或る木曜日
「夏目先生のお口に合えばいいなと思って……」
と言って島崎がお土産に持って来たのは、カステラの間に
「近頃は、こういった和菓子とも洋菓子ともつかぬものが増えましたね」
と首をひねりながらも、表情は綻んでいたから島崎も安心した様子であった。
夏目と島崎が対面してテーブルに着き、その間に芥川がなんとも複雑そうな顔をして座っている。夏目が島崎を呼んで話をしたいと言い出したとき、芥川はよほど、
「それはよしましょう」
と、師に言いたかったものである。しかし、もし夏目にその理由を問われたら大変に困る。それで、うだうだと思い悩んでいるうちに木曜日になってしまった。
「龍之介君、今日はいやに大人しいですね」
と夏目に不思議がられるのを、あいまいにごまかしながら、極力
島崎はそんな芥川の顔色を興味ありげに横目で眺めた。
「普段の芥川……
と夏目へ問うた。
「ええ普段はね、人に多少意地悪な議論など挑むこともあるのですよ」
「なるほど……才気あふれる芥川君らしいですね。今日は、僕のような性格の人間相手だから調子が出ないのかな」
島崎はひそかに、「
「才気あふれるといえば島崎さん、あなたも随分大成なさったようですね」
と夏目が言った。
「かつてあなたが『破戒』を発表されたとき、私はこれは後の時代に残すべき小説が出てきたものだと思いましたよ――龍之介君はその頃はまだ子供だったでしょうから、あまりピンと来ないかもしれませんが」
「ええ、先生――」
「それほどの衝撃をもって迎えられたということです。そして私の考えは正しかったと、今の世を眺めて知ることができて嬉しく思いますよ――残念ながら私は島崎さんのその後の活躍を見ることはできませんでしたが」
「夏目先生にそう言ってもらえるだけで光栄ですよ……」
とさすがの島崎も、どこかくすぐったそうな顔をしていた。
「僕は別に夏目先生に師事したわけでもなんでもないけど、それでも先生に見出されてありがたかったな。その点は……先生に見初められた彼と同じで」
と、芥川を見やる。芥川はやはり口を開くのを避けるように、
夏目が島崎の方へ視線を戻したので、芥川はホッとして
「島崎さんの後期の作品も読まねばと思っているのですが、なかなか時間が取れなくて申し訳ない」
「お暇なときにでもどうぞ。僕の小説、長いから……」
と夏目と島崎が歓談しているのをよそに芥川はどら焼きを飲み下した。不本意だが菓子は実に
「龍之介君、クリイムが口元に――」
と笑った。芥川は慌てて手で口の端を押さえた。
「えっ」
「君、そっちじゃない、逆だよ……」
と、島崎の声とともに細い手が伸びて来て、芥川が押さえていたのとは反対側の口の端を拭った。
島崎は、指の先に付いた白いクリームを見つめてから、ふいに芥川の顔へ視線を移した。芥川もこちらを見ていて、次の動きを
島崎はそれを承知のそぶりで、赤い小さな舌を出して指に付いたクリームをぺろっと
「君、嫌悪を感じた? それならそう吐き出してしまいなよ。夏目先生の前だからって、そんなに取り繕って、厚い着物を心に着せるのは止めてさ……」
とでも、挑まれているような気がした。
芥川は、
「島崎――さん、からかうのはよしてください――」
と、真面目に言った。島崎が、ふ、とかすかに笑った。夏目が、なんともいえない目つきで二人の応酬を見ていた。島崎が夏目へ言った。
「ごめんなさい、つい、幼い子供でも見ているような気持ちになっちゃって。行儀が悪かったですね……」
という島崎の
「そうですねぇ、確かに龍之介君には子供のようなところがあります」
と、夏目にまで満更冗談でもない調子で言われると、恥じ入ってしまう。
「先生まで」
「それだけ、今度こそちゃんと見守ってあげたいと思っているということですよ。島崎さんも、そうでしょう――」
芥川は珍しく年相応の青年らしい照れを覚えて、少しばかり、その細面を赤らめた。
(了)