空蝉

 今日一日我儘わがままを言っても良い券
 と丁寧な字で書かれた紙切れを島崎から渡された芥川は、大いに困惑して、両方の眉の根と根がくっつくくらいそれを寄せ合って顔をしかめていた。
 事の次第はこうである。
 三月一日に日が替わってすぐ、寝床の端でまどろんでいた島崎は、反対の端で向こうを向いて寝ていた芥川へ、
「そういえば君、今日は誕生日だね……」
 と言った。
「おめでとう」
――今更誕生日を祝われて喜ぶほど子供ではないよ」
 芥川は、起きていたらしく低い声で返事を寄越した。
「僕、何も贈り物を用意してないや……ごめんね」
「君に気を遣われる方がおかしいだろう」
かたたたき券﹅﹅﹅﹅﹅﹅でもあげようか」
「僕はそれほど年寄りでもないよ」
「………」
 島崎は、思案顔をしてから、そっと布団を抜け出すと机の前に行ってペンを取った。便箋を一枚四つ折にして切って、その紙片に何やら書きつけて戻ってきたな、と思ったら冒頭のような次第だったわけである。
「何だいこれは」
 と、芥川は問うた。
「何って文字通りだよ……今日一日、君の我儘わがままを聞いてあげようっていう……」
「馬鹿にしてるのかい」
「僕は真面目なつもりだけど」
 何でも君のしたいことを言ったらいいよ、と言う。
癇癪かんしゃくを起こして椅子を振り回してもいいし、花瓶を三つでも四つでも壊していいよ……」
「今日一日、君の顔を見たくないと言っても?」
「僕にひどいことをするのでも、いいよ……」
―――
 芥川は、むっつりと顔をしかめて、紙片を寝巻のたもとに突っ込んでしまった。
 物問いたげな様子の島崎へは、こう言ってやった。
「そういうことなら僕は、『我儘わがままを言わない』という我儘わがままを通させてもらうよ、君――
 そうしてまた島崎へ背を向けて眠った。
 明け方、芥川は自室へ帰ると文机の前に座って、たもとから紙片を取り出してつくづく眺めた。
 静かに引き出しを開けた。紙片の折り目を綺麗に伸ばし、それを、幼い子供が街の隅で拾ってきた空蝉うつせみでもそうしておくように、手前の方へそっとしまっておいた。

(了)