獣の眠り

1

 “彼”なんていなくなってしまえばいい――!!
 と、本心から思ったことは、これが初めてではないかと思う。今までどんなに“彼”に悩まされても、時として疎ましくさえ思うことがあっても、消えてなくなってしまえとまで思ったことは一度もない。
(今度は、本気だ)
 と中島は、真暗な自室で一人、めちゃくちゃに散らかった寝床にうずくまりながら思った。まるでけだものが暴れた跡のような、ぼろ布のようになった布団を抱いて嗚咽を漏らす。
 寝床ばかりではない。書物机の上にあった物は床に散らばったままになっているし、倒れた電灯もそのままである。物に当たるなんてみっともない、と頭ではわかっていても、そうでもしなければこの身を焼くような嫉妬から逃れられなかった。
 いや、そうまでしても逃れられなかった、というべきかもしれぬ。
(私は、頭がおかしいんだ)
 自分で、自分に、殺したいほどの嫉妬心を抱くなんて。
 狂っている。
 狂人そのものだ。と理知の部分で思いはすれど、感情が言うことを聞かない。
 脳裏に浮かぶのは、敬い慕う泉鏡花の、口の端にあるかなしかの笑みを浮かべた涼やかな顔立ちばかりであった。その清涼な薄紫色の視線を、たとえそれを独り占めにはできなくても、せめてすみれの瞳に一時映してもらうことくらいは、自分にも許されるだろうと信じていた。
 中島は身を小さく小さく縮めて布団に埋もれた。
 机と寝台の間の床に、一通の手紙が、帳面や万年筆と重なり合って落ちている。差出人は泉鏡花。文面はといえば他愛のないもので、久しぶりに手紙を書きます、あなたは思っていたよりずっと付き合いやすい人ですね、なくした眼鏡は見つかりましたか――
 中島はその手紙を受け取って読んですぐ、
(“彼”のことだ――
 と気付いた。近頃鏡花と親しく話したことも、ましてやひどい近眼の自分が眼鏡をなくすことなどあるはずがなく、鏡花からこんな手紙をもらう心当たりはない。自分に全く覚えがないとなれば、それはすなわち“彼”の仕業であった。
 手紙の文面を中島は何度も読み返した。読めば読むほど、己の胸奥で、暗い嫉妬心がめらめらと炎上し出すのをはっきりと自覚した。
(奪われる――
 と初めに思った。
 “彼”は私から、ささやかな憧れの喜びまでも奪っていく。もはや鏡花は私を見てはくれない。私の肉体を視界に捉えてはいても、その実、私の中にいる“彼”にばかり澄んだ瞳を向けているだろう。
 “彼”は私の全てを奪うつもりか、と思うと、恐怖とも怒りともつかぬ感情が心中でのたうつ。だんだんと、夢と現実が入れ替わるように、己の人生の上で“彼”が“私”に成り代わっていく。ことに近頃は“彼”の現れる時間も長くなった。完全な視力を備えた五体満足な体も、侵蝕者と戦う力も“彼”だけが持っている。私の大切な人も“彼”のものになる。私には何も残らない。
 ああ、全く、どんなに、恐しく、哀しく、切なく思っているだろう。私が“私”でなくなることを。
(この気持は誰にも分らない。誰にも分らない――鏡花さんもやっぱり分ってくれなかった)
 という絶望が、次に中島の心を占めた。そして最後に、傷付いた祈りが。
(いっそ身体を二つに切断されて、直ぐに、片方は“私”でもう片方は“彼”と別れてしまいたい。そうして、もう誰でもいい、鏡花さんでも、“彼”をどこかへ連れて行ってくれたらいい。そうすれば、残った“私”は石のように心を冷たくして、何にも惑わされることなく生きていけるから――
 そんなことを空想しては、すすり泣くのであった。
 いなくなれ。と“彼”を呪うのである。
 いなくなれ。鏡花なんぞ、欲しくばくれてやる。その代わり、私の中からいなくなってしまえ。と、ただ己の心を乱したくないがために、大切だったはずの人まで貶めて、呪うのである。
(腐れたる魚のまなこは光なし石となる日を待ちて我がいる)
 中島の脳裏に、かつて自ら詠んだ寂しい歌がふと蘇った。自己愛と自己嫌悪の鎖につながれた狂乱の獣の心の中に、最後に一筋残った人の心が歌を詠む。中島の心のけだものは猛り狂い、二本の鎖を引きちぎらんと夢中で暴れ、悲鳴のごとき耳障りな咆哮をいく度もいく度も上げた。そしてその咆哮が最も甲高く、狂おしく極まった直後、中島は獣の眠りへと落ちていた。

2

 “奴”が手放した意識を引き取るようにして中島は目覚めた。
 わかってはいたが、自室の中は酷い有り様である。乱れた寝床に起き上がって周りを見回そうとすると、“奴”のかけている度の強い眼鏡が視界を歪めてまともに物も見えない。眼鏡を外して、邪魔な髪を掻き上げ、のそりと寝台を降りた。
 床に散らばっている帳面や筆記具を拾い上げて机の上へ片付けた。その間に挟まっていた鏡花の手紙に中島は一瞥をくれ、手に取った。が、中を見ることはなく机上へ戻した。
 中島はいきなり右の拳を振り上げると、それを、骨が砕けんばかりに力いっぱい机に叩きつけた。そのまま体ごと崩れ落ち、机の上に突っ伏した。
―――
 やりきれない。
 どうして上手くいかないのか。
(どうして“奴”にはわからないのか)
 心の中で叫び声を上げ、口からは押し殺しきれなかった嗚咽が漏れる。
(“奴”から何一つ奪ったりするものか――この俺が――
 どうしてわかってくれないのだと、“奴”を恨めしく思うが、それでさえ本心からではなかった。
 鏡花からの手紙に何が書かれていたのかは、中島にもわかっている。心当たりがあった。
 先日有碍書に潜書したとき、仲間の文士の一人に鏡花がいた。有碍書の文字に侵された不気味な市街を皆で探索していると、
「中島さん、そういえば、いつもの眼鏡、今日はかけていませんね。どうしたのです?」
 と、あるとき不意に、鏡花が声をかけてきた。中島は、ぎくり、とした。いっそ聞こえなかったふりをしようかと思ったが、その潮を失った。仕方なく足を止めて鏡花の方を振り返った。
 鏡花は、自らそうとは言わなかったが、中島が皆から一人離れぽつねんとしているのを見て世話を焼いてくれたものらしい。
「眼鏡がなくて、大丈夫なのですか?」
 と畳みかけてくる。
 中島は、学校の先生にとがめられた子供のように、ばつの悪い思いで、鏡花からそっと目をそらした。この男とはあまり口をききたくないと思う。それは嫌悪の感情からではなく、その逆で、鏡花のひんやりと透明な視線や、玲瓏たる冴えた声を中島は畏れていた。
――なくしたんだ」
 と中島は、鏡花の問いに答えた。我ながら上手くない嘘をついたものだと思った。
「なくしたんですか? 眼鏡を?」
「そうだ」
 こうなれば嘘をつき通すしかない。中島は頑なに「なくした」と言い張った。それを頭から信じるほど鏡花が愚直だとも思えなかったが。
 鏡花は、なんともいえないような顔をしていた。中島の心の中を覗き込むように、薄紫の瞳をわずかに細めて静かに中島を見つめる。中島は、ますます目をそらした。
(何か僕に言えない事情があるのだろう)
 と鏡花は察してくれたのかもしれない。
――そうですか。早く見つかるといいですね」
 と、鏡花は言った。「ああ」と中島はうなずいてから、
「気遣い感謝する」
 と礼を述べた。
「僕が力になれることがあれば、遠慮せずいつでも言ってください。できる限りのことはします」
 とも鏡花は言ってくれた。そのまっすぐな言い様に中島は照れて、もじもじうつむいた。
「なぜ俺にそこまで言ってくれる?」
 “奴”ならまずおどおどして口に出せないであろうことを、中島は面と向かって鏡花に尋ねた。鏡花は、おやという顔をする。
「なぜって、僕たちは友人同士ではないのですか? それとも、僕の独り相撲で、中島さんにはそうとは思ってもらえていないのでしょうか」
「そんなことはない!」
 と、中島は慌ててかぶりを振った。
「もちろん友だと思っている。思っているが、そこまで言われる理由がない。俺は尾崎の門下でもないし、志も違うだろう。ただお前の書くものが好きで、それで近付いたんだ。それだけの人間を、お前がそこまで気にかける道理はない」
「理由とか、道理とか、人が人を助けたいと思う心に、そんなものが果たして必要なのでしょうか」
 と、鏡花は静かに問いかけてくる。
「必要だ」
 中島はきっぱりと答えた。
「そうでなければ、もし俺を助けたせいでお前に何か害が及んだとき、俺は自分を許せない」
「そういうことなら、中島さん、あなたも僕を助けてはいけませんね」
 と、鏡花は少し意地の悪い物言いをしたが、淀みない中島の言にむしろ好もしそうに微笑んでいる。
「もっとも僕は、理由や道理があろうとなかろうと、僕のせいで中島さんが傷付くようなことがあれば自分で自分を恨むでしょう」
「俺は――誰も助けたりはしない」
 もし、我が身を尽くして誰かを助けるようなことがあるとすれば、それは甘っちょろい﹅﹅﹅﹅﹅﹅“奴”の役目に違いないのだと思う。
「誰も? 誰のためにも身を尽くすことはないのですか。友や、師や、仲間のためにも?」
 と鏡花が寂しそうな目を向けてきた。尾崎紅葉の門下生として師に献身している鏡花からすれば、中島のごとき孤独な魂は異端に違いない。
「俺は」
 と、中島は鏡花から目をそらさずに言った。
「俺はお前とは違う。自分のためにしか生きられない。お前のような生き方が、俺は好きだ。だがそれでも、“俺”は、己のために生きることしか知らないんだ」
 呆れたか? と恥じたように声をすぼめて、中島も寂しげな顔をした。
「俺はお前のようにはなれないが、お前が好きだ。嫌いにだけはならないでくれ――
 中島にとっては鏡花に嫌われるのが唯一恐ろしい。自分だけならいいが、“奴”が嫌われるのは困るのだ。
 鏡花はしばし押し黙り、中島の顔をまじまじと眺めてから、ふ、と笑みを浮かべた。悪童の世話をする兄のような、あたたかい諦めのある笑顔だった。
「中島さん、僕は正直なところ、今まであなたのことがよくわからなかったのです。何か悩み事があるのだろうかと、ぼんやり思ってはいましたが――
―――
「こんなふうに話すことができてよかったと思いますよ。あなたは、僕が思っていたよりずっと」
「ずっと、何だ」
「ずっと熱く、燃え盛る心を持っているようです」
「俺が?」
 中島は怪訝そうに眉をひそめた。
「違う。俺の心は冷たい石のようなものだ」
「その石を割ってみれば、きっと芯は熱を持っているに違いありませんよ」
 鏡花は半ばからかうような調子になっていた。
「人の心に触れさせてもらうというのは、嬉しいものです。お礼をしなければなりません。これで道理ができました。僕があなたの力になれることがあれば、言いなさい。いつでも、どんなことでも」
 と、莞爾として笑うのである。

3

 何が悪かったのだろうか。何も悪くはない。自分が鏡花と語らったのは“奴”の預かり知らぬところであった。“奴”が誤解をしているからといって責められない。鏡花を責める道理もない。
 では自分が悪いのか。しかし、どこが悪かった? 俺のどこが? どこも悪くなかった。俺は正しいことしかしなかった。それは、鏡花にささいな嘘はついた。だがそれは“奴”のためにはその方がよかろうと思って――
 結局、中島が責めるべきものは何も見つからず、ただ「我あり」という事実だけが悪いのであった。
(“奴”の言う通りだ)
 いっそ体を二つに切断されて、それぞれが“奴”と“俺”とに分かれてしまえばどんなにか救われるだろう。そのときには、俺は何もいらない。俺はどんな不具になっても、いや、肉塊のごとき物となろうとも構わない――
 そんな悲しい空想に浸りながら、中島もまた綿のように疲れきった心に眠気を兆してきた。“補修”を受けるときのように“奴”のために眠るのではなく、今は自分のために眠りたかった。
 重い足を引きずるようにして寝台に戻り、寝床に倒れ込んだまま布団も掛けずに目をきつくつぶった。
 中島はやがてうとうとして夢を見た。いや、眠ったのではなく、幻覚を見ただけかも知れぬ。重苦しく淀んだ・不吉な予感に満ちた部屋の空気の中に、ただ一つ灯が音も無く燃えている。輝きの無い・いやに白っぽい光である。じっとそれを見ている中に、ひどく遠方に――十里も二十里も彼方にあるもののように感じられてくる。寝ている真上の天井が、いつかの夢の時と同じように、徐々に下降を始める。ゆっくりと、しかし確実に、上からの圧迫は加わる。逃れようにも足一つ動かせない。
 傍を見ると黒い人影が立っている。助けを求めても、かつての夢で自分がそうしたようには手を伸べてくれない。黙ってつッ立ったままにやりと笑う。
 どうしてかひどい近眼のごとく視界がにじんでいて、ほとんど物の形が見えなかった。しかしその黒い影は“奴”に違いない。と中島は何の疑いも抱かずに確信した。中島が絶望的な哀願をもう一度繰返すと、“奴”は、急に、怒ったような固い表情に変わり、眉一つ動かさずじっと見下ろしてくる。
 いったいどれほどの間そうしていたものか。二人にらみ合ったまま、一言も口をきかないでいる。中島の胸を押す力はますます強くなる。ひゅうひゅうと喘鳴さえ喉から漏れて、かつて喘息に苦しみながら眠った夜のことを思い出す。
(しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも)
 中島は胸の邊の喘鳴を聞きながら、そのような歌を詠んだ。それが“奴”の耳にも届いたのか、“奴”はいっそう怒ったような怖い顔になった。
 つと、“奴”が中島の胸の上へ屈み込み、両手を伸ばしてきた。
――!」
 “奴”の右手が中島の喉を掴んだ。左手を重ねて力任せに押さえつけてくる。
―――
 ぐいぐいと中島の首を締めながら、“奴”は何も言わない。中島も声が出なかった。反射的に“奴”の手を手で押さえようとしたが、そのとき自分の両手がどこにも見つからないことに気付いた。腕も脚も付け根からなくなってしまって、何の感覚もない。
 中島は一切の抵抗をしなかった。
(殺されてもいい――
 と思っていた。
 そうして“奴”の前に命ごと投げ出した姿に、“奴”は却ってひるんだらしく、中島を一思いに締め殺すほどの力はついに出なかった。真綿でじわじわと締め上げていくような、生殺しの苦しさにも中島は険しい顔をしただけだった。
「どうして」
 と“奴”の方が先に呻き声を上げた。怖い目をして中島をにらんだ。
 中島はやはり口をつぐんだまま、ただ言葉のいずるより早く、見えない瞳が思慕の情を語るに任せていた。“奴”は戸惑うばかりで、それでも、どんなに中島を痛めつけても無駄だということは理解したらしい。
 “奴”の手がようよう首から離れ、中島は自由になった息を大きく吸い込んで少しむせた。
 “奴”は冷たい視線を中島へ投げかけている。殺されることも恐れないこの半身を、どうすれば苦しめてやれるのかと考えている。
「無駄だ」
 と中島は、“奴”の心を知り抜いていて、言った。
「俺が、恐ろしいのは、お前が死ぬか、辱められるか――それだけだ。だがお前は自刃することも心から自己を貶めることもできやしない。そうするには、あまりにも己が恋しい」
―――
「わかるさ――自分のことくらい――
「わかりません、私には」
 どうしてあなたばかり、わかっているのか。と“奴”が鬼の形相で中島を見下ろす。
「私が死ぬか、辱めを受ければ、あなたに復讐できるんですかね」
「お前にそんなこと、できるものか」
「っ――
 “奴”は忌々しげに唇を噛む。中島の言うことは半分は当たっている。自殺などできない。死が怖いのではない。けれども己の頑強な自尊心と羞恥心とがそれを許すはずがないのである。
 もう一つの方について、“奴”は考えているらしかった。
「ねぇ」
 と中島を呼ぶ。
「もし私が、宮刑に処された司馬遷のように屈辱を受けたら、その相手をあなたはどうするつもりですか?」
「殺す」
「戦う手足もないその体で?」
「噛みついてやる」
「じゃあ、殺せない相手だったときは――
 と言い、“奴”は再び中島の体へ手を伸ばしてきた。が、今度は中島を痛めつけるような真似はしない。中島の胸の真ん中を意味ありげな手つきで、つ、と撫でる。
 ぞくり、と、中島の背に快感とも悪寒ともつかぬ震えが走った。

4

「おい――
 と、中島は半ば怯えた声を上げた。身動きの取れぬまま仰臥している中島の胴体を、奴がおもむろに膝で跨いで、腹の上に馬乗りになり、まっすぐに見下ろしてくる。
 何をするつもりだ、と中島が問おうとしたのを制して、奴がささやいた。
「見てて」
「見えないんだ――
 と中島が声を震わせる。奴は怪訝そうに眉をひそめた。
「嘘」
「嘘じゃない」
 ふうん――と奴がうなずく。
 奴は自分で自分の袴の紐を摘むと、指先に力を込めて固い結び目をほどいた。身に着けているものを自らの手で一枚ずつ剥ぎ取り、下半身が素裸になってから上着の前に手をかける。
 上着の裾から覗いている陽根は半分ほど頭をもたげていた。
 奴はもったいつけるようにゆっくり動いた。胸の飾り紐を慎重に外した。上から順に釦を外していき、一番下まで終わると、肌の上に直接着ている洋シャツの釦も同じようにする。
「何をしてるかわかりますか。裸になっているんですよ」
 釦が一つ外れるごとに奴の脚の間のものが硬くなっていくのが中島にはわかる。それが中島の腹を健気な力で押すのである。奴の顔つきもだんだんと締まりがなくなり、上気して、双眸が潤み、息が速くなる。
「冗談はよせ――
 と中島は呻いたが、
「冗談だなんて、思ってないくせに」
 と、奴がぴしゃりと言う。のぼせたような風体に反して声は冷たい。中島の顔や体の具合を見下ろして「あなたも同じじゃないですか」と冷笑した。
 カッ、と中島の全身に火が走った。傷つけられた自尊心が胸中で身悶えしていた。奴は繰り返し中島をなじった。
「同じですよ、あなたと私――
 言いながら、くつろげた上着の前から両手を差し込み、自分で自分の喉から裸の胸へと撫で下ろしていく。頭をのけぞらせて、指で鎖骨のくぼみや、うっすら浮いたあばら骨をなぞる。そのままへその上を通って下腹部へと進む。
「あ――
 奴はそらせた喉から細い声を漏らした。中島の目の前で自涜をする。愉楽のためか、羞恥心のためか、あるいはその両方のために息を荒くして喘ぐ。
 中島は顔をゆがめて奴の痴態をにらんでいた。もっとも、明瞭には見えなかった。濃霧の視界の中で、奴の影がいやらしくうねるのがわかるほどである。
「やめろ」
 とむなしい声を上げる。奴はやめようとしない。どころか不自然な性行為に夢中になりながら、中島の体にまで手を伸ばしてくる。
「っ、やめろ」
 と、中島は、今度ははっきりと拒んだ。奴を押しのけたかったが、四肢がなくてはそれも叶わない。手・足・目と皆失って硝子箱に生きている人もあるという。不具の体をうごめかせていると、そのような肉塊のごとき者になった気分だった。
 奴は片手で自らを慰め、もう片手で中島の一物を探った。
「ああ、やっぱり同じだ」
 と感嘆する。
「硬い――
「う――
 奴の手の中でそれだけが全く健常な男子同然に、別の生き物のごとく脈打っている。
「見せてくれませんか」
 と奴が言う。中島の了解も得ないうちにその衣服を剥ぎ始めた。
 裸にした中島の胴体に覆いかぶさり、耳の下辺りから順に、下半身の方へ向かって接吻――というよりは愛咬を加えていく。原初の愛撫は甘美な痛みを伴った。
 奴は中島の薄い胸板を執拗に舐め、赤子のように乳首を吸った。
「う、っく――
 中島がたまらず顔をそむけると、奴はそれを咎めるように首筋に噛みついて、それから一気に中島の腹の下まで下りた。ためらうことなく男根の裏側や陰嚢に舌を這わせた。
「っあ」
 のたうつ中島の体を見て、奴は異様に興奮したように、熱心に舌と唇を動かした。男根の根元から先端までくまなく舐めて、咥えてしゃぶって、また舌を這わせてを繰り返す。
「やめろ――!」
 と中島は三たび拒んだ。
 奴は中島の声など聞こえていないと言わんばかりに、中島の濡れそぼった一物を握り、その上に座り込んだ。尻の間に触れた感触がすると、中島はほとんど悲鳴を上げて懇願した。
「やめてくれ」
 奴は構わず体を下げて、自ら尻の穴を一物に押しつけた。ゆっくりと、細く長く息を吐きながら、腰を沈めていく。
「やめろ!!
 と中島がついに叫んでも、止まらなかった。
「硬い――あぁ、硬い、いやだ――
 と、奴は恍惚としてつぶやいた。腰を最後まで下ろしきってしまうと、さらに尻たぶを中島の下腹にこすりつけて「はぁ」と震えた。
 奴は我が身を辱めた愉悦にひとしきり浸り、ぼんやりと虚空を見つめていた。ふと視線を下ろしたときようやく、中島が呆然と言葉を失い、力なくうなだれているのに気がついた。その頬は涙で濡れていた。
「泣いてるんですか」
 と奴が泣き顔を覗き込んできて、首をかしげる。
「あなたに何を悲しむことがあるんですか。何でも見えていた目が見えなくなったから? 戦うための手足がなくなったから?」
「違う」
 中島は弱々しくかぶりを振った。その拍子に頬に新たな涙がこぼれ、顎から首へ伝って落ちていく。
「目なんて、見えなくていい。戦う力も何も――鏡花も――俺はいらない。お前がほしいと言うのなら、お前にやる。俺は、いらない」

5

 奴は長い間黙り込んでいて、ただただ、じっと中島を見下ろしていた。
「それで」
 と、あるとき、ぽつりと言った。
「それで、なぜ泣いているんですか」
―――
「私のために泣いてるんだなんて言ったら、怒りますよ。そんなの、独りよがりですよ」
 言いながら深く身を折り、頬を中島の濡れた頬にすり寄せる。そっと腰を揺すると、中島が顔をゆがめた。
「だめだ」
 と呻く。奴は聞かずにゆるゆると動き続けた。まるで、そうやって肌と肌とをこすり合わせていればいつかその境が溶けてなくなってしまうのだと信じているように、中島の体をきつく抱き締めて身を寄せ合う。
「あなたも抱いて」
 と、奴は絶えない喘ぎ声の合間にねだった。中島は悲しそうな目をしたばかりで、黙っている。抱こうにも、片腕さえないのではどうにもならない。
 奴が中島の心を見通して言った。
「私は、あなたの手足も、目も、取ったりしませんよ――
 と、中島の肩から手首の方へそろそろと撫で下ろしていくと、手のひらに温かい腕が確かに触れる。うっすらと筋肉が付き骨張った腕を辿って手首をなぞり、指と指が触れ合うところまで来た。寸分違わず同じ形をした二人の手の指が絡み合った。
「!」
 中島は目を見開いて奴の顔を見上げた。奴は少しずれた眼鏡の奥で、にこりともせず、うっとりと快楽に浸っているばかりである。その光景が中島の金色の眼球に明瞭な像を結んだ。
 中島が恐る恐る右手を持ち上げて、それで奴の眼鏡をまっすぐに直してやると、奴は「ふ」とかすかに笑った。
「ねぇ――
 と中島の欠くところない体に貪りつく。
――だめだ」
 中島はためらって、ぐずぐずと何度も思い直してからそう言った。いつものように頑強な意志に貫かれた声ではなかった。
「できない」
「可愛い」
 と奴にささやかれ、中島は全身が焼けるような思いがした。奴が畳みかけて、
「知らなかった――案外、恥ずかしがり屋なんですね」
 私と同じだ、と言う。そして中島がどう言おうと、結局自ら腰をうねらせて絶頂を目指し始めた。
「お前こそ、俺と同じだ」
 と中島は赤い顔で唸った。「案外、我が強い」と続けた。
 中島は、ためらいながらも、奴の背へ両腕を回した。喘ぐようにして口を薄く開いて、奴に接吻すると、熱心に吸い返してくる。
「ん――
 二人の体は寝床の上を転げて上下を入れ替え、上になった中島も次第に奴に応えて動き始めた。奴が歓呼の声を上げた。
「んっ! ん、あっだめ。あっ!」
 奴の体をへそのところから深く折り曲げるようにして、中島は抱いた。奥深く入り込んで奴を身悶えさせた。
「あぁ、あぁいや――!」
「お前のいやとか、だめは、口だけだ」
「あ、あなたの、そんな、人を見下したような口こそ」
 と、なじり合い、それから散々に鳴き、吠え、唸り声を上げてほたえた。
 絶頂を何度も引き伸ばした。一番張り詰めたところが近付いてくると緩めてを繰り返した。
 獣のように四足を着いた奴の手足ががくがく震えて、もう限界だと告げていた。中島もけだもののようにその背にすがりついた。
「は、っあ、あぁ」
 と中島の息も上がっていたし、奴も随分乱れた。
「お、お願いです、一緒に」
 と奴がうわ言じみて言う。言いながら、目の前が白くなってきた。
(ああ、いく――
 体の芯を足の先から頭の先まで貫き通すような快楽に身を委ねる。震える手足の指で寝床を握り締めたが、支えきれず、がくんと崩れ落ちて頭から床へ沈む。悲鳴のような喘ぎ声を上げた。

6

「あああぁぁっ!!
 という己の叫び声で目が覚めたとき、中島は暗い部屋の寝台の上でびっしょり汗をかいて衣服を濡らし、はあはあと肩で息をしていた。体が熱く、男性器にいたってはそり返って脈打っている。
―――
 手のひらで顔の汗を拭った。口の中に溢れていた生唾をぐびと飲み下す。手で顔を覆ったまま、気が落ち着くのを待っていたが、
「うう」
 どうにも我慢ができずに、右手を袴の脇から差し込んで自慰に及んだ。思い出すまいとしても、さっきまで見ていた夢の光景がまぶたの裏にちらついた。
「はぁ、はぁ、あっく――!」
 ほとんどぎりぎりまで屹立していた愚息は、華奢な指の輪をくぐらせているうちに鋭い絶頂に達して、ちり紙を二枚ばかり汚した。
 弛緩した四肢を寝床に投げ出し、息を整えているうちに、少しずつ頭が回転し始める。
(眼鏡がない)
 と、まず思った。手さぐりで寝台の上を探しても見つからず、のろのろと起き上がって机の方にも手を伸ばした。眼鏡は机の上にきちんと畳んで置いてあった。それに、眠る前に中島が床へ落とした筆記具や鏡花からの手紙も、どういうわけか机上に並べてある。
(放ったまま眠り込んだんじゃなかったっけ)
 なんとなく、片付けたような覚えがなくもない。が、それは夢の出来事だったような気もして、記憶との境があいまいだった。
 夢といえば、さっきは随分な夢を見てしまった。と眼鏡をかけながら思う。ぼやけて何も見えなかった視界が明瞭になり、夢の光景は次第に脳裏を遠ざかっていったが、それでもなお生々しい。
 眠る前、狂乱の体であった中島の心は、ひとまず落ち着いてはいるが、思い出すにつれ暗澹と沈んだ。
(あの夢は、私が“彼”を憎むあまりに見た幻影だったんだろうか)
 憎む? 本当に? と自問する。本当に心から憎い相手と、あんなふうに何もかも投げ出したように交合するかしらと思い、実体に蘇るほどの愉楽を思い出して一人自己を恥じる。
「目も、戦う力も、鏡花も、お前にやる。俺は、いらない」
 と、夢の中で“彼”が言っていた。
(嬉しかったんだ――
 と今頃になって気がついた。夢の中で“彼”の告白を聞いて、何も答えられなかったけれど、きっと嬉しかったに違いなく、素直にそう答えてあげればよかったのだと今更思い到った。
 中島は寝台の縁に座り込み、膝を抱えて子供のように小さくなった。そうして、過ぎ去っていく夢の景色の名残を惜しんだ。

(了)