残香

 その日の晩、芥川は罪滅ぼしの義務感からひそかに島崎の床を見舞った――
「君、君――
 声を低くして呼びながら、島崎の自室の戸をたたいてみたが返事はない。
―――
 日付の変わる頃に近い、静まり返った夜更けのことである。こんな刻限にこんな場所で何をしているのかと、他人に問われたら言い訳ができない。芥川は人の――世間の――視線を何より恐れていた。
 島崎もすでに寝入っているのかもしれない。
 しかし、ひょっとすると昼間の熱が悪くなって――ということも考えられないでもない。夕飯時にも食堂で姿を見なかった。人事不省にでも陥っていたら、戸を破って無理やりにでも森のところへ連れて行かねばなるまい――常識的な人間の行動として。
 芥川はその場でもじもじと思い悩んでいた。思い悩みながら、いつ誰が廊下を通りかかるかと心配で、ひやひやして、夏の夜のうだる暑さも忘れるくらいだった。
(もう一度だけ戸をたたいてみて、返事がなければ帰ろう――
 と心を決めた。
 引き戸の下の辺りを、ゆっくり、
 トン、トン、トン、
 と三度たたいた。
 戸にほとんど耳を押し当てるようにして返事を待った。
―――
(帰ろう)
 と思い、戸を離れようとしたそのとき、
「……開いてるよ」
 と、消え入るような声が芥川の耳に届いた。
 芥川がハッとして戸に手をかけると、鍵はかかっておらず、するりと開いた。
 細く開けた戸の隙間からは明かりも何も見えなかった。島崎は電灯もけずに、部屋の真ん中辺りに敷いた布団で寝ているらしかった。暗闇に白い布団がぼんやり亡霊のようにわだかまっていた。
 芥川は一歩室内へ踏み入った。二歩目を踏み出そうとして、昨晩のことが頭をよぎる。
――一応、具合を見に来たよ。僕に責任のあることだからね」
 と、戸口に踏みとどまったままで言った。
「ありがとう……」
 島崎は布団の中から弱々しい返事をして、それきりである。
―――
 芥川は随分長い間逡巡しゅんじゅんしてから、ついに下駄を脱いで畳へ上がった。室内は夏だというのに雨戸も締め切られていて月明かりもなかった。手探り足探りで布団を避け、文机の角にはしたたかに向こうずねをぶつけたが、どうにか天井から下がった電灯を探り当ててスイッチをひねった。
 パチリ、と白熱灯がいた。
 芥川の足元で、島崎は頭の先まで布団を引きかぶっていた。わずかな髪の毛先ばかりが外へのぞいている。
「君――
 と芥川は呼びかけてみたものの言うべき言葉も見つからない。ただ、まごまごしているばかりで。
 締め切られた室内は恐ろしいほどに蒸し暑く、それに白熱球の間近に立つ芥川はじっとうつむいているだけでも顎まで汗が垂れてきた。芥川はそれを手の指で拭って、ようよう言った。
「君――暑くないのかい」
「寒いんだ……」
 と、島崎もようよう答えた。
 芥川はハッとして、島崎の枕元へ膝を着くと、布団をめくった。
 島崎はぐったりした様子で、体を小さく丸めて目もぎゅっとつぶったままだった。芥川がその額や首に触れてみるとビクリとする。ひどい熱である。悪寒が激しいらしく、カタカタと小刻みに震えていた。
「震えてるじゃないか、君」
 今からでも森先生に診せたまえよ――と促しても、島崎はかぶりを振るばかりでどうしてもうんと言わない。芥川はまたまごついて、兎に角、と立ち上がった。部屋の隅の押入れを開け、奥から毛布を引っ張り出して来た。
 島崎を楽な姿勢にさせて、布団の上から毛布を掛けてやった。掛けてから、やっぱり少し暑すぎるかなと思い、それを半分に折って足元の方にだけにしておいた。
「君、熱冷ましを持っているかい」
「前に……森先生にもらった残りを隠してあったけど……昼のうちに飲んだから……」
 島崎は膝を着いて座っている芥川の顔を見上げ、
「言わないで」
 と言った。誰に、とは付いていなかったが、誰にも﹅﹅﹅ということだろうと芥川は理解した。
「そうは言うけどね、君、薬も何もないのじゃ」
「君がそこにいてくれる方が……」
 その方が――それだけで――十分だと、島崎ははっきりしない言葉で訴えた。
―――
 芥川はそこから立ち上がれなかった。それは、昨晩のこと﹅﹅﹅﹅﹅への罪悪感からだろうと、そんな理屈で自らを納得させようとした。
 島崎は芥川が去らないでいることに安堵あんどしたのか、やがてうとうとと眠気を兆してきたらしい。


 熱に浮かされた、半分寝ているような起きているようなあいまいな眠りの間、島崎は何度か芥川の手が額や顔に触れたのを感じた。
 そのひんやりと大きな手は優しく、頼もしかった。
 恐怖が体によみがえることはなかった。


 島崎は、浅い眠りのふちを漂っているうちにいつしか深みの方へ引き込まれていた。
 が、それもわずかな間のことで、じきに寝苦しさを感じて目を覚ました。目覚めると悪寒の代わりに蒸し暑さで汗をかいており不快だった。
 首を巡らせて部屋の中を見回したが芥川の姿はない。
「………」
(わかっていたことなんだ……)
 何がわかっていたのやらわからないが、そういう風に考えるのが一番己を守るのに都合がよかったのだろう。
 よろよろと起き上がり、布団の上の毛布をのけてからもう一度横になった。
 と、
「なんだ、もう起きたのかい」
 戸口の方から声がした。
「………」
 島崎が首を起こすと、芥川が両手にタオルやら薬缶やかんやらを持って上がって来たところだった。
「さすがにこうも物がないのじゃ頼りないと思ってね――途中誰にも会わなかったよ」
「……そう」
「汗をかいたかい」
 芥川は薬缶やかんを文机へ置いて、タオルで島崎の額を拭いてやった。
――体の方は自分で拭きなよ」
 と、しかしそそくさと離れると、着替えはどこだいと言って箪笥たんすの前へ行ってしまった。
 島崎が汗でれた体を拭き、乾いた肌着と浴衣に着替えている間、芥川はそっぽを向いてたもとから取り出した煙草をふかしていた。
 寝巻を替え、布団も夏物の肌掛け布団に取り替えた島崎はいくらか気分も落ち着いたらしい。薬缶やかんの注ぎ口に直接口をつけて、喉を大きく二度鳴らして、冷たい麦湯を飲んだ。
「……食堂から盗んで来たの?」
「失敬な。僕が今夜部屋で飲もうと思って支度しておいた分だよ」
「ふうん……」
 芥川が島崎の手から薬缶やかんを受け取ろうとしたとき、かすかに手の指と指が触れた。
「危ない……」
 そのときはむしろ芥川の方が触れ合った肌にギクリとして、危うく薬缶やかんを取り落とすところで。島崎が咄嗟とっさに底を押さえたので惨事にはならなかったが。
「………」
―――
「大丈夫……?」
―――
 自分たちは、今、普通の状態ではない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅のだと、芥川はその一件で改めて思い直した。それと同時に、
言わなければ﹅﹅﹅﹅﹅﹅――
 と思うこともあった。今言わなければ、この先二度と言えないような予感がしている。
 冷たい薬缶やかんを膝に抱えて、さんざんに思い悩んだ末――結局それは言葉にならず、芥川は意気地のない思いを振り払うように、自らを追い立てるようにして自室へ帰った。
 島崎もそれを引き留めることはしなかった。自分にそんな権利があるとは到底思えなかったし、それに体力もない――
「………」
 寝床へ潜ろうとして、ふと文机の方を見ると、灰皿に芥川の残した煙草の吸殻が見えた。よく押しつけられていないらしいそれは、まだ燃え残って細く青い煙を立ち昇らせている。
 島崎は机までいざって行くと、その吸い残しをそっとくわえて芥川の残り香を吸い込んだ。そしていささか、むせてしまった。

(了)