獣の目覚め

1

「今でも僕は、回向院の墓原を見ると、河童の子供がたわむれている姿が見えるような気がするのです」
 と、鏡花が言えば、
「ふふ――僕は子供の頃、よくあそこで友達と一緒に、いたずらに石塔を倒しては、寺男や坊さんに追いかけられたものです」
 と、芥川が応える。
 朝食の済んだ食堂は人もまばらで、鏡花と芥川が四人がけのテーブルに斜め向かいになって茶を喫している他は、隅の方の席で二日酔いの太宰治が土気色の顔をしているのと、また別の席では森鴎外が朝刊を開いているのと、それくらいである。
 鏡花は台所から綺麗に洗った茶器を持ち出して来て、手ずからお茶を淹れて芥川へ差し出した。
「すみません、先生のお手を煩わせてしまって」
「いえ、よいのです。万事僕の性分が障るのですから。それより、何かお茶菓子でも持ってくればよかったですね。芥川さんは口寂しいでしょう」
「どうぞお気遣いなく」
 芥川は莞爾として笑い、茶碗を口元に運んだ。鏡花に気を遣って煙草を吸っていない。口では殊勝なことを言うが、やはり口寂しいらしく、時折薄い唇の先を噛んでは、口をもごもごさせている。
 それで二人、河童の話などしている。
「河童と言えば、僕が河童を書いた小説の題のことで、いつか佐藤さんにご相談に伺ったことがありましてね、そうしたら、ちょうどそのとき谷崎さんも新しい小説の題をこしらえていらして――それが僕の考えていた題とちょいと似ていたものですから、僕はとても佐藤さんに相談するような意気地をなくしてしまって――
 と、昔懐かしげに語る鏡花の顔を、芥川は黙って、にこやかに見つめている。
――いやですよ、僕の顔なんて、そんなに見られても面白いこともないでしょうに」
 と鏡花が気付いてうつむくと、
「思いの外お元気そうでよかった」
 と芥川が言う。
「近頃物思いに沈んでおられるご様子だったので、心配していました――
「それは、あいすみません」
 と、鏡花は申し訳なさそうに目を伏せ、
「不思議なもので、こうして若い姿に生まれ変わってみると、心まで外見に合ったものになってしまうのか、まるで青年の頃に戻ったような、穏やかでない心地がすることもあるのです」
「わかります、先生、僕もそうです」
「先生、などと呼ばれるのも落ち着かなくて」
 鏡花は弱々しく苦笑いをして見せた。
「再び紅葉先生と師弟の契りを結んでいただくことができた今、僕のような未熟者が先生だなんてお恥ずかしい限り――
「そう仰られても、僕にとってはやはり先生です」
 鏡花は形のよい眉を困ったように八の字にして茶ばかりすすっている。芥川は優しく、それでいて芯の一本通った涼やかな声で、
「たとえこれからどんな文学が台頭しようとも流俗がそれに雷同しようとも、この国の文芸に美しい浪漫の道を穿ち通したのは間違いなく先生なんですから。僕は、先生の著作は仏蘭西浪漫主義の大家とさえ堂々と渡り合えるものと思っているんです」
 と言った。
「ありがとうございます、芥川さん、あなたにはいつもそうやって励ましていただいてばかりですね」
「先生に元気を出していただきたいと思っているのは、僕ばかりではないでしょう」
「ええ、ありがたいことに――幸田さんや八雲さんにもいろいろと相談に乗っていただきました」
「それにあの、丸眼鏡の」
 芥川は両手の親指と人差し指でそれぞれ円を作って、いたずらっぽく笑いながら両目の前にあてがった。
「中島君でしたか。今あそこで」
 と言って、食堂の隅でうずくまっている太宰を指し、
「ぐったりしている太宰君と確か同年だそうですね。彼も僕と同じく“鏡花宗”とお見受けしましたが」
「中島さんは、僕よりずっと後の時代に生まれたのに、僕のような者を慕ってくれる珍しい人です。教養もあって、真面目で、彼の作風は少しあなたに似ていますよ、芥川さん」
「そうなんですか?」
「彼の作を読んであげてください。きっと喜びます」
「先生がそう仰るのなら、きっと。中島君といえば、時々によって大人しかったり、怖い顔をしていたり、あれはどちらが本当の彼なんでしょうかね」
 鏡花は微笑んだだけでどちらとも答えない。
「彼も何か悩みを抱えているようなのです。僕もできるだけ力になってあげたいと日頃思ってはいるのですが」
「泉先生にそうまで想っていただければ、中島君も冥利に尽きるというものでしょう。少しうらやましいですよ、僕は」
 芥川は玲瓏たる声音で、清流のごとく淀みない口調であった。ひんやりと心地よく冷たい清水が、細く流れ出すように芥川の口から言葉が紡がれる。
「先生、僕はいつでも先生の味方です」
「ありがとうございます――
 ひとときの茶話を終えて鏡花が席を立つ際、
「僕は図書館へ行きますが、芥川さんはどうします?」
「失礼ながら僕は一服してから」
 芥川は懐から真新しいバットの箱とマッチを出して手元へ置いた。鏡花はうなずいた。
「それではお先に――師の夏目さんにもよろしくお伝えください」
「ええ、もちろん、夏目先生にも」
「僕のような若輩者、やはり夏目さんのことは先生﹅﹅と呼ぶべきなのですが――僕にとって先生とは、紅葉先生ただ一人――
 許してください。と請うて、鏡花は芥川の面前を辞した。

2

 鏡花が徳田秋声とケンカをするのはいつものことだが、その日の朝は殊更にこっぴどく罵り合った。
 鏡花が、
「秋声、あなたにはやはり紅葉先生への畏敬の念が足りません」
 と言えば、秋声が、
「畏敬の念、畏敬の念ってそればかり――どうせ僕は君と違って、生涯を先生に捧げるような覚悟があるわけじゃないからね」
 とそっぽを向く。
 君と違って﹅﹅﹅﹅﹅
 という秋声の言葉が鏡花には何よりこたえた。
 午後、文士たちはその務めを果たすべく、それぞれ会派を組んで侵蝕の進む有碍書へと潜った。
 ある書の中の田舎町はすでに空を黒い以呂波に覆われて薄暗く、街並みも至るところ文字の群れとなって崩壊を始めていた。それなのに、登場人物たちは全く気付きもせず、酷い者は自らの手足が「手」「足」の字の骨ばかりのような姿になってさえ気がつかず、各々の小説上の役目に健気に従っていた。
 中島は、仲間の文士とともに、登場人物たちに交じって往来を歩いていた。仲間の一人に鏡花もいた。
「鏡花――
 と中島の方から声をかけたのは、珍しいことであった。
「大丈夫か」
 と、言葉少なに中島は、それだけようやく鏡花に問うた。鏡花は、弱々しく微笑んで、
「中島さんの方から声をかけてくださるとは――嬉しいこともあるものです。どうしたのですか?」
「俺の質問に答えていない。お前らしくもない――
「僕は――この通り何ともありませんよ」
―――
 ややあって、
「それなら、いい」
 と言って、中島は鏡花のそばを離れた。鏡花は寂しげに目を伏せた。中島はそれをわかっていて、見て見ぬ振りをした。
(俺はどうすればいい――
 先の鏡花の手紙の一件から、未だ自分の中に答えを見つけられないままでいる。
 自分は“奴”から何も奪うつもりなどないのだということを、“奴”は理解してくれたのかどうか。“奴”の心は知り尽くしているつもりだったのに、あれ以来、よく見えない。なんとなく壁を隔てた場所にあるような、手が届きそうで届かないところにあるような、どうにも、もどかしい感じがする。
 心が二つに割れてしまったようで、片方では鏡花の沈痛な様子を気にかけながらも、もう片方では“奴”のために鏡花にこれ以上近付くまいとしていた。
「そうやって眼の前ばかり見ていると、本質を見失ってしまうよ……」
 という背後からの声とともに、ぬっと目の前に突き出された長弓に行く手を阻まれ、ぎょっとして中島は足を止めた。いつの間に追いついて来ていたのか、背に島崎藤村の姿があった。それ以上先に進んではいけないと言いたいらしい。
「花袋……」
 と藤村が呼ぶ。鏡花の近くを守っていた田山花袋が「おう」と応え、見えざる矢を無形の弓につがえる。まばゆい閃光を発し、満月のごとくに引絞られた弓矢が現れ、ひょうと放たれた。すると見よ、黒い以呂波に覆われた空から洋墨瓶の姿をした小さな侵蝕者が石のごとくに落ちてくる。それが中空でバラバラと黒い文字に分解して消える。
 花袋は三度矢をつがえて放った。三本目の矢は侵蝕者の腹を貫きながらその命を奪わず、洋墨瓶は蟲のようにもんどり打って落下した。すかさず藤村が矢をつがえた。
 藤村の放った矢は、花袋の矢と寸分たがわぬところを射抜いた。最後の洋墨瓶が絶命したのを確かめてから、二人は弓を下ろした。
「敵は近いみたいだぜ」
 と、花袋が勇んで言った。
 中島も身構えて剣を握った。肌身離さず携えた魂の書から溢れた光が右手にまとわりついて、一瞬ののちに鋭い片刃に変じた。その光は目をこらせば種々な文字の粒の集まりであることがわかった。文字の一つ一つが白金の虎の毛並みのごとくに輝いていた。
 鏡花の手にもすでにレイピアが握られている。蛾眉のごとき尖鋭な刃が青白い水月の燐光を放つ。見る者を虜にする妖しの輝きに、中島は数瞬、魅入られた。
 帰還後、医務室で“補修”を受けながら、中島は天井の一点を見つめて考えた。
(俺の本質﹅﹅――
 そんなものはわかりきっていた。自尊心の強い高慢の毛皮を剥げば、臆病で他人に交われない寂しい獣が裸で震えているばかり。
 中島は一眠りしようと、ごろりと寝返りを打ち、掛布を鼻先まで引き上げた。引き上げながら、己は結局、鏡花を案じているだとか、“奴”のためにだとか口先で言いながら、己の無力が露見するのを恐れて何もできないでいるだけなのだと思った。

3

 寝付きは悪く、眠りは浅かった。
 小一時間も経たぬうちに、中島は目を覚ました。知らない間に医務室にいて、白い“寝台”に横たわっている。“彼”が出てきているときにはよくあることだから、気にはしなかった。
 中島は、ふと気付いて、右手で頬をぬぐった。濡れている。双眸からあふれた涙が枕まで濡らしていた。
(“彼”が――
 思わぬことで、しばしぼんやりと濡れた枕を見下ろしていた。
(“彼”にも、女々しく褥で涙するようなことがあるんだろうか)
 中島は涙の跡を慈しむように冷たい枕に顔をうずめた。
 先の鏡花の手紙の一件以来、中島には“彼”の心が以前より身近に感じられるような気がする。以前のような一方的に見つめられているような感覚ではなく、二つの魂を隔てる壁に“彼”の心が染み出して、かすかに肌に伝わってくるような、そんな感覚――
 あのときの身を焼くような夢は、今では随分記憶がぼんやりしてしまったけれど、それでも忘れてはいない。あの夢が、己が心の生み出した都合のいい幻影でなければいいと思う。
(何がそんなに悲しいんですか――
 と、胸の内へ問いかける。返事はあるはずもない。
 他人同士なら、こんなとき言葉が役に立たなかったとしても、他にも慰める方法はあるだろう。ただ黙ってそばにいるだけでもいい。寄り添って肩を抱くだけでも。
 せめてもと自らの腕を抱いて身を縮める。
 あの夢のようにできればよいのにと思う。
―――
 中島が耳を澄ませてみると、聞こえてくるのは、床から寝台を伝わってくるな装置や計器の低い唸り声や、様々の歯車の回る音、時折何かが蒸気を吹く音。他の寝台に人の気配はなく、医務室の主も席を外しているらしかった。
(大丈夫――今なら誰もいない)
 中島は掛布を引き上げ、頭の先まですっかり寝床へ潜った。
 補修のために、“彼”は袴と大陸風の上着を脱いで枕元へきちんと畳んで置いていた。竹の短い手袋も揃えて、眼鏡と一緒にその上へ。
 寝床の中で中島は、シャツのボタンを外し、裸の胸元から腹へと手を滑らせた。それから、さらに下まで。
「っん――
 そっと握って、優しく、ゆっくり時間をかけて自らを慰める。そうしながら、心の声にじっと耳を傾けた。
(あなたの心も、少しでもいい、慰められたら)
「は――はぁ――
 できるだけ頂へ達する瞬間を先へ延ばそうとして、それが近付くと手の動きを緩め、指を絡めるほどにした。落ち着いてくるとまた握ってゆるゆると扱く。そんなことを何度も繰り返した。
 このような行為をかつて己は不自然﹅﹅﹅だと表したことがある。しかし今は、これが不自然な性行為だとはもう思わなかった。
 空いている方の手を胸元へ這わせ、小さく尖った乳首を指先で転がした。他にも思いつく限りの愛撫を試みた。
「ぁ、あ――!」
やがて、鋭い愉楽が足の先から頭の先まで貫いていった。比喩でなく、目の前が真っ白になった。魂が体を離れてそらに遊んだ。
 一瞬の精神の空白ののち、我に帰ったときには全てが済んでいた。気がつくと汚れたハンケチを握っていたのには驚いた。自分が無意識のうちに始末をしたのか、それとも“彼”がわずかの間表に出ていたのかは定かでない。
 気だるい。が、嫌な感じはせず、満ち足りた気分だった。心の隅々まで探しても、自分を責める声は聞こえなかった。
 そのまま寝床に沈み込んで、うとうとし始めた、そのときであった。
「中島君、起きているかい?」
 と不意に、寝台を囲む白いカーテンの向こうから声をかけられ、中島はぎょっとして跳ね起きた。
「中に入ってもいいかな?」
「いや、そ、それは、少し、待ってください――
 誰が来たかは知らぬが、中島は慌てて衣服を直し、ハンケチは枕元に畳んであった上着の下へ押し込んだ。眼鏡を取ってあたふたとかけた。
「ど、どうぞ」
「お邪魔するよ――お加減はいかがかな」
 中島は、カーテンの端をめくって入ってきた人物が意外で、丸い眼鏡と同じくらい目を丸くして迎えた。
 芥川龍之介は、その掴みどころのないおっとりとした目つきで中島へ微笑みかけると、寝台の脇から勝手に腰掛けを取り寄せて座った。

4

「あ、あの、芥川さん――
「何か?」
「その、いつから、医務室にいらしたんですか?」
「実はさっき一度様子を見に来たんだけど――そのときには中島君は眠っているようだったから――もう一度出直してきたところだよ」
「そ、そうですか」
 “彼”が眠っていた間のことだろう。と中島は思い、一安心した。
「それで、あの、私に何か御用でしょうか」
「用がなければ、お見舞いにも来てはいけないのかい?」
「いえ、そ、そういうわけではありませんが。お気遣いありがとございます――
「まあ実は、泉先生に君のことを気にかけてほしいと頼まれたので、ね」
 と、芥川はあっさりと白状して、ふふと笑った。中島は、どきりとして、目を見張った。
「鏡花さんが、私のことを、ですか」
「面倒見のよい方だからね」
「え、ええ、それはもちろんですが」
「僕も先生には生前随分お世話になった――ときには晩のご飯のおかずを届けていただいたことなんかもあった。あの筍の煮物の味、今でも忘れていないよ」
―――
 芥川はこうして帝國図書館へ転生する以前にも、鏡花と直接の親交があったわけだ。と中島は思い、なんだか二人の親密ぶりを見せつけられているような気がして面白くなかった。
「泉先生がね」
 と芥川が言う。
「君と僕の作風には似ているところがあると言うんだよ。それで僕は君の作をいくつか読んだのだけれど――確かに漢籍や西方の物語を題材にしているところなんかは、共通点があるようだ。だけど僕は、泉先生が言うほどには僕たちは似ていないと思っている」
 芥川の口調は挑戦的で、
「君に、僕と同じようなものが書けるとは思わないな」
「さあ、そ、そうでしょうか」
 中島は、芥川の言霊をやんわりと跳ね返した。さらに言い添えた。
「あの、案外、あいまい模糊なことを仰るんですね。芥川さんほどの方なら、もっと歯切れのいい言葉を使われるものだと思っていました」
「君の方こそ」
 と、芥川は少し意外そうに細い眉を吊り上げる。
「君の方こそ、思ったより張り合いがある。僕はてっきり――いや、はっきり言ってしまおう。鏡花会を開こうと思っているんだ」
「え?」
「鏡花会だよ。聞いたことはないかい?」
 泉鏡花の生前、彼の熱烈な読者たちは「鏡花宗」あるいは「鏡花党」などと呼ばれた。その有志が信奉する鏡花を招いてともに夕べに歓談する会合を鏡花会と呼び、明治四十一年から九回に渡って催された。
 ちなみに、中島の生年は翌年明治四十二年であるので、中島がまだ幼かった時分の話だ。
 その鏡花会を、芥川は開くつもりなのだという。
「近頃の泉先生のふさぎようときたら、見るに忍びないからね――
「それは、確かに私も、そう思います。今朝だって、徳田さんとひどくケンカをなさって」
「では中島君も来てくれるね? 最初だから、まあ人数は控えめに、僕たちと泉先生の三人でよいだろう。きっと来るね?」
 と芥川は念を押した。
(試されているんだろうか)
 と、中島は思った。なぜ芥川にそんな態度を取られるのか、心当たりなど全くないのだが。
(こんなとき“彼”ならどうするだろう)
 毅然としてそれを指摘し、はね付けるだろうか。それとも――あの夢に見たように内実は気弱で恥ずかしがりなのかしら。
「私のような、若輩者でよければ」
 行きます、と中島が答える。芥川は満足げな顔をした。
「そうこなくてはね。ではそのときに、君の作についても改めて論じさせてもらうよ」
 芥川は去り際、中島に文庫を一冊差し入れていった。
「僕のお下がりだけど、補修中の無聊を慰めるために役立つようであれば」
 と、芥川の着流しの懐から渡された本の表題は鏡花の『歌行灯』であった。
 芥川は自分の胸元を指差し、
「心身を“直す”ためにはちゃんと寝ていないとね。ボタン、掛け違えているよ」
 と言ってカーテンの外へ出て行った。
 中島は、真赤になって、ボタンのずれているシャツの前を掻き合わせた。

5

 この日のために、芥川の起居する和室は念を入れて掃除をしてあった。着物も洗いたてでパリッと糊が効いて、それにこの風呂嫌いで悪名高い男から石鹸の香まで漂う。芥川の鏡花への気遣いぶりが窺われた。
 芥川は、片付けた部屋へ古風な長火鉢を持ち込んで、たっぷりの炭をかんかんになるまで熾した。
「中島君は猫舌かい?」
 と、隣で小さく正座している中島へ尋ねる。
「別にそんなことはありませんが――まあ、さほど熱い物が得意というわけでもないです」
「じゃ、君は僕と同じこちらの鍋から」
 芥川は小さな湯豆府の鍋を二つ支度していた。一つは変哲もない湯豆府で、鍋の底に昆布を敷いてその上に豆府が乗っている。それを自分と中島のそばへ置き、もう一つの方を上座へ置いた。そちらは昆布と豆府の上下が逆で、豆府の上へふたをするように昆布がかぶせてある。
 果たしてどういう工夫であろうかと中島が首をひねっていると、やがて賓客の鏡花が訪ねてきた。
「こんばんは、芥川さん、中島さん。今日は結構な会にお招きいただいて、ありがとうございます」
「そんなにかしこまられては、僕たちの方が恐縮してしまいます。さ、先生もこちらへ――今夜は湯豆府です」
 お好きでしょう? 莞爾と微笑み、二つの鍋を炭火にかけた。
「ええ、好物――嬉しいです」
 と鏡花が双眸を弦月のように細め、ふたを取った鍋の中を覗いた。
 芥川は中島の方にちらりと流し目をくれ、
 ふふん、
 と笑う。さも一歩先んじたぞとでも言いたげな顔つきに、中島は、むむと内心気色ばんだ。が、面には出さない。
 湯豆府が煮えるまでいささかの時間がかかる。中島はその間にと、持参した紙包みを鏡花へ差し出した。
「あ、あの、鏡花さん、これもしよろしかったら」
「? 中を見てもよいのでしょうか」
 もちろんですと中島が答えると、鏡花は丁寧に封を開いた。中身を見て、おや、と嬉しそうな声を上げる。中島が贈ったのは、色とりどりのパンジーの押し花を飾った栞が三枚。
「西洋菫ですね。可憐な」
「春に鉢植えが咲いたのを押し花にしてあったので――
「中島君もなかなか可愛らしいことをするね」
 と芥川が口を挟もうとするのに先んじて、中島は鏡花へ渡したのと同じ紙包みを芥川へも贈った。
「芥川さんにも、お気に召すようでしたらどうぞ。今晩誘っていただいたお礼です」
 芥川のきょとんとしている顔色を見て、一矢報いたと中島は思った。鏡花の方へささやくように言った。
「少しでも、鏡花さんの心の慰めになればと思って」
「その心遣いだけでも十分にありがたいですよ」
 と、鏡花は微笑みかけてくれた。
「やはり、不思議な人ですね、中島さん――先日、一緒に潜書をしたときの様子とは、今夜はまた雰囲気が違います」
「あの、本当は――今夜も、その、もう一人の私というか、潜書をしているときのような私の方が、鏡花さんは心安いかとも思ったんですが」
「そんなこと。どんな中島さんでも、中島さんが中島さんであることには変わりないでしょう」
 中島は胸の詰まるような思いがして、後に言葉を続けることができなかった。
――湯豆府が、そろそろよい加減かな」
 と芥川が助け舟を出してくれたのは、ありがたかった。
 芥川は、刻み葱、唐辛子、大根おろしといった薬味を載せた盆を引き寄せて中島へ勧めた。鏡花はといえば、どれも生だから困ると言う。それで、昆布でふたをした方の鍋に箸を伸ばし、豆府のぐらぐらと煮えて、蝦夷の雪が板昆布をかぶって踊りを踊るようなところを、ひょいと挟んで、はねを飛ばして、あつつと慌てて、ふッと吹いて、するりと頬張る。
「美味しい」
 それで満足げに目を糸のごとくしている。
 芥川と中島の方は、かたの通り昆布を敷いた鍋の、ちょろちょろ、ちょろちょろと草の清水が湧くようなところから取って、薬味を乗せて食べている。
 酒も、鏡花はちろりが沸騰するほどの煮燗をつけて、その熱いちろりを摘んで、盃に注いで、あちちとその指で右の耳を摘んで冷やしながら機嫌よく飲む。熱い方ならいくら熱くても平気なのだと言う。
 三人は長火鉢の上にうずくまるようにして四方山の話をした。日が落ちると寒さが身にしみるようになってきた時節のことである。
「そういえば、芥川さん、中島さんの作品をお読みになったのでしょう。論じてくださいな」
 と鏡花が思い出したように切り出し、中島はどきりとした。
「そうですね――
 と芥川は、長火鉢の角に両腕を乗せて、おっとりと思案顔である。
「術三則」
 と、ぽつりとつぶやき、そのまま黙り込んでしまっている。
 中島は、つい、じれったくなってくちばしを挟んでしまった。
「弓の名人飛衛に弟子入りをした紀昌が、いかにしてその技量を神域にまで高めたかという物語ですね。列子に題材を取った、鏡花さんの」
「泉先生の小品だね。そして君も同じ題材で小説を書いている。『名人伝』。あれを読んで、泉先生、僕は、先生は本当によい後輩をお持ちになったと思いましたよ」
 芥川は優しい声でそのように評した。清い水と同じ色をした瞳で中島をそっと見やり、
「僕には君の先生への憧れが手に取るようにわかる。と同時に、君は先生のようにはなれないこともわかる。僕が先生のようになれないのと同じように。そしてまた、君に僕のようなものは書けないし、僕にも君のような――自己を文章でもって力強く削り出したような、ああいうものは書けない」
 語りながら、火箸を取って炭をつつく。その仕草がいかにもくつろいでいる。一同にゆるりとした心地をかもそうと、そういう所作を取っているように見える。
「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」
 と、我が身に言い聞かせるようにささやく。
「我々は皆大きな地面に育った樹木のごとく。楓の大樹の元に育った泉先生もまた一つの大木であり、種子を大地へ落とし、そこへ僕や中島君のような若木が育つというわけです。一本の木の枯れることは極めて区々たる問題に過ぎない」
――私たちは、大樹の陰に守られながら、新たな日差しを求めて自分なりに枝葉を伸ばさずにはいられないのかもしれません」
 と、芥川の流水のごとき語り口に誘い込まれるように、中島も口をついて出ていた。言ってから、失礼をしたかと、芥川の顔色を窺った。
「続けておくれよ」
 と芥川は言ってくれた。鏡花も中島の言葉にじっと耳を傾けていた。
 中島は、青年らしい羞恥心と実直さを隠さずに語った。
「私たちは、いつでも大樹を見上げています。たとえどんな季節が来ても、頭上の枝ぶりの見事さには、花の季節も、青葉も、落葉も、雪景色でさえ、そのときどきの美しさがあって、見惚れるより他を知りません。皆にその素晴らしい枝を見せたくて、広めたくて仕方がないんです。でも、そうして大樹の陰で恍惚としているばかりでは、いずれは私たちも新しい枝を伸ばし芽を出さねば、枯れてしまうでしょうから――
「とすると、今の僕は楓の神木を見上げるばかりで、己はいささか枯れかけている古木ということになりそうです」
 鏡花は少し寂しそうに笑って、やはり自ら樹木に例えて言った。
「季節は秋を過ぎ、冬に差しかかったというところ。同じ楓の元で育ちながら、僕とは違い自由に枝葉を伸ばさんとしているのが秋声になるでしょうか」
「鏡花さん――
 と中島が慰めようとすると、鏡花は、
「迷うことが必要なのです」
 と寂しげに、凛としている。
「ともに迷いましょう」
 と、芥川が誘う。
「こうして泉先生と、僕と、中島君と、元は生年も境遇も別々だった者が、ただ芸術の種によってのみつながり現世にこうして頭を寄せ合っているのだから、楽しいじゃありませんか」
「ところで、あの、芥川さん、一つお聞きしたかったことがあるんですけど」
「なんだい、中島君」
「どうして、私に、その、意地悪をしたんですか」
 芥川は、照れくさげに火箸で灰へのの字など書き始めた。煙草が恋しいのか、口元をもごもごさせ、
「うん、いや、僕はてっきりね――もう一人の君﹅﹅﹅﹅﹅﹅の方が本当なのかと思っていたから――君の本心を聞くには、少し意地悪でもして、“彼”の方になってもらおうかと、ね。今ならわかる、違ったよ――すまなかったよ」
 ふふふ、と鏡花が袖で口元を押さえて笑った。
「芥川さん、勘が外れましたね」
「面目もありません」
 そう言われている中島もまた随分照れて、のの字を書きたい気持ちであった。
 芥川が不思議そうに首を左右に捻り、
「中島君は、どちらも本当なわけだ。不思議だなぁ。もう一人の中島君はどうやって現れるんだい? 本の世界に潜っているときだけかい?」
――あの、実はここだけの話ですが、私は、夜に妖しの水月を見ると“彼”に変わってしまうんです」
 という中島の照れ隠しの冗談を、芥川が本気にして疑わなかったから可笑しい。嘘だと明かしたのちには三人でひとしきり笑った。

6

「中島さん」
 と呼ばれて、振り返ると、会派の仲間たちから一人ぽつねんと離れている中島の方へと、鏡花がぱたぱた足早に駆け寄って来るのが見えた。
「鏡花」
 中島は眩しげに目を細めた。侵蝕によって黒い文字に覆われていた空が浄化され、晴れ出している。日差しを浴びている鏡花の表情も明るく見えるような気がした。
 近頃、“奴”ときたら鏡花を励ますことにばかり気を揉んでいて、まったく、呆れるほど一生懸命なのだ。
(大した“奴”だ)
 と羨ましく思う。自分が“奴”の羨むようなもの――戦う力とか、視力とか――を持っているとすれば、“奴”もまた己の羨望するものを持っている。俺には鏡花をあんなふうに笑わせることはできまいと、中島はつくづく感じた。
 ただ、それはそれとして、医務室で不埒な行為に及ぶようなことは“奴”にはできれば慎んでほしいとも思うが。
 中島の心に一匹の獣が目覚めていて、まだ少し眠そうにあくびをしている。しなやかな虎の体躯を持った、心根の優しい知の獣である。その毛皮に寄り添い、喉をごろごろ鳴らす音を聴けば、中島はどんな困難も恐れず勇敢になれるような、そんな気がするのである。

(了)