シトロン
三時のおやつに、甘酸っぱいレモンの甘露煮と牛の乳のクリームをたっぷり載せた洋菓子が供された。
「すごくふわふわしてる……」
と、島崎がフォークの先でスポンジをつついている隣で、田山が、
「初めてのキスはレモンの味がするってほんとかなぁ……」
などと、何やら物思いにふけっている。
「花袋、覚えてないの……?」
「もう覚えてねーよ、昔のことだし。それに生まれ変わってからはその、なんだ、したことねえし……」
「したいの?」
「そりゃ……でも相手は誰でもいいわけじゃないからな! 美少女限定でな!」
「ふうん」
はあぁ、と田山は思春期の男子学生のようなため息をもらしている。
「このケーキみたいにふわふわの唇の美少女とレモン味のキスしてみたい」
「そんなこと言ってるとまた『変態』って言われちゃうよ」
「昔の俺が言ったら変態かもだけど、今はいいだろ! 健全な若者の欲求だっての」
「美少女の唇がふわふわしてるとも限らないんじゃない? 唇の薄い子だっているかもしれない……」
「美少女の概念ではふわふわしてるんだって」
お互いにああ言えばこう言う。それもまた友との交歓であろう。話すことはいくらでもあったが、お
「うわ、っと」
田山が慌てて菓子を口へ押し込んでいるのを尻目に、島崎はなんとなく食堂の中をぐるりと見回した。文士たちは各々好きな席に着いて、気の合う仲間と歓談に時を過ごしている。
壁際の、浮世絵が飾ってある下のテーブルに芥川と菊池がいた。二人ともすでに菓子を終えて
芥川が新しい煙草を厚い唇の間へ挟んで、
(彼の唇の方がよほどふわふわしてそう……)
煙草を
「どうかしたか? 藤村」
と田山に呼ばれるまで、島崎はぼんやり芥川の方を見ていた。
「あ、ううん……ちょっと新しく興味が湧いたことがあって」
「まぁた取材の話かよ、お前も好きだなぁ」
「花袋の美少女好きほどじゃないけどね」
夕方頃、夕食前に近所を取材がてら一回りしてこないかと、島崎は国木田に誘われてそれに応じた。
しかし、では出かけようとエントランスホールまで来たとき、
「あ、ペンを忘れたよ……」
と、島崎がチョッキのポケットを押さえながら言った。
「どこに忘れたかわかるのか?」
と国木田が聞いた。
「うん……午前中談話室で使ったから、たぶんそこかな」
「待ってるから取ってこいよ」
「いいよ、先に行ってて」
すぐ追いつくから……と、島崎は国木田を見送った。一人で談話室へ向かった。
おやつの後には騒がしかった談話室も今は人気がなく、ひっそりしていた。ただ、部屋の奥の方で、
「すう……」
と、寝息のような音が聞こえていた。島崎が足音を忍ばせて近寄ってみると、入り口に背を向けた長椅子の肘掛けから足袋を履いた大きな足が横に二本にゅっと突き出ていて、寝息の主はその人らしい。
そっと顔を
芥川は長椅子の上に横倒しになって、肘掛けを枕に難しい顔で眠っていた。案外、他の人たちは芥川のこの様子に遠慮して席を外したのかな、と島崎は思った。
(夢の中でまでなんか悩んでそうだよね、君)
島崎は長椅子の前に回ってきて、芥川の寝顔を見下ろした。今彼が目を覚ましたらきっと嫌な顔をするだろうなと思う。
じっ、
と芥川の顔立ちを観察した。涼やか、というのが最も似合う造形である。大人びてスッと通った鼻筋や切れ長の目元は、島崎の鼻も口もおしなべて小さくまとまっている様子とは対照的だった。少し羨ましい気持ちを覚えなくもない。
芥川は何か夢を見ているのか、物言いたげに唇を薄く開いたり閉じたりしていた。島崎の視線はそこへ吸い寄せられた。
(少しくらいなら……)
と悪戯心が湧く。その部分の柔らかさを確かめてみても、彼は目を覚まさないのじゃないかしらと。
物音を立てないように、細心の注意を払って、ゆっくりと芥川の顔の上にかがみ込む。そこへ指先で触れようと伸ばした手を、しかし、突然芥川が動いてつかんだ。今までぴくりともせずに眠っていたのが、急に両目を大きく開き、起き上がって、島崎の手首を握り締めた。
「何の
と芥川は怖い声を出した。
「僕に何をしようとしたんだ」
「いた……痛いよ……」
島崎はようよう芥川の手を振り払って逃れると、ホッとため息を漏らした。
「寝起きが悪いね……嫌な夢でも見たの……?」
「君には関係ないよ」
と言いつつ、実際夢見がよろしくなかったらしい芥川は、歯痛の患者のように手で頬を押さえてウウとうめいている。
「で僕に何をするつもりだったんだ」
「え? えーと……」
唇の柔らかさを確かめてみたかった、だなんて改めて答えようとするとどうも幼稚なことのようである。島崎がもじもじしていると、
「口で言えないようなやましいことをしようとしてたのか……」
と、芥川は嫌な顔をする。それは誤解だと島崎は思って、仕方なく正直なところを告白すると、芥川は拍子抜けがしたようにきょとんとしていた。
「唇の柔らかさ? 君が僕に? なんでまたそんな……」
と、妙に赤くなりながら言った。
「なんでって言われても……僕だってそういう気持ちになることはあるよ」
と島崎は答えた。芥川につかまれた手首が痛むらしく、しきりにさすったりぶらぶらさせたりしている。芥川は「むう」とうなった。
「痛むのかい」
「うん、君があんまり強く握るから」
「森先生に診てもらった方が……」
「君に乱暴されましたって説明しなきゃいけないね」
「む……」
芥川と島崎の間に無言の取引があった。
やがて、芥川の方から、
「……さっきの話」
と言った。
「僕の、唇の柔らかさを確かめたい? とか言ったっけ? いいよ、あれ、しても……」
「え、いいの?」
「うん……」
芥川は少し長椅子の端へ寄って、島崎に「掛けたまえよ」と促した。
「? ありがとう」
島崎は素直にそこへ座った。芥川の顔を見上げると、何やら気まずそうに口を横に結んでもぐもぐさせている。
「えっと……」
と島崎が切り出そうとしたとき、その肩を芥川が両手でつかんだ。そのまま、ぐいと引き寄せられた。
「え……」
島崎が「あっ」と思ったときにはもう目と鼻の先に芥川の唇があった。彼の熱い吐息が自分の唇にかかったと悟ったとき、
「………」
「………」
芥川が冷や汗を流しながら弁解したところによると、
「『唇の柔らかさを確かめたい』だなんて……
とのことで。
極めてバツの悪そうな芥川の様子を憐れに思って、島崎は一人でその場を後にした。廊下をぼんやり歩きながら、どうせならキスしてしまってもよかったな、減るものじゃないし……などと今更調子のいいことを思った。
(それにその方がきっと、彼の唇について忘れがたかった……)
そしてそのキスはきっと、甘酸っぱいレモンの味だったに違いなかった。
(了)