居睡

 まだ十一月だというのに北方では雪の日が続いているそうである。東京には雪こそ降らないが、帝國図書館の館内も底冷えがするように寒い。
 芥川は今年、ついに自腹を切って小さな炬燵こたつを買った。すると、買う前には「ますます仕事がたいぎ﹅﹅﹅になるぞ」などと口うるさかった菊池なども、近頃毎朝炬燵こたつにあたりに芥川の自室へ来ては朝食頃まで粘っている。
 芥川の部屋には近頃にわかに来客が増えた。皆通りがかりに炬燵こたつへ入りに来る。師の夏目や、室生たちのような友人、堀のような後輩が友達連れでやって来るのは、まだ、いい。
「なんで君まで――
 と芥川は、炬燵こたつに背を向けて文机で書物をしながら渋い顔をしている。炬燵こたつの方では、やはり芥川へ背を向けて、島崎が手足をぬくめていた。
「君を取材しに来て断られたついでに……」
 などとのたまう。芥川がちらと肩越しに見やると、すっかり背中を丸めてぬくぬくと炬燵こたつに張り付いている様子である。取材がどうこういうのはただの口実に違いないと思った。
「君もこっちで仕事をすればいいのに」
 と島崎が言う。
「嫌だね」
 誰が好き好んで嫌いな男と一つ炬燵こたつに入って、しかも目の前で原稿など書くというのか。といった意味合いのことを芥川が嫌味を込めて言うと、
「強がるね」
 と、島崎はしかし一向にこたえたようでもなく、それがまた芥川を不愉快にさせるのだった。
 実際、強がっているのである。机の前に座っていると寒い。手足が冷えて敵わない。ペンに洋墨を付けるのにも手先が震える。いく度となく手のひらをこすり合わせながら、自費で炬燵こたつを買った当人の自分がなぜこごえる思いをせねばならぬのかと阿呆らしくなった。
「君、温まったならいい加減に帰りたまえよ」
 と、相変わらず居座っている島崎へ文句を垂れたが、返答はなかった。それどころか、すうすうと安らかな寝息さえ聞こえてきた。
(こいつ!)
 と思って芥川が振り返ると、果たして島崎は炬燵こたつに入ったまま居眠りをしていた。
(図々しいにも程がある)
 まず起こそうと思い、それから否と思い直して身震いをした。起こせばどうせまたつまらぬ意地の張り合いになる。それよりは、この 老獪ろうかいな青年が大人しく寝ている間に、さっさと炬燵こたつで体をぬくめてしまった方がいい。
 それがいいそれがいいと、芥川はそそくさと腰を上げて炬燵こたつへ入った。島崎の差し向かいに座るのもなんだか変な気がして、斜め向かいへ入った。
 炬燵こたつ布団をめくって爪先を入れると、中で島崎の足とぶつかって思わず身を縮めた。
(いや、どうして僕の方が遠慮しなくちゃならないんだ)
 と島崎の足を手で押しのけようとして、彼が半ズボンを穿いていることに気づいた。膝から下は長靴下様の薄い生地でぴったり覆われていた。
(またこんな、子供のような格好をして――
 つかんだ膝の骨の形まではっきりわかるほどの薄い肉付き。指に触れる半ズボンの裾。少し手を伸ばせばズボンの中を通って鼠径部にまで手が届きそうであった。芥川はそういった行為に何か犯罪的興味を覚えないでもなかった。
 島崎は案外深く寝入っているようである。もし目覚めたとて、腕力は体格で勝る自分の方が強いに決まっている。声を上げられないように口を手で押さえるのも容易だろう。懐のハンケチで猿轡さるぐつわを噛ませてもよい。幼き日に新聞や雑誌の下世話な記事を見て未熟な性を挑発された思い出がある、あんなような残虐な凌辱だって今は可能な成熟した体である。
 もちろんそんな所業が露見しないとは思わない。しかしそうして己の残虐性が衆目にさらされるのさえ、自分は心のどこかで望んでいはしまいか?
(きっと今の“生活”は何もかもめちゃくちゃになる)
 「芥川龍之介」として築いてきた“生活”は跡形もなく破壊され、その先に待つのは全くの未踏の地である。それを思うと恐怖と同時に恍惚さえ覚えはしまいか? 全てをさらっていく濁流を前にして逃げ出すよりも立ちすくんでしまう、そんな心持ちもあるいは今の己に近いものかもしれぬ。
 芥川は島崎の膝をでていた。濁流のふちに立って、轟音ごうおんを立てて流れ行くそれをこわごわと見下ろしているように。おそるおそる島崎の膝をでていた。
 ほんの一寸手を伸ばせば、島崎の穿いている半ズボンの中に五指が全部隠れた。芥川はほとんど夢中で、島崎の寝息をうかがうのさえ忘れていた。さっきまでは規則正しかった島崎の呼吸が、今は息をむように緊張したものになっていることに芥川は気がつかなかった。
「……っ」
 と、島崎の息が乱れたので芥川もようやくハッとして、手を引いた。
―――
 不審げに眉根を寄せて、まじまじと島崎の寝顔をにらんだ。島崎は睫毛まつげの恐ろしく長い目をつぶったまま、口を薄く開いて言った。
「“芸術”のために身を滅ぼしたいのなら、付き合ってあげてもいいよ……」
「起きていたのか」
 そうならそうと早く言いたまえよ、つくづく嫌なやつだ。と芥川は虚勢を張って殊更に悪態をついた。
「で? 僕に不埒ふらちな真似をされたと人に言いふらしに行くのかい」
 と言った声だけは強がっても、その実、炬燵こたつの中にいてさえ背中に冷たい汗が浮くようであった。己の臆病をまざまざと思い知って暗澹あんたんたる心持ちがした。
「僕は今眠っているから」
 と島崎は芥川の心境など知ったことではないという調子で、のんびりと言う。
「何をされたとも気づいていないし、何も聞いていないよ」
「起きてるじゃないか」
「これは寝言……」
―――
 芥川はしばし子供のように炬燵こたつで丸くなって、じっと思案を続けていたが、やがて抜け出して文机の前に戻った。燐寸マッチを擦る音がして、かすかな硫黄の香と煙草の煙の匂いが島崎の鼻先まで届いた。
 芥川は二口立て続けに吸った。三口目に深く深く煙を吐いて、煙草を左手の指の間に挟み直し、右手にペン取った。洋墨を付けた。
 背後で島崎が体を起こした気配がする。
「僕、寝てたみたいだ……」
 と、ぼんやりつぶやいた。眠たげであった。
「人の部屋で居眠りなんてすると、変な夢を見るものだよね」
 と言う島崎に対して、芥川は彼にしては珍しく、嫌味のこもっていない素直な返答をした。
「夢か。夢ならば忘れるのもたやすいよ」

(了)