戀とはどんなものか知ら

「へくし!」
 昨日からひっきりなしにくしゃみが出る。
「くしゅ、はくしゅ!」
 同行していた正宗が、
「島崎、風邪か」
 と見かねたように言った。「うつすなよ」とも。
 島崎と正宗は司書の蔵書整理を手伝って、大図書室の中へ返却本を積んだ台車を押して来たところであった。
「近頃急に寒くなったからかな……もう春なのに、冬に逆戻りしたみたいだ」
 と、島崎は小さく鼻をすすりながら正宗を横目で見やった。
「君はいつもそんな薄着で寒くないの?」
「寒くはない」
「ふーん、風邪とか引かないんだね」
「どういう意味だ、それは」
「あ、でも僕たぶん花袋にうつされたんだよね……花袋、ずっと具合が悪そうだったけど、今朝にはついに熱が出ちゃって今医務室で寝てるんだ」
「田山も森鴎外とゆっくり話す機会ができて半分は喜んでいるんじゃないか」
「そうかもしれないね」
「お前は田山がいなくて好きな取材に没頭できるわけだ」
 と、正宗はさっきのしかえしのつもりか、多少意地悪な声になって言った。
「……僕だって花袋がいなくちゃ勢いがつかないよ」
「と言いつつ、芥川龍之介のところへは一人でこそこそと取材に行くじゃないか。何か有益な話は聞けたか?」
「………」
 別に……と、島崎は一段低い声になって言った。正宗は、フンと笑った。
「気づかれていないと思っていたか。観察が鋭いのは自分だけだと思うなよ。俺たち﹅﹅﹅も自然主義を標榜ひょうぼうする文士だと忘れるな」
君たち﹅﹅﹅もね……」
「そうだ」
 そのとき島崎がまたくしゃみを連発して、なんとなく話の腰が折れた格好になった。
 二人は背の高い書架の前まで台車を押して来ると、司書の用意したリストに従って蔵書を収めた。
 作業の途中、島崎が手を止めて書架の隅を見つめている姿に正宗は気がついた。島崎の視線の先には文豪たちの文学全集がずらりと並んでおり、名前の順からして端の方には芥川の全集が鎮座している。
「芥川の小説を読むのか」
 と正宗が聞いた。
「まあ……興味があるからね。特に彼が死ぬ間際の作品とか……」
「まるで芥川のことが好きみたいだな、島崎」
「……は?」
 いつも陰気で眠たげな島崎の阿利襪オリーブ色の目がきょとんと丸くなって、それを見た正宗の方がかえって意外な心持ちがした。
「いや、俺は一般的な話をしただけだ」
 と、なぜか弁解するような調子である。
「好きな男の背を追うだの、書いた文章を特別に思うだの、図書室で同じ本を借りてみるだのというのは、少女小説なんぞにもよくある」
「君、少女小説なんか読んでるの?」
「例えばの話だ。ものの例えだ」
「なんでそんなにむきになってるの……」
「ムキになってなどいない」
 フン、と正宗はようよういつものニヒルなポーズを持ち直して、
「とにかく俺は一般論を話したまでだ。もう忘れろ……」
 と言った。
「………」
 島崎は物問いたげな顔をしていたが、それ以上は追求しなかった。
 相変わらずくしゃみが止まらず、また三回も続けてくしゅんとやった。「うつすなよ」と正宗が念を押した。


 午後になって、島崎が医務室で寝込んでいる田山を見舞うと、思ったよりも元気そうで、
「こーんなぶっとい注射打たれたんだぜ」
 と、手で大きな輪っかを作って笑って見せた。事実薬が効いているらしく、朝よりは顔色もいい。
「早く治るといいね、花袋」
「おう。そういや藤村、お前も風邪気味だっただろ、先生に診てもらったらどうだ?」
 と田山が言ったそばから島崎はくしゃみをしている。
「くしっ……君にもらった風邪だね」
「いやそれは、悪かったって……お前にあんぱんの残りをやったときにはこんなにひどくなると思わなかったしよ」
「ふふ、いいよ別に……そうだね、ちょっと頭がぼーっとするんだけど病人を増やして寝台を占拠しちゃっても悪いから……僕は部屋に帰って大人しく寝てるよ」
 と田山へ言い残して島崎は医務室を後にしたが、次に向かう先は自室とは反対方向であった。日当たりの悪い廊下をひそひそと早足に行く。今の時間なら食堂に“彼”がいるはずだと思った。
 果たして“彼”はいた。
 昼食の片付けが済み、室内遊戯や茶話を求める文士たちは談話室に移動して、食堂の方はすでにガランとしている。電灯も消されて、日陰になった室内はひんやりと薄暗かった。その隅のテーブルに芥川はいた。
 芥川は、一杯の珈琲コーヒーと煙草を片手に、テーブルへ書籍を何冊も積み上げて書見をしていた。入り口に島崎の姿を認めたが、やあとも言わない。
「談話室に行けばみんないるのに」
 と島崎は言いながら芥川へ近づいた。
「……僕が人と話しているところを“取材”と称してじろじろ見てくるやつがいるからね」
「僕は普段の君に興味があるから……」
「迷惑だよ」
 と芥川はつめたい。
「それで、僕の取材が嫌で、そうして一人で本を読んでるの、君。おかしいね、僕を避けるために一人になって、それで結局そこへ僕が来て二人きりなんだもの……」
「君が大人しくしていてくれれば済む話だ」
「君は僕のことが嫌いなんだっけ……」
 島崎は芥川と同じテーブルはさすがに遠慮して、一つ隣のテーブルの椅子を引いた。
 芥川は煙草をくわえたまま本のページをめくった。次のページへ目を走らせながら、煙草を右手の指の間へ戻し、
「そう言ったよ」
 と、島崎の顔も見ずにうなずく。青白い煙を吐く。
 島崎はぼんやりとうつろな目で天井の角の辺りを見ていた。
「そっか……じゃあ僕の片想いだね」
「は?」
 芥川は初めて島崎の方を振り返ったが、島崎は先の調子で芥川を見てはいなかった。芥川は怪訝けげんそうに顔をしかめた。
「何の話だい」
「僕の友達が……僕が君を追いかけてるのを見てそう言ったんだよ。まるで君のこと好きみたいだねって。一般的にはそう見えるんだって……」
「馬鹿な」
 と芥川はいささかうろたえた様子で、本をテーブルへ伏せ煙草を立て続けに吸った。
「一般的も何もあるもんか。君は誰かにそう言われたからという理由で人を好きになるのかい!?
「そうじゃないけどさ」
 島崎は芥川の顔へ視線を下ろした。
「僕もそう言われてまさかと思ったよ。だから自分でも確かめたくて、君を探してて……」
 ぎくり、と芥川が胸を高鳴らせたのは、島崎のその目つきがとろんとして、恍惚こうこつと芥川を見つめてきたからで。頬も上気して、さも触れたら火傷をしそうなほど熱く真赤になっていた。
「胸がドキドキする……」
 と、島崎がささやく。
「こうして君を見てると動悸が激しくなって……何だか息苦しくもなるし」
「は、早まるんじゃないよ、君、ここへ来るまで走ってでもいたんじゃないのか?」
「そんなことは……」
 島崎は一人顔を赤らめて戸惑っているばかりで、芥川も突然のことに言葉が出てこない……
「ごめん……僕もう行くね」
 と、島崎は席を立とうとして、不意に足元がよろけた。
 咄嗟とっさに芥川の手が伸びて、
「君……!」
 と転びかけた島崎の体を支えた。急に立ち上がった拍子にテーブルの上の珈琲コーヒーカップがガチャンと音を立てた。芥川は背後でテーブルクロスと書物がいささか汚れた予感を覚えたが、振り返っている余裕はなかった。
 島崎が体を預けるように寄りかかってきて、腕の中で感じるその驚くべき細さに芥川は息をんだ。
 芥川が手を離そうにも島崎の方がしがみついてきて離れない。おまけにその体はカタカタ小刻みに震えている。
「君……」
 ともう一度芥川は呼んだ。
 こちらを見上げた島崎の阿利襪オリーブの瞳は露にれたように潤んでいた。しばし見つめ合ったが、やがて島崎の方が先に目をそらした。
 芥川の懐中で島崎の足腰はぐったりと力を失って、見た目の割に随分重かった。
 はた、
 とそのときになってようやく芥川は気づいた。慌てて島崎の顔へ手のひらを押し当て、
「うわっ、君すごい熱じゃないか!」
 と頓狂な声を上げた。
 島崎は朦朧もうろうとした頭で、
(あ、君の手ひんやりして気持ちいいね……)
 となんだか気の抜けたようなことを思い、同じことを口にも出したような覚えがあるが、どうにもその後の記憶が定かでない。


 島崎が次にはっきりと意識を取り戻したときには、医務室の寝台にあお向けに寝かされていて、周りに巡らされた白いカーテンの隙間から隣の寝台の田山が心配そうにこちらを見ていた。
 田山は、島崎が目を開けたと気がつくと、
「あっ起きた、森先生、森先生!」
 と大声を出して、森に「静かにしたまえ」と叱られていた。
「島崎君、気分はどうだ」
 と、診察に来た森が尋ねた。ついでに小言もついた。
「全く、田山君といい君といい、もっと早く来ないか。熱を出して倒れる前に」
「ごめんなさい……」
「まあ、風邪だろう。このところ急に朝晩が冷え込んだからな」
 ようするに、芥川の前で動機がしたり息苦しかったのは発熱のせいだったのだな、と島崎は氷嚢ひょうのうで冷やされた頭で思った。ちょっとほっとしたようでもあった。
「芥川君にお礼を言った方がいいぞ」
 と森がカルテを書きながら言う。
「? なんで?」
「なぜだと? 食堂で倒れた君をここまで抱きかかえて運んで来たのは誰だと思う」
 カルテを書き終えて患者を見下ろす。島崎はまた熱が上がってきたのか赤い顔をして天井を見ている。
「ふむ、氷嚢ひょうのうの氷が足りなかったか……」
 森は素朴に首をかしげると、熱を冷ます氷を足しにカーテンの外へ出て行った。

(了)