好きとか嫌いとか

――まさか君が入ってくるとは思わなかったのだけど」
「……君の方こそ、いつもはお風呂を面倒臭がってるじゃない」
 と、湯煙越しに芥川と島崎はそれぞれに悪態をつき合っていた。一度に四、五人は入れる浴槽の角に芥川は座っていて、島崎はその対角にいた。この帝國図書館での暮らしも長いが、風呂場で鉢合わせたのは初めてのことである。
 芥川は背に垂れている長い黒髪を湯船に浸して、手をくしにしてそれをけずった。
「髪を洗おうと思ったのさ」
 だから、皆が入浴を済ませた後の仕舞湯を見計らって来たのだと言う。
 ぷいと島崎は芥川へ背中を向けた。浴槽の縁に両腕を乗せて体を預けた。そのあばら骨の浮いた白い背中を、芥川は湯気の向こうに眺めながら、
あの頃﹅﹅﹅は僕が髪を洗った晩に決まって君が寝室を訪ねて来たものだった」
 と言った。
「止めようよ、そんな話……」
 と島崎は無感動に言った。芥川は構わず続けた。
あの頃﹅﹅﹅のことを思うと、僕は何だか夢でも見ていたような気がする」
「夢……それなら忘れるのも簡単だろうね」
「別に夢だと思って忘れようと言っているわけではなくて」
「………」
「朝起きて、前の晩に見た夢の意味を考えているときのような心地がするということさ。僕は昔からひどく鮮明な夢を見るたちでね」
「ふうん」
 島崎が言葉少なになるほど、芥川はかえって愉快そうであった。
「君を黙らせられると気分がいいよ」
「……ばか」
 島崎は腕に頭を乗せて目をつぶった。背でちゃぷちゃぷと水音が聞こえ芥川がにじり寄ってくる気配がした。
「君はわざわざ仕舞湯に何をしに来たんだ」
 と、耳元で芥川の鼻にかかった声がする。からかっている調子なのは明らかだった。
「風呂場で一人きりになってしたいことなんて、まあ、そういくつもないけれど」
 と言いながら、島崎の尻たぶの谷間へツと中指の先を入れてきた。島崎はその手をすぐ払って、
「君と一緒にしないでほしいよね……」
 と、薄目を開ける。芥川は自分の方が形勢有利だと見ると図に乗って畳みかけた。
「じゃ、何しに来たのか言ってご覧。え、嫌かい?」
 島崎は芥川の顔を見た。れた前髪を後ろへでつけてなんだか別の男のように見えた。が、青く澄んだ切れ長の目はやはり芥川のそれで。
 島崎は返事をしなかった。
「嫌なのかい」
 芥川は島崎の下肢へ触れながら聞いた。島崎は黙っている。けれども目つきが次第に妖しくなってきた。
「言ってご覧よ」
「だって」
「だって、何」
 芥川は手を滑らせて島崎の陰茎に触れようとした。島崎はももを閉じてそれを防ぎながら「いや」と言った。
 芥川は急に島崎を背越しにしっかりと抱いた。捕まえて、浴槽の縁から引き剥がすと、自分の膝の上へ抱えた。島崎が多少抗ったので湯船に荒い波が立った。
「前に自分でシたって言ってたじゃないか、ここ」
 と芥川はささやきながら右手を島崎の脚の間へ潜り込ませた。陰嚢いんのうの奥まで指先を伸ばして尻の穴へ触った。
「脚開きなよ――
 島崎が閉じようとする脚を持って、尻穴の入り口をこね回してから長指だけその内側へ忍び込ませた。島崎の口からアアとため息が漏れた。芥川はかさにかかって、空いている方の手で島崎の胸の小さな突起を摘んで指の間で転がした。
 島崎はけ反って芥川の体へ背を預けた。
「あっ、誰か来たらどうするの……」
「君の恥ずかしい格好を見られるね」
「僕だけじゃないでしょ……」
 芥川は構わず両手で愛撫あいぶを加えた。中へ入れた指の腹で手前の肉壁を探って、じきにふくらんできたそこを執拗しつように責め立てた。
「あぁそこ……だめだよ……」
 と島崎が弱った声を上げて、芥川の首筋へこめかみをこすりつけてくる。左の乳首を摘まれる刺激が加わる度にはあはあとあえいだ。
「ねえ接吻キスしてよ」
 とせがんだ。
「嫌だね」
 と芥川は断って、愛撫あいぶに熱を込めた。
 浴槽の縁へ腰かけた島崎の脚の間へ芥川はうずくまると、膝の方から太腿ふとももの方へ向かって点々と唇を押しつけていって、最後に陰茎を吸った。
「んっ……!」
 島崎の期待通りに与えられた快感は震え上がるほど鋭かった。
「我慢できなくなっちゃう」
 と早々に切羽詰まった声を上げる。芥川の首根っこを両手で抱きかかえた。芥川はらすように陰茎の根元や陰嚢いんのうの方へちろちろ舌先をわせた。陰茎の裏の筋に沿ってめ上げても鈴口の手前で止まる。
「意地悪……」
「今頃気づいたのかい」
 芥川が陰茎に唇を押し当てたまましゃべるのでさえ、その息がかかるのが島崎にはたまらなかった。
 指で後ろの方を犯されながら前は口で強く吸い上げられた。
「あ、アッ、いく……!」
 しかし島崎が頂に達しそうになるぎりぎりのところで芥川は口を離してしまう。
「あぁもう意地悪だね君……」
 と島崎はもう一度言いかけたが、芥川の右手の指がまた中で好き放題にし始めたのでわや﹅﹅になってしまった。
「ここいいの」
 芥川は島崎の切なげな顔を見上げながら二本の指で容赦なく責め立てた。島崎は声にならない声であえいでいた。こくこくと首をぎこちなく動かして「うん」と答えた。
 芥川が陰茎の裏側を唇と舌で吸っていたときに、
「あッ出ちゃう……」
 とか細い声を漏らして島崎は急に達してしまった。受け止めるもののなかった白い体液が芥川の顔にかかった。
「ん――
 芥川が手で拭ってみると、横っ面にべったりと精液がこびり付いている。何ともいえずいやな顔を芥川はした。
 島崎はいまだ整わない息の合間に、
「ごめん……」
 と謝った。
「気持ちよくて……」
「別に君に怒っているわけじゃないよ」
 芥川は島崎の体から離れると手桶ておけに水をんで顔を洗った。「風呂場でよかった」などとぼやいている声を聞きながら、島崎もおけを取って上がり湯をかけた。
 それから島崎はなんとなくばつが悪そうに芥川の顔を見るのを避けていた。脱衣所へ出てからもそうだった。
 二人はそこで用心をして一旦別れて、改めて芥川が島崎の部屋を訪れたときには、しかし島崎は少しも嫌がらずに応じた。自ら芥川の上になって湯上がりの肌を貪り、反り返った陽物を小さな口で懸命にしゃぶった。
 島崎は膝で芥川の腹をまたいだ。
「入れていい……?」
 と芥川の陽物を尻たぶの間へこすりつける。見下ろしている芥川の顔はだらしなく快楽を期待していて、
「いいよ――
 と、ぞっとするような甘い声を上げた。島崎は陽物を握ってその先を尻の穴へ押し当てた。
「ねえ、“悪い夢”を思い出したりしない……?」
―――
「やっぱり止める?」
「止めるな」
 芥川は慌てたように島崎の尻を両手で抱えた。
「そのまま――
 と島崎の腰を沈めるのと同時に自分も下から突き上げる。熱い肉壁を分け入れば入るほどに快楽がこみ上げて生唾をむ。「あぁ」とため息が漏れた。
 島崎も刺し貫かれた快楽に身悶みもだえしながら、健気に腰を揺すり出した。
「ねえ君、可愛いね……」
「ばか――
「だって本当のことだよ」
 芥川は島崎の生白い肌を自らの上に見つめていた。あのとき死んだ魚の腹のようだと思ったその肌が、今は上気して血色を帯び命を帯びているのを見つめていた。
 島崎は白磁の喉を芥川へ見せながら、だらりと開いた口であえいだ。
「あッ、あっ、あぁ、あアァ……ねえ」
 と芥川を呼ぶ。
「んン――何」
「ねえ、僕のこと嫌い……?」
 と島崎は問いかけてきた。芥川が答えあぐねているとさらに言った。
「近頃……ア、怖くなるんだ……君が優しいから……」
「そんなことが怖いのかい」
「怖いよ」
「どうして」
「また、期待してしまう……」
 島崎の蚊の泣くような言葉を聞いて、芥川もそれ以上問い返そうとは思わなかった。その代わりに、
「嫌いだよ」
 とささやきながら深く腰を突き上げた。もう一度「嫌いだ」と。二度、三度と。
「嫌いだ。――ッ」
「ッふ、ああァッ!!
 がくがくと膝を震わせて前のめりに崩れ落ちた島崎を芥川は抱き寄せて、息を整える間も惜しいと、荒い息にむせながら声を絞り出した。
「この世には好きとか、嫌いとか、それだけでは言い尽くせないものが必ずある――
「………」
「僕たちは小説家だから――
 と芥川は言う。
「それを表現する言葉を探し続けるよう運命づけられている」
 芥川は島崎がうずくまったまま顔を上げないのを見て、「泣いてるのかい」と首をかしげた。なぜかそんなような気がしたのだが、しかし島崎の目元は乾いていた。
「ねえ抱いてよ」
 と島崎は芥川へ甘えた。
「抱いてるじゃないか、こうして」
「そうじゃなくて……」
 二人の体の上下を入れ替えて島崎は芥川の腹の下にあお向けになると、うっとりとその美しいおすを見上げた。垂れ落ちてくる芥川の髪はまだしっとり湿っていて冷たい。
「早く……」
 島崎は自ら下肢を開いた。芥川は「待ちなよ」と言って枕元の紙入れからちり紙を抜き、それで島崎の尻の間と自身の愚息をきれいに拭いてから改めて入ってきた。そんなことを気にするところがいかにも芥川らしいと島崎は思った。
「ぁン……」
――接吻キスしてあげようか」
 と芥川が不意に言った。二人はしばし顔を見合わせて、そして島崎の方が先にふっと笑った。
「ううん、いらないよ」
 接吻せっぷんの代わりに島崎は芥川の喉へ軽く歯を立てた。鎖骨の付け根を唇で吸った。そこのくぼみを舌をなぞった。
 芥川は動き始めた。島崎の中が痛いほど締めつけてきて、ともすれば肉襞にくひだに押し出されそうになるのに負けないように突き入れた。
「あぁ、アア芥川、芥川……!!
 そんなふうにすがりつくように絶えず名前を呼ばれたのも初めてのことではなかったかと思う。
「君、声――
 芥川は手で島崎の口を塞ぎながら抱いた。己の名を聞けないのが少し惜しいような気もした。汗でじっとりとれた二人の額と額を合わせて、そんな児戯のごとき行為で思うことが通じるはずもなかったが、悪い気持ちはしない。
 島崎に対する感情を言い表す言葉を芥川はいつまでも探していた。
 激しく貪り合うようなひとときが過ぎると、ぐったり疲れが出て二人とも小一時間ばかり眠り込んでいた。
 芥川が目覚めたとき、島崎は先に目を開けていて、静かに芥川の寝顔を見つめていた。芥川は照れくさくなって向こうを向いた。
 寝巻を着て帰り支度をしながら、芥川は、
「僕はある小説に、肉親のことを狂人だと書いたことがある」
 と、そんな話をした。
「酷いことを書いたものだと思うだろう? でもね、僕は、それがもし僕でない他人の書いたものだったら、それを書いたやつを決して許さなかったと思うよ」
「うん……わかるよ」
 島崎が背中から羽織を掛けてくれた。芥川はそれに腕を通し、それから島崎が差し出してくれた煙草の箱を受け取った。
「僕はいまだにその想いにさえ正しい言葉を与えられない」
 煙草を一つくわえ、火鉢の上にうずくまって火をける。島崎が横にやって来て、珍しく分け前をねだった。
 芥川は一口吸った煙を口移しで島崎の口へ、ふっと吹き込んでやった。
 島崎に何か言われる前にさっさと腰を上げると、
「じゃ、失敬しっけ
 とくわえ煙草のまま、下駄を片手に夜更けの廊下をひたひたと帰って行った。

(了)