蟠竜
どうにも収まりのつかぬ心地がすることがある。
有碍書への潜書を終えて現世へと帰還した後、
有碍書の世界の記憶は、明け方の夢のように五感の感覚までまざまざと脳裏にちらつく。芥川は昔から鮮明な夢を見るたちであった。“仕事”と称して侵蝕者を剣で斬り捨てた感触、襲われた痛み、戦いの緊張の中で
カフェーの壁掛け時計は午後四時を指していた。
(……どういう風の吹き回しかな、芥川の方から外出に誘ってくるなんて)
と、窓際の席に座って外の通りを眺めながら島崎は思った。「四時に例のカフェエで」と、芥川が寄越した検閲を通さない手紙に書かれていたのはそれだけである。
島崎は往来を行き来する人を目で追いながら、図書館での芥川の様子を思い出そうとした。
(芥川は、今日は午前の潜書だったっけ)
特に何か事件があったとも聞かなかったけれど。とぼんやり思っていると、通りの向こうからその芥川がやって来た。背高で華やかな容貌だからすぐにわかる。いかに変装をして衣服を変え、龍の尾のごとく背へ垂れる髪を
店の前まで来た芥川は、窓硝子越しにこちらを見ている島崎と目が合った。カフェーのドアをくぐると、脇目も振らず島崎のいる席へ向かった。
「やあ」というような挨拶もなしに、芥川は
「
と言った。
「そうだね」
と、島崎は小首をかしげた。
「それまで何をするつもりなのかな」
「出よう」
と、芥川は有無を言わせずに島崎をカフェーから連れ出した。
「ちょっと……どこへ行く気……」
先に立って歩く芥川はどんどんうら寂しい
島崎もその後を追った。入ってすぐの土間は薄暗く、帳場らしきものもなければ人気もない。
「履物は持って上がるんだよ」
と芥川は勝手知ったる風に言いながら、板の間へ上がって、脱いだ下駄を右手に持ち、すぐのところにある上り
二階の廊下の奥にやっと帳場があり、おかみさんが座っていたが、芥川と島崎の姿に気づいてもいらっしゃいとも言わない。二人の顔を見ないようにうつむいている。
廊下の両側にそれぞれ二つずつ部屋があって、全て襖は開いていた。芥川と島崎は左手前の部屋へ入り、襖を閉めた。
室内には床が二つ並べて延べてあった。芥川はその枕元へ
島崎も近くに膝を着いた。
「ねえ……」
と芥川に説明を求めようとしたが、
「しっ。今におかみさんが来るから――」
と、制された。事実、廊下をひそひそとこちらへ向かって来る足音がして、この部屋の前で止まると、襖が細く開き、
(ようするに)
島崎もここまでされて察することができないほど
「面白いね……何か小説の題材にならないかな」
島崎ののんきな声もそれきりであった。
芥川に腕を取られたと思うや、乱暴に寝床へ引きずり込まれた。
語らいも、
「ちょっ……待って、なんでそんなに」
痛い痛い、と色気もへったくれもない悲鳴を島崎は上げた。
「無理だって……入らないよ……」
「―――」
「ねえどうしたの、今日は……」
島崎は細い手を芥川の陽物へ伸ばした。驚くほど
「すごいよ……」
何かあったのかと問うても、芥川の返答はない。
「答えたくない、というわけじゃない」
と、芥川は低い声でささやく。ただ僕にも答えられないのだと言う。それでは、島崎にも何とも言うべきことが見つからない。
「……少し、楽にしてあげようか」
島崎は芥川と体の上下を入れ替えた。
「う――」
と芥川がけだものじみたうなり声を上げる。奥歯を
「んん……」
島崎は少なからず息苦しげにうめいた反面、うっとりと目をつぶり長い
「あ、ッ、出るよ――」
と、やがて芥川が切羽詰まった声を漏らして、島崎の頭を押さえる手に力がこもった。島崎は芥川のなすがままであった。
芥川の体が
「……飲んじゃったよ」
と芥川の顔を見上げて、空っぽの口の中をあーんと
「ばかだね」
と、芥川は、ひんやりとした声で
「少しは落ち着いた?」
「うん――たぶんね」
「午前の潜書中に何かあったとか?」
「いや」
芥川はかぶりを振る。
「何も」
「ないの」
「何もない」
全て平時の通り。「仕事」で「生活」の一部となったこと。侵蝕者を
「それだけのことだ」
と
「それだけって感じじゃないよ……」
芥川の方からも島崎の体へ触れてきた。彼にしては珍しく遊興的な技巧のない、
「ン……」
島崎は芥川の様子に何かあの嵐の夜を思い出すような心持ちがして、少しばかり
(怖い……)
という心がないと言ったら嘘である。しかしそう思うと同時に、そんな感情の中で己の薄赤い陰茎が大人の男のそれに変わっていく自覚もある。
(やっぱり僕って変だよね……)
芥川がうんと身を
「あッ……!」
と、島崎のゆるく開いた口から鋭い
芥川は島崎の生白い腹の上へ登った。頭を島崎の足先の方へ向けて、彼の陰茎をしゃぶりながら、自らも腰を落として島崎へもう一度口淫をせがんだ。
「いいよ……」
島崎は目の前の
芥川も熱心に吸っては唇と舌で
「あァやっぱり、君の方が上手……んン」
そんな
何事も都会風の芥川には
「ッア、げほ、っ」
と、島崎が喉を突かれてむせているのを、ぞんざいにつかまえて、体をうつ伏せにひっくり返して、芥川は後ろからそれを犯した。
「君だって今度は欲しがってるじゃないか――ここ、ひくつかせて――」
と皮肉を言いながら尻たぶの間へ入り込んでいく。
「あ、あ、あっ」
もっとゆっくり……と島崎が訴える暇もなく芥川は一息に入った。知り尽くした動きで少年の体を責め立てた。
「あッ、あァァッ、そこ……怖い……変になる……」
根元まで収まった芥川の陽物は怖くなるほど奥まで届いた。
「あ、アッ! んんン」
島崎がたまらず枕で口を塞ごうとしたのを、芥川は後ろから顎をつかんで引き起こして、
「今日は声を我慢しなくていいのだから――」
と言い、島崎の細い背へすがりついて大きく腰を打ち付けてくる。そう言う芥川自身、はぁはぁと荒々しい呼吸の合間にうなるような声を隠そうとしない。
「はァ、は、は、ハ、ッいいよ、君のここ」
「ほん、と……?」
「――すごく」
美味だよと生唾を
島崎はひざまずいて、両手と額を布団へうずめていた。
アアア……と、ほとんど悲鳴に近い声で
白濁した体液は島崎の尻を汚した。芥川は陽物の先でそれを塗り付けるようにさえした。島崎は、
「――明日、もし体の具合がおかしくなったら、早いうちに森先生のところへ行きたまえよ」
と、芥川のいやに落ち着いた声を島崎は背中で聞いた。
「でも体を見られるよ……」
「森先生はこんなところまで診るわけじゃないだろう」
芥川は紙入れからちり紙を抜いて、島崎の尻に散った自身の精液を拭きながら言った。
「本当は」
と言った。
「本当は、森先生に見られて困るのは、僕ではなく君の方だったのじゃないかと」
「………」
島崎はそれには答えず、代わりに芥川の方へちらと流し目を寄越した。
「まだ収まりきってないの……?」
と芥川の下腹部を見て目を細めた。
「本当に今日はどうしたっていうの……若いね君も」
最後に言い添えられた言葉に芥川は
島崎はまた体の裏表をひっくり返されて、
「陰間は本手取りを好むのだと何かの本で読んだ気がするけれど、どうなのだかね」
などと芥川は言いながら、島崎の両脚を膝の裏から抱えてその間へ入った。枕を一つつかむと、組み敷いた細腰の下へ挟んでいい高さになるようにした。
「あァ……」
島崎が
「ここいいのかい――」
島崎のよがる部位を見つけるとそこを
「はぁ、はア、そ、そこ……なんか、出ちゃうかも……」
と島崎が弱音を吐いた。芥川は島崎に自慰を強いた。「見ていてあげるよ」と言って、自分で自分の陰茎を握らせた。
「はあ、アァ、あッ、ああアァ」
と、島崎が貫かれながら自ら汚して達したのを、芥川は小説家的な目で――ものの内側に真実を探すような目で――見ていた。
無論それとは別に性的な興奮もある。
「ア、またイク……」
と島崎が声を震わせたのを芥川は聞いた。そのときになって初めて、自分の腹の下で島崎が自慰を繰り返していたことに気がついた。
「来なよ」
と言ってやった。己の方からも島崎の陰茎に触れて早く来いと誘った。
布団の脇に脱ぎ散らかされた衣服のポケットから懐中時計が
近頃日が落ちるのも随分早くなった。
すでに暗い窓の外へ背を向けていた島崎は、身支度を終えると、窓際で煙草を吸っている芥川を振り返った。芥川はいささかだらしがないほど気がゆるんでいて、窓枠にだらりと背中を預け、足袋を履いていない両足を前に投げ出して、右手の指に挟んだ煙草をときどき口に運んでは青い煙を吐いている。
そんな姿を見て、島崎は、
「暴れていた龍が、ようやくとぐろを巻いて大人しくなったらしいね」
とからかった。
「―――」
芥川は、ぼんやりと島崎の顔を見つめているばかりであった。
島崎は芥川から少し離れたところに膝を着いて座りながら言った。
「ここって、帰りはどうするの」
「初めにおかみさんが持ってきた盆があるだろう」
と、芥川は煙草の火の先で部屋の入口を指す。
「それに料金を載せておいて、黙って帰ればいいよ」
「ふーん、そんなので、お金を払わずに帰っちゃうお客なんかいないのかな」
「こんなところに来る人間は、ちゃんと払うのさ。警察など呼ばれてはたまらないから」
「なるほど」
島崎は、
「で?」
と底意地の悪い声を出した。
「で、とは?」
「だからさ、君、随分こういう場所に詳しいなと思って……いつもは一体誰と来てるのか取材させてよ……」
「僕も今日が初めてだよ」
きょとん、と島崎は死んだ魚の目をちょっと見張って、
「だってそんなふうには見えなかったよ。手慣れてて」
と畳みかけると、芥川は「君も男心のわからないやつだね」と言った。煙草を唇へ押しつけて、紫煙を吐き、心ここにあらずという風に島崎から目をそらして、
「意外だ」
と言った。
「君のような人間にもそういった感情があるなんてね。――僕は、男は君の他には知らない」
ただ目を閉じたとき、暗闇の向こうから島崎の痩身がまとう陰気な気配が肌に届いてくる。それは先程よりかすかに熱を帯びているような気がした。
(了)