居睡
まだ十一月だというのに北方では雪の日が続いているそうである。東京には雪こそ降らないが、帝國図書館の館内も底冷えがするように寒い。
芥川は今年、ついに自腹を切って小さな
芥川の部屋には近頃にわかに来客が増えた。皆通りがかりに
「なんで君まで――」
と芥川は、
「君を取材しに来て断られたついでに……」
などとのたまう。芥川がちらと肩越しに見やると、すっかり背中を丸めてぬくぬくと
「君もこっちで仕事をすればいいのに」
と島崎が言う。
「嫌だね」
誰が好き好んで嫌いな男と一つ
「強がるね」
と、島崎はしかし一向にこたえたようでもなく、それがまた芥川を不愉快にさせるのだった。
実際、強がっているのである。机の前に座っていると寒い。手足が冷えて敵わない。ペンに洋墨を付けるのにも手先が震える。いく度となく手のひらをこすり合わせながら、自費で
「君、温まったならいい加減に帰りたまえよ」
と、相変わらず居座っている島崎へ文句を垂れたが、返答はなかった。それどころか、すうすうと安らかな寝息さえ聞こえてきた。
(こいつ!)
と思って芥川が振り返ると、果たして島崎は
(図々しいにも程がある)
まず起こそうと思い、それから否と思い直して身震いをした。起こせばどうせまたつまらぬ意地の張り合いになる。それよりは、この
それがいいそれがいいと、芥川はそそくさと腰を上げて
(いや、どうして僕の方が遠慮しなくちゃならないんだ)
と島崎の足を手で押しのけようとして、彼が半ズボンを穿いていることに気づいた。膝から下は長靴下様の薄い生地でぴったり覆われていた。
(またこんな、子供のような格好をして――)
島崎は案外深く寝入っているようである。もし目覚めたとて、腕力は体格で勝る自分の方が強いに決まっている。声を上げられないように口を手で押さえるのも容易だろう。懐のハンケチで
もちろんそんな所業が露見しないとは思わない。しかしそうして己の残虐性が衆目にさらされるのさえ、自分は心のどこかで望んでいはしまいか?
(きっと今の“生活”は何もかもめちゃくちゃになる)
「芥川龍之介」として築いてきた“生活”は跡形もなく破壊され、その先に待つのは全くの未踏の地である。それを思うと恐怖と同時に恍惚さえ覚えはしまいか? 全てをさらっていく濁流を前にして逃げ出すよりも立ちすくんでしまう、そんな心持ちもあるいは今の己に近いものかもしれぬ。
芥川は島崎の膝を
ほんの一寸手を伸ばせば、島崎の穿いている半ズボンの中に五指が全部隠れた。芥川はほとんど夢中で、島崎の寝息を
「……っ」
と、島崎の息が乱れたので芥川もようやくハッとして、手を引いた。
「―――」
不審げに眉根を寄せて、まじまじと島崎の寝顔をにらんだ。島崎は
「“芸術”のために身を滅ぼしたいのなら、付き合ってあげてもいいよ……」
「起きていたのか」
そうならそうと早く言いたまえよ、つくづく嫌なやつだ。と芥川は虚勢を張って殊更に悪態をついた。
「で? 僕に
と言った声だけは強がっても、その実、
「僕は今眠っているから」
と島崎は芥川の心境など知ったことではないという調子で、のんびりと言う。
「何をされたとも気づいていないし、何も聞いていないよ」
「起きてるじゃないか」
「これは寝言……」
「―――」
芥川はしばし子供のように
芥川は二口立て続けに吸った。三口目に深く深く煙を吐いて、煙草を左手の指の間に挟み直し、右手にペン取った。洋墨を付けた。
背後で島崎が体を起こした気配がする。
「僕、寝てたみたいだ……」
と、ぼんやりつぶやいた。眠たげであった。
「人の部屋で居眠りなんてすると、変な夢を見るものだよね」
と言う島崎に対して、芥川は彼にしては珍しく、嫌味のこもっていない素直な返答をした。
「夢か。夢ならば忘れるのもたやすいよ」
(了)