虎夢

 気がつけばもう日付が変わろうという時刻になっていた。
 椅子の上で大きく伸びをすると、体の節々が鈍い悲鳴を上げた。知らぬうちによほど机にかじりついていたらしい。電灯の明かりで原稿用紙をにらんでいた両目もしょぼしょぼする。こんなことばかりしているんだから目が悪くなるはずだ。
(でも、今書きたかったんだ。今、がむしゃらにでも)
 と中島は思って、机の上を眺めた。
 電灯の橙の光に照らされた原稿用紙と、その光を反射して輝く万年筆のペン先と、幾重にも積まれた古代中国史の史書。原稿用紙に黒々と書きつけられた字は丁寧で、いかにも生真面目な書き手の性格を表していたが、隠しきれない興奮によって線の入りや留め跳ねが踊っている。
 書いているのは前漢時代を題材にした小品で、どうにかまとまったところまで今夜書き終えた。明日には仕上げて、吉川に見せに行くつもりだった。
(吉川さんは、これを読んだら何と言ってくれるだろう)
 と、中島は思いながら、原稿を手に取って何度も読み返した。
 もしかしたら、取るに足らない内容だと笑われるかもしれない。いや、吉川のことだから直接そうとは言わないだろうが、内心では失望されてしまうかもしれない。
 そういった不安が胸中に湧かないではなかった。やっぱり原稿を見せるのはよそうか――調子が出なくて書けなかったからとでも弁解すれば、吉川はたぶん「そうか」とうなずいて理由も聞かないでいてくれるだろう――という誘惑に駆られないと言ったら嘘になる。
 でもそんな誘惑には負けたくない。書きたい。とにかく書きたい。頭の中にある、遙か大陸の深山幽谷の風景や、古代の英雄や宮人、さまざまな人々の体温や息遣いを文字の姿にしたい。
「ふう」
 と、中島は熱っぽいため息をついて、原稿を机の上に戻した。
 創作意欲に身を焼かれるような思いをしているのは中島だけでなくて、吉川もそうなのだ。吉川は素直な男だから、中島と古い史書や人物について語り合いながら、あれを物語にしたいこれも皆に伝えたいと楽しそうに言う。
 そして吉川はその想いを率直に実行して、すでに習作をいくつか書き上げている。さすが多作の大衆小説作家らしい筆の速さだった。
 中島は、
「ぜ、ぜひそれを読ませてください。もしよろしければ」
 と吉川に頼んでそのうちの一作を借り受けていた。吉川も快く承知してくれた。その原稿がしまってある机の引き出しを開けて、さっきとは違った意味合いのため息を漏らす。
 実を言うと、まだあまりそれを読み進められていないのだ。
 まるきり読んでいないというわけではない。借りてきたその日にさっそく読み始めはした。
 原稿用紙十枚と読まないうちに、
(面白い――
 と、すっかり魅入られてしまった。初めて小説というものに出会った少年のように、早く続きを読みたくてたまらなくなった。
 しかしそれと同時に、胸の奥でもやもやとわだかまるものもあることに中島は気付いた。それは初めは小さなほくろのようなものだったが、吉川の小説を読み進め、面白い先が読みたいと思うにつれ、そのほくろもどんどん大きくなって、ついには原稿用紙をめくる手を止めさせるほどになってしまった。
 どうしても先を読むことができないのだ。物語の続きには飢えているのに、心のどこかでそれを制止しようとしている。
 中島は机の引き出しから吉川の原稿を取り出してみたが、やはり読む気にはなれず、長い間右端の表題の辺りばかり眺めていた。
(でも、いつまでも借りっぱなしというわけにはいかないし――私の習作を渡すときにでも、一緒に返さないと)
 そのとき当然吉川は感想を期待しているだろう。借りておいて最後まで読まなかったのでは、あまりに友達甲斐がない。とは思えど――
 中島は、結局吉川の原稿を机の上に置いたまま、席を立ってしまった。
(今夜はもう遅いから)
 明日こそは全部読もう、と思いながら、身仕舞いをして電灯を消し、寝床へ入った。近頃夜はめっきり冷え込むようになってきた。毛布を鼻先まで引き上げ、その下で体を縮める。
 外した眼鏡を枕元の卓へ置いた。
 暗闇の中、目をつぶって、ふと、
(そういえば“彼”は吉川さんの小説のこと、どう思ってるのだろう)
 と思い、そのことを念じてみたが、心には何も浮かばなかった。“彼”は答える気はないらしい。
(ちぇ)
 不満に思いつつ、枕に頭を預けた。
 夢中で小説を書いた疲れが出たと見え、中島はじきに寝入った。


 そこは年中暖かな、柔らかなそよ風が絶えず吹いているところで、昼も夜もない世界だった。いつも白い紙一枚透かしたような薄曇りの天はぼんやりと心地よく明るかった。
 水墨画のような幽玄な山野に囲まれた小高い岩山の上に、朱色の柱で囲まれた小さな東屋が建っている。その中に中島はいて、そして“彼”はたいてい外の庭にいる。庭の向こうには紺色の大きな池が見えたり、深い竹林が広がっていたり、ときどきで違う。たぶんそのときの中島の感情に似つかわしい景色が見えるのだろう。
 以前は、ここはこんなに開けた場所ではなかった。中島がいる建物はもっと堅牢で、冷たく、暗かった。小さな窓がたった一つだけあって、外にいる“彼”がいつもそれを通して中島を見つめていた。しかし中島の方からは“彼”の姿を見ることはできなかった。
 今は、中島にも“彼”が見える。
 “彼”は、あまり中島には構わず、庭で気ままにしていることが多い。一人で蹴鞠遊びをしたり、上手くない詩歌を詠んだりしている。中島は東屋の下で休んでいて、それを眺め、ときには筆を取ってその光景を散文に表したりする。“彼”は、そうして中島に見られていることに気付くと、決まって気恥ずかしそうな顔をする――
 ところが、今日はどういうわけか“彼”の姿が見えない。
 あれっ、と思って、中島は東屋の外に出た。
「ねえ、おおい」
 と呼んでみたが、一向に返事がない。庭の外には大岩の連なる鋭い谷がどこまでも続いていた。“彼”はそこに隠れているのだろうかと思った。
「ねえ――
 と、中島は谷の方へ向かってもう一度呼んだが、自分の声がこだまするばかりで、やはり返答はなかった。
 中島は、不安になってきた。
(“彼”は戻ってくるだろうか――このまま帰ってこなかったらどうしよう)
 と考えると、まるで我が身の片目、片耳、片手足、臓腑の片割れを失ったような心細さがして、矢も盾もたまらず谷へ向かって駆け出した。そこはとても人の脚では越えられないような険しい地形だったが、中島が走り出してすぐ、奇妙なことが起こった。
 無我夢中で駆けていくうち、いつしか中島は左右の手で地を掴んで走っていた。何か身体中に力が充ち満ちたような感じで、軽々と岩石を跳び越えて行った。
 中島は四本の脚を力いっぱいに使って谷を駆け抜けた。
 やがて谷を抜けると、その先にはさまざまな景色が広がっていた。それは黄河であり、京城の街並みであり、南国の浜辺であり、シャンゼリゼ通りであり、東京の人混みであった。中島は大河を飛び越え、建物の壁を走り、白い砂浜を蹴って船から船へ飛び移り、人の波をすり抜けていく。
 そうして辿り着いた先は、古びた学校の狭い博物標本室であった。中島はそこでようやく足を止めた。
 アリゲエタアや大蝙蝠の剥製だの、かものはしの模型だのの間を通った奥に、簡素な机が据えられている。その向こうは夕日の差し込むガラス窓だった。机にしなだれかかるようにして、一頭の真っ白な虎が、外で赤く染まっている運動場を窓から見下ろしていた。
 この不可思議な世界の中で、中島とその虎だけが息をして生きていた。
「やっと見つけた」
 と中島は言った。あれだけ走ったのに呼吸一つ乱れていない。
「こんなところで何をしてるんです?」
 と尋ねると、白い虎はこちらを振り返って、じろりとにらみつけてくる。
 中島はめげずに、重ねて問うた。
「どうしてそんな姿をしているんですか」
「わかっているくせに、聞くな」
 と、虎は――“彼”は言った。
「吉川さんの小説のことですか。あなた、“私”が尋ねても答えようとしなかった」
 と中島は言う。
「“私”に、吉川さんの小説を読みたくないと思わせているのは、あなたの方ですか?」
「“俺”が書いた小説を、吉川に読ませるのはよそうかとためらわせているのは、お前の方だ」
 と、“彼”は出し抜けにそんなことを言った。
「えっ?」
 中島が面食らうと、“彼”は大きな金色をした獣の瞳を切なげにゆがめた。
「馬鹿だなお前、自分の姿に気付いていないのか」
 中島は、慌てて己の体を見回した。
 そして、自分も“彼”と同じ姿に変じていたことを悟った。白黒の縞の毛皮をまとい、四足で歩く獣。人ではない化生だった。
 不意に、“彼”が机から下りて、中島の方へにじり寄って来た。
「お前はそんなに我が身が可愛いか。自分の書いたものを人に読まれて、大した才能もない、凡夫だと思われるのが、そんなに恥ずかしくて恐ろしいのか」
「あ、あなたこそ、才能ある人の書いたものを読んで、自信をくじかれるのが怖いのでしょう。何の根拠もなく自分の力量の方が上だと思い込んでいるんでしょう」
 二頭の虎は寄り添い、黄金色の視線を交し合う。
 “彼”の視線は切なく、中島のそれは優しかった。しばしの沈黙ののち、中島の方が先に口を開き、弱々しい声を出した。
「こんな浅ましい姿になってしまう、我が身が可愛い私のことは嫌いですか」
――馬鹿」
 “彼”は、ごろごろと喉を鳴らしながら、鼻先を中島の首筋へこすり付けてくる。中島はうっとりと目を細めて身震いした。
 体の震えが収まると、中島だけがいつの間にか虎から人の姿に戻っていた。
 中島は、床へ着いていた両手を上げ、“彼”の首根っこにしがみ付き、毛皮を懸命に撫でた。そうやっていれば“彼”も人に戻るのだと信じているように愛撫し続けた。が、“彼”にそのような変化はなく、
――どうして」
 と、中島は悲しげに“彼”の獣の目を覗き込んだ。
「それほど俺の方の虎は執念深いのだろうよ」
 と“彼”は自嘲するような口調で答えた。
「そのうち俺にもどうにもできずに暴れ出して、お前を食らうかもしれないな」
「あなたに食べられるならそれもいいでしょう」
「馬鹿――
「馬鹿なんです」
 中島は“彼”の毛皮に頬をすり寄せた。
「人だろうが、虎だろうが、たとえもっと醜い姿になったとしても――私にはあなたを愛するより他ないんです。そういう風に生まれついたんですから」
―――
「だって、私たちは」
 と、中島が最後まで言い終わらないうちに、“彼”の様子が変わり始めた。唸るように喉を鳴らし、渇きを訴えて喘ぐ。全身の毛がぶるぶると逆立つ。吐く息も吸う息も荒々しくなる。金の瞳は本能に潤む。
 中島はいっそう愛おしげに“彼”の毛皮を撫でた。
「大丈夫ですよ――私は、怖くは」
「そうじゃない。お前はわかってない」
「え?」
 中島が、きょとん、とした顔を上げると、“彼”と目が合う。“彼”の目は、
「欲しい」
 と言っていた。ただしそれは血肉に飢えているという意味合いではなく、もっと、別の――
 ようやくそれに気付いた中島は、かっと顔に血が上るような心地がした。
 “彼”がぽつりと言った。
「帰るか」
「えっ、あ、あの」
「そのまま掴まっていろ。しっかりな」
 言うなり、“彼”は四足で力強く地面を踏みしめ、蹴り、猛然と駆け出す。
「うわっ!」
 と中島が慌てて背に掴まったのを確かめてから、“彼”は一気に天まで駆け昇った。
 高く、高く昇って乳白色の雲海へ出た。背に愛しい片割れを乗せた美しいけだものは、古い言い伝えの天仙のように、棲家へと向かう大きな風の一部となって吹き抜けていった。


 風に運ばれて、二人は岩山の棲家へと戻ってきた。
 あまりに彼の足が速いので、その背に掴まっていた中島はひたすらに目をつぶったままでいた。
――いつまでそうしているつもりだ」
 と彼があきれている声がする。それを聞いて、やっと中島はまぶたを持ち上げ、両目に飛び込んできた光景に仰天した。
「ひえっ! こ、ここは――
 というのは、棲家がいつものような簡素な形をしていなかったので驚いたのである。
 そこは前漢時代の華やかなる後宮といった風情の、大陸様にしつらえられた局で、中島は彼の背から天蓋の付いた美麗な寝台の上へ放り出された。辺りを見回せば、調度品は金銀や玉で飾られた物ばかり。寝台の覆いはもちろん、書棚の読物までも無垢なる絹でできている。
 局の外で大勢の宮人が働き遊ぶざわめきが聞こえる。ただしそれは自分たちのような本物の生命ではなく、物の精といったものが官吏や宮女、宦官となって部屋を取りまいているのだった。
 ここは高貴なる者の寝所なのだ。
(わ、“私”が書いている小説の舞台に似ているような)
 調度品や外の様子を近くでゆっくりと眺めてみたかったが、そうもいかない。中島の体のすぐ脇で獣の唸り声がして、振り返ると、未だ白虎の姿のままの彼が寝台の縁に前足をかけて身を乗り出してきている。
「あっ、待っ――
 と皆までは言わせてもらえず、彼は中島の腹の上に乗りかかってきた。中島はうろたえて、
「ちょ、ちょっと、さすがにその姿のままでは」
 と、彼を押し返そうとしたものの、その貧弱な腕で虎の巨躯をどうこうできるわけもない。
 彼は喉をごろごろ言わせながら中島へじゃれついてきた。鼻先を上着の襟の中にまで突っ込まれて、首筋に毛と髭と湿った息が当たると、中島はたまらず目をぎゅっとつぶって首をそらせた。悲鳴が出た。
「ひ――
 必ずしも恐ろしさから出たとも言えない声色だった。
「お前――
 と、彼が耳元で人語を発した。中島の様子を面白がっているらしい。
 彼は後足の間にある中島の袴の裾へ、縞模様の長い尻尾の先を忍び込ませた。剥き出しの足首へそれを絡みつかせるようにする。と、中島がまた悲鳴とも喘ぎ声ともつかない声を上げる。
(からかわれてる)
 と中島は思ったし、事実彼は笑っていた。
「ひどいですよ」
 中島は恨み言を言いながらも、彼の背へ両腕を回そうとした。
 そのとき、あれ、と気が付いた。手に触れた彼の肌は獣の毛皮でなく人の衣をまとっていた。
 中島がぱっと目を開けて見ると、眼前に彼の不遜な面構えがある。造りは睫毛の一本に至るまで中島と同じなのに、受ける印象は全く正反対のあの顔が小憎らしく口の両端を吊り上げている。
 中島は目を丸くして、
「いつの間に」
「けだものと共寝する方がよかったか」
「そ、そそ、そんなはずがあるわけないじゃありませんか」
「ふん」
 彼は鼻を鳴らして甘い声をもらした。
 中島と額と額がぶつかるところまで彼は顔を近付けてきた。彼の物欲しげにわななく唇が口元をかすめ、中島はぞくぞくと震え上がった。
「ま、待ってください――
 と声まで震わせながら、中島はちょっと彼を押し返し、口戯には邪魔っ気な眼鏡を外した。
「ねえ、あんまり、離れないでくださいね。近くにいてくれないと見えないから――
 と、ねだった。
 それでこらえきれなくなったように、彼は今度こそ唇を押しつけてきた。
「んん――!!
 彼は最初から激しく求めた。食らいつくようにしてきた。中島はなすがままになっていた。
 息苦しくてむせ返るほどのひとときの後に、今度はひどく優しくする。舌と舌とがそこだけ別の生き物のように絡み、もつれ合った。
 腕と腕、脚と脚も別ちがたく絡み合った。身は一つ、背中の二つある生き物になって、寝床の上で狂おしくのたうつ。
 脱皮でもするように互いの身に着けている物を剥ぎ取り合った。景色も容貌も心のままに変わるのに、衣服だけいちいち手間がかかるのは妙な感じだと中島は思ったが、彼は別に気にしていないようだったから黙っていた。
 抜け殻のごとき衣服を、彼が寝台の下へ蹴落とした。
 また一匹の生き物のようになる。
「ぅ――ううん――
 鏡に映した二身が互いに接吻を求めて貪り合う。はたから見れば、もうどちらがどちらとも見分けがつかないだろう。
 やがて彼が中島を組み敷いて上になった。
「あ――
 痺れるほど吸い合った唇と唇が離れ、中島の方のそれからわずかに声がもれた。彼の方は、少し下がって中島の喉へしゃぶりつき、そこからさらに下へ下へと向かう。
 中島はのけぞって、さっきよりもはっきりと声を上げた。
「あ――っ」
 彼の唇と舌とが、中島の体を這い下りていく。鎖骨の根元、みぞおち、へその上と通って、その下の陰部にまで。
 彼は初めに裏側を付け根から舐め上げて、そのまま口を離さずに一番先を軽く吸い上げた。中島が手もなく喘ぐと、
「ふふん」
 と嬉しそうな顔をする。
 中島には、彼がどんな表情をしているのかさえ裸眼では定かでない。
「お前、見えないんだったな」
 と、彼が言って、おもむろに体を起こし、中島の顔の横まで伸び上がってきた。中島の耳元で何事かささやくと、中島は顔を真赤にして呻いた。手で顔を覆って隠そうとまでするので、彼はおかしそうに笑っている。
 彼は右手を中島の脚の付け根へ伸ばした。二人にしか聞こえない程の声で何かささやき始めた。
「っあ、いや、それは――
 とか、
「そんな、ち、違います――
 とか、中島が時折かぶりを振るのだが、彼に男根を掴まれている姿では威勢が出ようはずもない。
 やがて彼は元のように中島の脚の間へうずくまった。曲げられた両膝へそれぞれ手を置いて、屈んで、口に鈴口の先が当たると舌を這わせながら咥え込んだ。
「あっ! っ、それ」
 中島は大きく喘いだ。腰から下が跳ね上がりそうになった。が、体は彼に押さえつけられていて、結局彼に咥えられたものばかりが何度もひくついた。
 彼はそれを懸命にしゃぶって、口に入れたり出したりして、愛撫した。
「あ、ああ、あ、っあ!!
 だらしなく開いた中島の口から漏れる声がだんだんと切羽詰まったものになってくる。
 彼は片手を寝床に下ろした。敷物の上を滑らせ、中島の体の脇を通って胸元まで上った。指先で小さな突起をなぶると、中島は赤面した顔を恨めしげにゆがめてこちらをにらんできた。
「だ、だめですそれ――もう、っ――
 床の敷物を引き裂かんばかりに、中島の両手の爪がそれに食い込む。
「何がだめなんだ」
 と、彼は一笑に付して取り合ってくれない。どころか一層愛撫に熱を入れる。
 中島は追い詰められ、痩身をうねらせて身悶えした。
「ああ、だ、だめ――!!
 腰が抜けそうなほどの愉楽がこみ上げてきた。
 が、頂が目前に見えたそのとき、彼は不意に愛撫の手を止めてしまった。中途半端なところで放り出された中島は、もどかしさにのたうちながら彼にすがる視線を向けた。
「あ、な、なんで――
 彼は別段理由は言わず、中島の脚の間で張り詰めているものに指を絡めた。先走って滴ってくる汁を後ろのすぼまりにまで塗り付ける。浅く指を入れると、
「っ、ううぅ」
 と中島が声にならない声で呻いた。快感を覚えたらしかった。
 彼は焦らすように指を抜き、一度体を起こそうとした。
 そのとき、急に中島も起き上がって彼の腕を掴んだ。それが思わぬ力で、
「えっ」
 と、彼は虚を衝かれた。
 中島はいささか乱暴に彼の腕を引っ張り、寝床に引きずり倒すと、今度は自分が上になって乗りかかった。彼の鼻先まで顔を近づけて言った。
「わ、私だって」
―――
「私だって虎になれるんだってことを、忘れてやしませんか」
「忘れてたな」
 むっ、と中島がふくれ面をする。彼はそれへ手を差し伸べ、垂れてくる長い前髪を掻き上げ撫で付けてやった。
「で、虎はどうやって俺を食らうつもりなんだ?」
 中島は答える代わりに彼の唇を奪った。吸い合いながら、右手を彼の脚の付け根へと滑らせる。そこの具合を指で確かめると、彼の方も中島に負けず劣らず屹立している。触っているうちに先の方が濡れてきた。
「気持ちがいい?」
 と聞いてみると、
「ん」
 と、彼はごく短く答えた。言葉は少ないが、中島を見つめ返してくる目は切なげだった。中島は機嫌をよくした。
 彼の耳元や首筋にも唇や舌を這わせ、虎が牙を立てる真似事をして犬歯を押しつけ、痴戯にふけった。
 彼の胸へ痕が付くほど強く吸い付くと、痛かったのか彼は唸った。
 中島は「ごめんなさい」と謝ってから、今度は優しく接吻を降らせた。乳首へ舌をまとわりつかせると、彼がたまらず生唾を飲んだのがわかる。喉が大きく波打って、同時に中島の手の中の物もひくついた。
「もういい」
 と出し抜けに彼が言った。
「え?」
 と中島が聞き返す暇もなく、腰の辺りを彼のかいなに絡め取られた。その手はそのまま臀部へ下りてきた。
「ちょ、あの、待って――
 中島が腰を浮かしかけたのを、彼は腕を掴んで強引に引き寄せた。とはいっても、その手付きは中島が同じようにしたのに比べれば随分優しかったが。
「待てない」
 彼の体を跨いでいる中島の脚の間に熱い塊が触れた。尻の谷間へ彼が腰の物をこすり付けてくる。
「っ――!」
 中島はたまらず身をくねらせた。
「お前だって欲しいだろう」
 と、彼がぞっとするほど濡れた声でささやく。自分と同じ声とは思えないほど色っぽい。
 中島が黙っていると、彼は手指も使ってそこを責め立ててきた。背中の方から尻の間に触れて、指先でちろちろくすぐられる。
「あっ! あっ、そ――んんっ!」
 喘ぐ口は彼の舌で満たされた。
「ん! んん! んっ――
 彼の指が男性器を模した動きで出たり入ったりして、中島をどうしようもなく淫らな気持ちにさせた。
 彼の体にわずかに緊張が走ったのが肌でわかる。
(あ、来る――
 と中島は思って、彼にすがった。
 指を抜いたところへ彼は容赦なく入ってきた。
 中島は乱れた声を上げた。
「こらえろ――噛んでもいいから」
 と、彼が言う。
 中島は、気がつくと彼の肩に歯を立てて噛みつき、侵される快楽に耐えていた。
 彼は、それが痛いとはただの一度も言わず、愛おしげに中島の体を撫でながら腰を突き上げて侵した。
「っあ、はぁっ、ね、ねえ――
 と、中島が、彼の肌にしゃぶりついたまま、何やら聞き取りにくい声で言った。
「あなたの下に敷いてほしい」
 というようなことを、どうやらねだっているらしい。彼は応じてくれて、中島の体ごと寝返りを打って自分が上になった。
 中島は、うっとりと取り憑かれたような目付きで彼を見上げた。彼の肩や胸元に自分の付けた傷痕が赤々と浮いていて痛々しく、しかし同時に甘美な気持ちも呼び起こす。羞恥心は自己を損壊する悦楽を知っている。
「ごめんなさい――
 と、中島はうわ言のように言った。自分を罰してほしい、というようなことも言った。
「俺にできないことをねだってくれるな」
 と彼は返答した。自尊心の発する声はひどく優しく、悲しげだった。
 二人の交わりに一際情がこもる。つながっているところが動くその都度、中島がこらえきれずに喘ぐ。その唇を彼がついばむ。さらに身を深く折って肩先や乳首まで吸い上げながら燃え上がっていく。
「あ、あっあっあっああぁっ――!!
 中島は身を焼く愉楽に他に為す術なくのけぞった。彼が男性器を扱く愛撫まで加えてくると、もうだめだった。
「あぁい、いく――いきそう、いく――!」
 堕落しきった悲鳴を上げて、中島は彼の手に白濁した液を撒き散らした。それにつれてたまらず疼いた後ろの穴へ、彼も貪るように突き入れてきて達した。
「あ――
 ことが済むと彼は離れていったが、まだ彼が中に入ったままでいるような感覚は残った。中島は目をつぶってそれに浸った。
 ふいに、脇から抱きかかえられ、体を裏表にひっくり返された。驚いて目を開けると、眼前には乱れた寝床が迫るばかりである。うつ伏せにした中島の背へ彼はもう一度乗りかかってきた。
「えっ、あっ」
「まだ全部済んでない――
 とささやきながら中島の尻の間へこすり付けてくる腰の物は、さっきまでとさほど変わらないくらい硬くて熱い。
「っあ、ああぁっ!」
 二度目の情交に、中島は寝床にしがみついて身悶えした。
 彼の手が中島の手に重なり指と指とをきつく絡める。ニ身が一つに溶け合うことは永劫叶わなくとも、和合することはできる。
「俺たちはそういう風に生まれついたのだから」
 と、全てが済んだ後で彼がぽつりと言っていた。


 てん、
 てん、
 と、彼が表の庭で鞠を蹴っている音がする。自分の蹴上げた鞠を落とさないように蹴り続けているのだった。
 そうやって遊びながら、ときどき短い詩歌を詠んだりする。
 中島は、いつの間にか平時の赤い東屋に戻った棲家の中からそれを眺めていた。椰子を編んで作った椅子に座り、机に頭を乗せて、ぼんやりと彼を見ている。先刻彼と共寝した熱がまだ抜け切らないようだった。
 彼の身軽な動きを西遊記の斉天大聖に見立て、散文に描いてつぶやいてみる。
「全身些かの隙もない逞しい緊張。律動的で、しかも一分のむだもない――
 その中島の声が聞こえたのか、彼がつい鞠を足先から落としてしまったのが見えた。彼はこちらを振り返って、気恥ずかしそうに顔をしかめる――
 中島は机に頭を預けたまま、静かにはにかんで笑った。


 虎になる夢から中島がふと目覚めたとき、窓の外はもう白んでいた。けれども時計を確かめると起床にはだいぶ早い刻限であった。
 中島がおもむろに毛布を頭の先まで引きかぶったのは、頬に当たる朝の空気の冷たさのせいばかりではない。
―――
 ぬくぬくとした寝床の中で、夢の光景を反芻して一人で真赤になっている。
(お、おかしな夢を見てしまった)
 と思った。“彼”も同じ夢を見たのだろうかという疑問が浮かび、
(あの、あなたもさっきの夢を見ましたか?)
 とか、
(もしかして、あれはあなたの夢ですか?)
 とか、念じて尋ねてみたが何の答えも浮かんでこない。
 中島も別段それでがっかりするようなこともない。こんなことをして“彼”と意思が通じているのかさえ、実のところわからなかった。
 ただ、もし“彼”が自分に何か伝えたいことがあるのだとしたら、そのときそれがどんな小さな声でも聞き逃さないように、自分の心に耳を澄ませていたい。そう思う。
 二度寝をするには目が冴えてしまっていた。中島は寒さをこらえて寝床に起き上がった。
 枕元の卓の引き出しに、半分ほど空になったゴールデンバットがある。それを一本取って、先を卓で軽く叩いてから唇に挟み、燐寸を擦った。小さな炎の熱がやけに温かかった。
 ラムの香りのする煙をゆっくり吸いながら、改めて明け方の虎の夢について考えている。
(私たちが住んでいたところはなかなか綺麗だった――あの絢爛な寝所はやっぱり間近で眺めてみたかったな)
 そんなことをつらつら思う。小説の役にも立ったかもしれないのに。
 生まれ変わる前と変わらぬ自分の異国・幻想趣味。ロマンチシズム。虎になって天地を駆け巡る私。美しくもどこかほの暗い陰のある世界で怪しの気配がうごめく辺りなどは鏡花の小説の影響だろうか。鏡花ほどは、巧みに思い描けないが。
 相対する二元の和合というのはいささか密教的――まあ、通常二元は陰陽、男女の性に象徴されるものではあるが――
 西洋の哲学や心理学に照らせばどうだろう。フロイド辺りに判じさせれば、自分は随分倒錯しているという話になりそうな気もする。確か、乱歩はフロイド全集の二種の邦訳を全部愛読したと言っていた。
(いやこんなこと、乱歩さんに話しはしないけど。またぞろ心理試験なんか勧められるようなことになったら面倒だもの――
 夢のことなど、思い出そうとしても細部はあやふやなものだし、それに時間が経つにつれ記憶はかすみのように薄らいでしまう。煙草の煙が頭に回ってそれを加速させるような気もする。
 バットを一本吸い終わると、灰皿を片付けるために寝台を離れた。
「うう寒い」
 机に灰皿を置いて、身震いしたとき、夕べ広げたままにしていた吉川の原稿が目にとまった。
 そのとき、
(読みたい)
 というささやきが心のどこかで聞こえたような気が、中島はした。
 その気持ちはどんどんふくらんでついには表出した。あの主人公はどんな運命を辿るのかしら。吉川はどんな表現でもってそれを語るのかしら。と、なんだか無性に気になり出した。
 中島は吉川の原稿を手に取った。寒かったから寝床へ戻り、枕の上に原稿用紙を置いて、うつ伏せになり毛布をかぶった。電灯に明かりを入れる。卓から眼鏡を取って、毛布の端でちょっと拭いてから掛けた。
 うつむくと長い前髪が垂れて邪魔っけであった。前髪を掻き上げて、うなじまで撫で付けた。
 そうしながらも気がはやって、両目は原稿用紙の字を右から次々追い始めている。
 文字と冷たい空気とを呼気とともに体内に取り込むかのごとく、中島は夢中になって読んだ。夢中のあまり、午前の図書館での仕事に危うく遅刻しそうになり、仲間の文人たちには大層からかわれてしまったが。

(了)