春夜恋
三月に入り、近頃随分春めいてきたと思っていたところにこの冷え込みである。寒冷な地方では雪も降ったという。
「うう、寒い――」
芥川は、一旦はしまいかけていた綿入れを出してきて、それをかぶるように着ている。文机の上の
寝る前の書見をするにも手を出すのが寒い。と、机に積んだ本を眺めながら
本の脇の置き時計を見るとようよう日付の変わる頃である。
「―――」
(なにぶん、寒いのだから)
――こんな晩にどうにかして暖を取りたいと思うのは、人情というか、動物的本能というか、まあなんでもいい、とにかく仕方のないことなのだ。と芥川は自分で自分を納得させると、煙草を
「寒いな、今夜……」
島崎は文机の前で自分の細い肩を抱いて身震いした。羽織を着ていても寒い。近頃暖かくなってきたから……と思って、火鉢の炭を切らしてしまったのを後悔した。
机の上に広げた原稿用紙に書き物をするのも、こう寒くては手が冷たくてはかどらない。指先に湿った息を吐きかけてみても、またすぐに冷え切ってしまう。
真正面に置いた時計を見ると、ちょうど日付が変わったところだった。
(花袋や国木田はもう寝ちゃったかな……)
肌寒さから人恋しさへうつろう。一人ぼっちで冷たい布団に潜るのも寂しいようで。
「………」
島崎は、しばしもじもじしていてから、やおら机に手を着いて立ち上がった。
芥川と島崎が鉢合わせたのは、二人の部屋の間の暗い廊下の、真ん中より少し島崎の部屋に近い辺りで。
「―――」
「………」
小さな常夜灯が一つ、ぽつんと
「――君、こんな時間にどこへ行くんだ」
「……どこか出かけるの? 君」
ほとんど同時に言った。
「―――」
芥川は、む、と小さくうなった。島崎は闇越しに彼の不機嫌を感じた。
(こんな夜更けに何の用事で出歩くっていうんだか)
と芥川は思い、なにやら面白くなかった。別に島崎が夜中誰と
「帰る」
と、芥川は急に言って、くるりと
島崎は、きょんとして、
「え? どうして?」
と小首をかしげる。
「用があって出てきたんじゃないの……?」
「僕の行き先はどうやら留守らしいと、今わかった」
「………」
帰る。と、芥川はもう一度言い、下駄をコロコロ鳴らして歩きだす。
島崎は、芥川の広い背を追うようにして、ぴたりとついて歩いて行く。
芥川はやがて足を止め、後ろを振り返った。
「君――なんでついて来るんだい。どこか行くところがあるんじゃないのかい」
「さあ、僕の行きたいところと、君の戻るところとが同じなんじゃない……?」
島崎は、なんとなく気恥ずかしそうな声で言って寄越した。
今度は芥川の方が、キョン、とした。
(了)