もないことを言い合いながら、芥川は隣を歩く島崎のなりを横目でちらちらと見下ろしている。島崎が気づいて流し目を返した。
「もうその気になってきちゃったの?」
「違う! ただ――
 島崎が、首周りに模造品の毛皮の付いた厚い外套がいとうを前をきっちり合わせて着ていて、その裾から黒っぽい長靴下に覆われた膝とすねとがにゅっと出ている。それが気になるだけである。
外套コオトの下に何を着てるんだ」
「靴下を穿いてる他は何も着てないよ」
 芥川が目を白黒させると、島崎はふふと笑った。
「嘘だよ……」
 と、外套がいとうの前を開けた。おおむね平時と同じでシャツにチョッキを着て半ズボンを穿いていた。
 二人は本通線に乗って銀座通りへ出た。
 路面電車を下りて見上げればすぐ時計台。その周りにビルディングやカフェーがいくつも立ち並んで、大通りの中空を埋め尽くすほどのおびただしい数の文字看板を掲げている。道の両脇には、建物の不規則とは対照的に街灯が規則正しく並べられて、通りの先へ先へ誘っているようである。
「天気がよくてよかった」
 と島崎は街よりずっと上の空を見てのんびりと言った。この簡素な青年には帝都のモダンな街並みもさしたる感動を呼び起こさないらしい。
「歌舞伎座に行くには少し遅いな」
 と、芥川は時計台を見ながら言った。
「カフェエに行こう。昼もまだなのだし」
「任せるよ」
 並んで歩きだそうとしたが、ふと芥川が足を止めた。
「そうだその前に――僕、煙草を忘れたんだよ。ちょっと煙草屋に寄ろう」
「煙草屋、どこ?」
 芥川は向かう先とは逆方向の街角を指差した。しばらく引き返さなければならないらしい。
「そうなの。じゃあ僕が行ってきてあげようか」
 と島崎は気軽に言った。
「君は先にカフェエに行っていい席でも取っておきなよ」
 芥川の欲しい煙草の銘柄だけ聞いて島崎はきびすを返した。二人一旦そこで別れて芥川はカフェーに、島崎は煙草屋へ足を向けた。
 銀座通りはモダンな身なりの青年や子女たちでにぎわっていた。観劇や買い物に来たらしいのもあるし、そうでなくただ街をぶらついているだけらしい一群もある。なんにせよ、年若い彼らは自分たちが楽しむのに一生懸命である。
 島崎は一人で大通りの端を歩きながら、大勢の歩行者の誰も自分を見ていないことに近頃ない安心を覚え、また心のどこかで物足りないような気もした。
 芥川の言う煙草屋は行けばすぐにわかった。
(……あれ?)
 店舗の手前で立ち止まって中をまじまじのぞき込む。見覚えのあるインバネスコートを着た長身長髪の青年が陳列棚の前に立っているのが見えた。
(彼、カフェエの方に歩いて行かなかったっけ?)
 いつ追い抜かれたのだろう。それ以前に、芥川は人に頼んでおいたことを一言の断りもなく自分で翻すような性格だっただろうか。
 と、島崎がいぶかって考え込んでいるうちに、芥川らしき青年の姿は煙草屋から消えていた。ほんの数分も経たないうちの出来事だった。
「あの……」
 と島崎は煙草屋の店員の娘に声をかけた。
「今、背の高い……ひらひらした外套コオトを着た男の人がいたと思うんですけど……」
「ああ、あのちょっと様子のいい」
 店員は覚えていて、島崎に「彼は何を買って行った?」と聞かれると、
「はあ、バットを二箱」
 と素朴な調子で答えた。島崎が頼まれたのと同じ銘柄である。やっぱり芥川だったのかなと首をひねりながら、島崎は何も買わずに店を出た。
 カフェーに着いてみると、給仕に一人かと聞かれた。島崎は、連れが先に来ているかもしれないし来ていないかもしれない、という胡乱うろんな返答をした。
「お連れ様のお名前は」
「芥川」
「島崎様ですね。お連れ様はお席でお待ちです」
 給仕に案内されたのは広いホールの奥の方のテーブルで、芥川は先に珈琲コーヒーを飲んでいた。すでに外套がいとうも預けたくつろいだ姿だった。来たばかりという風にも見えない。
 島崎が妙な顔をしているのを見て、芥川もいぶかしげに首をかしげた。
「突っ立っていないで座りなよ、君」
「よろしければお着物をお預かりしますが」
 と給仕が口を挟む。外套がいとうを寄越せと言う。
「いいよ、僕、寒がりだから……」
 と、島崎はそれを断ってテーブルに着いた。注文を取った給仕が厨房へ引っ込んだのを見届けてから言った。
「ここ、煙草のにおいがすごいね」
 周囲のテーブル席の七割方は喫煙者と見える。紙巻き、パイプ、国産やら舶来やらさまざまな煙の香が入り混じっていて、ヘビースモーカーの芥川にはたまらぬ心地がするらしい。
「バット二箱、買って来てくれたかい」
 ともどかしそうに言い、代金の小銭を島崎へ差し出した。
 島崎は驚くというよりは、やっぱりという表情になった。煙草屋での一件を芥川に話して聞かせた。
「だってものすごく似てたんだよね……てっきり君だと思って……」
―――
 芥川は険しい顔をしているばかりで、島崎へ多くを尋ねようとはしなかった。
「ごめんね……煙草、買えばよかった」
 と島崎が謝ると、芥川は「いや、いい」とかぶりを振って、しばしどこか遠くに思いをせた。

8 芥川と島崎の実験

「だけどほんとに似てたんだ……」
 と島崎は煙草屋で見かけたもう一人の﹅﹅﹅﹅﹅芥川のことが気に懸かるらしく、度々その話を蒸し返した。芥川は表面上興味のないそぶりを見せていた。
「そんなに似てたと言うけれど、君、そいつの顔を見たのかい」
「正面から見たわけじゃないよ」
「じゃあやっぱりわからないじゃないか」
「でも背格好も髪型も洋服もそっくりでね」
「顔を見たのは煙草屋の店員だけだろう?」
「うん……様子がいいって言ってたよ」
「それじゃ何の手がかりにもならない」
 芥川は小さな珈琲コーヒーわんを取り上げて、一旦話を遮った。
「ときに、君」
「?」
「その煙草屋の娘というのは、どうだった?」
「どうって」
「可愛かったかい」
 島崎はあきれた顔をして、
「その娘さんに褒められたのはもう一人の﹅﹅﹅﹅﹅君の顔だと思うんだけど……」
 と言う。芥川はなんともいえない顔になった。一見不機嫌そうに見えた。
「君の“色香”は女人には通じないのかという話だよ」
「……そういえばそうだね。司書の様子がおかしくなったこともないや。というか、おかしくなるのは図書館にいる僕らの仲間ばっかりだ」
 新発見。と島崎はつぶやいて、チョッキのポケットから出したノートにメモを取った。
 テーブルの下で、島崎の履いているブーツの先が芥川の靴の脇をツンとつつく。芥川が気づかないふりをしていると、足首と足首とを押し当てて、そのままじっとしている。
 島崎は睫毛まつげの恐ろしく長い碧眼へきがんを上目がちにして芥川を見つめた。
「それで、これからどこに連れて行ってくれるの」
「三越にでも行くかい」
 今日は帝劇、明日は三越――そんな古い流行はやり文句が芥川の口をついて出た。
「お金ないよ」
 と島崎が念を押すと、
「僕もない。画展を観に行くんだよ」
「なるほど」
 ということになった。
 やがて注文していた昼食が供されて、ともかくも腹ごしらえというので二人は差し向かいで食い始めた。
「僕が有碍書の中で侵蝕者に襲われたときのこと、君、覚えてる……?」
 と、コロッケを頬張っていた島崎が不意に語り出した。
「あの侵蝕者もたぶん、おかしくなってたんだ。あのときにはもう……だって、秋声もなんだか様子が変だったし」
「ふむ」
「君が来るのがもう少し早かったら、僕があの触手にもてあそばれてるところが見れたかもね」
「やめてくれ、そんな話」
 芥川は真面目に言った。言ってから、不愉快そうな顔をした。冷静に考えるより早く、なじるような台詞が口をついて出た。
「感じたのかい――
「………」
 島崎はその問いには答えず、はぐらかした。
「君にはあのとき助けてもらった恩があるからね……もし君も僕を好きになったときには、一回くらいは、いいよ、して﹅﹅も」
「何の話をしているんだか」
「わかってるはずだよ。君は、久米ほどジェントリイでもないだろうしさ」
「馬鹿を言うんじゃない」
 そのときには殴ってでも止めてくれと言う。
「言っておくけど、君のためにじゃなく、僕のために殴ってくれ。君となんぞした﹅﹅となったら、気が狂ってしまうよ、僕は」
 と言いながら、テーブルの下では島崎の足へ自らの足を押しつけている。芥川が、こらえよう、我慢しようと念じても体の方が言うことを聞かない。
 島崎は、芥川の口とはちぐはぐな行為に嫌悪感を示すでもない。是も非も言わない。
「展示室内でのお煙草はご遠慮くださいませ」
 と案内してくれた百貨店の店員は作り笑い以外の表情と声とを忘れたような娘であった。
 芥川と島崎は一緒に画廊へ入った。清潔な感じのする室内に大小さまざまな油絵が飾られていた。中央のテーブルで富豪らしい人物が店の者と商談をしている他に客はあまりなかった。
 二人は、彩光の悪い部屋の片隅に、貧弱な縁へ入れられ、忘れられたように掛けられている「沼地」という題の、無名画家の画の前で足を止めた。
「傑作だね――
 と芥川が、その画の重苦しい黄色に塗られた植物や、感触まで伝わってくるような滑らかな淤泥おでいの表現をつくづく眺めながら嘆息する。島崎も隣に立って画を見つめた。
「どうしてこの人、草を見たまま緑に塗らなかったんだろう」
「この画家にはそう見えたのかもしれないし、誇張なのかもしれないが――草花がイコオル緑色という僕たちの意識を疑う必要だってあるのかもしれないよ」
「ふうん……僕も好きだな、この絵」
 島崎がそっと芥川との距離を詰めて、肩と肩とをぴたりとくっつけた。触れる寸前から芥川の体は小刻みに震えていた。
「君――
「“実験”」
 と、頭を傾けて芥川の肩へ載せこめかみを押しつける。外套がいとうのポケットに両手を突っ込んで、その格好で絵画を斜めに見ている。
「君、香水を着けてるのか」
 そのときになって芥川は気がついた。島崎が前を開けて着ている外套がいとうから淡い香りが昇ってきていた。
「久米がおかしかった晩にさ……彼が貸してくれた外套マントを着ている間は、大丈夫だったんだよね……あの外套マント、いい匂いがしてた」
「久米は普段香水なんか」
「君や菊池は褒めてくれたことがないって言ってたよ」
 むむと芥川は口をつぐんだ。
 そのうちに他の客が近づいて来た気配を感じて、二人は黙って離れた。
 島崎が芥川の背後を通り過ぎざまに、その背中に軽く鼻先を押し当てて、
「君は、今日は煙草のにおいがしないね。この外套コオト……菊池のじゃない? 借りたの?」
 と聞いた。
「“実験”だからさ――
 と答えた芥川が、ぐびと生唾を飲む音がした。とがったアダムの林檎りんごが大きく上下に動いた。
 画展をぐるりと見終えて、また元の銀座通りへ出ると、二人は肘を組んで歩いた。芥川の方から島崎の腕を取ったのである。島崎は拒まない。
 時計台のある辺りは時計屋がずらっと集まっており、飾り窓ショーウィンドウを眺めて行くだけでも面白かった。
「日差しが少し、暑いくらいだ……」
 歩きながら体が温まってきたらしい島崎がつぶやく。
外套コオトを脱いだら」
 と芥川がさりげなく勧めたが、島崎はらした。
「まだだめ」
 芥川は早る心を覚えて嫌な気持ちがした。まるで雌の河童に仕向けられて、それを追わずにいられない雄になったような。雌の河童は逃げて行くうちにも、時々わざと立ち止まってみたり、四つんいになったりして見せるのである。
 通りかかったカフェーで、芥川は電話を借りて帝國図書館へかけ、菊池に会誌の原稿の締切を二、三日延ばしてくれるよう頼んだ。
『元から早めにしてあったから構わねえが、なんでまた急に』
 受話口の向こうで菊池が首をひねっている顔つきが芥川には目の前に浮かぶように想像できる。
「いや、今夜は書けないかもしれないから、念のため」
――おいおいアンタまさか、島崎藤村と』
「念のためだよ」
『おい、アンタ今夜はちゃんとこっちに帰ってくるんだろうな。なあ、おい』
 菊池にあれこれ詮索される前に芥川は電話を切った。なぜこんな電話をかけたのか自分でもよくわからなかった。
 カフェーを出て外の交差点の角に待たせておいた島崎のところへ急いだ。これほど心と体とがバラバラで、対立して、まるで歯車がみ合わないのは初めてだった。どんどんおかしくなっていく。今島崎にかれているのは純粋な性欲からである。恋愛の分子はわずかほどにも認められない。
 道路の角に島崎の姿を見つけた芥川は、ぎくりとして手前で立ち止まった。島崎はどういうわけか一人ではなく、見知らぬ背の高い男と一緒だった。
 芥川の方からは男の後ろ姿しか見えない。わかるのは、男が自分と同じ色のインバネスを着ていることくらいで、顔は目深にかぶった帽子で隠されている。
 芥川は背筋に冷たいものが流れるのを感じていた。
 だが、そっと近寄って、
「失礼――僕の連れに何かご用ですか」
 と低い声で呼びかけると、それで振り返った男の顔は芥川の予期したものとは違った。
「これはどうも、お兄上でいらっしゃる?」
 男は、本当に芥川の知らない人物で、ある雑誌社のカメラマンだと名乗った。両腕の中に小型の写真機を大事そうに抱え、
(兄弟にしては似ていないな)
 とでも言いたそうに芥川と島崎を見比べている。
「この人、僕の写真を撮りたいんだって……」
 と、島崎が困った顔をして言う。写真家が後を引き取って事情を話した。
「うちの雑誌で、街で見かけた少年少女の写真を載せて、服飾の専門家に彼らのおしゃれ﹅﹅﹅﹅を批評させるというのをやるのです。よかったら、お連れさんの写真を撮らせてもらえるよう、あなたからも頼んでもらえませんか。あ、もしよければあなたも一緒にお写りになっても」
 写真家は芥川の容貌を見て、素早く金勘定が働いたようであった。これは雑誌の売上になると。
 島崎は芥川に助けを求めた。
「僕たちの写真が載っちゃうと、たぶん、まずいよね……ねえ、どうしよう」
 写真家の調子からしてなまなかなことでは諦めそうにない。
 と、見るや、芥川はパッと島崎の手をつかんで走り出した。「わっ」と島崎が驚いて足をもつれさせそうになりながらも、どうにかついて来た。
「あっ、ちょっと!」
 写真家は最初二人を追おうとしたが、無理をして写真機を落っことすのも怖い。一直線に逃げていく芥川は脚の長さがあるせいか、優男の外見にしては思いの外速い。写真家は、ちぇっと舌打ちして一度だけ二人の後ろ姿へレンズを向けた。
 島崎の手を取ったまま走ってきた芥川は、あるところで急に脇へ折れて細い路地裏へ入った。ここまで来ればと、そこで足を休めた。
「あのカメラマン……追いかけて来てないよね……?」
 と後ろを気にしている島崎は、貧弱な体を折って息をはあはあ吐いていた。服も髪も芥川に引っ張り回されたせいで乱れていた。香水を含めた外套がいとうも肩からずり落ちて腕に引っかかるほどになっている。
「あっ……」
 と、島崎は目の前が不意に薄暗くなったのでギクリとした。芥川が前から腕を回して強く抱き寄せてきた。

9 血に刻み込まれた憂鬱

「ねえ」
 と島崎が口を開くより早く、芥川はその首筋に鼻先をうずめた。
「あ……」
 芥川が深く息を吸ったり吐いたりする音が島崎には耳の間近に、嵐の音のごとくに聞こえる。もうそれしか聞こえない。
 両側を高い建物に挟まれて狭く薄暗い路地の奥には大通りの光が見えている。ほんの数十メートル向こうでは老若男女が行き来しているのに、二人のいるところだけ時の流れの違う別世界のようだった。
 芥川は島崎の息が止まるほど強く抱き締めてきた。
「痛いよ……!」
 芥川は、島崎の耳元から首の付根、鎖骨の辺りまで鼻先で探って、
「やっぱりそうだ。匂い﹅﹅なんだ」
 と、やがてうなるようにつぶやいた。
「君が雌ので、僕たちは雄のなんだ――
 と言ってから、そんな馬鹿な、と自ら打ち消す。僕たちは人間のはずじゃないかと。ちっぽけな虫のごとき生物とは違うはずだと。
「匂いがする……? 僕、わからないんだけど……」
 島崎があえぐように言った。芥川の腕の力は強くなる一方であった。
「僕にもわからない――でもこうして君の間近で呼吸いきをすればするほどこんなこと僕は望みもしないのに」
 食いしばった歯をあらわにしてけだもののようなうなり声を漏らし、
「頭がおかしくなりそうだ――!!
 と、咆哮ほうこうして島崎の体を突き離した。その動作で勢いがつきすぎた芥川は後ろによろけて建物のコンクリート壁に背中をぶつけた。
「大丈夫? 君」
「来るな!!
 両手で頭をきむしりながら抱えてうなだれる。
「苦しそうだよ……」
 島崎は芥川の眼前にまで近づいて、あわれむようにその顔を見上げた。手を伸ばした。
「触るな」
 と芥川はうめいたが島崎の手を振り払う克己心はなかった。島崎はひどく優しい声で言った。
「ねえ、君の気の済むようにしたらいいよ。僕は我慢できるから……」
―――
「いいよ、君は恩人だし……」
 何度も「いいよ」と繰り返して、
「僕の心のどこかで……これは因果応報だって、気もしてる……あんな気持ち悪い侵蝕者に玩具おもちゃにされるような僕にはこんなみじめな思いがお似合いなのかなって……」
 と告白した。
「あれは僕のせいじゃないと君は言ってくれるかもしれないけど……僕には僕の血に刻み込まれた憂鬱﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅が巡り巡って僕の身にかえって来るんだって、どうしてもそんな気がするんだよ」
「血に――
「僕、玩具おもちゃにされて恍惚こうこつを感じてた……」
 と島崎は言った。懺悔ざんげをした人のようにうつむいて、額を芥川の胸の上へ押し当てた。
「君にそのことを言われたとき……だけど、どうしても『うん』とは答えられなかった。本当のことを言えなかったよ……本当は花袋や久米の前でだって僕は恍惚こうこつを感じてた。おかしいよね……」
 許して、と、請う。
―――
 芥川はほとんど呆然ぼうぜんとして島崎の肩へ手を置いた。
 島崎が顔を上げると、芥川が欲情と同情のい交ぜになった目で見つめてきた。島崎の全身を貫くように激しい震えが走った。
「いいよ……」
 と言う。伏せた睫毛まつげの先までもかすかに震えていた。
 芥川は何度接吻キスを与えようと思ったか知れない。それを島崎が望むならと――
 しかし、結局は島崎の肩を押し返した。
「……君」
 と島崎が言おうとしたのを遮って、
「殴ってくれ」
 と芥川は搾り出すような声でどうにか請うた。
「え」
「言っただろう殴ってでも止めてくれって! 早く!!
「えっと」
 島崎はまごつきながら右手を上げ、
 ぺち、
 と、芥川の左頬をはたいた。たたいたというよりは頬に優しく手を置いたような格好だった。
 芥川はしばし腰をかがめて身悶みもだえするようにしていたが、やがて勢いをつけて顔を上げると、島崎の脱げかけていた外套がいとうを両手で肩に掛け直してやった。
 たったそれだけでも多大な自制心を要したのだと言わんばかりに、島崎から手を離すとコンクリート壁にぐったりと寄りかかった。
 島崎はなんともいえないような顔つきでぼうっと立ち尽くしていた。
「僕は別によかったんだけど……」
 と外套がいとうのポケットに両手を入れながら、ぽつりと言った。
 芥川は大きくかぶりを振った。
「君がよくても、僕はよくない」
「なんで……?」
血に刻み込まれた憂鬱﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅になぞ僕は負けたくないからだ。今君に手を下すのは簡単だけれど、それをしてしまったら僕までに負けてしまうような気がするからだ」
「僕ののことは君には関係ないよ」
「君のでなく僕のだ」
 それに――と芥川は語を継いだ。
「それに?」
「君は震えていた」
「……君に抱かれるのを期待してた。異常だよね」
「嘘をつけ!」
 嘘をつけ、嘘をつけ、嘘をつけ、と芥川は心の中で何度も何度も繰り返し叫んだ。
「偽善も偽悪もたくさんだ」
 芥川は上着のポケットを探って財布を出すと、それをそのまま島崎の眼前に突き出した。
「煙草――
「………」
「買って来てくれないか」
 僕は今身動きが取れないのだと言う。
 島崎は黙って財布を受け取って、くるりときびすを返した。小走りに路地を抜けていく後ろ姿を芥川は見つめながら、ずるずるとその場にしゃがみ込んだ。
 じきに島崎は戻ってきて、ゴールデンバット二箱と燐寸マッチ一箱を芥川へ差し出した。
 芥川は三本も四本も立て続けにそれを吸った。慌ただしさのあまり柄にもなくむせながらそれでも吸った。
 そうして青い煙を頭の先から足の先まで纏うとようよう正気に戻ったらしい。
 芥川が五本目の煙草に確かな手元で火をけているのを見て、向かいの壁にもたれてしゃがんでいた島崎が、
「落ち着いた?」
 と聞いた。
「うん――
 と、芥川は重くうなずく息とともに長い煙を吐く。島崎も落ち着いた声で言った。
「ねえ、図書館へ帰ろう」
――帰ってどうするんだ」
「司書のところへ行こう……僕を……こんなふう﹅﹅﹅﹅﹅にしたのはたぶん彼女だよ」
 二人は帰るとすぐ司書室を訪ねた。しかし島崎の推理に反して、司書婦人は二人から事情を聞かされると寝耳に水といった様子で、
「えええええっ!?
 と日頃出さないような頓狂な声を上げて、途中だった実験のフラスコを取り落としそうにまでなっていたから、さすがにこれは演技ではあるまいと島崎も芥川も思った。
「それで、つまりその、島崎さんの体に異変が起こったというのが」
「君の人体実験を引き受けて、新しい補修用洋墨を打たれるようになった後なんだよね……」
 司書は、顔色をさあっと青ざめさせた。
「どうしてもっと早く教えてくださらなかったんです」
「ごめんね、今日まで確信が持てなかったんだ……もしかしたら、その……僕の生まれつきの性質なのかもと思って」
「そんな馬鹿な! 島崎さんは転生したときから他の方と何の違いもありませんでしたよ!」
 と、一切の含意なく言い切られて、島崎はなんとなくくすぐったそうな顔をした。二人から少し離れたところに控えていた芥川は、くわえ煙草で「おやおや」とでも言いたげにしている。
「ともかく、原因を調査しますから」
 と司書は請け負った。
「島崎さんは今すぐ医務室に来てください。特殊洋墨アルケミー・インクを元の組成に戻して“補修”をしましょう」
 それから数日としないうちに、事件の犯人二人はやすやすと悪事が露呈して館長の前に出頭を命じられ、島崎のところへも謝りに来た。
「ごめんなさい」
「ちぇっ、悪かったよ」
 と、アオとアカはしおらしく代わる代わる謝った。
「だけどさ!」
 それでもアカの方はいささか不服そうに、
「俺の理論は正しかっただろ!?
 と付き添いの館長に向かって主張していた。館長は苦い顔である。
論理的﹅﹅﹅には正しかったが、倫理的﹅﹅﹅に大いに間違ってるな。俺も今度のことで始末書を書かなくちゃならん。島崎、責任者として俺からも謝る。大変な目に遭わせてすまなかったな」
「まあ、いいよ」
 島崎は許してやることにした。
「確かにひどい目に遭ったけど……ちょっとはね、面白い取材にもなったからさ」

10 アダムとイヴ

 館長は、司書婦人、アカ、アオがそれぞれ提出した報告書を一通り読み終え、「ふむ」と両手を組んで執務机に肘を着いた。
「だけどさぁ、まさか『雄』の間はなんともなかったのが、ちょっと特殊洋墨アルケミー・インクの組成をいじって『雌』に書き換えた﹅﹅﹅﹅﹅だけで誘引物質フェロモン出し始めるとは思わないじゃん」
 と口をとがらせながら言ったのはアカである。アカ、アオ、司書は執務机の後ろの応接椅子で三人ちゃんと並んで神妙な顔をしている。
 館長が回転椅子をくるりと回して三人を振り返った。
「雌雄と言うと語弊がある。肉体的に女性化するわけではないからな。『陰と陽』あるいは、錬金術における『水銀イヴ硫黄アダム』と呼ぶのが通例だな――彼らが陰化した場合そういうことが起きることはこれまでにも報告があってわかっていた。だからこそ文豪たちは単性なんだ」
 と司書の報告書に列挙された文献を指差す。
「先行の事例では――を実験体として誘引物質フェロモンの単離と構造決定を行った。その結果、蚕蛾カイコガの雌が発する性誘引物質フェロモンに類似した物質が発見されている。陰化した個体が発する誘引物質フェロモンは、陽化した個体の鼻腔びこう内の受容器で感知される。ただし受容器が活性される濃度は昆虫に比べて高く、1リットルに対して0.0001ミリグラム程度」
「僕もその論文と同じく――を実験体として、アカの式から生成した特殊洋墨アルケミー・インクを投与、陰化させて誘引物質フェロモンの単離を行ってみました」
 アオが言った。
「その結果、論文と同じ物質が得られたんです。間違いありませんよ」
 館長がその後を引き取った。
「普通の人間には本来性誘引物質フェロモンを感知して伝達する機構は備わっていない。ただ、胎児﹅﹅あるいは新生児﹅﹅﹅の間だけは、その機構が体内に残っているともいう」
 アカ、と呼びかけ、
「確かにお前のやらかし――いやその、お前の主張する特殊洋墨アルケミー・インクの投与で陰化と陽化をコントロールする手法は新規性があるかもしれないが、倫理的に見てどうしても問題がある」
 と諭すように言った。アカは不服そうであった。
「だけど、スゴイだろ? 最初からアダムとイヴに分けなくていいんだぞ。一つの魂から自由にどっちも作れるんだ。完璧じゃん。なまじ普通の人間﹅﹅﹅﹅﹅なんかよりよっぽど」
スゴイ﹅﹅﹅には違いないが」
「気軽に発表できる成果でもなさそうですね」
 と、アオにもぴしゃりと言われて、アカはますます不服げにふくれ面をしている。アオは反対に、ふふと嬉しそうな顔になった。
「それよりも、島崎さんの人体実験で思わぬことがわかったじゃありませんか。陰化した実験体の誘引物質フェロモンは、蚕蛾カイコガのそれと同じくある種のアルコールですが、それが煙草や香水、消毒液などのにおいによって阻害されるんですよ。誘引物質フェロモン自体はほとんど無臭で一般臭とは受容器も別です。でも、おそらくはタールなどのにおい物質と非常に結合しやすいのでしょう。これは発見ですし、発表しても倫理的に問題ありません」
 実験から新しい事実がわかることもあるって言ったでしょう? と得意げである。
「ところで、その島崎のことだが」
 と、館長が司書に尋ねた。
「その後どうしてるんだ? 今度のことでショックを受けたりしていなければいいが」
「私たちの前ではいつも通りに振る舞っているみたいですが」
「そうか――
「今度の事件も随分熱心に取材なさってますよ。小説の題材になるかもしれないって」
「なるほど、いつも通りだな」
 ふむ、と館長はため息を漏らした。「小説にされるのは困るな」とぼやいた。


「そこにいるのは誰だい?」
 つと、芥川は振り返って、木の陰からこちらを見ている人物の正体がやっぱり想像の通りだったので心底げんなりした。
「君か――
「君は本当に僕を見つけるのが上手だよね……」
 と島崎は言いながら庭木の後ろから出てきた。池端のベンチに一人で座っている芥川の背後へ歩み寄った。ベンチの背もたれへ後ろから両腕を乗せて寄りかかると、何を聞かれるのかと嫌な顔をしている芥川の横顔を見て、しかし何を言うでもない。
 芥川は自分から聞いてやるのも気に入らないようで、できるだけ知らん顔をして膝の上の本のページをめくった。
「ねえ、君の『暗夜行路』はまだ終わってないの」
 と、島崎が不意に言った。芥川は、
「そんな話をしに来たのかい」
 と、つい言い返してしまった。島崎はあいまいに笑った。
「そういうわけじゃないんだけど……」
 あ、と何か見つけたような声を上げて、人差し指で晴れた空を指差す。
「え?」
 芥川はつられて視線を上げた。が、天に変わったところもなく、とんびが一羽、高きところをひょろろと鳴いて飛昇しているのが目に入ったばかりだった。と思うと、いきなり目の前に、自分の顔と空の間に島崎の顔が上下逆さまに割り込んできて、芥川は危うく、
「うわっ!!
 と悲鳴を上げそうになったのをどうにかこらえた。
―――
「………」
 逆光になった島崎の顔つきは相変わらず陰気で、さもこの世の不幸を一身に背負って暗夜をみち行くのだと言っているようで、芥川を不快にさせるのと同時にかすかな親近の情を抱かせる。
(僕の探していたもの、探しているもの――
 それをこのかげった碧眼へきがんも探し求めているのだろうかと。銀座の路地裏で思いがけず垣間かいま見てしまった瞳の奥の景色は己のそれと重なるのだろうかと。
 そんなことを思って芥川は全く油断していたので、島崎に突然両手で頬を挟まれても目を白黒させているばかりだった。
 島崎は顔を近づけてきた。ちょうど口と口の場所が重なるように少し身を乗り出して――
「うわっ!!
 と、今度こそ芥川は悲鳴を上げた。接吻キスされる寸でで身を後ろに引こうとしたせいで、ベンチの背に思いっきり後頭部をぶつけた。
 ごん、
 と派手な音を立て、そしてずるずるとベンチからずり落ちた。
 座席にかろうじて引っかかってほうけている芥川の顔を、島崎はきょとんと見下ろして、やがてくっくっと笑い出した。
「君に接吻キスされそうになった僕の気持ちが少しはわかった?」
 と、からかった。
 芥川はのろのろと腰を上げ、元のようにベンチに座った。その頬から首筋まですっかり血が上っていて、島崎は重ねてからかった。
「僕、もう普通の洋墨で“補修”してもらってるはずなんだけど、まだ恋される匂いが残ってるのかな……」
「不愉快だ」
 と芥川は虚勢を張った。わざと苛々いらいらしたそぶりで懐から煙草を出してくわえる。燐寸マッチを鳴らす。火をける。
「僕を――
 「オモチャ﹅﹅﹅﹅にしに来たのか」という言葉が煙とともに喉まで出かかったが、思い直して表現を改めた。
「僕をからかいに来たのか」
「そういうわけでも……君を玩具おもちゃにするのはまあついで﹅﹅﹅だよ」
 芥川は、自分が気をんだのに、島崎は全然気にしていないので拍子抜けがした。
 島崎も元のようにベンチの背もたれへ両腕を乗せ直すと、芥川の端正な横顔を見つめた。
「バタバタしてて、まだお礼を言ってなかったなと思ってさ。ありがとね……」
「どういたしまして」
 と芥川が応じたのが島崎には意外だったらしく、またちょっと笑ってはにかむ。
「何のお礼とも聞かないんだ……」
「ふん」
 島崎はその後の友人たちや久米の様子のことなどを教えてくれた。皆き物が落ちたような調子だという。
「司書や館長が、精密な調査結果をなかなか教えてくれないのだけが不満なんだよね」
 今度の事件を題材に小説を書きたいのだとも。芥川はそれを聞くとあまり愉快でなさそうで、
「よくもそう平然とそんなことができるよ」
 と批判的であった。
「平然としてるように見えるかなぁ……」
 と、島崎はつぶやいただけで否定はしない。芥川は長息して天を仰いだ。とんびいまだに高きところを円を描いて飛んでいた。
 翌日、島崎は芥川に改めて丁寧なお礼の手紙を書いて寄越した。簡潔な礼状で、それと礼物に変哲のない洋墨が二瓶。「君も万年筆は使わないと聞きました、予備があって困る物ではないと思うので」と言い添えてあった。
 芥川は自室の文机の前に座ると、菊池に頼まれていた原稿の続きを広げてペン皿から軸を取り、それに新品のペン先を付けた。
 島崎に贈られた洋墨を一つ開封した。ガラス瓶の蓋を開けると、真新しい洋墨の匂いが立ち昇った。うっとりするような、ほのかに甘くよい匂いであった。

(了)