縄のきしる音を聞きつけて、暗闇の中つと振り返ると、目の前に生白い少年の体が浮いていた。比喩ではなく、彼の足は地に着いておらず、頭上から垂らされた縄が首に巻きついてそれだけで体を支えていた。その縄は細い細い蜘蛛の糸を幾らもより合わせてできていた。
 眼前で首をくくっている島崎藤村の体を芥川は呆然ぼうぜんと見上げた。見ているうちに、島崎は宙に浮いた足の先から黒い文字に侵蝕されて、やがて全身醜悪な黒い反古ほごの塊と化した。
「待て!!
 と、芥川は“島崎の体であったもの”にすがりつこうとした。それを覆い尽くす不浄な文字を素手でこそげ落とそうとさえした。
 が、その芥川の手をつかんで止めた者があった。
「何をそんなに慌てているんだい?」
 と、別の芥川が芥川の肩を捕まえて島崎の体から引き離しながら言った。背中から芥川の耳元へ口を寄せて、例のねっとりと絡みつくような声を出した。
「君が彼の心を侵蝕したのじゃないか。君が」
「僕ではない、君のしたことだ!!
「彼を偽善者と責め立てたのは君だろう――
 かわいそうにねェ、と芥川は笑った。
「みィんな君に侵蝕されてしまう――でも、構わないよね。君はその度に心安らかになれるのだもの。いいよね、多少人に迷惑をかけたって。だって君は今までずっと我慢してきたんだもの。みんなの望むように振る舞ってきたんだもの。今度は君がささいな我儘わがままを言ったとしても、誰が君を責められよう」
「やめろ!! 僕を惑わすのは――!」
 芥川がどんなに力を込めて振り払おうとしても、もう一人の芥川は芥川を固く抱いて決して離れなかった。
 やがて“島崎だったもの”は天から縄を手繰り寄せられて、きしんだ音を立てながらゆっくり上へ上へ昇り始めた。芥川は手を伸ばそうともがいた。もう一人の芥川がそれを許さなかった。
「君、あちらは死人の逝くところだよ。君の行くトコロじゃナイ。君はこの地獄で楽しく愉快に暮らソウヨ」
「返せ――! 返せ!!
 と、芥川はそれでも手でくういて喉が潰れるまで天へ叫んだ。それを僕に返してくれ、と。同時にもう一人の芥川は、さも愉快そうに耳障りな哄笑こうしょうを飽くことなく続けた。
「ああアアアアッ――!!
 と、龍の咆哮ほうこうするような声を上げて芥川は布団の上に跳ね起きた。
 文机の上の置き時計は午前一時過ぎを指していた。
―――
 夢であった。
 目覚めた後もしばらく、はあはあと肩で息をしていた。真冬だというのにびっしょりと寝汗をかいている。
 れて額に張り付いた前髪をき分けてそのままたなごころで顔を覆っていると、夢の景色が五感までまざまざと脳裏によみがえる。きしむ縄の音、島崎の体へ触れたときのまだ生温かい肌の感触、第二の自己の汚らわしい声色、息遣いまでも。
 そのうちに、芥川はにわかに不安を覚えた。ばたばたと寝床から這い起きると、寝巻のまま下駄をつっかけて部屋の外へ飛び出して行った。


「………」
 手洗いから自室へ帰ってきた島崎が目にしたのは、芥川が戸口の前にべったりくっつき、顔を戸板へ押し当てて中の様子をうかがうようにしながら何度も何度もそれをたたいている姿であった。そのくせこの男は、人目を気にすることも忘れておらず、周囲へひっきりなしに視線を投げてはそわそわ落ち着かない様子だから可笑おかしい。
 芥川は廊下の向こうから島崎が帰ってきたのに気がつくと、
「うわっ! も、もう化けて出たのか――!?
 などと島崎にはわけのわからないことをわめいた。
「君、何言ってるの? というか、こんな時間に人の部屋の前で何してるの……?」
 島崎は芥川の大きな図体を押しのけて、戸の鍵を開けると先に部屋へ上がり、
「入りなよ」
 と芥川にも促した。
「誰かに見られる前にさ……」
―――
 芥川は、しばし立ち尽くしたまま島崎の後ろ姿を眺めていたが、
(生きていた――
 と、やがて大きなため息を漏らし、部屋へ入った。内鍵を下ろして畳へ上がった。
 島崎は眠たげな顔をしていて、まだ温かい寝床の方を恋しそうに見つめながらも、芥川を長火鉢のそばへ招いて自分もそこへ座った。
「君、なんて格好? 羽織も持たずに出てきたの?」
 芥川は返す言葉もない。火鉢の火にあたってさえ、体が小刻みにカタカタ震えていたのは、しかし寒さのせいばかりでもなく。島崎が貸してくれた綿入れを肩に掛けても、その震えは止まなかった。
 島崎もなんとなく不審に感じたらしく、
「君、いつもの煙草は?」
 と、手をあぶりながら尋ねた。
「忘れたよ」
「体の具合でも悪いの……?」
 島崎はますます不審そうに眉をひそめた。
「別にどこも悪くはないよ。ただ少し――嫌な夢を見たものだから」
「どんな夢?」
―――
「そういうのは口に出して言っちゃった方が、正夢にならなくていいって言うよ」
――僕のせいで君が自殺する夢だ」
 と、芥川は低い声で言った。島崎はちょっと眉を持ち上げただけで何とも答えず、しばし二人の間に沈黙が訪れた。
「……ふうん」
 ふと島崎は立ち上がると、鉄の薬缶に水差しの水を入れて持ってきて、炭火にかけた。
「そんなことを気にして、君、こんな夜中にわざわざ人の安眠を妨げに来たというわけ」
 僕は自殺なんてしないよ。と島崎は言う。
「まあ死ぬときの気持ちを取材したいというのはあるけどさ、それは別として……少なくとも、物を正しく見る目を持たない君の、子供のような批判を気に病んで死ぬほどやわじゃないのは確かだよ」
 と鷹揚おうように、いささか皮肉を込めた調子で言われ、芥川が思わず気色ばむと、島崎は一変してくすりと優しく笑った。
「少しは元気が出たかな……?」
 芥川は黙ったまま、しきりに鼻をすすって、さもそれは寒さのせいだと言わんばかりに綿入れに深くくるまっている。口寂しいと訴えた。我慢が利かないとも。
 島崎は薬缶やかんの蓋をあちちと摘んで水の具合を確かめ、
「僕の部屋には煙草は置いてないからね……じきにお湯が沸くから、お茶れてあげるよ」
 と蓋を戻したところで、その手を芥川に強く引き寄せられ膝が崩れた。
 芥川はそのまま島崎の部屋に泊まって、夜明け前に自室へ帰った。
 東の空が白み始める頃に窓を開け、冷たい早朝の風を肺一杯に吸い込んだときには、昨晩の夢の景色ももはや随分遠くなっていた。

(了)