あらゆる天国も流転せずに入ることは出来ない

「あのとき君が僕のお見舞いに来てくれたから、今度は僕が君のお見舞いに来たよ……」
 と、島崎は言った。
―――
 芥川は、その日は胃痛が耐えがたく、午前中から自室に引きこもって布団をかぶっていた。昼食も食べに下りる気がしなかった。
 昼過ぎに、芥川がまどろんでいたところへ戸口をたたく音がした。てっきり菊池か谷崎辺りが様子を見に来たのだろうと思って、招き入れてしまったのが悪かった。
 見舞いに来たのは島崎藤村で、島崎は芥川が「いい」と言う前にもう枕元へ座り込んでいる。
「君、昼ご飯を食べに来なかったから……」
 と、島崎は手土産を差し出してきた。
 芥川はじろりと島崎の顔を見上げた。
「何だい」
「船橋屋のくず餅……甘い物なら食べる気になるかと思ってさ」
「僕が胃が痛くて寝込んでいると知っていて僕の好物を買ってきたのかい」
「えっ、そうなんだ……」
 島崎は他意のない様子で、
「僕はてっきり、また頭痛がひどいのかと思ってたよ」
 と、芥川のガーゼの眼帯を当てた顔をまじまじ見下ろす。
―――
「じゃあこれは僕が食べようかな……」
「食べないとは言っていないよ」
 と、芥川は急いで言った。
 ふふふ……と島崎は陰気げに肩を揺らして笑う。土産物の包みを広げて芥川へ差し出した。
 芥川は寝床に起き上がってくず餅を食べた。
「おいしいよ」
 と、島崎に聞かれる前に言った。
「……僕に質問させないつもりなんだね」
 と島崎も察しているらしい。
「そういえば、あのとき﹅﹅﹅﹅君は手ぶらでお見舞いに来てくれたっけ」
 と、仕返しのつもりか嫌味をのたまう。
 芥川は、とりあえず表面上は効果のない様子を保った。
あのとき﹅﹅﹅﹅はそんな余裕はなかったよ」
「そうだったっけ……」
「そうだよ。時間的余裕という意味でも、僕たちの精神的余裕という意味でも――
 言いながら、芥川はその頃の己と今の己とを内心に比較してみた。
―――
「………」
 やがてくず餅を食い終えて「美味うまかった」と改めて言った。
「それはよかった……」
 島崎は芥川の手から空になった器を引き取った。
 そのとき、互いの手と手がなんとなく触れ合った。が、別段驚くことでもなかった。あのときのような、触れるだけで火花の飛ぶような張り詰めた感じは、もはや二人の間にはなかった。
――僕たちも、今日までだいぶん流転るてんしたようだ」
 と芥川は細い声で言った。
 島崎は「うん」とだけうなずいた。
 芥川はさらに言った。
「実を言うと、長い間、君に言いそびれていたことがある」
「?……」
「僕はあのとき――
 と、芥川は初め理路整然と話そうと思った。しかしそれはすぐに行き詰まった。理屈で語るにはあまりに柔らかで傷つきやすい感情で。
 むにゃむにゃと言いよどんだ挙げ句、結局、口から出たのは随分平易で優しい言葉だけである。
「君に、とてもひどいことをして、悪かった」
「………」
 島崎は、コクリとうなずいて、
「僕も言いそびれてたことがあるよ……」
 と言う。
「何だい?」
「……とっくにさ、許していたよ」
 そうでなきゃ、君の残り煙草を吸おうとしたりするわけがないんだ……と島崎はぶつぶつ言ったが、芥川には何のことだか判然としなかった。
「寝るよ」
 と、芥川は再び寝床へ潜った。
「やっぱり胃が痛い……?」
「痛い」
珈琲コーヒーの飲み過ぎなんじゃないのかな……」
 島崎は毛布の下へそっと手を差し入れると、あお向けに寝ている芥川のみぞおちの辺りをでさすった。
「お腹は痛くない?」
 と、小さな手を少しずらしてへその辺りもでた。
「そこは別に痛くないよ」
「……じゃあ、ココは?」
 と言いながら、島崎はもっと下の方までもでた。
 芥川が慌てて、
「君、僕は病人だよ」
 島崎の手を払おうとしたが、島崎はするりと上手く芥川の腕の隙間をくぐって、布団の中へ体ごと侵入してきた。
「ねえねえ……君、夕べお風呂に入った?」
「は、入ったけど」
 島崎はそれを確かめてから、頭のてっぺんまで寝床に潜った。
「ちょっ、と君、僕は決してそんなつもりで君を招き入れたわけじゃ――ぁっ――
 ついつい声の漏れてしまった口を手のひらで押さえる。
(ひ、人が様子を見に来たらどうするつもりなんだ)
 毛布の下でもぞもぞ動いている塊について、芥川がどう頑張っても上手い言い訳ができるとは思えない。ともかくも誰も見舞いに来てくれないことを祈るばかりであった。


「芥川君、お加減はいかがです」
 と、谷崎がドアをたたきながら声をかけた。芥川の返事があるまで多少の間があった。谷崎がもう一度ノックしようとしたとき、
「その声、谷崎くんかい。今、起きる――
 と芥川が低い声を寄越した。寝床から出てきたらしいごそごそいう気配があり、芥川はドアを細く開けて顔を出した。
「あらあら、君、思ったより顔色はいいですね」
「見舞いに来てくれたのかい、ありがとう――館長も一緒でしたか」
 芥川は寝汗で湿った額を手のひらで拭った。
「毛布をかぶって寝ていたら汗をかいたよ」
「外はいい陽気ですよ」
「そうみたいだね」
 芥川は、汗を拭った手で右目のまぶたを押さえている。ガーゼの眼帯を寝床に忘れて来たらしい。
――ガーゼも汚れたから医務室へ新しいのをもらいに行こうかな。少し外の空気も吸いたいしねぇ」
「君が紫煙の他を吸いたがるとは珍しいこともあります」
 芥川は寝巻を着替えてくるからと言って、一度室内へ引っ込んだ。
「いいところだったのに……」
 と、寝床の中から島崎がぼやいた。いまだ素裸の彼は、ころりと寝返りを打って、鏡台の前で着替えをしている芥川の姿を見上げた。
「谷崎くんがいきなり人の部屋の戸を開けない紳士だったことに感謝しているよ、僕は」
 芥川はシャツの襟をきっちり合わせてボタンを留めると、その上から着物を着て角帯を締めた。
「襟……そんなにきつく留めて息苦しくない?」
「誰のせいだと思っているんだか」
 芥川は手早く帯を締め終えると、
「僕が谷崎くんたちと出ている間に、君、人に見られないように上手く帰りなよ」
 と島崎へ言った。
 島崎はなんとなくねたような顔になり、
「僕はこの部屋の鍵を持ってないから……開けっ放しで出ることになるけど……」
「構わないよ別に」
「………」
 君が帰るのをこのまま待っていてはだめかと、島崎は小声でささやくように言った。
―――
 芥川は、
――好きにすればいいよ」
 と、やはりささやいて、出て行く。
 島崎はその帰りが待ち遠しいように、しきりに寝返りを打っていた。やがて、眠気を兆したらしい。それは次第に止み、とろとろと心地のいい午睡に身を任せ始めた。

(了)