回転寝台と北京家鴨

「ここへ取材に行きたいんだよね……」
 と島崎が差し出してきた雑誌の誌面を見ると、豪勢ながらけばけばしい内装のホテルの一室が大判の写真で掲載されていた。雑誌そのものも、どこで手に入れたのか随分猥雑な代物だった。
 芥川は、じろりと流し目で島崎をにらんだ。
「それが?」
「君、一緒に来てくれない?」
「どうして僕が」
 ぷい、とそっぽを向く。手にしていた煙草をくわえてツンとしている。
「自然主義のお仲間とでも行きたまえよ」
「だって、花袋や国木田じゃ学生同士と思われて入れてもらえないかもしれないし……連れ込み宿つまり、今風に言えばラブホテルなんだよ、ここ」
 げほ、と急に芥川は煙にむせ、き込んだ。
「余計に僕が誘われる意味がわからない。ご免だよ」
「だって他に頼める人がいないからね。君ならどう転んでも妙な雰囲気になったりしないと思って」
 それとも、僕の前で理性を保つ自信がないのかな。と言われると、芥川も心中穏やかでない。むっ、と顔をしかめた。
「自信はある。君に変な気を起こすなんてあり得ないよ」
「じゃ、一緒に来てくれるよね……」
―――
「もし断るなら、それはつまり自信がないってことだものね……」
 ということになった次第である。


 鶯谷で乗合自動車を降り、しばらくてくてく歩くと島崎の目当てのラブホテル街に行き着く。
 芥川は島崎と並んで歩きながらぶつぶつと不平を述べていた。
「こんなところまでわざわざ来て――本当にその宿あるのかい」
 と芥川が懐疑的になるのも無理はない。雑誌の記事では、ホテルの内装はいささか趣味を疑うほどきらびやかなものだったが、この辺りに乱立する宿はたいてい古びた灰色のコンクリート壁で味も素っ気もない建物ばかりである。その屋上や壁面で昼間でもちかちか点滅している赤青黄色のネオンサインがむなしくさえある。
「確かこの辺りのはずだけど……」
 と島崎は、手近な建物の入り口に掛かっている電光板をひょいとのぞいた。一枚の板を八つのマスに区切って、それぞれに部屋の内装の写真を貼って料金を記してある。空き部屋の部分だけ電灯がいているという仕組みだった。
「ねえねえ、これを見てゆっくり部屋を選ぶ人っているのかな……みんな早く中に入りたいと思うんだけど」
「恋仲の人の機敏さが試されているんだろうさ」
 と芥川は適当なことをうそぶいている。通りの奥の方で、なにやら訳ありそうな年配のカップルが人目を避けるようにササッと小さなホテルへ身を隠すのを見た。
 芥川と島崎のごとく通りを行ったり来たりうろついている人間はかなり目立った。
「いい加減、どこかへ入ってしまわないか」
 と、芥川は少年のような姿の島崎を連れているのを決まり悪く思って言った。
「……やっぱり変な気分になってきちゃったの?」
 と島崎が半眼になって流し目を寄越した。
「違う! 君を連れ歩いてると僕が白い目で見られる。そんな子供みたいな格好をして……」
 ただでさえ童顔の島崎がローティーンの学生のように半ズボンなど穿いているものだから始末が悪い。
「これ変?」
「変――とかそういうことじゃなくてだね、もっと年相応の」
「あっ……」
 島崎は芥川の小言をうっちゃって、急に道路の反対側へ走った。
「ねえ、あったよ、ここ……」
 と手招きされて、芥川もそちらへ行けば、やはり薄汚れたコンクリートの箱のような建物がそびえている。
「本当にここなのかい」
「間違いないよ」
 島崎は建物の看板と、手帳に挟んだ雑誌の記事の切り抜きを見比べた。
「ホテルパピヨン、四〇三号室」


 その部屋のドアを開けた瞬間、
「うっ――!」
 と室内から感じる圧の強さに芥川は思わず一歩後ずさりをした。
 灰色のコンクリートの外観からは想像もつかぬ絢爛な空間が目の前に広がっていた。ロココ調の装飾を施した大理石の壁に天井のシャンデリアの黄色光が反射して、キラキラというよりはギラギラ輝いている。調度品もロココで統一されていた。
「ねえ、気圧けおされてないで中に入ろうよ」
 と島崎が着物の脇を摘まんでくる。
 二間続きの部屋になっていて、入り口に近い方に浴室、ドレッサー、長椅子などがあり、奥は寝室だった。
「僕だったら絶対にこんなギラついた場所じゃ落ち着いてできないね。出るものも出なくなる」
 と辟易へきえきしている様子の芥川をよそに、島崎は興味深そうにあちこち眺めては手帳にメモを取っている。
「お風呂がガラス張りだ……」
 室内にせり出す形の浴室は壁が透き通って中の様子が丸見えだった。ちょうど長椅子に座って鑑賞できる具合である。
「体洗ってるところなんか見られたら落ち着かないだろうね……」
 芥川の方を振り返ると、彼はもうすでに疲れてきたらしく、長椅子にぐったり座り込んでいる。その周りにテーブルや電話があり、裸体の男女の彫像などが壁に飾ってあるのはいいとして、椅子の脇に置かれた玩具おもちゃの木馬が目を引いた。
「なんでこんなところに玩具おもちゃがあるんだろうね?」
 島崎はなんとなくそれに乗っかってみたが、特に変哲のない、前後に揺れる木馬である。胴体の部分は座ったときに痛くないように布張りになっていた。
 隣で島崎の体がゆらゆらしているのを芥川は眺めていたが、あるときふと、木馬の首の付け根のところに丸いボタンが付いているのに気づいて、それをチョンと指で押すと、
「きゃっ」
 と急に島崎が悲鳴を上げてそれから飛び降りた。
―――
 芥川は激しくバイブレーションを始めた玩具おもちゃの木馬をにらみながら何やら真剣に考え込んでいる様子であったが、
――わからないなぁ、いったいどういうプレイに使うのが正解なんだこれは」
 と、結局徒労に終わったようである。


 島崎が言うには、
「一番気になってたのはベッドなんだ……」
 だそうで、二人は寝室へ移動した。
 寝室も、他と同じくロココ調できらびやかな調度品が設えてあった。特に巨大な円形ベッドの両脇の壁には大きな鏡がそれぞれ掛かっており、合わせ鏡になって不可思議な景色を映し出している。
 芥川はそれを見ただけでもう目まいがすると言った。
 島崎は靴を脱いでベッドに上がると、枕元に膝でにじり寄って、その辺りをごそごそ探った。やがて、
 カチリ、
 とボタンの押下された音がして、円形のベッドはギシギシときしみながら右回転を始めた。木製なのでことさらによくきしんだ。まるで浅草公園のガラガラゴットンと音を立てて回るメリーゴーランドのように。
「思ったより速く回る……」
 と、島崎は回っているベッドに寝そべって手帳を書きながら言った。
「この上でつまり……そういう行為に及んでて気持ち悪くなっちゃう人とかいないのかな?」
「僕は理解に苦しむよ」
 と芥川は心の底から言った。
「そもそもなんで回る必要があるんだ」
「僕に言われても……楽しいからじゃない? 子供はメリーゴーランドや回る遊具が好きだし……」
「恋仲の大人が来る場所だろうここは」
「アレの最中なんて大人も子供みたいなものだよ。自分と相手が気持ちいいことしか考えてないんだから。それとも君って、アレの間もそうやって小難しいこと考えてるの?」
―――
「君も乗ってみれば? 楽しさがわかるかもしれないよ」
 遠慮するよ! と芥川はそっぽを向いている。


 一通り部屋の中も見て回った。
「帰ろうじゃないか、気が済んだなら」
 と芥川が促したが、
「せっかく来て部屋を見ただけっていうのももったいないし……お風呂にでも入って帰ろうかな」
 などと島崎は言い出した。
「えっ、お風呂ってあれかい」
 と芥川が指差したのは例のガラス張りの浴室である。「そうだよ」と島崎はうなずいた。
「別に君に見られても僕は構わないけど……でもできれば見ないでくれた方がありがたいかな」
「見ないよ! 君の入浴してる姿なんか」
 というわけで、浴室に向かう島崎と別れて芥川は一人寝室にいる。
 他に座る場所もないのでベッドに腰掛けた。懐手をして、
(何をしてるんだか、僕は――
 と厭世的な気持ちであった。
 やがて浴室から島崎がお湯を使っている音が聞こえてきた。それにほんのり甘い石鹸せっけんの匂いも届いた。
(恋人の湯上がりをこうして待つ男もいるんだろうな)
 あの長椅子に座って恋人の裸体を鑑賞するほど肝は座っていない、という男も多かろう。そういう男はこうして一人ぽつねんとベッドで待っているのだろうな。と思ってから、急に気恥ずかしくなり、
(なんだかまるで僕が彼の湯上がりを待つ恋人みたいじゃないか)
 と、バツの悪い気分で居住まいを正した。
 お湯を体にかけているような水音が時折する。その合間合間、静かになっているときは体を洗っているのだろう。
 島崎の裸を見たことがあるわけではないが、どこもかしこも色白で柔らかでほっそりしていそうだと思う。事実、半ズボンなぞ穿いて剥き出しにした膝もすねもまるきり少年のそれであった。
―――
 いけない。
 もう考えるのはよそうと思って、そわそわと体を揺すった。何か気をそらすものが必要だ。
 ふと、ベッドの枕元に目をやった。
 下駄を脱ぎ、布団の上を膝でにじってそちらへ近づいた。さっき島崎がごそごそ探っていたのはこの辺りかと、枕を避けてみると丸いボタンが二つ付いている。左が回転用スイッチで、右が停止用であった。
―――
 しばしのためらいの後、左のボタンを押した。
 ギシギシきしみながら回り出したベッドの上で芥川は胡座あぐらき、なんとも無常観漂う顔をしていた。中華料理屋の丸テーブルに載せられた北京ダックになったような気分だった。


「うわ……」
 と、服を脱いで浴室に入るなり島崎は引きった声を漏らした。外からはガラス張りに見えた壁は、内側からは鏡張りのマジックミラーになっていた。
「お風呂なのに全然落ち着かないよねこれ……」
 自分の裸体の一挙手一投足がそれぞれの鏡に映り込んで、名状しがたい気持ちがする。
 しかも浴槽は開いたアコヤ貝の形状を模している。その形について云々するのはさておくとして、第一に浴槽が浅い。
(芥川なんかだと、体が入りきらないんじゃないかな)
 と思いつつそれに湯をめ、使い捨て石鹸の封を切って体を洗った。その格好も全て鏡に映るので、我ながら目のやり場に困るという感である。
(もし芥川が黙ってこっちを見に来ても全然わからないな……)
 と、考えて、妙にドキリとした。
 見られているかもしれない……
 その妄想が肌に突き刺さるような視線に変わる。ゾクゾクした。
 裸の体を覆う石鹸せっけんの泡を洗い流すのさえ恥ずかしく思い、急いで湯をかけると浴槽へ身を沈めた。
「ふう……」
 芥川が自分にそういう﹅﹅﹅﹅感情を抱くことなどあり得ないとはわかっているのだが……
 もし今、芥川が突然浴室に踏み込んで来たら逃げられないだろうなと思う。自分の体格で、大柄な彼に腕力で敵うとも思えない。どんなに無体をされて、ひどい格好をさせられても、鏡に映るその姿を自分で見ながらどうすることもできない……
「………」
 気がつくと随分息が速くなり、心臓もどくどくと早鐘を打っていた。少し湯が熱すぎたかもしれない、と島崎は思った。のぼせないうちに出よう、出ようと思いつつ、ぐずぐずと湯にかったままでいるのは何を期待してのことか島崎自身にもわからない。
 それでもいつしか湯から上がり、体を拭いて元の衣服を身に着けた。
 浴室を出た島崎は、寝室の回転ベッドの上に座り込んでなんともいえぬ顔をしている芥川を見つけた。
「あ……」
「あっ――
 見てしまった。見られてしまった。という顔を二人がしている間も、ベッドはきしみながら牧歌的に回り続けている。


「君も回ってみたいならそう言えばよかったのに……」
「べ、別に回ってみたかったわけじゃないよ」
 と、二人背中合わせにベッドの上に座り込み、相変わらずぐるぐると回り続けるそれに身を任せている。
「じゃあ、なんで回ってたの……?」
―――
 と聞かれると、芥川は正直に答えることもできず、むっつり黙り込んでいる。
「……ねえ君、ずっとここにこうして座ってたんだよね」
「そうだよ」
「ふーん」
 島崎はどことなくつまらなそうな顔をして、こてんと布団に寝転がった。
 ベッドの真上の天井も鏡張りになっていた。天井板を八角形にへこませて、それに鏡を貼ってある。回っているベッドから見上げると、それぞれの鏡に反射した自分たちの姿や派手な布団の柄が、カレイドスコープのように移り変わっていく。
「自分が抱かれてる姿を鏡に映して見るのってどんな気持ちだろうね……」
 とそんなことを島崎はつぶやいた。芥川はまともに取り合わなかった。
「さあね」
「ねえ」
 島崎は芥川の着物の袖を引いて、
「試してみたいな……」
 と、一段声を低くして誘った。驚いたのは芥川の方である。
「は? た、試すって――
「つまり僕の上に、こう、君が乗って……」
「できないよ! そんな」
「本気じゃないんだ、フリでいいよ……何も本当に抱いてほしいって言ってるわけじゃなくて……」
「それでも困る!」
 と、島崎につかまれた袖を持って攻防しているうちに、何のはずみか、芥川はぐらりと体の均衡を崩した。
「わっ」
 と咄嗟とっさに布団へ手を着いたが、ちょうどあお向けの島崎の上にかぶさるような格好になる。
―――
「………」
 芥川を見上げてくる島崎のくらい瞳にシャンデリアの光が当たって妖しくきらめいていた。
 湯上がりの肌の熱と甘い石鹸せっけんの匂いを間近に感じて、芥川は息をんだ。ものの判断を失ったその一瞬の間に島崎の手が背中へ回ってきた。
「ちょっ――と君」
 よせよと言って島崎の顔を見る。島崎の方は芥川に目を向けていなかった。ただじっと天井の鏡を見つめて、何かに取り憑かれたようにうっとりしているばかりで。
 互いの胸と胸、腹と腹が触れていた。
 芥川はギクリと身を縮めた。島崎が少し腰を浮かせて、自分の鼠径部そけいぶをこちらのそれに押しつけてきた。
―――
 そこ﹅﹅は柔らかだった。さっき島崎の湯上がりを待つ間に想像した通りに。
 ズキン、と刺すような性感を感じた。あたかも少年の日に覚えたような鋭いそれに芥川が戸惑っていると、島崎は押しつけてきた腰をゆっくり揺すり始めた。
 前後に一度そこ﹅﹅がこすれ合った。二度、三度と擦りつけられて、ズキン、ズキンとまた性感が刺した。
 芥川はたまらず島崎の腕を振り払って逃れた。
「やめてくれ」
 幸い――完全にはエレクトしていない。
 島崎が何か物言いたげにこちらを見つめてきたが、その顔を直視するにはあまりに気まずかった。芥川はベッドの端へ後ずさりして目をそむけた。
「……ごめん」
 と、やがて島崎が低い声で謝った。
「なんか……子供みたいなことしちゃったね」
 帰ろうか、と言って枕元へにじり寄り、ベッドの停止ボタンを押した。


 乗合自動車の停留場の方へと歩いてホテル街を抜けかかったとき、
「君も――
 と不意に芥川がささやいた。ホテルを出てから今までずっとむっつり黙り込んでいたのが急に口を開いたので、島崎はちょっと驚いて、
「何?」
 と聞き返したが、芥川は結局ためらって答えなかった。
「いや、やっぱりいいよ。なんでもない――
「何なの……いったい」
「忘れてくれったら。それより君、好きなだけ取材ができて満足したかい」
「? うん、それは、こうしていい題材が……」
 と、手帳を入れているポケットをたたいた島崎の顔色が「あっ」と変わった。
「どうかしたかい」
「手帳……ホテルに忘れてきちゃったみたい」
 たぶんお風呂に入ったときに脱衣所へ置き忘れてきたのだと言う。
「えぇ、今から取りに帰るのか」
 と芥川は言ったが、島崎はしばし思案ののちにかぶりを振った。
「……ううん、いいよ、もう」
「いいのかい、せっかくの題材を。何しにこんなところまで来たんだかわかりゃしない」
「記録はなくても思い出があるよ」
「よほど記憶力に自信があるわけだ」
「そうでもないけど……」
 忘れがたいからね……と島崎は切ないような声を漏らした。少し、足を速めた。隣を歩く芥川を抜いて先へ立つ。
「少なくとも、あの回転ベッドのことはそうは忘れないと思うな……図書館の医務室の寝台にも何かああいう仕掛けがあったら、補修中退屈しないで済みそうだね」
「よしてくれ趣味の悪い。中国の家鴨あひる料理になった気分だったよ僕は」
 そんな愚にもつかぬ冗談とともに二人は街を通り過ぎて行く。
 灰色のコンクリート壁にネオンサインを掲げた夢の間は、今はもう随分遠ざかって見える。

(了)