妙な仏心を出すんじゃなかった――
 と芥川は後悔したが時すでに遅し。ぐにゃりと力を失っている島崎の体を抱えてようよう彼の部屋まで戻ってきた。
 事の次第はこうである。
 夜も随分更けてきて時計の針が午後十時を回った頃のこと、図書室へ本を返却しに行っていた芥川はその帰り道、エントランスホールで別段嬉しくない相手に鉢合わせた。島崎藤村のことである。
 島崎はホールの壁に掛かっている絵画の一つに向かって何やらぶつぶつと独り言をつぶやいていた。夜中の薄暗い照明の下でのことだったので、それはいかにも不気味な光景だった。芥川でさえ、遠目には幽霊や物のの類が出たかと見紛みまごうたほどである。
 近づいてよく見れば島崎であったが、それにしても一人でぶつぶつ何をやっているのか理解に苦しむ。芥川は、
(関わるまい)
 と思って脇を通り過ぎようとした。が、
「……君も今帰るところ?」
 と島崎の方から絡んできた。芥川はつい足を止めてしまった。立ち止まってしまったついでだと思って、島崎へ問うた。
「何してるんだい君、そんなところで」
「僕……? 僕は、ちょっとこの人に取材させてもらおうと思って……」
―――
 島崎は絵画に描かれた黒い礼服の紳士を指差していた。
(このひともとうとう頭をやられたのか)
 芥川はまじまじ島崎の顔を見つめた。島崎はいつもと変わらぬ陰気で眠たげな目つきをしていた。顔色も別段異常はない。おかしいところがあるとすれば、口を開いてしゃべる度に吐く息がいささか酒臭い。
――君、酔ってるのかい」
 と芥川は聞いた。
「誰かと夜遊びに出かけた帰りか」
「うん……花袋と国木田と、それに秋声と」
「他の人たちは?」
「秋声がすごく酔っ払って荒れちゃってさ……国木田が部屋まで送って行ったんだ。花袋はトイレに行くって言ってそれきり戻ってこない……」
 島崎は一見するとさほど酩酊めいていしているようにも見えなかった。言葉はしゃんとしている。様子は少々おかしいし、立っている姿を見ていると足元がふらふらしていたが。
(まあ、そのうち酔いが覚めて正気に返るだろう)
 と芥川は思い、島崎をその場へ残して帰ろうとした。
 島崎に背を向けて十歩ばかりも行ったとき、不意に、背後でずるずるどさりと彼の尻餅を突いたような音が聞こえた。振り返ると、島崎は絵の下に座り込んで小さくなっている。
 放っておいたところで、もう風邪を引くような時節でもない――とは芥川も思う。しかしこんな調子の人を見つけておいてほったらかしにしておくのは“芥川龍之介”として許されないような気もする。
「大丈夫かい――
 と低い声をかけながら、島崎を抱え起こすと、その痩身はぐにゃりとしていた。まるで猫でも抱き上げたような具合だった。
 いざ助け起こしてから、これからどうしようかと考えた。医務室――はこんな時間に行っても鍵がかかっているだろう。森に看病を任せてしまうのが一番いいと思うのだが。
「君、自分の足で歩けないのか――
 と、島崎の脇を抱えて芥川は歩きだした。「どこに連れて行かれるんだろう……」と島崎がつぶやいた。
「どこって、君の部屋に決まってるだろう」
「なんだ……」
「なんだとはなんだ。一体何を期待しているんだか」
「………」
 力の入らない島崎の体は見た目よりやたら重く、鉛の塊でも引きずるようにして芥川はのろのろ歩いた。
 そうして、どうにかこうにか島崎の自室の前まで来ると、半分眠りかけた様子の彼を揺すり起こした。
「君、君、部屋の鍵は」
「………」
 島崎は、目を覚ましたようなのに返事をしない。
らちが明かない)
 と芥川は、島崎の洋服のポケットを勝手に探った。自然、手が島崎の胸元や腰回りに触れる。島崎が妙な目つきを向けてきて、
「えっち……」
 などと甘えたな声を出すので、芥川は辟易へきえきしてしまった。
「鍵! 出したまえよ」
「ズボンのお尻のポケットにあるよ」
 芥川はできる限り島崎の尻に触れないように指先だけで鍵を摘み出すと、それでドアを開けて、島崎を中へ押し込んだ。――つもりであったが、島崎がこちらの着物の脇をつかんで離さなかったせいで、危うく一緒に転げ込むところだった。
「うわっ――と」
 咄嗟とっさにドアへ手を着いて体を支えた。島崎の体を自分とドアの間に挟んだ格好になった。
「ねえ……靴を脱ぐの手伝ってくれない……」
 と、すかさず島崎が言った。芥川の返事を待たずに、太腿ふとももまでもある長いブーツの履き口へ両手をやってごそごそやり始めた。そんなところでもぞもぞされては芥川の方がたまったものでない。
 島崎がブーツの留め金を持て余しているのを見かねて芥川はツと手を添えてやった。そのとき島崎と視線がぶつかった。島崎は恐ろしく長い睫毛まつげの陰から妖しい目つきを寄越した。
「……こういうの、送りおおかみって言うんだよね」
 と、島崎は、机の前で煙草を吸っている芥川の背に立って浴衣に着替えながらそんなことをのたまう。芥川は仏頂面ですぱすぱと煙草を吸っては青い煙を吐いている。
「どっちがおおかみなんだか――
「ねえ……」
 芥川は急に耳元で島崎の声を聞いて、振り返ると、島崎が崩れかかるように背中へのしかかってきた。そのまま酒と煙の臭いのする接吻キスをした。
「………」
 二人とも深入りせずすぐに離れた。
 島崎は芥川の背にだらりと寄りかかってため息をついている。酔った手元で着替えた浴衣は襟がひどくゆるかった。
「寂しい感じがする……」
 ぽつりとつぶやく。
「そう」
 と、芥川は新しい煙草に燐寸マッチで火をけた。別にわかりたくはないが、島崎の気持ちはわかるような気がした。友との交歓がかえってびしさを呼ぶこともある。国木田は徳田の面倒を見て戻らず、田山も一人でどこかへ行ってしまった。それだけ気の置けない仲だといえばそれまでだが、そんななんでもないことが、子供みたいに我儘わがままに寂しい夜もあろう。
 芥川は冷たい声を作って言った。
「君のことだから、それもいつか小説の題材にするんだろう」
「そうかもしれない……」
 でも、と島崎は語を継いだ。
「でもさ、それだけじゃつらいよね……」
 と言う。島崎の口ぶりに嫌味はなく、芥川も悪い感じは受けなかった。そしてそれと同時に、明日になったら島崎はこうして話したことを忘れているかもしれないなと思った。見た目以上に酔っているのだ。いつもの島崎なら奥深くひそませて見せないような心の柔らかな部分があらわになっていた。
 芥川が二本目の煙草を灰皿へ押しつけると、それを待ち構えていたように島崎が組みついてきた。芥川は畳の上に引きずり倒された。
「わざわざ寝巻に着替える必要があったのかい」
 とぼやいたのは、皮肉というより睦言むつごとであった。
 島崎は、乱れた浴衣もそのままに、自ら芥川の上になって着物を脱がせながら喉や胸元へ小さな唇と舌とを懸命にわせた。乳首を吸った。
「ンン――ねえ君――もし通りがかったのが僕じゃない誰かでも同じことをしたかい」
 と、芥川はなんとなく問うてみた。島崎は、どうにも、自嘲のような、あるいは泣き声のような、切ない声になって答えた。
「したかもしれないよ……僕はこんなだから……」
「うん」
「だけど……その誰か﹅﹅が君だったからよかった……」
――どういう意味だい?」
 芥川の大きな手が島崎の頭の後ろへ回された。くせ毛の中へ指を差し込んでそこをでていると、島崎はうっとりしてさらに強く身を押しつけてきた。
「わかんない僕にも……君だったことになぜか安心してる……すごく」
―――
 芥川は急に島崎を抱きすくめてごろりと転がると自分が上になった。
 島崎は随分重かったに違いないがそうとは言わない。芥川をいっそう抱き締めてその重みと熱とに陶酔した。


 はた、
 と島崎が明け方に目覚めると、布団の中に一人で、寝巻の浴衣をきちんと襟を合わせて着て、寝ていた。
「………」
 起き上がった途端に頭がズキズキ痛んだ。
「あた……芥川?」
 と、呼んではみるも返事はない。
 部屋の中を見回しても彼の足袋の片っ方も落ちていない。
 島崎の脳裏にのみ、ぼんやりと昨夜の景色が残っている。薄暗い廊下で芥川と会って話をしたこと、机の前に座って煙草をんでいる彼の後ろ姿……どれもこれも夢の中の光景のように遠くかすみがかかっている。
 が、確かに夢でないとわかるのは、体に残る微熱を帯びた倦怠感けんたいかんと、机の上の灰皿に残された二本の吸い殻のおかげで。
(夕べ何を話したんだっけ……)
 彼と僕と、どちらが誘ってそういう事態になったのか。芥川はいい人﹅﹅﹅だから酔っ払いの相手なぞ御免こうむると言いそうだ。とすれば自分がねだって抱かれたのかしら。
(何を話したんだっけ……)
 と、もう一度考えてみたがどうしても思い出せなかった。
(怒ってそうだな、芥川)
 二日酔いの頭痛と悪心、房事の翌朝の倦怠感けんたいかんとその上に憂鬱な気分も重なって、しばらくは活動する元気もなかった。
 それでも朝食の時間が近くなると、島崎はのろのろと寝床を抜け出し、顔を洗って身支度をした。
 食堂には土気色の顔をしている徳田と田山がいた。国木田一人が割合元気で、
「おはよう島崎、二日酔いは大丈夫か?」
「うん……僕よりそっちの二人の方がひどそう」
「夕べは最後まで面倒見れなくて悪かったな。なにせ泣き上戸で駄々っ子なのがいたもんだから」
「それって――もしかしなくても僕のことかい」
 大袈裟おおげさに言わないでくれよと、青ざめてテーブルに突っ伏している徳田が弱々しく不満の声を上げた。
 島崎は徳田の横でやはり伸びている田山を見やった。
「花袋……昨日いくら待っても戻ってこなかったけど、あの後どうしたの?」
「気がついたらトイレの床に座って寝てた――
「………」
「悪かったよ、お前のことほったらかしにしてて」
「ううん。いいよ、僕は平気だったし」
 島崎は心からそう言って、皆と同じテーブルに着いた。
 ふと、視線を感じ、そっと窓際のテーブルを見ると芥川の薄青い視線にぶつかった。芥川も島崎の視線に気がつくと、ふいと目をそらした。
 芥川の向かいの椅子に座っている菊池が、
「おい龍、アンタそんなにタイをきっちり締めて苦しくないか」
 と、自分の喉元を指差しながら言った。
 例によって洋服の上に着流しの芥川は、今朝はどういうわけかシャツの立ち襟をぴったり喉へ張りつけるように着て、タイも隙間がないほどきつく締めている。
「僕はね、かっちりしてるのが好きなんだ」
 と、芥川は悪戯っぽく笑いながら言った。
「嘘つけ、“悪い虫”に食われた痕でも隠してるんじゃねえのか?」
「そういう君こそ、昨晩はみんなとどこでどんな悪い遊びをしてきたんだい」
「話をはぐらかすなよ」
「ふふん――
 おい藤村てば、と田山の呼ぶ声で島崎は我に返った。
「……あ、ごめん、聞いてなかった」
「朝飯どうするかって話だよ」
「うーん……お味噌汁みそしるだけにしておこうかな……」
 皆と一緒に配膳口へ立ったとき、また芥川がこちらを見ているのと目が合った。それもほんの一瞬のことであったけれど。
 朝食が済み、潜書や仕事のない文士たちは思い思い気ままに過ごした。芥川は図書室へ新しい本を借りに行った。書架にかじりついて和漢の説話集などをあさり、好みのものを探していたとき、しかし不意に気配を感じて体を起こし、
「そこにいるの、誰だい」
 と、後ろの書架の陰をにらんだ。
「……やっぱり気づかれちゃった」
 と、島崎が悪びれた風もなく姿を現した。
 図書室の西向きの窓から今はごく控えめな光が差していた。高いステンドグラス窓から入る光も優しい頃で。それらが島崎の憂鬱そうな顔を照らした。
 島崎は周囲をうかがいながら芥川のそばへ近寄って来た。
「怒ってるのかなと思って。さっきも僕の方にらんでたし」
「怒ってるって?」
「夕べ……僕たち一緒に寝たよね? よく覚えてないんだけど……」
「覚えてないのか」
「あんまり……」
―――
「たぶん君に迷惑をかけたんだろうなと思うから、そのことは謝っておこうって」
「別にそんな殊勝に謝られるようなことでもない。調子が狂う――それにしても本当に覚えていないんだ」
 と、芥川は言うと、タイを留めている胸飾りへツと手を持っていった。ちらと流し目で辺りをうかがって、他に人気のないことを確かめながら、胸飾りを外してタイをほどく。
 きょとんとしている島崎の目の前でシャツの襟を広げて見せた。胸元が赤あざと白い肌とのまだらになっていた。
 島崎はポカンと芥川の胸を見つめた。
「………」
「すごかったよ、君――
 芥川は、まじまじ見られるとそれはそれで照れくさそうに襟を閉じ、手早くタイを直した。
「酔っ払っている君のところに通りがかったのが僕でよかったね」
 と、言った。
―――
 一呼吸置いて、
――僕みたいに口の固い人間じゃなきゃ大変なスクウプ﹅﹅﹅﹅だったろうからね」
 と取って付けたように言い添えた。
 島崎は珍しく弱ったように長い睫毛まつげを伏せていた。随分長い間まごついて、結局他に言葉が見つからず、
「ごめん……痛かった?」
 と謝った。
 芥川は小さく顎を引いた。
「少しね――
 芥川の横顔にも、窓の光は柔らかく当たっていた。光の加減のせいか青く澄んだ目元がひどく優しい。

(了)