流転

 雷鳴いまだ遠く。
 電灯を点けていない室内は真暗で、時折外で稲光が発して窓から差し込み、芥川、島崎、二人の半裸体を照らした。そのときにだけ島崎から見える芥川の顔は、苦悶くもんというのが最も適当な表情をしていた。稲光の後、数拍遅れて雷鳴がとどろく。
 芥川は島崎のか細く、今にも真ん中から折れてしまいそうな体を見つめていた。死魚の腹のように青白い体を見つめていた。その体を自らの下にではなく、上に見つめていた。
 畳の上に倒れた芥川の腹をまたいでいる島崎は、最初うずくまるように小さくなっていた。
「あぁ……」
 と雷鳴と雷鳴の合間に乾いた声を漏らす。到底性的快楽を得ているようにも見えないのに、なぜ彼がそんなふうにあえいで見せるのか、芥川にはわからなかった。
 今にも折れそうと見えた島崎の体が、ぐぅっとのけ反った。弓のようなしなやかさで円弧を描いた。
 雷光が走る。
 島崎は白磁の喉を芥川へ見せながら、緩く開いた口でまたあえいだ。
「あ……んん……」
 雷鳴がその声をき消す。
 島崎は、今度はうなだれて背を丸め、両手を背に回し、芥川のき出しの大腿だいたい部を押さえバランスを取って、ぎこちなく腰を前後に揺らし始めた。芥川が悲鳴のような声を上げた。
「やめてくれ――
 島崎は答えず動き続けていた。はぁはぁと息が荒くなってきた。それは快楽によってではなく、不自然な姿勢の動作を続けていることによってであった。
「君――
 と芥川が何か訴えかけて、後の方は口の中にこもってしまったのと、雷によってき消えてしまったのとでよく聞こえなかった。
 島崎は下腹にまとわりつく着物が邪魔っけで、角帯を解いて上着を脱ぎ、薄物一枚を肌蹴た姿になった。外で豪雨の近づいて来ているらしい空気は蒸し暑く、汗ばむ体には薄い布がぴたりと張り付いた。
 雷は光と音の間が次第に狭まってきていた。雷雲が、二人の方へと押し寄せてくる。
「やめてくれ――嫌だ、嫌だ――!!
 と芥川がまたもうめく。歯を食いしばっていかにも苦しげな息をする。
 島崎は構わず、彼の陽根に自らの肉壁を擦り付けるように動いた。無知ゆえに、さまざまな動きを試みた。陽根を締め付けるように動いた。恐る恐る腰を上下させて動いた。
 雨が、窓を、ぱたぱたとたたき始めた音が聞こえた。

「どんな気分……?」
 と島崎がぽつりと言った。
「どんな気分だって」
 芥川は力なくつぶやいた。つぶやいたきり、沈黙した。
「君、少しはたのしい?」
 芥川は答えない。
「僕が乗っていると重くない?」
 芥川は答えない。
「怒っているかい……?」
 芥川は答えない。だらりと弛緩しかんして、四肢を投げ出し、心を閉ざしていた。ただ唯一彼の男性だけが生々しく生命を主張していた。
 君らしいと、島崎はその生命を自らの体の最奥で感じながら言った。
「君に僕の何がわかる」
 と、芥川が口を開き低い声を出した。島崎の芥川を見下ろす目がうんと細められた。上下の目縁まぶちにみっしりと生えた長い睫毛まつげが切なく震えた。
 島崎は接吻を求めた。芥川とつながったままでいられるように具合を確かめながら少しずつ身を折っていって、ついには彼に覆いかぶさるまで深く屈み込んだ。上背のある芥川の口元へ届くように伸び上がって、接吻を与えようとしたが、芥川は顔をそむけて逃れる。
 外では雨音が激しかった。ラジオのノイズに似たその音が絶えず室内に忍び込んで来る。閃光せんこうのほとんど直後に雷鳴とどろくほど雷雲も近い。嵐に抱かれているような夜だった。
 島崎の接吻は芥川の唇の端をかすめたのが精一杯で、それ以上はどうにもならなかった。
 島崎は先にも増して懸命に動き出した。
「はぁ、はぁ、はぁ、は……」
 息が上がり、額に小さな汗の粒が浮いた。それが二つ三つと集まって、重たげな水滴になり、やがて自重に耐えかねて、こめかみから頬へと伝いとがった顎からぱたりと落下する。そういった昂揚こうようは全て肉体の運動から来るもので、島崎の双眸そうぼうはまるで死んだ魚のごとく濁って、何の悦楽にも浮かされていなかった。
 それでも、その動きは芥川を追い詰めた。島崎は彼の喉がぐびりと大きく動いて生唾を嚥下えんかするのを見下ろした。寝巻を肌蹴た素肌の胸がせわしなくふくらんだりへこんだりするのを見下ろした。島崎はうずくまって彼の小さな乳首へ唇を押し当てた。
「っ、や、やめてくれないか」
 芥川が獣のうなるような声を上げた。
「やめてくれ、嫌だ、嫌だ、やめろ――!!
 そのとき、一際大きな、地が光で真白になり天を裂くような雷が落ちた。近隣に落雷があったに違いなかった。
「……終わったよ、君」
 雷が静まるのを待って、自身の呼吸が鎮まるのを待って、島崎は告げた。「あ」と何事か失念していたことを思い出したようにつぶやいた。
「ちり紙がないや……」
 仰臥ぎょうがしたまま死んだようにぐったりとしている芥川は、いずこにも焦点の定まらぬ目で暗い天井を見つめて動かなかった。雨音だけが否が応でも耳の奥まで届いた。歯車の回る音の幻聴がそれに重なった。右の目の中でだけ大小様々の歯車が回り続けていた。

「龍、今朝はどうしたんだ。朝飯も食いに来ず」
 芥川の自室へ様子を見に来た菊池がそれを言った。
「今朝の芋とアスパラの味噌みそ汁はいい出来だったぞ」
 とまた言った。
「なに、一度くらい食事を抜いたからって、そんなに心配することもない」
 と芥川は文机の前に座って煙草をくわえ、戸口でじりじりしている様子の友を見ながら言った。
「まあ僕のことはいいじゃないか。寛、自分の心配をしなよ。今日は午後から潜書なのだろう? またいつぞやのように油断をして皆を心配させないようにね」
「アンタこそ大事な体だぜ。頼みにしてる若いやつらがいるんだからな、堀だろ、太宰だろ――みんなアンタを神様みたいに崇拝してるんだ」
 菊池が戸口に寄りかかって、火の点いていない金口の煙草を指先でもてあそびながら話すことを芥川は黙って聞いていた。やがて菊池は階下へ降りて行った。
 芥川は人知れず顔を赤らめずにはいられなかった。もし菊池が昨夜のことを知ったなら。師の夏目や志賀、谷崎や室生のような友人や、堀や太宰のように自分を慕っている後輩なぞが、聞いたなら。芥川は体中を赤くしてもまだ恥じ足りなかった。己自身に笑われるような声を耳の底の方で聞いた。
 昨夜の出来事が露見したらどうなるというようなことは芥川には考えられなかった。しかし、少なくとも自分に向けられる嘲笑があるということを予期しないわけにいかなかった。
 スキャンダル。この目に見えない石が自分の方へ飛んで来るときの痛さ以上に、芥川は周囲の好奇の視線を想像してみて悲しく思った。
 芥川は硝子がらす窓の近くへ行った。中庭の方へ向いた二階の手すりのところから庭の池を眺めた。この池にはわにむという。本当か嘘かは知れない。
 夕べの大雨で池の水は濁り、かさも増しているように思われた。そんなことを気にもせずに、白い家鴨あひるがすいすいと池面の中央を横切っていく。家鴨あひるの行く手には夏の野菜の育つ小ぢんまりした菜園があり、今朝には晴れた空の光を受けて葉の露がきらきら光っていた。
 菜園の対岸に手頃な東屋あずまやがあって、その屋根の陰で島崎と田山が話し込んでいた。芥川は背筋がぞくぞくと震えた。
(何を話しているんだ)
 いかに島崎とはいえ、昨夜のことをそうそう口外はすまいという考えと、島崎と田山の親密ぶりであればもしや――という考えとで頭を引き裂かれるような心地がする。田山は島崎の額に手を触れながら、親しげに顔を近づけて語りかけた。
―――
 芥川が視線をそらした先へちょうど、国木田がこよりでじた原稿用紙を片手にやって来た。島崎や田山とともに発行している帝國図書館新聞について会議でも開くのかもしれない。図書館内のいかなる秘密をも聞き漏らすまいとしているような三人は、東屋あずまやの下で頭を突き合わせて国木田の持って来た原稿を検討し始めた。

 昨夜の嵐が嘘のように晴れ渡っている空を見上げていた島崎が、ふと小さな欠伸あくびを漏らす。
「眠い……」
 と独りごちる。一方で、ともに東屋あずまやの下で国木田を待っている田山は朝から快活そのものであった。
「なんだよ藤村、寝不足か?」
「うん、ちょっとね……」
「夕べは雷がすごかったもんなぁ。朝飯のとき、泉や南吉が目の下にクマ作ってたっけな」
「雷……隣の建物に落ちたらしいね」
「幸い火事にはならなかったみたいだけど、電話機が使い物にならなくなって今大変だって聞いたぜ」
「そう……」
「さっそく今日取材に行くんだろ? 国木田が来たら相談してみようぜ」
「うん……」
 島崎はぼんやりと相槌あいづちを打つ。気だるげな格好で長椅子に寄りかかり、水の濁った池を泳ぐ白い家鴨あひるばかり目で追っている。
 田山はなんとなく不審に思い、島崎の目の前で手をひらひらと振った。
「おーい藤村、どうしたんだよぼーっとして。大丈夫か?」
「ごめん……少し暑くて」
「いくら晴れたからってまだこの時間だぜ。熱でもあるんじゃないのか?」
「そうかもしれない……」
 熱っぽいような気がすると島崎が言い、田山は右手を島崎の額に当てて具合を見てやった。
「うーん? そうだな、ちょっと熱いみたいだぜ。風邪か? 夏風邪引くのはなんとやらってな」
 とからかうと、島崎は、
「花袋は、夏風邪どころか年中風邪を引く様子がないね……」
 と、やり返してきた。「元気そうじゃねえか」と田山はいささか面食らった様子だった。
「病気じゃないよ。疲れが出ただけだからさ……」
「そ、そうなのか? 一応医務室に行って、先生に診てもらった方がいいんじゃねえの?」
「医務室には……」
 行きたくない、と島崎は言った。
「行きたくないってお前」
「大丈夫だよ。大したことない」
 と細い声で、しかしきっぱりと断ってから、島崎は友の気遣いに心のこもった礼を述べた。
「ありがとう、心配してくれて……やっぱり君はいいやつだよ」
 誰かと違って。と内心で言い添えた。
 図書館の方から原稿用紙の束を抱えた国木田が足早にやって来るのが見えた。田山が長椅子から腰を上げて呼んだ。
「独歩! 遅いぜ!」
「悪い悪い、途中で館長に捕まっちまった。こないだの帝國図書館新聞、館長の休日に密着! あれは書き過ぎだってよ。小言くらったぜ」
「気にすんなよ。現実をありのままに書くのが俺たちの信条だろ」
 国木田を交じえて三人は次号帝國図書館新聞の記事を検討し始めた。国木田の持参した原稿は「国定図書館館長による会合近日開催さる。対侵蝕者戦略に動き有るか」。

 芥川は正午も近くなった頃にようやく身支度をして図書館へ向かった。別段何か読みたいというわけでもなく、とてもそんな気分になれるとも思わなかったのだが、皆の前に姿を現さないままでいて余計な詮索をされるのが嫌だった。
 あらゆる書に埋もれたような大図書室は、今のような刻限になると、日の光がずうっと高い天井近くのステンドグラスから差し込んでそこかしこ虹色に染めていた。ちょっと異界のようである。その中を背広なぞ着た変哲のない人々が歩き回ったり、椅子に掛けて文学全集だの論文だの広げて読んだりしているのがいかにもちぐはぐだった。芥川は落ち着かぬ気分だった。
 落ち着かぬ気がするのは、外の――つまり一般の――利用者の姿が目立つせいかもしれなかった。彼らに声でもかけられたらと思うと、どうにもたまらぬ。芥川は人目を避けて図書室の隅の書架を目指した。
 この間から手を付けている鏡花全集の続きをなんとなく手に取り、椅子の並べられた一角にやって来ると、嫌な人物に出くわした。背中合わせに置かれた長椅子の片方に島崎がぐったりと身を沈めていた。うつろな瞳をして、相変わらず死魚のような青年だった。冷たい岩場に打ち上げられた目の濁った死魚。
(てっきり、今日は取材と称して昨晩の落雷の件を聞き回ってでもいるだろうと思っていた)
 芥川は、嫌なことを思い出したと言わんばかりに顔を曇らせた。島崎の方を見ないようにして、彼の座っていないもう片方の椅子に腰を下ろした。不愉快だが少し話しておきたいこともあった。
 できれば島崎の方から声をかけてくれたら――と思い、手の中の鏡花全集をもてあそびながら待ったが島崎はそんなそぶりも見せない。仕方なく、
「君」
 と声をひそめて呼びかけた。
「………」
 島崎の返答はなかった。が、こちらの存在を認めているらしいことは、彼が椅子に深く掛け直した仕種でわかった。
「今日は自然主義の取り巻きの人たちは一緒じゃないのだね」
 と芥川は言った。わざと「友人」と言わず「取り巻き」と悪意を込めて言った。島崎はその問いには答えなかった。
「夕べのことなら、まだ誰にも言っていないよ……」
 と言った。
「君のことだから、それが気がかりで今朝からずっとたまらなかったんだろ? いつ僕に自分の足場を崩されるかと気が気じゃないってわけだよね」
 とも言った。島崎の言うことは的確に真実を射ていた。芥川は苦々しげに押し黙り、唇の先をんだ。

「お互いにあんなことは忘れてしまうのが身のためだ――そうじゃないか?」
 芥川は言った。
「嵐の夜が見せた夢だとでも思おうか」
 と島崎が言った。
「君にしてはいいことを言うね」
 と、芥川は皮肉を込めてうなずき、切れ長の目の端で背後の島崎の姿を盗み見た。島崎がどんな表情をしてそれを言ったものか確かめたかったが、顔色まではうかがえなかった。
「夢、と思おうじゃないか。よい了見だよ」
 ふいに、島崎が肩を揺らして陰気な笑い声を漏らした。芥川は不快そうに顔をしかめた。
「何が可笑しいんだい」
「君、本気で言ってるの?」
「いけないかい? 本気では」
「そう……夢だというのなら、僕もぐずぐずしていずに林太郎先生に診てもらおうかな」
「何だって?」
 芥川は、つい島崎の方を振り返って、
「診てもらうって、君、何の話だい」
 と聞いた。長椅子に体を預けてうつむいている島崎は、肩ではぁはぁと浅い息を繰り返していた。ちょうど夏場に風邪を引いた人が熱に浮されながら、次第に芯から寒気を覚え始めている頃のように。
 芥川はほんのわずかにでも心配しているとは思われたくなかった。冷たい声色を作って尋ねた。
――具合が悪いのかい」
「たぶん夕べのことのせいでね……」
「熱が出たのか」
「そうみたい。朝は大したことないと思っていたんだけどね」
「なぜ医者に診せないんだ」
「林太郎先生に見せてもいいの? 僕の体」
「別に誰が君の裸を見ようが僕の知ったことじゃないよ」
「何言ってるんだい、そんなことじゃないよ……」
 つまり自分の体には昨夜の房事の痕跡が残っているのだと、島崎は言う。鴎外の診察を受けるとなれば、それを見せずに済ませるわけにはいくまいと、言う。そして見られた以上は辻褄つじつまの合った説明をしなくてはならないだろうと、言う。
「現実のことなら話そうか隠そうか迷いもするところだけど、夢の話なら何をためらうことがあるだろうね? もっとも、他人の夢の話なんて、面白みのないものだけど……」
 芥川は身に縄を打たれたような心地がした。その縄の先を島崎が握っていて、彼が多少力を込めてそれを引けば、容易に芥川を締め上げて苦しめることができるのだ。
 島崎の顔を見るのは苦しかった。その死魚の眼差まなざしに、芥川は己への軽蔑や憎しみを読み取った。
「初めに僕を犯したのは君の方だったじゃないか……」
 という責め句を読み取った。夢だと思って忘れようなどと、いかにもお前に都合のいい言い草ではないか。
 両手で顔を覆って目を閉じると、右のまぶたの裏でいくえにも連なった歯車が静かに回っていた。
「君、君……」
 と島崎の呼ぶ声で我に返った。
「ねえ、僕はもう行くよ」
「どこへ――
 ぎくりと寒気を感じながら芥川は問うた。島崎は熱に浮かされてぼんやりした調子で答えた。
「自分の部屋へだよ。今日はもう寝ていようと思って……」
「医務室へは――
「行かないよ」
 その日の晩、芥川は罪滅ぼしの義務感から密かに島崎の床を見舞った。
 島崎は二晩寝込んで、三日目には熱も下がったらしく司書に頼まれて朝から田山とともに有碍書へ潜った。

 七日ばかりも芥川はろくろく眠らなかった。不眠症がいっそうひどくなり、四日目に鴎外のところへ睡眠薬をもらいに行った。鴎外は、文士に薬を出すことには慎重で、そのときも一晩分の薬しかくれなかった。正規の処方には診察と届け出が必要だと言う。芥川はそれ以上の薬は求めず、毎夜何箱も煙草を吸って過ごした。紫煙をまといながら、独りであれこれと心配していた。
 食欲は湧かなかったが、人に――特に菊池に不審がられないように食堂には毎食欠かさず顔を出した。食堂ではめいめいが勝手に席を選んでいた。芥川は決まった席を持たずそのときどきで気の向いたところへ座っていたが、昼食の際に限ってどういうつもりかいつも島崎が近くにいた。
 島崎は芥川の対面に着くこともあった。うつむきがちになって食事を取り、芥川と目を合わせることを避けようとしている場合でも、芥川は島崎の痩身の内側から向けられるような視線を感じた。その視線に込められたものは、しかし憎しみばかりではなく、どうかすると微笑ほほえんでいるように感じられることもあった。芥川は、自分と島崎の様子が、他人から見て過剰に親しげに見えまいかと心配した。が、以前から島崎が取材と称して芥川にまとわりついていたのは周知の事実だったから、杞憂きゆうで済んだようである。
(いつまでこんな日が続くのだろう)
 と芥川は思った。島崎を犯し、犯されるように関係を持ったのを誰かに知られることにおびえ、暴露されることにおびえた。
(このまま何もなく、何も語らず、一切立ち消えてしまったらいい――
 とも思ってみた。そんなふうに考えるとき、己に向けられた島崎の内なる視線に軽蔑の色が濃くなるような気がした。日頃煩わしく思っていた島崎のために、こうした暗い罪悪感を覚える自分を実に心外にも、腹立たしくも思った。
 芥川は度々死を想った。再びあの無の世界へ帰すことを想った。死の己に与える平和を考えずにはいられなかった。しかし、境遇がそれを許さなかった。帝國図書館の文士として管理されている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅身では。軽い睡眠薬をさえ手に入れることのままならぬ身では。
 ある日の午後、ふらりと中庭へ散策に出ると、池端の木陰で年若い文士が二人涼んでいた。太宰と中島であった。特別仲がよさそうにも思えないが、同じ年頃のせいか気安そうな様子に見えた。
「おいで、おいで」
 と、中島は池の家鴨あひるに餌をやろうとして、池の縁に立ち、しきりに手招きをしている。
 太宰の方は池に近寄ろうとせず、ベンチに脚を組んで座っている。芥川がそっと近づくと、すぐに気づいて飛び跳ねるように立ち上がり、
「あああ芥川先生! こ、こんにちは――座ってください、どうぞ」
 と席を譲ってくれた。
「ありがとう太宰君――煙草吸っていいかな?」
「もちろんどうぞ!!
 太宰は、いっそ芥川の吸う煙草の煙のお下がりでも嗅がせてくださいと言い出しかねない心酔ぶりだった。
「太宰君は、家鴨あひるは嫌いかい?」
「エッ、いや、そ、そんなことはないですけど?」
「太宰さんは、もし本当に池にわにがいてまれるのが怖いから、こっちに近寄らないんです」
 と中島が口を挟む。太宰は顔を赤らめ、むにゃむにゃと胡乱うろんな声を出してはにかんだ。
 芥川は太宰が生前入水自殺に至ったと聞き及んでいた。そのことを思い出し、太宰の照れている横顔を目を細めて見つめた。

 コッコッコッ、
 と小気味のよいノックの音がする。司書室のドアは、この夏の暑さのことで、開け放してあった。どうぞ勝手に入ってほしいと、主たる司書婦人は書きかけの報告書から顔を上げないままで来訪者に促した。
「やあ」
 と軽く手を上げながら入ってきたのは、この帝國図書館の館長であった。
「あ、これは」
 失礼しましたと、司書婦人も慌てて椅子から立ち上がった。
「ああいや、気遣いは無用だ、そのままで聞いてくれ」
 館長は司書の執務机のそばまで親しげに近づいて、話しかけた。
「来月の頭に国定図書館の幹部会議があることは先日話しただろう? それで俺はしばらくここを空けるから、その間のことを君に頼むということも話した」
 もちろん任せてほしい、と司書は請け負った。
「ありがとう。それから実はもう一つ頼みがあってな」
「何です?」
「その幹部会議にだな、うちの“文豪”を一人か二人連れて行きたい」
「文士の方を」
 慎ましやかな司書は、何のために、と口に出しては問わなかったが、館長の深い紫の瞳を見つめる眼差まなざしがそれを語った。
――地方の図書館の幹部が、興味を持っていてな」
 と館長は説明した。
「昨今の文学書の侵蝕問題に関して、どこの国定図書館も非常に警戒して、また興味を持ってもいる。同じ錬金術師アルケミストとしてな。我々帝國図書館では、幸いにして君という素晴らしい才能を得て、多くの文豪の魂を現世に転生させ侵蝕者と戦っている。そのことをどこの館長も地獄耳ぞろいだからしっかり耳に入れていて、ぜひに学ばせてほしいと――そういうわけだ」
 なるほど、と司書はうなずいた。
「あまり大きな声では言えないが、この辺でやつらに恩を売っておきたい気持ちもある。君さえよければ、どうだろう?」
 そういうことならと司書も承知した。
「すまん。助かるよ、ありがとう。できるだけ君のことについては話さないようにするからな。それからもちろん文豪たちに無理はさせないと約束する」
「信じています」
「そう言ってくれる君の信頼に応えられるよう尽くすよ。ところで、連れて行く文豪だが――一人は芥川龍之介でどうだろう。彼はまれな魂を持っている。どうせなら俺も君の才能を自慢してきたいしな」
 司書は、芥川さえ承知すれば自分は構わないと返答した。館長は、ほっとした様子だった。
「そうか、よかった。芥川なら素行もいい――あのヘビースモーカーぶりだけは心配になるが、空気のいいところへ行けば胸の方も多少はスッとするだろう。今夜にでもさっそく俺の方から話してみよう」

 館長は日頃夕食を兼ねた会合に出席したり、あるいは自室で仕事をしながら食事をすることも少なくなかったが、その日は食堂で皆と一緒に食卓を囲んだ。もっとも、夕食の間は、それらしいそぶりも見せず、食事が済んで皆が解散し始めた頃を見計らって、
「芥川、実はこの間知り合いから舶来の珍しい煙草を土産にもらったんだが、君もどうだ? よかったらこの後俺の部屋で一服しよう」
 と芥川を誘った。
 芥川は警戒していた。このところの心労で全身の神経が過敏になっていた。長い髪の先端に触れられただけで悪寒を覚えるような神経質が脳に巣食っていた。
――僕一人ですか? 僕に何か御用でも?」
 と、つい真面目な顔で問うた。館長は「参ったな」と苦笑いをして額をいた。
「さすがに人の心を読むのにけているな。実は、お察しの通りなんだ、俺の部屋へ行こう」
 芥川は館長に促されるままに廊下へ出た。文士たちの居住区がある別棟から本館の方へ向かった。夜の図書館は隅から隅までひっそりしていた。
 館長室へ続く廊下の窓際、窓と窓の間に一つずつ洋燈ランプともしてあった。そして向かい側の壁にもそれぞれの洋燈ランプと同じ場所に同じ物が掛けてある。等間隔に並んだ小さな明かりの前を順に通り過ぎて行くと、廊下の真ん中辺り、壁際の方に一つだけ消えた洋燈ランプがあった。そのことが芥川を訳もなく不安にさせた。消えた洋燈ランプのそばには、羽の四枚ある天の御使いの油絵が掛かっていた。
「さ、入ってくれ」
「お邪魔します――
 と館長室へ足を踏み入れてすぐ、乱雑に本や書類の積み重ねられた執務机に視線が向かった。積まれた本の一番上は徳田秋声全集の第四巻﹅﹅﹅。芥川の不安は増していく。
 芥川は勧められて応接椅子へ腰を下ろした。館長は、執務机の一番上の引き出しを開けて、外国産らしい見慣れぬ煙草を一箱持ってきた。
「舶来の煙草の土産があるのは本当だ。どうだ? 一つ」
「頂きます」
 芥川は差し出された煙草の箱へ手を伸ばしかけて、ふとその箱の側面に大きくアラビア数字の「4」が印字されていることに気がついた。たまらず、出した手を一度引っ込めた。
「どうした」
 と館長はいぶかった。
「いえ――何でもありません――
 不審がられぬよう、あえてゆっくりと、平然と、堂々として、今度こそ煙草を一本取り、小刻みに震えている唇へ押し当てる。館長が燐寸マッチを擦って渡してくれた。芥川は礼を述べてから、煙草の先へ火を点けた。
 ほろ苦い味のする煙を肺深く吸い、吐いて、今にも毒が体に回って倒れるのではないかという妄想がニコチンとともに血液へ溶けて巡る。
 そのような状態で、芥川は館長から国定図書館の幹部会議の一件を聞かされたのだった。
 芥川は黙しがちに、館長の話を聞いていた。一人でこの地を離れることができると聞いて――そこに運命の声を聞くような思いがした。どうかして救われたいと思う彼の心が、館長の丁寧で優しい声から引き出されてきた。

 夜は更けた。辺りはますますひっそりとしてきた。芥川は独り、誰もいない談話室で煙草をふかし続けていた。夜が更ければ更けるほど、妙に彼の頭はえてきた。
「館長はよいことを言ってくれた。僕はこれ以上はもう耐えられない――
 芥川は自分で自分に言ってみた。
 くわえた煙草を吸い終えると、椅子から立ち上がり談話室を後にした。エントランスから出て、中庭の方まで歩いて行った。図書館そのものが眠ってしまったように静かで、ただ己の足音だけが広いホールに反響していた。
 帝國図書館の外へ。
 芥川がその声を己の心の内部にはっきりと聞きつけたのも独り歩きながらであった。あだかも深い夜がその一条の活路を彼の耳にささやいてくれたかのように。
 どうかして自分を救わねばならない。同時に、可能であれば――島崎藤村をも。また友人の菊池らも。この考えが芥川の胸に湧いて、それができないことでもないらしく思われてきた。
(僕はやはり何度生まれ変わろうとも僕なのだ――
 たとひ魂は砕けても、想いは砕けない。と、自らの著作の一節をもじってそんな言葉を考えつき、心の内で繰り返しつぶやいてみた。
 そうしながら夜の中庭をぐるりと歩き回り、芥川は図書館へ帰ってきた。自室へ戻る廊下をコツコツと歩いていると、後ろから同じように近づいてくる足音が聞こえた。のみならず背後から照らす懐中電灯の光が芥川を追い抜き、長い廊下の奥まで伸びていった。
 芥川は足を止め、振り返った。島崎がいた。
「やっぱり君だった」
 と島崎は言う。
「珍しいね、こんな時間に出歩いてるなんて……」
「そういう君は――見たところ夜番らしいね」
「うん」
 夜番の当番は午後十時と午前一時の二回、図書館内の見回りをしなければならなかった。暗い図書館内を、懐中電灯の頼りない明かりで照らして歩く。自らの子でもあり母でもある文学書に異常がないか、あるいは泥棒などに入られないよう施錠を確かめるのが仕事であった。
 芥川は胸の内に湧き上がってくる想いを抑えることができず、島崎が手の届くところまで来ると、彼の細腕をぐっと握って引き寄せ、小柄な痩身を強く抱き締めた。そうしておいて短い接吻をさえした。唇と唇が離れると、言った。
「こんな地獄のような日ももう終わる」
 芥川の言葉を聞いた島崎の死魚の瞳に、ほんの一瞬生気が宿り、懐中電灯の明かりに瑞々みずみずしくきらめいた。芥川は日頃の厭悪えんおの感情を忘れて、それを美しいと思った。

十一

 朝が来た。芥川はほとんど眠れぬままに一夜を明かした。日が昇ってきたのに気がついて、窓辺へ立って外を眺めた。外気は湿気しけていたが多少は涼しい。庭木の青葉の匂いが立ち上って来ている。どこか遠くで小鳥がさえずっていた。
 芥川は左手で左目を押さえ、右の目だけで晴れた空を見上げた。光に透かすと、目の中で回る歯車がより鮮明に見えるような気がした。
 芥川は、その日の朝一番に館長の元を訪ね、昨晩の返答をした。
「僕がお役に立てることであれば、喜んで」
 と、返答した。
「そうか、一緒に来てくれるか」
 館長は安堵あんどした様子だった。
「ありがとう、助かるよ、本当に」
 と、芥川へ礼を尽くした。芥川は、良心にいささかの痛みを覚えないでもなかった。しかし、本当のところを告白することが己にできるだろうか。知られるわけにはいかない、絶対に――
「芥川、君に希望があれば、もう一人くらい一緒に連れて行っても俺は構わないんだが、どうだ?」
「え?」
 これは、芥川の予期せぬ話であった。
「同行者、ですか――
「実は初めからそのつもりで、彼女――司書のな――には話を通してある。俺と二人きりで旅行というんじゃ、君も息が詰まるだろう」
「いえ、そんな」
「いや気を遣ってくれなくていい」
 と館長は一人で決めてしまって、他に誰を連れて行くのがいいか考えてくれと言った。
「君の心安い相手でいい」
「はぁ」
 と、言われても、と芥川は内心困っている。てっきり自分一人で行けるものと思っていたのだ。同行者は不要だと断れば館長もそれ以上は強いないかもしれないが、そのことがいらぬ不審につながるのは嫌だ。
 芥川はしばしうつむいて考え込んだのち、
「では、彼を――太宰君を――
 と言った。館長は、妙な顔をした。
「えっ、太宰か」
「いけませんか?」
「いや、いけなくはないが――意外だな。友人の菊池や弟子の堀辺りを勧めてくるかと思っていた」
「僕は一度、太宰君とゆっくり話をしてみたいと思っていたんです。彼、面白い子でしょう。しかしなかなか、図書館で雑事に追われているとそうもいきません。よい機会かと思いましてね」
「もちろん君がそう言うなら、俺としては異存はないが」
 と館長は言いながらも、どことなく歯切れが悪いのは、おそらく太宰の素行について考えているのだろうと芥川は察した。
「太宰君のことは、僕が年長者として監督しますよ」
 そのように請け負って、話がまとまった。
 館長、芥川、それに太宰の出立についてはやがて正式に決裁され、帝國図書館の職員たちの知るところとなった。このにわかな旅行の決定は何よりもまず島崎藤村を驚かせた。

十二

「なーんでまた太宰クンなんやろなぁ」
 と首をひねったのは織田であった。太宰の書き物机の椅子に勝手に座り込んで、長い脚を持て余すように机の上で組んでいる。椅子の後足を支点にして、ゆらゆらと体を前後に揺らしている。
 平時家財の類が少なくがらんとしている太宰の部屋が今は大変な惨状だった。坂口の自室並み――とまでは言わないが、衣服や下着、洗面用具、筆記具、多少の書物など床の上からベッドの上まで散り散りになり、それらの真ん中に旅行鞄が一つ。太宰がそのそばに膝を抱えて座り込み途方に暮れていた。
「なんでって、俺が知るかよ。急に館長に呼び出されて、出張について来いって――し、しししかも芥川大先生と俺と二人で」
「それがわからんねん」
 と織田がますます首をひねる。
「なんで太宰クンやねん。芥川センセのご友人のカタガタでもなく、お弟子はんの堀君でもなく、よりにもよって」
「お、俺だって芥川先生のこと尊敬して傾倒しまくってるけど!?
「太宰クンのはただの“ファン”」
 と、にべもない。
「……芥川から太宰の方に直接話はなかったのかな?」
 と、急に脇から陰気な声を挟まれて、織田は仰天して体のバランスを崩した。
「わっ!!
 そのまま椅子ごとひっくり返り、いたたと腰をさすっていると、声の主が別段悪いことをしたという顔もせずこちらへ向かって屈み込んだ。島崎であった。
「んもー、驚かせんといてくれはります藤村先生? と、いうか、いつの間に入ってきはりましたん」
「ドアが開けっ放しだったから勝手に入っちゃったよ」
「ノックくらいしてくれはってもええんちゃいますか」
 織田は起き上がって、島崎に椅子を勧めた。
「どーぞ」
「ありがとう……でもいいよ、すぐ済むから」
「さようで」
 島崎は織田が座り直した椅子の背を通って、鞄の前にうずくまっている太宰の方へ近づいた。
「君、荷造り下手だね」
 と、ずばり言った。
「な、何なのいきなり!? 何か用ですか!?
「今度の出張のことで芥川から何か聞いてない……?」
「聞いてませんよ! 俺の方がどういうことか聞きたいくらいなんだから」
「そう……」
 島崎の表情は変わらなかった。それはそれとして、よほど太宰の手際の悪さを見かねたのか、衣服の畳み方や詰め方などあれこれ口を出してくれた。
「藤村先生、口出しは構いませんけど、手ぇは出さはったらあきませんよ、太宰クンに自分でやらさな。昔ならともかく今は世話してくれる人もおらんのやから、アカンよ太宰クン、いつまでもお坊ちゃん気分でおったら」
 と織田が説教臭い口を挟んだところへさらに井伏と坂口が連れ立って訪ねてきて、部屋の中はにわかに騒がしく、狭苦しくなった。井伏と坂口はうんざりしている様子の太宰を挟んで代わる代わる言った。
「太宰、俺が預かってる旅行の支度金の残りは出発前に渡すからな。今渡すと今夜にでも飲み代に消えかねないしな」
「なんだ、まーだ荷造りも済まねえのか。ったくしょーがねえな――
 この二人は、なんやかんやと言いながらついつい口ばかりでなく手も出て、太宰の手伝いをしてしまうのだった。
「ほんま、甘いんやからなぁ、二人とも――
 と織田があきれたようにぼやいている。「藤村先生もそう思わはるでしょ?」と矛先を島崎へ向けた。
「そうだね、自分の旅行の支度くらいは自分でやらなきゃね。僕も、自分でやったよ、昔ね……」

十三

 太宰が芥川に同行することを不思議がっているのは織田ばかりではなかった。
「どーしてまた、太宰なんだかなぁ」
 と、菊池は芥川の部屋で畳に座り込んで金口の煙草をふかしながらぼやいた。さも独り言の体だが、こちらに背を向けて文机で書き物をしている芥川に向けてぼやいたのは明白だった。
「ふふ」
 と芥川の背中が笑った。
「うらやましいのかい? 寛」
「おーおーうらやましいともよ、龍。アンタらばっかり外で憂さ晴らしとはいいご身分だぜ」
「遊びに行くわけじゃないんだよ。あくまで館長の手伝いに行くのだからね」
「だから、それなのになんで太宰を連れて行くんだって話だよ。言っちゃあなんだが、お世辞にも素行のいいやつじゃないぜ」
「さあて、決めたのは館長だもの」
「アンタも多少の口出しくらいはしたんじゃないのか?」
「よしんば口出しをしたとしても、僕に決定権があるわけじゃなし。そんなに気になるなら館長に直接聞いてみるんだね」
 館長には自分が太宰を推したことは内密にしてくれるよう頼んであった。彼の誠実さは信用に足る。
「なんだかなぁ」
 と菊池はどうにも納得しきれないといった風に、結んだ髪の後ろをいている。
「どうしたんだい寛、君、今日はえらくこだわるじゃないか。何がそんなに気になるんだか」
 言ってくれ、と芥川は胸に念じた。言ってくれ、そうすれば僕は君の納得のいくように話そう。たとえ真実は言わなかったとしても、嘘はつかない。と念じた。
「気になるというか――勘だな」
「勘?」
「どうもこう、嫌な感じだ――アンタが死んだときのことを思い出す」
 いい勘をしている。と芥川は密かに思い、背筋がいささか冷える思いをした。
また﹅﹅置いて行かれるんじゃねえかって気がしてな。なに根拠はない。根拠はねえが――あえて言うなら違和感か。例えば、なぜか太宰が連れて行かれることや、それに近頃のアンタの様子――そういう違和感を感じる度不安になる」
「心配性だね、君」
「心配させる方が悪い」
 芥川は苦笑する。
 原稿用紙を見下ろす右目に歯車の幻影が濃く、文字がよく見えなかった。芥川はペンを置き、疲れ目をいたわるようなそぶりでまぶたをこすった。
「僕の様子おかしいかな?」
「いつもそうやって右目を気にしてる」
 芥川は手を膝の上に下ろした。そのとき思った。この聡明な友はいずれ――どういう経緯を辿たどるにしろ、己の犯したことに気がつくだろうと。それならばせめて、友のために、今の己の想いの一切を書き残そうと。そして帝國図書館を離れたら、最後の手紙を書こうと。
 菊池は黙り込んでしまった友の暗い背中を見るに忍びなく、問いたいことはいろいろあったが、飲み込んで、話の矛先をそらした。
「ところで龍、今書いてる原稿、出発までに間に合うんだろうな? 帰ってきてからじゃ次の会誌に間に合わねえぞ」
「さてねぇ――芝居などだと、出発までにもいろいろ刺激的な事件が起るのだけど――机の引き出しにまだ発表していない原稿がなかったかな?」
 と芥川は努めて、冷や汗さえかきながら、おっとりとした声色を作った。
「寛、論文ではどうだい?」
「何て論文だ?」
「『文芸に及ぼすジャアナリズムの害毒』というのだけどね」
「そんな論文はいけねえよ」
 菊池は長い煙を吐いた。

十四

 ある晩、芥川が談話室の片隅で一人書見をしていると、そこへ島崎がふらりとやってきて隣へ座った。
「何を読んでるの?」
「君には関係のない本だよ」
 と芥川はそっけなく答えた。読んでいるのは和漢天竺てんじくの古い伝承を集めた説話集であった。さして面白くもないらしいことはその表情から知れる。
 島崎は芥川の手元をのぞき込み、書名を確かめて、ポケットから取り出した帳面にそれを書き付けた。そのまま覚え書きをしている振りを続けながらささやいた。
「君、さぞ嬉しいだろうね」
――何の話だい」
「ここを離れて遠くへ行くことができてさ」
「君の思っているような楽しい旅じゃあないよ」
 と芥川は言った。それは芥川の正直な気持ちだった。
 島崎の淡々とした言葉は、かえって名状しがたい力で芥川の心を責めた。不幸な者を置き去りにして、彼一人が外へ逃げて行きでもするかのように。
 島崎は帳面と筆記具をポケットにしまうと、やにわに芥川の方へうんと身を寄せてきた。彼の着物のたもとへ指を触れ、そのまま縫い目をなぞって袖口から手を差し込んだ。
「逃げたら大声を出すよ」
 と芥川を脅しておいて、彼の腕に手首を絡める。芥川は島崎の方を見るよりは、思わず辺りを見回して人の目がないか確かめていた。談話室のはす向かいの角では菊池が吉川や年若の文士たちと麻雀に興じていた。その横では志賀が井伏と将棋を指していた。皆自分のことに夢中で、こちらに注意を払っている者はなかった。
「君……もうここに帰ってこないつもりだよね、たぶん」
 と島崎が低い声で言った。
「太宰を一緒に連れて行ってどうするつもりなのかな」
「それは僕が決めたことじゃないよ」
「でも君が選んだんだ……と、僕は思ってる。まさか君が太宰に恋してるとは思わないけど、彼と旅先で心中でもするつもり?」
「まさか」
 と芥川は冷ややかに言い捨てた。が、内心、島崎の口から「心中」という語が現れたとき、なたで頭を割られるような怖気おぞけを覚えた。
「まさか――そんなことはしない。他人に迷惑をかけるつもりはない。僕は嘘はつかないからね。ただ、僕のすべきことをしに行くだけさ――
「相変わらず自己正当化が上手だね」
 と言う島崎の声には皮肉ばかりではなく、ある種の愛情のようなものがこもっていた。
「だけどね、君、僕にはわかるよ……君がどんなに帰るまいと思っていても、君はやっぱり帰ってくるよ、ここに」
――君に一体僕の何がわかると言うんだ」
「何もかもさ……できるだけ早く帰っておいで」
 島崎は芥川の腕に頭を預けながら「待ってるよ」とささやいた。そうしていたのもほんの数瞬の間で、人の目を恐れてすぐに飛びのくように体を離した。

十五

 その晩、芥川は悪い夢を見て夜半布団の上に飛び起きた。
 己が島崎を陵辱する夢であった。
 この自室とおぼしき畳敷きの陰気な書斎で、外で止まぬ雨が降り続けていた。どこまでも重苦しく暗かった。息さえ細るようだった。
 水底の死魚のようにぐったりと横たわっている島崎の痩身に乗りかかり、獣じみた行為に及んだ。島崎は初め少し抗っただけで、あとは声も立てずに生気のない目を天井に向けていた。
 しかし己の狼藉ろうぜきは長くは続かなかった。最後まで行えないまま、途中でじ気づいて島崎の体を離した。
 島崎ものろのろと起き上がって、うなだれている己をじっと見つめた。悲しみと軽蔑の色がありありと浮かぶ視線が身を貫くように痛かった。
 その夢は、ほとんどあの晩の出来事そのままだった。その後に島崎が己に復讐ふくしゅうするように乗りかかり絡みついてこなかったことのみ除けば。
 芥川は寝床を出た。夢見の悪さと夏の夜の熱気とで全身びっしょり汗をかいて甚だ不快だった。
 帯を解いて素裸になり、肌着を乾いた物に取り替えた。それで少し気が落ち着いて、文机の前に座り、煙草の箱を取って一本くわえた。燐寸マッチを擦った。硫黄の匂いにほっとして、それで火を点けた煙草の香りに慰められる。近頃は喫煙を“緩慢な自殺”などと呼称するようだが、なるほどこの頃の人も甘美な言い回しを思いつくものだ。それで、いつ殺してくれる?
 談話室で島崎と交わした言葉や彼の仕草一つ一つを思い出すと暗澹あんたんたる心持ちがした。
(あのひとに一体僕の何がわかるというのだか)
 どうしてああも自分のことを知りたがるのか。芥川はかつて島崎についていくつかの文章を残したが、それで恨まれこそすれ、あんなに恋着されるとは思いもよらなかった。自分のことなど突き放してくれればよいのだ。あんなふうに腕を取られ、柔らかい頬を擦り寄せられるとは思いもよらなかった――
 芥川は机に肘を着いて寄りかかった。今夜はもう眠れないだろうと思い、立て続けに煙草を吸った。机の引き出しには以前鴎外にもらった一晩分の睡眠剤を隠してあったが、今使ってしまうわけにはいかない。
(これだけでは足りない)
 せめてもう二、三回分は手に入れなければ心もとない。
 そのことを思案して長い時間を過ごし、手元の灰皿には煙草の吸い殻の山ができた。
 夜が明けて手元が明るくなってくると、朝食を待つ間を使って少し書き物をした。菊池に頼まれていた原稿三十枚、出発の日までにどうにかして書き上げねばならなかった。

十六

「藤村、お前の取材ノオトなんなのあれ」
 司書室で古雑誌の整理をしていた島崎のところへ田山がやって来て、そんな文句を言った。言ってから島崎の手元を見やり、
「何してんの?」
 と問うた。
「司書の彼女が今日は潜書室にこもりきりで雑事ができないって言うから……それにこれもういらないから、欲しい物があればくれるって」
 どうやら後者の方が本音の目的らしい島崎は、古い文芸雑誌の中を一冊ずつぱらぱらと確かめながら、不要な物は一山にして脇に積み重ねている。
「これ、紐で縛ればいいのか?」
 田山はその山を一つかみずつに分けて、麻紐で十字に縛った。島崎は、自分は雑誌をめくる手を止めないままお礼を言った。
「ありがとう花袋、助かるよ」
「いやそれはいいんだけど――取材の話だよ。お前、芥川に出発前の心境をインタビュウするとか言っておいて、ノオトに書いてたのあれ芥川が読んだ本のタイトルだけだっただろ。しかも図書館で借りてみたけど全っ然面白くなかったぞ!」
「読んだんだね花袋」
「何かの暗号かもしれないと思ったんだよ」
「僕はそんな乱歩の探偵小説みたいなことはしないよ」
 田山は物問いたそうな目を島崎へ向けた。
「なあ藤村、お前近頃ちょっと変じゃないか? どこがって言われると困るけど――どことなく」
「嬉しいね、今まで変じゃないと思われてたんだ。安心したよ」
「はぐらかすなよ」
 と、田山は少し語気を強めた。
「そりゃ、オレはお前が話したくないっていうなら強いて聞くつもりはないけどさ、何かあったんじゃないかって思うだろ」
「……何かって、例えば?」
「いや、それはわかんねーけど――そうだな、例えば恋患いとか!」
「君らしいね」
 と島崎は微笑ほほえんだ。どういう意味だと田山は気恥ずかしげに口をとがらせた。
「そのままの意味だよ。花袋、僕は君といると一切が許されるような気がするよ……」
「ますますどういう意味だかわかんねえよ」
 田山は、口は悪いが、内心照れているらしく、下を向いて島崎と顔を合わせないようにしながらせっせと麻紐を結んでいる。
「あのさぁ、お前のそういうところが、オレは、なんて言うか」
「なんだい」
「なんて言うか――お前だけいつも一歩先を歩いてるようで、オレは、ちょっと、面白くない」
 ふふふ、と島崎は声に出して笑い出した。例の死んだ魚のような陰鬱さは全くない。今はただ一人の青年として親友へ穏やかに笑いかけた。
「僕はね花袋、今あるひとのことで難しい立場に立ってるんだ。そのひとは僕に少し酷いことをしたのをずっと気に病んでいてね……」
「それってお前の想い人?」
「……どうだろう。僕はそのひとをもっとよく知りたいのだけど……なかなか上手くいかないや」
「そっか――
 田山はそれ以上島崎へ尋ねなかった。ただ、
「何かあったら相談しろよな。オレ、こう見えても文豪なんだぜ。人の心の正直な部分についてはちょっと詳しい自信あるしさ。あ、相談するなら早めにな、早めに」
 と言ってくれた。島崎は心からうなずいた。
「うん、ありがとう花袋……ところで、この雑誌に載ってる可愛い女の子の写真、君、欲しい?」
「欲しい」
 切り抜いて取っておいてくれ、と田山は大真面目な顔をして言うのだった。

十七

 出発の日は八月末日と決まっていた。
 その二日前に、帝國図書館新聞の最新号が張り出された。大見出しは「国定図書館会議いよいよ開幕」で、国木田が筆を執った記事である。館長や司書やネコをなだめてすかして辛抱強く聞き出したらしい今度の会議の目的の要点をまとめたものであった。
 国木田の記事の末尾には“館長の助手”として同行する芥川と太宰へのインタビュー記事が小さく掲載されていた。芥川からは結局ろくなことを聞けず、太宰に聞いたら聞いたで旅行のために買った衣装の話ばかりされて、やむを得ず記事を縮小したのだと国木田は島崎や田山にぼやいていた。
「太宰君、君も相変わらず不自由な性分のようだ」
 と太宰に言ったのは永井だった。たまたま廊下で一緒になった二人は肩を並べて壁新聞を眺めた。別段親しい会話もなかったが、永井は去り際、
「せいぜい君のできることに力を尽くして帰ってきたまえ」
 と太宰へ言い残した。
 永井と入れ違いに坂口がやって来た。坂口は、永井とすれ違うにもニコリともしない。永井の方は涼しい顔をして去って行った。
「相変わらずいけ好かねえヤツだな。何がせいぜい﹅﹅﹅﹅だ、上から見た物言いをしやがる」
 と坂口は言って、太宰の横に立った。太宰は返事をしなかった。坂口はじろじろと壁新聞をねめ回している。で、と言った。
「でアンタは自分の記事を見て恥ずかしくて後悔して死にそうになってるのか? コメディアンはコメディアンらしくしてろって」
「ほ、ほっといてくれよ」
「もう明後日の朝には出発なんだな」
 と坂口はしみじみ言った。
「なんだよ安吾、俺がいないとそんなに寂しいわけ?」
「ま、図書館が半月ばかり静かになって助かるって話だ」
「ちょっ、どういう意味だよそれは」
「気をつけて行ってこいって意味だよ」
 素直になられたらなられたで気恥ずかしげな太宰は、
「ああ――
 とあいまいあいまいな返事を寄越した。
 出発の日の朝は早かった。朝七時に東京駅から急行列車が出る。それに必ず乗らねばならぬというので。
 車寄せには館長が頼んでおいた二台の車がまっており、片方には三人分の荷物を積み込んで行くことになっていた。運転手が荷を積んでいる間、車寄せに出ている三人の元へ代わる代わる見送りの人々が訪れた。
 太宰を見送りに来た師の井伏は、そのときに旅行の支度金の残りを彼に渡した。
「? 井伏先生、少し多くないですか?」
 太宰が渡された封筒の中身を確かめて首をかしげた。井伏は苦笑いをして金の出所については語らず、
「土産を楽しみにしてるからな」
 と言って弟子を送り出した。
 芥川を見送りに来た菊池は、太宰の場合とは反対に芥川の方から大きな封筒を渡された。
「龍よ、これは?」
「君に頼まれていた原稿じゃないか――谷崎君や室生君たちにもよろしく。それとね、君に頼むのも変だけれど、夏目先生のお体のことに気をつけて差し上げてくれないか」
大袈裟おおげさだな。すぐに帰ってくるだろうに――
「そんな不安そうな顔をしないでくれ、寛。向こうに着いたら手紙を書くよ」
 芥川は友のために努めて明るく振る舞った。それからも多くの文士が見送りに現れたが、その中に島崎の姿はなかった。
 全ての支度が済むと、館長、芥川、太宰の三人は車に乗り込んで帝國図書館を出発した。

十八

 列車は定刻通り午前七時に東京駅を発車して、西へ向かった。乗り換えはないが、これから半日ばかりは車中で過ごさねばならなかった。
 三人は三等車の端のボックス席に向かい合って座った。列車の進む方の席に芥川と太宰が並んで、向かいに館長が座った。館長のどっしりした巨躯きょくは二人分の座席を占有してなお手狭そうであった。
「夜までには京都に着く」
 と館長はポケット版の旅行案内を見ながら言った。
「着いたら、向こうの図書館の職員が迎えに来てくれるはずだ。その車でホテルへ向かう」
「ホテルに泊まれるんですか」
 と太宰がはしゃいだ声を上げた。芥川が横からたしなめた。
「太宰君、旅程を知らせる書類、読まなかったね」
「えっ、そ、そんなの、ありましたっけ?」
「一週間ほど前に部屋に届けられていたよ」
「はは、まあいいさ。どうせ俺たち三人で一緒に行動だ」
 と、館長は気さくに笑っていた。
 急行列車といえども停車駅は多く、新橋、品川、横浜と過ぎるうちに車内にはどんどん乗客が増えてきた。出張と思しき会社員が最多で、他にも家族連れや学生らしきグループなど客層は様々だったが、芥川ら一行はその中でも一際浮いていた。一見して身分も職業もわからないような風体であるから。まさかこの容姿端麗な青年たちを芥川龍之介に太宰治というような前時代の文筆家と思う者はいない。
 十時に沼津を過ぎた頃には、三等車両はほとんど満席であった。停車の度に少しずつ客が入れ替わっていく中、芥川たちはじっと同じ席にいて、館長は居眠りをし、芥川は暇つぶしに文庫本を読んでいる。太宰は早々に弁当を食べていた。出発が早朝だったので、
「昼飯までに腹が減るだろう」
 と幸田がおむすびを作って持たせてくれていた。
 弁当を食べ終わった太宰が、
「あ、富士――
 と、ぽつりとつぶやいた。窓際に座っている彼は、窓に額を付けるようにして遠くそびえる富士山に見入った。
 芥川も文庫本から顔を上げて、太宰の頭越しに窓の外を眺めた。晩夏とはいえまだまだ高く青い空に、いっそう青い富士が清々しい。
「太宰君は、富士山が好きかい?」
「は、はぁ、好きというか――いろんな思い出が詰まっているような気がするというか――
 しかしあまりよく覚えていないのだと言って笑っている。
 いまだ富士から遠ざからない場所を列車が走っているとき、四、五歳くらいの年頃と思しき男の子が一人、車両の奥の方からとてとてと歩いてきて、芥川たちの席の前で立ち止まった。爪先立ちになって、そこから窓外の富士山を見たがっているようであった。
「なんだ坊や、富士山が見たいのか」
 と男の子を窓際に招いたのは太宰だった。坊やの背じゃ窓に届かないだろうと言って、男の子を自分の膝の上にまで乗せてやった。
「あ、靴は脱いでね靴は。ズボンが汚れるから――
 わあきれい、と男の子が歓声を上げた。窓の縁にしがみついて富士を見つめた。太宰は優しい声をかけた。
綺麗きれいだろう。これで麓に月見草が咲いてればもっと綺麗きれいなんだ。坊や、富士には月見草がよく似合うよ」
 芥川は太宰の思わぬ一面を見た気がした。

十九

「よく寝るなぁ、館長」
 と太宰が感心しているのも無理からぬ話で、ほとんど発車してすぐ居眠りを始めた館長は正午近くなってもまだ目を覚まさない。
「お疲れのようだね」
 と芥川も言った。
「無理もない。館長も司書も侵蝕者への対処に研究にとてんてこ舞いだもの。おまけに今回のような会議や雑務もこなさなくてはとなるとねぇ。きつい仕事だよ」
 わざと声をはっきりさせてみたが、それでもやはり館長が目覚める気配はない。芥川は太宰に向き直り、デッキへ気分転換に行かないかと誘った。
「は、はい! もちろんお供します」
 太宰は嬉しそうに芥川の後へ従った。芥川は先に立って歩きながら、一人になった館長がスリなどに遭わないよう祈っておいた。
 デッキへ出るとまず太宰に断ってから煙草を吸った。一本吸い終えると、灰皿代わりにしている軟膏なんこう缶に吸い殻を収め、人心地ついたという風にため息を漏らした。その場には二人の他に乗客はいなかった。
「太宰君、少し話をさせてもらってもいいかい」
「もち、もちろんです!」
「まあそう固くならずに」
 芥川は、帝國図書館で太宰と出会ったばかりの頃はてっきり嫌われているのだと思っていたものである。顔を合わせても太宰はうつむきがちで目を合わせようとしなかったし、挨拶くらいはするが口を利く機会もなかった。
 近頃どうやら嫌われてはいないらしいとわかったものの、扱いが難しいのは相変わらずだった。
(どうも変わった子だ)
 ふむ、と芥川は思案したのち切り出した。
「単刀直入にいこう。太宰君、君、自分が死んだときのことを覚えているかい」
「は――
 太宰は、ぽかんと口を開けて、何を聞かれたかすぐにはわからないようであった。
「え、ええと、死んだときというとつまり、俺が、あの、自殺したときのことですか?」
「そうだよ」
「それは――
 それは、と太宰は言いよどんだ。
「じ――実は、あまりよく覚えていないんですよ!」
 と、急にお道化どけた調子になって答えた。
「いや、一応ですね、知識としては知っているんですけど、その、俺が入水自殺したらしいってことは。でも実感がないっていうか、まるで、他人事みたいな感じというか――
「では具体的なことは何も?」
「は、はあ――すみません」
――君が謝るようなことじゃあないよ。いいんだ。僕も実は自分が死んだときのことをよく覚えていないクチでね。僕だけがおかしいのかと思っていたんだ。でも、太宰君も仲間だと聞いて安心したよ。妙なことを尋ねて悪かった」
 芥川は内心落胆していた。太宰が正直に話しているにしろ嘘をついているにしろ、この様子では詳しいことは聞き出せそうにない。少しはため﹅﹅になることもあるかと考えていたのだが。
「そう、ですか、芥川先生も同じですか。よかった――
 太宰はそらぞらしい顔つきで笑った。

二十

 芥川と太宰が連れ立って戻ってくると、館長が目を覚ましてむっつりと不機嫌そうに座っていた。
「肝が冷えたぞ」
 と言う。
「僕たちが手に手を取って、途中の駅ででも逃げ出したかと思いましたか」
 と芥川はいたずらっぽく笑いながら言い返した。
「まあそんなことはないだろうと信じて連れて来はしたが、二人そろっていきなりいなくなられるとギクリともするさ」
 館長は正直にそう白状して、汗の浮いた額を扇であおいだ。
「驚かせてすみません。ちょっと煙草を吸いに出ていただけです」
「せめて太宰は残っていてくれたらよかったじゃないか。俺が寝ている間にスリにでも遭ったらどうする」
「僕が太宰君を連れ出したんです。しからないであげてください。それに、いくら居眠りをしているとはいえ、館長からろうなんて度胸のあるスリはそうそういませんよ」
「どういう意味だそれは。まったく、口の減らないやつだ」
 と苦笑いして館長は、そろそろ昼飯にしないかと二人を食堂車へ誘った。
 三人で一つのテーブルに着いて定食を食べながら四方山話よもやまばなしをしているとき、
「俺も近頃年のせいか体に無理が利かなくなってきてなぁ」
 と館長が自身の体調のことについて愚痴をこぼした。
「今年の夏は殊更に暑かったから難儀をしたよ。飯が喉を通らなくていささか痩せた」
「ええ? どの辺が?」
 と太宰がついそのまま口に出した。館長は別に気にしないようであった。
「春先に酒の飲みすぎで出ていた腹が引っ込んだ。ちょうどよかったかもしれないな」
「館長のい人も定めし喜んでいるでしょう、それは」
 芥川が含みのある冗談を言って微笑ほほえんだ。
「おいおいよしてくれ、そんな者はないさ、俺には」
「あれ、そうなんですか? 時折司書の彼女と一緒にお食事に行かれたりしているから、僕はてっきり」
「ち、違うぞ、それは、なんだ、彼女にはいろいろ仕事を手伝ってもらっているからその礼にな」
「照れなくてもよいのに」
 と芥川がからかい、
「そーそー、そういうきっかけから恋仲になるとかよくある話でしょ」
 と太宰も訳知り顔で言った。
「だけどあの図書館じゃ人目が多すぎて、そういう仲になったところで寝られもしないかな」
「なぁに太宰君、恋し合う者同士にはそんなこと障壁にもなりはしまいよ。そうでしょうね館長」
「そうでしょうねと言われても困る」
 容貌の割に年嵩としかさな物言いをする二人に館長は辟易へきえきしていた。
「とにかく、彼女とはそういう関係じゃないんだ」
「まだ、ね」
 と芥川が茶々を入れてくるのは捨て置き、
「俺のような中年男よりよほど似合いの若者が現れるさ、いずれ」
 と館長は苦笑している。実際のところ近頃加齢のせいで自身の体調は芳しくなく、今回の旅行の前にも鴎外の診察を受けて常備薬を用意してきたのだと話した。
「それはそれは――お大事に」
 芥川はしんから心配して館長をいたわった。

二十一

 三人は日中のほとんどを列車の車内で過ごした。
 京都の駅に到着したのは夕方近くのことだった。赤帽に引き換え券を渡して旅行鞄を受け取ると、待合室で迎えの車を待った。ここでも、この得体の知れない風体の三人は非常に目立った。そばを通り過ぎていく人々の視線を感じながら、館長が感慨深そうに言った。
「東京駅でも列車の中でもそうだったが、やはり君たちは人目を引くなぁ。日頃帝國図書館にいる間は気にしたこともなかったが」
「俺たちだけじゃなくて館長も結構目立ってますって」
 と太宰が減らず口をたたく。芥川もそれに乗じた。
「土地柄、ということもあるのじゃありませんか。東京はなんといっても各地から多くの人が上京して来ますから、江戸の昔から雑多な人々であふれていたものですよ。しかし一歩外へ出ればよくわかります。我々はやはり異質なのでしょう――
 小一時間ほど待合室で過ごし、ようやくこの地の国定図書館からの迎えが来た。現れたのは館長と同じくらいの年頃の紳士だった。
「いや遅くなって申し訳ない。会議が長引いてな、どうも。遠いところをはるばるようこそ」
 と紳士に挨拶され、館長は面食らって目を白黒させていた。
「おいおい、まさか分館長自ら迎えに来てくれるとは思わなかったぞ。まだ勤務時間中じゃないのか」
「大事なお客様だからな」
 と、分館長と呼ばれた紳士は含みのある口振りで答え、館長と、芥川、太宰へ順に微笑ほほえみかけた。
「まったく久しぶりだな、君。そちらの若いお二方にはお初にお目にかかる」
「芥川、太宰、こちらは国定図書館、帝國図書館関西分館長だ。これからしばらくは彼の世話になる。君、こちらの二人は芥川龍之介と太宰治だ。本物だぞ」
 と館長が、芥川と太宰へは紳士について、紳士の方へは二人についてそれぞれ紹介した。紳士は芥川と太宰の姿を遠慮なく眺め回し、
「素晴らしい!」
 と手放しの賛辞を浴びせた。
「これほど安定した姿を保っているとは、帝國図書館はよほど腕のいい錬金術師アルケミストを抱えたと見える。わかっているよ、まさか能力不安定極まりない君の仕事じゃあるまい」
「君、それについては聞かない約束だ。さあ、いつまでもここでこうしていても仕方がない、そろそろ行こうじゃないか。車はどこだ?」
「相変わらず食えないやつだ。まあいい、時間はたっぷりある。おいおい聞かせてもらうさ――こちらへ」
 紳士の案内で皆は駅舎を出て、外にめてあった大型のシボレーに乗り込んだ。
「随分大きな車を用意したな、まるで青バスだ」
「君の体躯たいくを収めた上に荷物も積まにゃならんからだ」
「だから俺は、公共交通機関を使うから迎えはいらないと言ったんだ」
「そうはいくか。君はよくても大事な文士の方々に窮屈な思いはさせられない」
 出してくれ、と紳士が隣席の運転手に頼み、出発した。車が道路へ出ると、紳士は三人の方を振り返って言った。
「すまんが俺は本庁へ寄らねばならん。君たち、今日のところはこのままホテルへ行ってゆっくり休みまえよ」

二十二

 三階建ての小さなホテルではあったが新しく、和洋折衷な内装も清潔な感じがした。三人はホテルのレストランで夕食を済ませたのち、それぞれ自分の部屋へ引き取って休んだ。
 館長は部屋に作り付けの机へ書類を広げて夜中まで仕事をしていた。そこへ芥川がふらりと訪ねて来て、
「夜分にすみません。少しお邪魔しても?」
 と言う。館長は快く招き入れた。芥川は室内をちらりと見回して「お仕事中でしたか」と申し訳なさそうな顔をした。
「明日の会議の準備がまだ終わっていなくてな。構わんよ、何かあったのか?」
 館長は椅子を勧めたが、芥川はそれを断った。
「いえ大したことでは――確か昼間、常備薬をお持ちだとお聞きしたような」
「持っているが」
「軽い睡眠剤をお持ちではないですか?」
「なんだ、眠れないのか?」
「ええ――旅路で疲れているはずなのに、横になってもちっとも寝付けないもので。きっと旅先で落ち着かないせいだとは思うのですが」
「ああ、確かにそういうこともあるだろう。睡眠剤なら俺が普段飲んでいる物を持って来ている」
「今夜の分だけで結構です、分けていただけませんか。それから、もしよければ太宰君の分も」
「ええ、太宰の分もか」
 ははぁ、と館長は合点がいったような声を漏らした。
「言い出したのは太宰の方か? 彼が森に薬をねだってすげなく断られている話はよく耳に入ってくるからな。それで、自分で言ってもだめだろうと思って君に頼んだと、そういうことか?」
「はは――さすが館長、ご明察で」
 と芥川は困ったように眉尻を下げて笑う。
「でもここは一つ僕に免じて、気がつかなかった振りをしていてもらえませんか。それに僕が寝付けないのも本当なんですよ」
「まあ、旅先で環境が変わって仕方のない部分もあるだろうな――森には内緒だぞ」
 館長は旅行鞄を開けて、常備薬の袋から睡眠剤を四錠ほど分けてくれた。
「太宰と半分ずつ使ってくれ。今夜はよく眠って明日からに備えてほしい」
「ありがとうございます、助かります」
「明日からの仕事は、その、なんというか、君たちにとって愉快なことばかりではないかもしれないが――
 芥川がその場を辞するまでの間、館長は何度も「すまない」と謝った。
錬金術師アルケミストというやつは――俺も含めてだが――好奇心が先走って礼を欠いた物言いをしてしまう者も多いかと思う。今日会った分館長も、明日から会うやつらも皆君たちに過剰なほど興味を示すと思うがどうか許してやってくれ」
「構いませんよ、仕事ですからね」
 芥川は莞爾かんじとして微笑ほほえんだ。館長は自分たちに対して負い目を感じているようだ。だから薬も渋らずに寄越したのだと思った。そしてこの手はもうしばらく使えそうだとも思った。

二十三

 芥川は自分の部屋へ戻ると、館長にもらった睡眠薬を旅行鞄の底へ隠した。図書館の自室から持ってきた睡眠薬と合わせて六錠になった。多ければ多いほどいい。
(悪いね太宰君、君のせいにしてしまって)
 太宰が鴎外に薬をねだっている話は、芥川には意外であった。変わった子だとは思っていたが、彼もしばしば眠れぬ夜を過ごしているのかと。
 芥川は鞄の中から手紙を書く紙を取り出した。新築で宿泊客も少ないというホテルの部屋で、ベッドの二つある部屋を芥川一人にあてがわれたほどのひっそりとした時を幸いにして、彼は帝國図書館に残してきた友人宛の手紙を書こうとした。
 こういった手紙、あるいは手記を書くのはおそらく二度目﹅﹅﹅である。おそらくと言うのは、己の一度目の死に臨んだ際の記憶がいささかあいまいあいまいだからで。古今東西の書物を見ても、こんなことを二度も書き残した者はそうそういまい。
 芥川は万年筆を取った。旅先で机の上は何かと不自由であったが、それも忘れて書き始めた。
 いまだ誰も自殺する人間の心理をありのままに書いたことはない、という一文をもって書き始めた。この冒頭を書くのも二度目なのだろうかと思った。そう思わずにはいられないほど、すらりとその一文が出てきた。
 僕は君に送る最後の手紙の中に、この心理を伝えようと思うと書いた。
 初めに芥川は、自分は罪を犯し、それをびるために死ぬのだと書いた。――しかし思い直して、やめた。
 便箋を新たにして、次はその罪が公になりスキャンダルになるのを恐れたのだと書いた。――やめた。
 罪の意識に良心をさいなまれるのに疲れたのだと書いた。――やめた。
 どう書いてみても、それらのどれか一つだけが動機の全部であるとは思えなかった。のみならずそれは、本当の動機に至る道程を示しているだけのようであった。自殺する人間はたいてい己が何のために自殺するかを知らないであろう。複雑な動機を含んでいるものだ。
 ゆえに己にとって本当の動機と言えるのは――ただぼんやりとした不安と呼ぶべきものであろう。己がこれからどうなっていくのかというただぼんやりとした不安。スキャンダルの恐怖や良心の呵責かしゃくといったものは不安の火をき立てるに過ぎない。

二十四

 最後の最後、魂がこの体を離れるその瞬間まで冷静でいたいと思った。そう思って芥川は書きかけの手紙を読み直し、それがあまりに淡々として、論文のごとき感情のないものであることに思わず苦笑した。
 手紙は、旅に身を置いているうちに書ければいいので、急ぐ必要もなかった。書きかけの紙をまとめて鞄へしまった。書き損じの紙も、捨てて誰かに見られるのを恐れ、鞄へしまい込んだ。そうしてから身じまいをした。
 寝床へ入る前に、なんとなく自分を励ますような気持ちで、鞄の底へ隠した睡眠剤を取り出して眺め、また元に戻しておいた。館長からもらった睡眠剤は四錠であった。その数字の暗号も、右目の中の歯車も、今は不安を引き起こすよりもむしろある種の天啓のように感じられた。
 芥川は浅い眠りを得、明け方近く夢を見た。己の死ぬ夢を――島崎の手でそっと絞め殺される夢を見た。悪夢とは思わなかった。それもまた天啓と感じられた。
「夕べはよく眠れたか?」
 と、朝、ホテルの前で迎えの車を待つ間に館長が芥川へ尋ねた。
「ええ、おかげさまで」
 と芥川は微笑ほほえんだ。迎えが来るまでに多少の時間がありそうだと思い、一服しようと懐をまさぐって、
「ああしまった、燐寸マッチを切らしてる」
「ライターならあるぞ」
 と館長が差し出してくれたのを芥川は断り、
「いえ、部屋にホテルの燐寸マッチがありましたからね、取ってきます。どうせ僕のことだ、日中も吸わずにはいられない」
 ホテルの建物の中へ戻った。芥川と入れ違いに太宰が車寄せへ出てきた。
「おはよーございます。どうも、遅くなってすみません、寝坊しちゃって」
 と太宰は大欠伸おおあくびをしている。
「ああおはよう。朝飯に現れなかったからひやひやしたぞ。さては夕べは薬が効きすぎたな?」
「? 何の話?」
「何の話って、芥川が――
 館長は言いかけて、
(おっと、そういえば芥川に気づかない振りをしてくれと言われていたな)
 と思い出した。太宰の方もとぼけた振りをしているに違いないと独り合点した。
「いや、いい、なんでもない。よく眠れたか?」
「全っ然。俺がただでさえ不眠症なの、館長は知ってるでしょ。結局森先生に頼んでも睡眠薬はもらえなかったし、ホテルのベッドじゃ落ち着かないしでさぁ、なかなか寝付けなかった」
―――
 太宰のお得意の嘘だろう。と館長は八割方はそう思った。しかし残りの二割で、どうも太宰の態度が嘘をついているようには思えず、むしろ芥川への疑念がわずかに生じた。
 そんな館長の胸中も知らず、太宰がのんきな声を出した。
「今日から館長はずっと会議会議なわけでしょう。俺と芥川先生はどうすりゃいいの」
「あ、ああ君たちのことはこちらの特務司書に頼んであるから――よく言うことを聞いて、できるだけ協力してやってくれ。多少は、君たちにとって愉快でないこともあるだろうと思うが」
「ま、それも文学を守るため、俺が必要だってなら仕方ないでしょ」
「よろしく頼む」

二十五

 朝九時から帝國図書館関西分館にて幕が開いた幹部会議は十時に一度休憩を挟んだ。その間に館長が小用を済まそうと席を立つと、背後に誰か後をついてきた気配がする。振り返ると、ここの分館長の姿がある。
「今朝、君のところの文士の姿を見かけたが、やはり素晴らしいな。まるで普通の人間そのものだ」
 と分館長が興奮を抑えきれない調子で声をかけてきた。館長は前に向き直って歩きだした。廊下へ出た。前を向いたまま言った。
「普通の人間だよあれは」
「ああそうだろうとも。そうとしか見えないよ。知性的で、会話も自然だし、身体機能も――生理現象も人間と同じなのかい?」
「人間なんだから当たり前だろうが」
「お上の膝下たる君の図書館では当たり前かもしれないがね」
 ふっ、と分館長は肩をすくめて笑った。
「ともかく君、来週いっぱいまではこちらにいるんだろう。その間にせいぜい我々も勉強させてもらうよ。うちの特務司書もこの日を楽しみにしていた」
「まあ、お手柔らかに頼む」
 分館長は廊下の途中で事務官に呼び止められ、「なんや」と大声で返事をしてそちらに同行して姿を消した。それを見届けてから館長は、やれやれと息をつき、一人小用を足しに向かった。
 初日は終日会議ののち、夜には近隣のレストランで晩餐ばんさん会が催された。そのときになって館長はようやく芥川と太宰に再会した。二人とも疲れの見える顔色をしていた。
 ビュッフェで料理を取り分けている芥川や太宰の姿を、各地の国定図書館の幹部たちは皆物珍しそうに、人によっては不躾ぶしつけなほどじろじろとねめ回すようにして眺めた。
「館長、これ周りみんな館長と同じ錬金術師アルケミストなわけ?」
 と太宰が、そばにいる館長にこっそりと尋ねた。
「ほとんどそうだな。昼間はこちらの特務司書に会ってみてどうだった?」
「その人は、まあ悪そうな人じゃなかったけどさ、しかしどうにも――
 と、げんなりした様子で口が重い。芥川が助け舟を出したが、こちらもさすがに参っているらしかった。
「まさか女人に寝床以外の場所で素裸にかれる日が来るとは思いませんでしたよ」
 と芥川の言う“女人”とは食事のテーブルに着いてから隣席になった。初め館長は、こんな場には珍しく若い男がいると思った。そのひょろ長く色の浅黒い男装の婦人がこの地の特務司書であった。
「まあまあ、お会いできて光栄です! 私こちら関西分館で特務司書兼司書官を務めております。貴館の貴重な文士の方々をお預かりさせていただいて、こんなに名誉なことはございませんわ!」
 特務司書婦人はその痩せた体からは意外なほど快活な声を上げ、頬を上気させ、厚い眼鏡のレンズの奥で瞳を輝かせていた。
「聞けば帝國図書館で特務司書を務めるのも女性の方だとか――心強いことです。我が国の文学が滅びんとしている今、それを守るのに男も女もありませんわ。といっても、こればかりは政府のお決めになることで、現状はこれですけれどね」
 と自らの男装を指して、あははと明朗に笑う。なるほど太宰や芥川の言う通り悪い人では﹅﹅﹅﹅﹅なさそうだと、館長は彼女の印象を胸に刻んだ。

二十六

 芥川はホテルに帰ると、菊池へ宛てる手紙の続きを書き始めた。
 机に向かい、万年筆を握った右手の手首に赤く浮かんだプラグの痕が痛々しい。電灯の光にくっきり浮かび上がっているそれは、昼間特務司書婦人に調査のためと称してさまざまな計器をつながれた痕だった。着物の袖をまくれば肘の内側には注射痕がいくつもあった。
(館長が言葉を濁していたのはこういうことだったか)
 それにしても、それらの調査のために素裸にまでされて、実験を補佐する職員たちの衆目にさらされたのだからたまったものではない。あの特務司書婦人、さばけた気質ではあるのだろうが、それ以前におそらく自分たちを人間の男として見ていないのだろうと芥川は思った。
(僕たちを普通の人間扱いしている帝國図書館の方が珍しいのかもしれない)
 己はともかくとして、若い太宰はだいぶこたえた様子だった。帝國図書館では補修を受けるときにさえ恥ずかしい思いをしたことはないし、ましてや辱められたことなど一度もなかった。
(こんなところへ連れて来て、太宰君には悪いことをした)
 芥川は手紙の続きへ万年筆のペン先を落とした。
 僕は何事も正直に書かなければならぬ、と書き出した。僕は僕の将来に対するぼんやりした不安についても解剖した、と書いた。そしてそれは、この地へ旅立つ前、君へ手渡した原稿の中にだいたいは書き尽くしているつもりである、と書いた。ただその中にも書かなかったことはある、と書いた。
 菊池へ渡した三十枚ばかりの原稿は、甚だ筋のない小説であった。ただ己の生における不安と狂気について書き付けただけのものであった。自分には志賀のごとき詩的精神を文章へ与えることはできなかった。
 その小説の主人公には特別に名前も与えられていなかった。ただし、彼は一度死んで生き返った人間であった。彼はただ不安と焦燥の中に日々を過ごした。彼は孤独であった。彼はやがて、作中で“偽善者”と称される人間と関係を持ったらしいことがほのめかされた。“偽善者”は彼のぼんやりとした不安を高まらせこそすれ、救ってはくれなかった。そうしてついに、彼は旅先で川の水へ入るために睡眠薬を飲むのであった。
 芥川は手紙の続きに、自分はどうすれば苦しまずに死ねるか考えたと書いた。縊死いしは苦痛は少ないであろうが、美的嫌悪を感じると書いた。溺死は縊死いしよりも苦しいであろうと書いた。轢死れきしは何よりも美的嫌悪を感じると書いた。ピストルやナイフを用いるのは手が震えて失敗するかもしれないと書いた。飛び降りて死ぬのも見苦しいに違いないと書いた。薬品を用いて死ぬことを考えたが、致死量の薬を手に入れることは己には難しかったと書いた。

二十七

 夜半、芥川は手紙を書く手を止めて、ホテルの外へ散歩に出た。建物を出て、戸をてた商家の並ぶ道沿いに十分も歩くと広い川の土手に出ることは、東京にいるうちから地図で調べてわかっていた。
 芥川は土手沿いに川を上って行った。すでに市街地を離れ、街灯もなく、街の方から帰ってきたらしいタクシーと一台すれ違った他は全くひっそりしていた。川上に架かっている橋の黒い影を見て、あそこまで行ったら引き返そうと思った。
 次第に橋が近づいて、月明かりでもその姿形がはっきりと見えるようになってきた頃、
(おや)
 と芥川は気がついた。橋の真ん中辺りに、欄干へもたれかかって夜の川面かわもを見下ろしている人影があった。
「太宰君じゃないか」
 と、芥川は橋のたもとから声をかけた。人影はよほど驚いたらしく、飛び上がって「ひっ!」と悲鳴を上げた。
「酷いなぁ、人をお化けでも見たように」
 芥川は笑いながら近づいて行って、人影の顔を確かめた。やはり太宰である。太宰もようやく芥川と気づいて、まずいところを見られたという風に、ばつが悪そうにうつむいた。
「芥川先生――
「眠れなくてね、散歩をしていたところなんだ。太宰君、君も?」
「ええ、まあ」
「隣、失礼するよ」
 と断ってから、芥川は太宰と肩を並べて川面かわもを見下ろした。
「太宰君、煙草持ってる?」
「すみません、俺禁煙してて」
「さてはい人に接吻キスを許してもらえないのかな」
「い、いや、そんなんじゃ――
「僕はすぐホテルへ帰るつもりだったから部屋に置いてきてしまったよ。まさか君がいるとは思わなかったからね」
 太宰は、悪いことをして大人にしかられた子供のように、小さくなって、芥川の顔を見ないようにしていた。芥川もあえてその訳を問おうとはせず、
「昼間はお互い大変な目に遭ったね」
「そ、そうですね」
「こんなところへ君を連れて来て、申し訳なく思っているよ。僕も実際何をされるかまでは聞いていなかったものだから」
「そんな、芥川先生のせいじゃないでしょうに」
「いや僕のせいだよ。なぜって、僕が館長に君を一緒に連れて行きたいと言ったのだから」
―――
 なぜ。と問いたげな目を太宰は向けてきた。
「な、なんで、俺なんか――
―――
 芥川は答えず、背中を橋の欄干へもたれた。ザアザアと川の水の流れ行く音を背で聞いた。土手の方でさまざまな夜の虫が鈴の音を鳴らしていた。
 自らの肩越しに川の水面みなもを見やる。黒々とうねる表面をずっと川上へ川上へと眺めていくと、遠くに映った月明かりが何か指し示してでもいるように長く水上を伸びて、ゆらゆら揺らめいている。

二十八

「太宰君は、川は好きかい?」
 と芥川は聞いた。不意にそんなことを尋ねられたので、太宰は怪訝けげんそうに眉根を寄せた。
「川、ですか」
「太宰君は東北の生まれだったろう。すると北上川や浅瀬石川あせしがわにノスタルジアを感じやしないかい?」
「ああ、アセシ川」
 と、太宰は津軽訛なまりの発音でつぶやき、
「そう、ですね――故郷を思い出して懐かしい気持ちにはなりますよ。だけど好きかと言われると」
「自分が身を投げたときのことを思い出すようで嫌な気がするかい?」
 芥川は核心を突いた。太宰の返答はなかった。
 芥川は、構わず自分の話を始めた。
「僕は川が好きだ。僕の生まれた東京の隅田川を愛している。あの泥濁りのした生温かい川の流れが、青い油のように動くともなく動き流れるともなく流れる大川が好きだ。隅田川の流れに撫愛ぶあいされる沿岸の町は皆、僕にとっては懐かしく忘れがたい」
―――
「隅田川に身を投げて死ぬ人は多かった。僕も夜に隅田川を眺めるとそこに魔性を感じた――夜網の船の船端で、音もなく流れる黒い川を見つめていると、夜と水との中に漂う『死』の呼吸を感じた――少年の頃は殊更に頼りない心持ちになったものだよ」
 太宰君、と、呼んだ。黒い川面かわもから顔をそむけて立ち尽くしている太宰を呼んだ。
「本当は、覚えているのじゃないか?」
「な、何をですか?」
 と、太宰は無理やりにお道化どけた声色を作った。芥川も努めておっとりとした声を出していた。
「君が死んだときの話さ。覚えているのじゃないか?」
「いや――覚えてないんですよ。本当に。覚えていないんです。信じてください!」
「でも太宰君、君、いつもそんなふうに、水を怖がるようにしているじゃないか?」
「べ、別に怖がっているわけでは、ない、です、よ?」
「では確かめてみようか」
 と言うなり芥川は、さっと手を伸ばして太宰の腕をつかんだ。
「エッ――あ、芥川先生何を」
 ぐらり、と芥川の背が橋の欄干を乗り出して川の上へ大きく傾いた。ほんの一瞬の出来事であったが、太宰の目には映るもの全てがひどくゆっくりと、活動写真のフィルムをコマ送りにするように動いて見えた。ぐいと芥川に腕を引かれ、二人の体はもろとも黒い川の流れに投げ出されるかに見えた。脳裏に古い記憶が――それははっきりとした映像ではなかったけれど、暗い土手に死に物狂いでしがみつこうとしたことや、そのときの手足の痛みや、川の水の冷たさ苦しさまでもが次々激しくひらめいて弾けた。
 太宰は悲鳴を上げた。あああああああああと悲鳴を上げた。断末魔の声とはかように獣じみたものであるかと思うような悲鳴を上げた。日頃の優男ぶりからは思いもよらぬ恐ろしい力で芥川の体を振り払った。
「っ!!
 力任せに突き飛ばされた芥川は、よろけて、欄干の根元へ尻餅をついた。腰をしたたかに打ち、痛みをこらえて立ち上がると、太宰はその場にうずくまり今にもめそめそと泣き出しそうな顔でうなだれていた。
「すまなかったよ、太宰君」
 と芥川は謝った。
「ほんの、冗談のつもりだった。すまなかったよ――
 と繰り返し謝った。太宰のそばに自らもしゃがみ込み、子供をあやすような手つきで彼の背をさすってやった。
 芥川はホテルへ帰ると、手紙の続きに、自分が一人で自殺することは誰かと二人一緒に自殺するよりも容易だという一文を書き加えた。

二十九

 翌朝、芥川は館長と二人差し向かいで朝食を取っていた。太宰は姿を見せなかった。
 館長が珈琲コーヒーをすすりながら、太宰を案じてため息をもらした。
「太宰はまた寝坊か」
「昨日の疲れが出たのでしょう」
 と芥川は言った。
「思っていたよりもだいぶ大変な目に遭いましたよ。これから毎日あれが続くと思うと、いささか、気が滅入りもするでしょうし」
「その件については、すまなかったと思っているよ」
「館長が謝ることでは」
「いや、君たちのことをこちらの分館長や特務司書にもっとよく説明しておかなかった俺にも責任はある。今日からは昨日のような非礼な扱いを受けないで済むように、俺の方から念を入れて頼んでおく」
――ぜひお願いします」
 芥川は懐から煙草を取り出して吸い始めた。横着をして朝飯のゆで卵の殻を灰皿代わりに使っていたら、館長が見かねて給仕を呼んでくれた。
「おいおい行儀が悪いな――すまないが誰か!」
「館長、お願いしたいことがあるのですが」
「何だ」
「一昨日頂いた睡眠剤、まだ残っていませんか? よければもう少し頂きたいんですが」
―――
 館長は重々しい顔つきで芥川の双眸そうぼうを見据えた。芥川の心の中まで探ろうとするような視線であったが、芥川はその侵入を許さなかった。
「思いの外の気疲れで、また眠れない夜もあるでしょうから」
 と穏やかに言った。
 館長は、芥川の口から真実を聞き出すのは諦め、代わりに次のごとく応じた。
「すまないが、俺も仕事の疲れの割に眠りが浅くてな、残っていた睡眠薬は夕べ自分で使ってしまった」
「えっ、全部」
「全部だ」
 明白な嘘であった。芥川も気づいたに違いないと館長は思った。が、芥川は満更演技でもなさそうに顔を曇らせて、こちらの体を気遣かってくれた。
「それは、よほどのお疲れだったのでしょうね」
「ああ――
「館長が過労で倒れでもしたら大変です。無理を言ってどうも、すみません――
 太宰は結局、昨日と同じく迎えの車を待つ頃になってようやく姿を現した。
「すみません、寝坊しちゃって」
 とやはり昨日と同じ言い訳をした。
「大丈夫か? 体の具合が悪いようなら無理はしなくていい、すぐに言え」
 と、館長が気遣うと、太宰はお道化どけて笑った。平時と変わらぬお調子者ぶりに見えた。
「いやだなぁ、そんなこと言って、俺がいなきゃ困るでしょ?」
「まあそれはそうなんだが――君や芥川に無理はさせないと約束して出てきたことでもあるしな」
 太宰は芥川に対してもいつも以上に快活に接した。
「あっ、芥川先生! おはようございます! なんだか今日は、一段と男前で――いやそれはいつものことなんですけどね!」
 芥川は、昨晩は太宰に悪いことをしてしまったと、改めてあわれに思った。

三十

 前日と同じように特務司書婦人の主導でさまざまな試験を受け、“調査”をされて、夕方ホテルに戻ると、東京から芥川宛てに手紙が届いていた。差出人の名前は、封筒の表を見ても裏を見ても書かれていない。
「館長、検閲なさいます?」
 と芥川は念のため館長に確かめた。館長はかぶりを振って、
「よしてくれ検閲だなんて。俺の本意じゃない」
 と言うので、芥川は封書を自室に持ち帰ってそこで開封した。差出人の名は、薄く華奢きゃしゃな便箋の末尾に署名してあった。島崎藤村であった。
 芥川は「芥川龍之介様」と書き出されている手紙の端に目を走らせながら、ベッドの縁にどさりと腰を下ろした。
 島崎は初めに、この手紙は君が西へ旅立つ日の朝にしたためたのだと書いて寄越した。君を見送りに出ることはせず、その代わりに部屋で文机に向かっていたのだと書いて寄越した。
 最初から最後まで、島崎の丁寧な字で、一語一語命を込めるように書かれていた。島崎は、この手紙を館長が開封することはないと信じていると書いて寄越した。その上で、しかし万が一を考えずにはいられず、核心に触れるようなことは僕はやはり避けて書くだろうと断った。
 そうは言っておきながらも、手紙には島崎の心に立ち入ったことが書いてあった。芥川が旅立つ前に密かに交わした言葉を繰り返して、それから僕は君の旅立つ理由を知っていると書いて寄越した。君は僕から逃げていくのだと書いて寄越した。君は、そう言われれば否定するに違いないだろうけれどと書き添えてあった。
 君は、スキャンダルを恐れているだろうし、僕に対して罪悪感を感じてもいるだろうと書いて寄越した。そのどれも本当に違いないと書いて寄越した。しかしおそらく、僕から逃れようとしている心については自覚がないのだと思うと書いて寄越した。
「逃亡者は死ねないよ」
 と島崎は手紙の中で言った。逃げようとする心から本当に死ぬことができる人はいないと書いて寄越した。たとえ、間違って肉体が死ぬことはあったとしても、魂は死を受け入れまいと書いて寄越した。
 だから君は帰ってくるに違いないのだと、島崎は書いて寄越した。かつて僕が帰ってきたように君も帰ってくるのだと書いて寄越した。早く帰っておいでと書いて寄越した。僕は君に会いたいと、書いて寄越した。
 島崎は他にもいくつかの心象や生活的な報告を書いていた。芥川がった後の菊池の不安げな様子などを、文人らしい細やかな筆致で描写して寄越した。芥川はその部分を読むに忍びず、便箋を山に折って文面が目に入らぬようにした。
 芥川は、この手紙をいかに処分すべきかということを考えた。人目に付くことが恐ろしく、そのまま捨てることはできない。灰皿の上で燃やして灰は外にいてしまうのが一番いいだろうと思った。
 けれど芥川は結局それをせず、島崎の手紙を元のように折り畳んで封筒へ戻すと、己の書きかけの手紙や睡眠薬とともに旅行鞄の底へ隠した。

三十一

「あ、あのさぁ、アンタ、体大丈夫――?」
 と太宰が思わず声をかけたほど、関西分館特務司書の日に日にやつれていく様子が目に見えた。聞けば、芥川や太宰に行った試験の結果からほとんど不眠不休でデータを集めているとのことだった。
「あなたたちが帰ってしまう前に、できるだけの研究を進めておかなければ」
 と思い詰めたような顔で、うなるようにして言う。どうしてそこまでと太宰が問うと、
「無論、文学を守るためです。私たちが幼い頃から慣れ親しんできた物語や詩歌を失いたくないからだわ」
 と言う。
 その日も、芥川と太宰は彼女に連れられて、研究室内で様々の計器につながれたり、知能試験のようなものを受けさせられたり、運動能力を測られたりしていた。午後には、彼女は二人に関西分館内の潜書室を見学させてくれた。
「こちらにもあるのですね、この場所が」
 と、芥川が書架と緋色ひいろの縄の結界に覆われた室内をぐるりと見回しながら言った。帝國図書館より手狭ではあるが、設備は同等の物だと彼女は説明した。
「いつでもこちらで潜書を行う準備は整っているんです。足りないのは、侵蝕者と戦えるほどの強い魂を呼び出すことができる能力を持った錬金術師アルケミストだけです」
「あなたは?」
―――
 情けない話ですが、と彼女は言う。
「こちらで侵蝕された本が見つかると、すぐに政府に届けられるの。その後その本はおそらく帝國図書館へ回されているのだと思います。たいていは日常の蔵書点検で見つかった侵蝕の軽度な書ばかりです」
「なるほどね」
「だけどそりゃアンタ、寂しいだろう。自分だって錬金術師アルケミストなのにさ」
 と太宰が慰めた。彼女はかぶりを振った。
「いいえ。でもありがとう――そちらの館長があなた方をとても大事になさっている理由が近頃やっとわかってきました」
 その日の晩、この地へ来ておよそ一週間ばかりかけて、芥川は友への手紙を書き終えた。署名をして、ペンを置き、インクが乾くのを待って封筒へ収め、固く封をした。封筒の表書きには菊池の名を記した。
(以前は、たぶんここには別の名を書いた)
 自分からの手紙を受け取ろうとも受け取らずとも、菊池にはすまぬことをすると思った。
(あとは、いつ行うかということだけなのだけれど)
 今すぐにというわけにはいかない。できるだけ人に迷惑がかからぬ時を選びたい。今自分がいなくなっては、太宰や館長はもちろん、あの特務司書婦人もさぞ困るであろう。少し視野の狭い女人ではあるが、志には手を貸してやってもよいと思う。
 我ながら――と思う。我ながら落ち着いている。恐ろしいほどに。
「自己正当化が上手だね」
 と耳の奥で、己を軽蔑する島崎の声を聞いた。それに呼応するように右目の中で歯車が回り始める。初めは小さな物がいくつか。次第に大きさを増し、数もおびただしく増えて全身の皮の下で歯車の群れがうごめいているような妄想で脳が満たされる。
 部屋の時計の長針が「4」を指している。灰皿には吸い殻が四つ。箱の燐寸マッチの残りが四本。机の引き出しは四段。
「やめてくれ――
 と、芥川は両手で額を押さえて、不気味なイマジネーションが去るのを無力に待った。
 週末が来ると、芥川は太宰や館長とともに市街へ出て、かつての京の御所の辺りなど見て回り、帝國図書館の皆への土産物を買い込んだ。

三十二

 翌週からは幹部会議の日程を終えた館長も研究の方へ参加した。
「帝國図書館の方でも、強い魂を安定して潜書させ、現世に人間の姿でとどめておけるほどの能力を持った錬金術師アルケミストはほんの一握りだけだ。だというのに文学書の侵蝕は進む一方だからな」
「個人の才能によるところは仕方ないにしても、せめても、もう少し多くの錬金術師アルケミストが役立てれるようになればいいのですけれど」
 館長は特務司書婦人と熱心に意見を交わした。潜書室や補修室の設備について実務的な助言を与え、ときには実際に芥川や太宰の肉体を例に実演して見せた。
特殊洋墨アルケミー・インクの組成についてだが、当館では一般的な論文で用いられるものよりも――――パーセント増やし、その分――を減らしている。この配合は主に補修のためで、補修にかかる時間は多少伸びるが、より人体の――に近くなって文士たちへの負担が減る。洋墨インクを打つ場所はここだ」
 と補修用の寝台に横たわっている太宰の体を指差して説明する。特務司書婦人が質問のため遮った。
――年に発表された論文では体幹部は避けるべきだと」
「いや、現実にはその論文で前提としているほどの時間的余裕がないことがほとんどだ。迷わず体幹へ打つ方がいい。注入量は一分間あたり――を目安に――
 そのとき、補修室のドアが慌ただしくたたかれた。
「何ですか?」
 特務司書婦人が来訪者を招き入れた。彼女の部下の年若い司書であった。彼は傍目はためにもわかるほど青ざめた顔をしていて、ただ事でないのはその場の皆にもすぐわかった。
「司書官、地下書庫の蔵書がやられました!!
「なんですって!?
「今しがた蔵書点検中に――それもいつものような軽微な侵蝕ばかりではないんです! 黒い染みがどんどん広がって――とにかくすぐに来てください!!
 ただちに研究室へ人が集められた。この館の分館長、特務司書、館長、芥川、太宰、皆が頭を突き合わせて机の上に並べられたいくつもの有碍書を見分した。
 ほとんどの書の侵蝕はいまだ軽度で、ところどころ虫食いのごとく黒点が浮かび始めている程度である。が、ある一冊はすでに著者の名が失われかかっているほど、がん細胞のように真っ黒な染みが広がり、本文を開いても目の前で活字が崩壊していく様子がわかった。
「酷い――
 と特務司書婦人がうなった。
「こんな状態のものは初めて見ました。今すぐに帝國図書館へ送って間に合うでしょうか――
「難しいだろう」
 と上司たる分館長が答えた。
「今からでは、東京に着くのは早くとも明後日になる。すぐにでも潜書して浄化すべきだが――
「すればよいのでは?」
 と芥川がこともなげに言った。
「ここにはそのための設備がそろっているのでしょう?」
「潜書をさせる魂がない!」
「あるじゃありませんか、ここに」
 と、己と太宰を指す。太宰は「ええぇ」と腰の引けた声を上げたが、芥川は取り合わない。

三十三

「設備も魂もそろっているじゃありませんか。あとは錬金術師アルケミストの力さえあれば潜書できるはず。無論、僕と太宰君だけでは対処しきれないかもしれませんが、それでも多少侵蝕を遅らせる程度のことはできるかもしれないのだし、調査のためにも一度は“潜って”みるべきなのでは?」
 と芥川が述べ、それに応えるように、特務司書婦人が意を決した表情で分館長へ申し出た。
「館長! 私に! 私にやらせてください!! 私に彼らの潜書を」
「だめだ!」
 と分館長は頑として首を縦に振ろうとしない。
「彼らの所蔵館は帝國図書館だ。当館ではない。万が一のことがあったときに君には責任が取れない。俺もそんな責任は負えない」
「しかし」
「あかんものはあかん!!
 歯みをする特務司書婦人を芥川はいさめた。
「正論ですよ」
「でも、このまま手をこまねいているなんて――
「そうは言いません。我々は帝國図書館の所有物なのだから、帝國図書館の錬金術師アルケミストが動けばよいのでしょう」
 と言って館長の顔を見た。
「ここは一つ、お願いしますよ、館長」
「お、俺か」
 と、館長は面食らった声を上げ、
「俺の力については、その、君も知っているだろうが」
「知っていますよ、あまり﹅﹅﹅安定した能力でないということは」
「泉を潜書させたはいいが、結局現世に姿を保てなかったこともある。君たちを潜書させて取り返しのつかないことになったら――
「そのときはそのときです。こうして問答をしている間にも侵蝕は広がる一方ですよ。一つの文学が失われる様を無力に眺めているか、己の能力に賭けるか。館長、ご決断を」
「そのときはそのときと言われてもだな、芥川、君はそれでいいのか」
「これも仕事ですからね」
 芥川は平時と変わらぬひんやりと涼やかな調子でうなずいた。
「文学を守るためと現世によみがえらされたときから、その覚悟はできています。そうだね、太宰君」
「えええ俺ですか!? いや、俺は、そ、そこまでは――!」
 と太宰が情けない声を上げたので出鼻をくじかれた格好になったが、芥川は黙殺して、
「なんなら僕一人で潜書しても構いません」
 と言う。そうまで言われて、館長も尚引き止めることはできなかった。
「わかった」
 と潜書を執り行うことを了承した。
「俺は俺の力を尽くそう。だから芥川、君は決して無理だけはするな」

三十四

 ふと気がつけば見知らぬ表通りを歩いている。ちょうど夜眠りについて、夢の世界に入ったとき、それとうつつとの境がわからないのに似ている。気がつけば知らぬ場所に放り出されている。書に“潜る”ときはいつもそうだった。
 芥川は懐手をして歩きながら、ついと後を振り返った。太宰が、なんとなく居心地悪そうについて来ている。
「来てくれたのかい」
 と芥川が言うと、
「そりゃ、だって芥川先生お一人で行かせるわけには」
 と太宰は口では殊勝なことを言って返す。しかしどうにも後ろめたそうな様子からして、おおかた自分一人現実世界に残って周囲の目を気にするのが嫌だったのだろう、と芥川は思った。
「無理をして来ることはなかったんだよ。無事に帰れる保証は実際のところないのだしね」
「あ、あの、芥川先生は――もしかして、死ぬ、つもり、なんですか?」
「なぜそんなことを」
 芥川は至極真面目な顔をしていた。太宰はうろたえて、
「な、なぜと言われれば――なんとなく、ですよ。それも、今思いついたことじゃないんです、この間からずっと、そう思っていましたから」
「そう――
 きっと先晩の、橋の上での出来事を指して太宰はそのように言うのだろう。彼もやはり文芸に生きる人間なのだ。その感覚は鋭敏であった。
 芥川は暗い空を見上げた。黒い以呂波の霧が日差しを遮ってどんよりしていた。遠目にはほとんど雲のようにしか見えないが、目を凝らせば細かな文字の集まりであることがわかる。それに本来雲であったもの﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅はすでに巨大な「雲」の字と変じて霧の向こうでたなびいている。
 明るい日の光に照らされていたはずの登場人物の人々は、今は薄闇に覆われた市街地でうつむきがちに、それでも自らの役目を果たさんと健気に暮らしていた。彼らの体すら黒い文字と変じて、酷い者は「手」「足」「首」などの字の骨ばかりのような姿になりながらそれでも動いていた。
 芥川が先に立ち、太宰が後に従って、侵蝕された街中を登場人物たちに交じって歩いた。建物の崩壊は人物よりも尚重篤であった。著者に吹き込まれた魂を失った景色はただ記号としての文字にすぎぬ姿となり、そしてその字さえも切り刻まれたり別の字とくっつけられたりして冒涜ぼうとくされているものが多かった。
 芥川は「道」の横棒と横棒の隙間を下駄でぴょんぴょんと飛び越えて行った。地面に転がる小さな「石」の字が蹴飛ばされ、それに驚いた道端の「犬」が、外へ反った二足をせわしなく動かして逃げた。
「太宰君は、死ぬのが怖いのかい」
 と、芥川が、前を向いたままぽつりと尋ねた。
「そ、そんなことは、ないですよ」
 と太宰は声を半ば裏返しにして答えた。
(怖くないはずがない。先晩の様子だって)
 と芥川は思い出しながら歩いた。この赤毛の子は嘘つきなのだなと思った。
「では君は勇敢だね、太宰君。僕は、死ぬのは怖いよ」
「芥川先生」
「死ぬのは怖い。だからここへも自ら死のうと思って“潜った”のじゃないよ。ただ僕は――もう、何もかもどうでもいいと思っているんだ」
「芥川先生――
 太宰は今にもめそめそと泣き出しそうな声を上げた。

三十五

 黒い霧に包まれたような景色の中に、時折ぽつんぽつんと青い光が見える。それに手を伸ばしてみると、手のひらに熱く脈打つような感覚が伝わってきた。
「この魂はまだ新しいよ――
 と言って芥川は、青い燐光りんこう辿たどりながら進んで行った。宙に浮いているものもあれば、建物の陰に隠れているものもある。それらを一つ一つ集めて、着物のたもとへ入れながら行く。子供が夏の夜に蛍を追うように。
「新しいけれどあまり大きく﹅﹅﹅はないようだね。もう著者の名も見えないほど侵蝕が進んでいたし、この魂の元の持ち主も無事でいるかどうか」
「芥川先生、空に――
 と太宰が暗い天を見上げ、腰につるした赤い書へ手を伸ばした。瞬間、書からあふれた光が右手にまとわりついて、長いつかと変じ、まばゆく輝いたと思うや、巨大な刃を備えた大鎌が現れた。死神の持ち物のごときそれを勢いよく振りかぶると、以呂波に覆われた空から群がり集まってくる洋墨瓶の形をした侵蝕者をひとまとめにぎ払った。
「ああ太宰君、頼りにしているよ」
 芥川も懐から黄金の光をまとった剣を抜き出した。その光は、よく見ればごく小さな文字の粒の群れである。それらが芥川の魂によって命を吹き込まれ、意味を成し、寄り集まって冷たくえる片刃となる。
 おっとり刀で駆け出した。太宰が露払いを務めて、いなごのように次から次へと群がってくる黒い洋墨瓶たちを散らしていった。
「ちぇっ! 雑魚ばっかり!」
「結構なことじゃないか――この程度なら、完全に浄化とまではいかなくとも少しは侵蝕を遅らせられるかもしれないよ」
 芥川も振り向きざまに剣を振るった。すらりと立っていた姿から一息で重心をうんと沈め、後方へ斬りつけた。鋭い刃が灰色の反古ほごの獣を切り裂いた。二人の後を追って、獣の群れもまた迫っていた。カサカサと乾いた音とともに、鬣犬ハイエナのように遠巻きに二人を追い詰めようとしていた。その内から先走った一、二匹が芥川の刃の餌食になった。
 青い魂を追って書の奥深く“潜って”行くほどに侵蝕者たちは数を増していく。
「こちらの方に彼らの“飼い主”がいるのは間違いないようだ」
「は、はい、芥川先生――
 今や侵蝕者たちは芥川や太宰に襲いかかろうとはせず、二人をむしろ深部へ誘い入れるように取り囲んでいた。

三十六

「太宰君、君も不自由な性分のようだ」
 と、出発前、永井にかけられた言葉を思い出す。井伏、佐藤、尊敬する先輩はいくらもいるが、永井の言葉はその中でも一風変わった感慨を伴って太宰の心に届いた。坂口などは永井の偽悪趣味を「軽い」と一刀両断にするが、太宰はそればかりとも思わない。
「せいぜい君のできることに力を尽くして帰ってきたまえ」
 という、おそらく永井なりの激励の言葉をお守りのように胸に浮かべながら、太宰は芥川の先に立って進んだ。一歩一歩進むほどに侵蝕が酷くなっていくように感じられた。辺りにはもはや原型をとどめている建物も人物もなかった。皆意味を失った黒い点と線ばかりの集まりであった。
「ひでぇことしやがる――
 と太宰は顔をしかめ、足元にちらほらと食いついてくる洋墨瓶たちを鎌で払いながら進んだ。
 あるとき、後ろからついて来ていた芥川がふと、
「歯車――
 とつぶやいたのが聞こえた。「え?」と太宰が首を後方へねじると、芥川は土気色の顔の左側を左手で押さえ、立ち尽くしている。
「あ、芥川先生?」
「太宰君聞こえるかい、歯車の回る音がする――それともこれは、僕にしか聞こえない幻聴なのか」
「芥川先生、そんな音なんて――
 芥川の尋常でない様子に驚いた太宰が、思わず引き返そうとしたそのときだった。ギリギリギリと歯車の激しくきしんで回る音が太宰の耳にもはっきりと聞こえた。
!!
 ずんと腹に響く銃声がして、芥川と太宰の足元に黒煙が起こった。
「芥川先生!!
 銃声を合図にするように、周囲を取り巻いていた侵蝕者たちが一斉に襲いかかってくる。二人の間を分断されてはたまらなかった。太宰は「せい」とかけ声もろとも大鎌を袈裟けさに振り抜き、侵蝕者を斬り捨てて芥川のそばへ飛びついた。
「太宰君――!!
 と、芥川が、彼らしくもない、悲鳴を上げた。視線は太宰の肩越しにその背後へ向いていた。辺りに青白い嫉妬の炎をき散らし、自身の体までめろめろと炎上させている、歯車仕掛けの紳士がこちらに銃口を向けて立っていた。彼がここら一帯の侵蝕者たちの飼い主に違いなかった。
 芥川は太宰を逃がそうとして、しかし、反対に太宰にかばわれた。直後に二度目の銃声が響いた。撃たれた太宰の胸には永井の言葉がお守りのようにしまわれていた。
 太宰が銃弾に倒れたのと、芥川がその体を抱きとめたのと、ほぼ時を同じくして洋墨瓶の侵蝕者たちが、わっと二人の体に群がり食らいついてきた。見る間に蟻塚ありづかのごとき黒い山になった二人は地面へ倒れた。
 紳士服の侵蝕者が反古ほごの獣たちを引き連れて、元は芥川と太宰であった黒塊へ近づいて来た。何かを確かめようとするように屈み込み、二人の方へ手を伸ばした。
 その瞬間を待ち構えていた芥川の剣が黒塊から一息に突き出されて紳士の腹を根元まで貫いた。侵蝕者はもんどり打って、黒い文字の粒と変じて霧散する。主を失った獣や洋墨瓶たちも波が引くように姿を消していった。逃げ遅れている数匹を斬り捨て、芥川は太宰を抱いたまま起き上がった。
 洋墨瓶に群がられる直前に咄嗟とっさ外套マントでくるんだものの、己も太宰も少なからず侵蝕されてしまった。殊更に撃たれた太宰はすでに四肢の先から黒い文字への分解が始まっていた。その体を肩に抱えながら、
(僕は――生きて帰らなくてはならなくなったらしい)
 と、芥川はやるせなかった。やりきれない気持ちで、館長が自分たちを無事現世へ引き上げてくれるよう祈った。

三十七

 撃たれたのが僕であればよかった。と芥川は何度も思い返しながら、補修室で補修を受けている太宰を見舞った。潜書中に受けた精神の傷が肉体も少なからず損傷させていたと、処置に当たった館長は話していた。館長は、ともあれ芥川と太宰を失わずに現世へ引き戻すことができて、ほっとした様子でもあり、自信を得た様子でもあった。
「太宰は今眠らせてあるが、明日の昼には目を覚ますだろう。見舞いはそれからにしてやってくれ」
 との言いつけに従って、翌日の午後になってから芥川は補修室を訪れた。関西分館のその場所は帝國図書館のように医務室と一体にはなっておらず、うなり声を上げる装置や計器に囲まれた室内は実験室と呼んだ方がしっくりくる。特務司書婦人が計器に張り付くようにして表示を帳面に記録している姿が見えた。
「太宰君は、もう目が覚めましたか」
 と芥川は声をかけた。
「あら芥川さん。ええ、もうとっくに。お会いになりたいのね、ちょっと待ってください――太宰さん、芥川さんがお見舞いに来てくださいましたけれど」
 特務司書婦人は補修用の寝台を囲む白いカーテンを細く開いて、中で寝ている太宰へ呼びかけた。芥川はそのカーテンの隙間から太宰の裸の二の腕がのぞいているのに気づいた。特務司書婦人は、太宰と二言、三言交わしただけですぐにカーテンを閉じてしまった。太宰の裸体を極力見ないように気遣っている様子がうかがわれた。
「自分の弱っているところを芥川さんに見せたくないんですって。太宰さんはよっぽど芥川さんを慕っていらっしゃるんですね。自分の命も顧みずに人をかばうなんて、そうそうできることじゃありません」
「ええ、本当にね――太宰君! それじゃあ、僕はまた改めて君にお礼をさせてもらうよ――
 と芥川はカーテン越しに声をかけて、その場を辞した。
(そうだ、僕は太宰君に感謝しなくてはならない)
 と、己の中の人間の心がささやくのであった。そんなものがまだ己に残っていたのだという発見があった。遺書として友への手紙を書き上げ、もはや我が身などいつどうなってもいいと思っていたのに――そのような境遇になってまで“生活者”としての己は死んでいなかった。“生活者”としての自分は、太宰が命を賭してかばってくれた我が身を自ら損なうことは不義理で、世間の非常識だと感じていた。
 もはや己は死ねないのだと芥川は改めて染み入るように思った。そして死ねない以上、帝國図書館に帰るより他にない。島崎が己を待つと書いて寄越した帝國図書館に帰るより、他はない。
「生きたいと思わない者はない――
 と芥川は自分に言ってみた。生きたいと思わない者はないのに、捨て身で己をかばった太宰。彼を心の内でとはいえ嘘つき呼ばわりしたことを芥川は恥じた。
 その恥の芽が芥川にささやくのである。
(太宰に助けられてお前は生まれ変わったのだ。そう思うより他に、いったいどんな弁解ができるというのだか。どの面を下げて帝國図書館へ帰ろうというのだか。お前自身も新しいものに変われ――変われ)
 と。

三十八

 土曜日の昼に京都駅を列車は出発して、夜に終点の東京駅へ帰り着いた。赤帽から荷物を――旅行鞄の他に山のような土産物で行きより何倍もふくれている荷物を――受け取り、館長、芥川、太宰の三人は駅舎を出て迎えの車との待ち合わせ場所に向かった。
「ほんの二週間不在にしただけなのに、こちらはすっかり涼しくなった気がするね」
 と、芥川がビルディングの隙間からのぞく晴れた夜空を見やりながら、誰にともなく言った。
「まあ、いくらか暑さが和らいだような気はするな」
 と先頭を行く館長が相槌あいづちを打ったが、その巨躯きょくはじっとりと汗ばんでいて、紳士服の上着もまだ秋物は早い様子だった。
 車寄せには、行きと同じく二台の車が来ていた。運転手の他に、思わぬ出迎えがあった。
「皆さんお帰りなさい」
 車の前で嬉しげな顔をしているのは帝國図書館の司書婦人で、いつもの図書館の制服ではなく、普段着の地味な着物を長身にすらりと着ていた。腕には例の人語を解すネコを抱いていた。ネコが、
「遅かったではニャイか。待ちくたびれたぞ」
 と口を開き、司書婦人に慌てて口元を押さえられていた。
「わざわざ迎えに来てくれるとは」
 館長が運転手に皆の荷物を渡した。言葉では遠慮しているが、それでもやはり司書婦人とネコの顔を見ることができて嬉しいようであった。
「あちらで文学書の侵蝕が起きたと聞いて心配していました――
 と司書婦人は控えめに言った。
「なんだ、もう君の耳にも届いていたのか。政府へ報告書を上げたばかりだぞ。ネコ、お前が伝えてくれたのか」
 ネコは小声でうなずいた。
「お前が潜書を行ったという珍事と聞いてな」
「ああ、俺もヒヤヒヤした」
「芥川と太宰の二人で一応対処できたということは、さほど強力な侵蝕者ではなかったらしい」
「それはそうだが、俺の能力をわかっていて潜書させたのだから二人とも度胸満点だ。ことに太宰は随分侵蝕されたんだ。ねぎらってやってくれ」
「そうか。ご苦労だった」
 とネコの口調はいかにも官僚らしく尊大なのだが、見た目はふわふわした猫そのものだからかえって可愛らしい。芥川も太宰も腹を立てる気にもなれない。
 ネコを抱いている司書婦人も、
「芥川さん、太宰さん、二人ともご無事で何よりでした」
 といたわり、話の続きは図書館へ帰る道々にしようと、三人に車内へ入るよう促した。
 帝國図書館へ着くと、もう夜も遅いのにほとんどの文士がまだ起きていて、三人を騒々しく出迎えた。ことに芥川や太宰に親しい文士たちは、二人が館長と一緒に食堂で夜食を食べさせてもらっているところへ代わる代わるやって来て、無事を喜び、土産話をせがんだ。
「なんや太宰クン、聞いたところによると死にかけたんやて? ほんまに?」
 と織田が太宰の隣の席に陣取って、身を乗り出してくる。その横に坂口もいて、
「どーせ、アンタのことだから、大袈裟おおげさに話ふくらませてるだけなんだろ?」
 相変わらず口が悪い。とはいえ言葉と心は別らしく、口の端が笑み崩れていた。
 太宰は茶漬けの香の物をみながら口をとがらせた。
「嘘でも大袈裟おおげさな話でもないんだって!」
「そうだよ、太宰君は嘘なんてついていない。真実僕を救ってくれた」
 と、不意に、太宰の向かいに座っている芥川が口を挟んだ。その至極真面目な声に、織田と坂口は面食らい、太宰は居心地悪そうに肩を縮めた。

三十九

 日が変わる頃も近くなってようよう自室に引き取った芥川は、久しぶりに畳の上へ使いなじんだ布団をのべて寝支度をした。
 たった二週間留守にしただけであったのに、窓から見える中庭の景色もはや秋めいてきたように芥川は思った。館長と違ってさほどの暑がりでもないので、気温のわずかな違いなど肌に感じやすいのかもしれない。
(ついこの間まで、もう次の秋を見ることはないと思っていたけれど)
 窓のそばに立って、西からの帰りの旅路で疲れきった倦怠けんたいをつくづく感じながら、庭をうっとりと見下ろしていると、
 コッコッコッ、
 と戸口をたたく音がする。芥川はどきりとして振り返った。
(もしかすると――
 という予感を持って返事をした。
「誰だい? 鍵は掛かっていないよ」
「入るぜ、龍」
 低い声で断りながら入ってきたのは菊池であった。芥川は拍子抜けがして、ほ、とため息を漏らした。
「なんだ、寛か」
「なんだ、で悪かったな。誰だと思ったんだ?」
「誰と思ったわけでもないよ。こんな時間に何の用だい?」
 芥川は文机の前に座り、煙草を取って菊池にも勧めた。
「いる?」
「いや――
「そ」
 芥川はバットの吸い口を机でたたいてからくわえ、燐寸マッチを擦った。
「寛、さっき皆が食堂に集まってくれたときには、君、いなかったじゃないか。友達甲斐のないやつだなぁ」
「人が集まってるところでこんな話ができるか」
 と菊池は芥川の眼前にのっしと胡座あぐらをかくと、脇に抱えていた封筒を自分と芥川との膝の間へ置いた。
「それは?」
「とぼけるな、アンタが出発前に俺に預けた原稿だ」
「別にとぼけているつもりはないけれど――それがどうかしたのかい。会誌にはもう掲載された?」
「載せられたはずがねえだろ」
 と菊池は語気を強めた。
「この短編の主人公の名前は」
「名前、付けたっけ? 確か僕は付けなかった気がするけれど。『私』とかそんな辺りじゃなかったかな」
「そうじゃない、この小説の主人公は誰がモデルだと聞いてるんだ」
虚構つくりばなしだよ、寛。僕が書くものは皆そうさ」
 芥川はいっそうおっとりとした口調になり、のらりくらりと煙草をくゆらしながら言った。
「君の言いたいことはわかる。それが」
 と煙草の火で封筒を指し、
「僕の私小説ではないかと言いたいんだろう。――仮に、仮にだよ、最初はそのつもりだったとしても、結局薬を飲まず川にも入らず生きているのだからその結末は虚構だよ。そして結末が虚構なのだからその小説はやっぱり何もかもつくりばなし﹅﹅﹅﹅﹅﹅なのさ」
「アンタは――この小説で俺に打ち明けたいことがあったんじゃないのか。今まで毎日毎日不安だった心持ちだとか、この中で“偽善者”と呼ばれてる誰かとの関係のことだとか」
「生きて生活していく以上、君にさえ言えないことというのもあるものだよ、寛」
「龍よ――
「寛、僕が君へ一切を懺悔ざんげした遺書だけ残して二度と帰らないのと、こうして生きたまま帰ってきたのと、君はどちらが嬉しい?」
――性格のひん曲がった物の聞き方をするんじゃねえ」
 菊池は心の底から忌々しげに吐き捨てた。彼の返答は後者以外にありえない。
「ごめんよ」
 芥川は悲しげに言い、膝元の封筒を取って文机の引き出しにしまった。同じ引き出しの奥に旅先から持ち帰った手紙や睡眠薬が隠してあった。
「発表しないのなら、僕が預かっておくから」
「龍」
「うん、寛」
「生きるんだよな」
「うん――そのつもり」

四十

「ふわ――
 食堂で朝食を待ちながら芥川が大欠伸おおあくびをしていると、菊池が入ってきて、
「おう、はよ――
 と眠たげな挨拶を周りに振りきながら芥川の正面までやって来て、どっかと椅子に座った。
「おはよう、寛。眠そうだね」
「アンタに言われたくはない。そっちこそ締まりのねえ面だぜ」
「だーって夕べは君が寝かせてくれなかったんだもん」
 と、芥川はあからさまな声でふざけた。いかにも冗談らしい調子だったが、周囲のテーブルに着いている文士たちは興味ありげな視線を投げてきた。菊池は慌てて、
「馬鹿、変な言い方するもんじゃねえよ」
「本当のことじゃないか。旅疲れている僕の部屋に遅くに訪ねて来て」
「どうしても夕べのうちに話しておきたかったんだよ、仕方ねえだろう。こっちはアンタが帰ってくるまで毎晩ろくろく眠れなかったんだぜ。一晩くらい辛抱しろ」
「僕がいなくて寂しい思いをさせてしまったね。ごめんね」
「馬鹿」
「仲むつまじいところお邪魔して悪いけど……」
 と、急に脇から陰気な声を挟まれて、芥川と菊池は跳び上がって驚いた。島崎が幽霊のごとく音もなく忍び寄って、いつの間にか芥川の隣の席へ腰を下ろしていた。
「長旅お疲れだったね、君」
 と島崎は今頃になって芥川をねぎらった。彼も昨晩は芥川たちを迎えに出てこなかったくちであった。
――何か僕にご用でも?」
 落ち着きを取り戻した芥川が穏やかに問うと、島崎は芥川にしかわからない程度に柳の眉をひそめて不審そうな顔を見せた。それが伝わったのかどうか、芥川はさりげなく島崎の顔から目をそらした。
「用は……そうだね、今度の図書館新聞に君たちの旅先での出来事について書きたいから、よければ取材させてくれないかな。今じゃなくて、朝ご飯の後ででも」
「構わないよ。あまり時間を取らないようであれば」
 という芥川のあっさりとした返答に、菊池は意外そうに目を見張り、島崎でさえはっきりと眉をうごめかした。
「ふぅん、そう快く引き受けてくれるとは思わなかった。ちょっと意外だね……じゃあ朝食が済んだら談話室で待ってるよ……」
 島崎は約束通り、談話室で芥川を待ち構えていた。
「おかえり」
 と、遅れてやって来た芥川へささやくように言った。島崎が腰を下ろしている長椅子の隣は空いていたが、芥川はそれを避けて彼の正面へ座った。
「さて、取材とやらを済ませてくれないかな。手短にね」
「ねえ君、僕の手紙は届いてた? 君、返事をくれなかったから……」
「“取材”なのかい? それが」
「君……」
 島崎は何か訴えたそうな目つきで、上目がちに長い睫毛まつげを透かして芥川を見つめた。芥川は伏目がちに見つめ返した。二人はほとんどにらみ合うような格好で、長い間視線を交わしていた。
「……なるほどね」
 と、やがて島崎の方から目をそらし、つぶやいた。
「そういうこと。わかるよ」
「君に何がわかる」
 芥川はその問いに対する島崎の返答を聞いてみたいと思った。常に自分の一歩先を行くような態度がいずこから来ているのか知りたかった。今までにない期待を込めて問いかけた。しかし、島崎はするりと逃げる。
「そんなら、僕はこれからしばらくは……低気圧」

四十一

(低気圧?)
 島崎の言葉の意味はじきに芥川にもわかった。
 そのときを境に、島崎はすっかり意気消沈してしまった。他の迷惑を顧みないほど探究心が強く、いつも取材と称してあちこちつつき回っていた島崎がなぜそんなに急にふさいでしまったのか、何が面白くなくてまるでしおれた藤の花のようになってしまったのか、芥川にはさっぱりわけがわからなかった。
「あのひとは、一体どうしたというんだか」
 と芥川は独り言を言ってみた。あまりに急激に変わってしまった島崎の様子に驚かされた。
 もしかすると自分が旅にあって帝國図書館を留守にしている間に何かあったのだろうかとまで考えてみた。しかし芥川がそれとなく周りを見たところでは、特に何事も図書館の内には起こっていなかった。自然主義を掲げて島崎を取り巻く面々といざこざでもあったのか。別にそんな様子も見えなかった。
「きっと日頃からこんな調子で、僕が知らないところでは周りの人間を困らせていたんだろう」
 と芥川はまた独り言を言って、帰ってきて早々島崎の面白くもない顔を見せつけられることに、少し腹立たしいような気にさえなった。
(君が帰って来いと言ったのじゃないか)
 そうだ、島崎はいつもそう言っていた。出発前も、旅先で受け取った手紙の中でも。初めは、自分は二度と帝國図書館へ帰ることはあるまいと思っていた。その心を翻して、もう一度この場所で穏やかな生活を立て直そうと帰ってきた。それをあのひとは喜んでもいいはずではないかと思った。
(なるほど、あれは低気圧に違いない)
 芥川は、帝國図書館に帰ってからできるだけ島崎を避けようと思い、接するにしても極力平然と、他の人たちと同じようにしようと、遠くから彼を眺めようと考えていた。言い換えれば、芥川にはまともに島崎と向き合おうという心がなかった。
 それが、不思議な低気圧が来てみると、いやが応でもこの黙しがちな島崎の様子を注意して見ないわけにいかなかった。
 そうやって見つめているとき――肉体の眼ではそっとあらぬ方を見ていても、精神が絶えず島崎を見つめているとき――芥川の胸にはどうにかして島崎へあの夜のこと﹅﹅﹅﹅﹅﹅を償わねばならぬという想いが呼び覚まされた。償いこそが彼に向き合い、“生活”を取り戻すことに相違ないと信じた。
 そしてそれを信じる気持ちが強まるほどに、静かな反動として起こる底なしの不安には目をそむけた。右目に歯車が見えても、幻だと己に言い聞かせた。
 芥川は“生活者”になりたかった。

四十二

 週明けに廊下へ張り出された帝國図書館新聞最新号の目玉はもちろん芥川と太宰が旅先で遭遇した事件についての記事で、ペンを執ったのは島崎であった。これが人気を博した。ネコからだいたいの話は聞かされていたとはいえ、彼の話はいかにもお役所的で、文学的趣向に欠けていたから。
―――
 佐藤春夫が人目を忍ぶようにして、他に誰もいないときを見計らって廊下で一人新聞を読んでいると、間の悪いことに廊下の向こうからやって来る太宰の姿が見えた。よりにもよって佐藤が今一番出会いたくない相手であった。
「あ、佐藤先生――
 と、太宰は随分離れたところから見つけて、歩を早めて近寄ってきた。佐藤は、こうなると逃げ出すわけにもいかず、その場に足を踏ん張るようにしてこらえた。
 太宰は近くまでは来たが、何を話しかけてくるでもなく、目も合わせようとせず、ただもじもじとうつむいている。太宰は「佐藤が目をそらす」と言うが、それがどの程度真実かは怪しいものである。
 息の詰まるような沈黙に耐え切れず、結局佐藤の方から声をかけた。
「あちらではお手柄だったらしいな」
「あ――ありがとうございます、あの、さ、佐藤先生」
「な、何だ?」
「お、俺なんかのためにお世話をしてくださって、ありがとうございました」
 と太宰に思い詰めたような調子で礼を言われたが、佐藤は何のことかわからず、
「え、何の話だ」
「いえいいんです何もおっしゃらなくても、わかっていますから――
 と言い張られて取り付くしまもない。そうこうしているうちに、太宰が来たのと同じ方向からもっと気まずい相手が現れたので、佐藤は所用を理由にそそくさと反対側へ退散した。
「僕も嫌われたものだ」
 と皮肉げに言うその人とその連れを見て、太宰はなんとなく気安そうな声を上げた。
「荷風先生。と、中島君」
「お取り込み中、邪魔をしたようだ」
「いえ、いいんです。佐藤先生にお礼を言おうと思っていただけなんで――
「何か佐藤さんにお世話になったんですか?」
 と、長身の永井の後から中島の小柄な体がひょこりと現れて、壁新聞の前まで近づいた。眼鏡をちょっと指先で直して記事を読み始めた。太宰は決まり悪そうにトラウザーズのポケットに手を突っ込んで立っている。
「ああその、この間の出張の支度でいくらかさ」
 永井も太宰の隣にすらりと立って新聞を眺めた。
「旅先ではご苦労だったらしいな、君も」
「我が身を投げうって芥川さんを守ったなんて立派ですよ」
 と中島も言う。太宰はかぶりを振った。
「よしてよ。その記事――まるきり嘘ってわけじゃないけど、俺は藤村先生にそこまで詳しくは話していないしさ。実際はそんなドラマチックな話じゃないんだって」
「でも芥川さんを助けたのが事実なら、芥川さんには感謝されたんでしょう?」
「芥川先生からお礼だって、万年筆を頂いた」
「へえそれは、よかったじゃないですか」
「よかったのかねぇ。結局は俺の自己満足みたいなもんだよ」
 ふふと永井が微笑した。
「得てして、人のために何かをするということは、決まりの悪いものだからな」
「そうですね――そのときは夢中でも、後になってみると、本当の献身なんてものはないんじゃないかと思いますよ」
 さらりと、忌憚きたんなく永井へ語る太宰の顔を、中島が物珍しそうに見ていた。

四十三

「辰ちゃんこー、煙草くれない?」
 と言ってから芥川は思い出したらしく、
「ああそうか、吸わないのだったね。室生君、煙草持ってない?」
 と肩越しに向こうのベンチを振り返った。中庭の東屋あずまやで芥川と堀が一服している傍ら、池の端の木陰のベンチでは室生と萩原が恋人同士のように隣り合って座っていた。
「悪い。今持ち合わせてないんだ」
 と室生が言って寄越し、
「静かにして――せっかく浮かんだ言葉が消えちゃう――
 と萩原が物憂げな声を寄越した。萩原はこんな場所で葉書を片手に置いて手紙を書いていた。
「いい詩が浮かびそうだったのに」
「なんだ、俺はてっきり白秋先生に手紙を書いてるのかと思ってた」
「手紙も書くし詩も書くんだ」
 ベンチでの室生と萩原のやり取りを見るともなく眺めながら、芥川は口寂しそうに唇の先をむずむすさせていたが、あるときふと堀に向き直った。
「ねえ辰ちゃんこ、君も新作を書いて僕に読ませてくれるつもりはないのかい」
「えっ」
 堀はきょとんとして、珈琲コーヒーカップを置くのも忘れて芥川の顔をまじまじ見つめた。
「驚くことないじゃないか。僕だって最近書いた物を夏目先生に読んでいただいているよ」
「で、でも」
「でもじゃないの。それとも僕に読ませるのは嫌かい?」
「そういうわけじゃないですけど――
 堀は、しばしもごもごと口ごもってから意を決したように言った。
「あの、芥川さん、最近なんだか変じゃありませんか?」
「変って?」
「上手く説明できませんけど、なんとなく。出張に行く前から変だと思っていましたけど、帰ってきてからは尚更変です」
「あのね、そんなに変、変、と言われると僕もさすがに傷付くよ?」
「ご、ごめんなさい――でも僕は芥川さんが心配です」
 堀は少女のごとき可憐な眼差まなざしを曇らせてうつむき、手の中の珈琲コーヒーカップの黒い水面をにらむようにした。
 その二人のやり取りを聞いていたらしい萩原が、そっと室生の肩をつつき、耳元に口を寄せて何事がささやく。それを室生が芥川へ向かって大声で伝えた。
「芥川君、君、ただでさえ多かった煙草の本数が、帰ってきてから増々増えてるぞ」
「数えているのかい?」
 芥川は半ばあきれて室生たちの方を振り返った。萩原がまた室生へ耳打ちした。
「談話室の灰皿に毎晩たまってる吸い殻が、近頃赤城山のごとしだとさ」
 そうまで言われては芥川も言い返せなかった。堀がいっそう心配して、
「芥川さん――
「まあ、煙草だけはどうにもならないよ。そう言ってるそばからどうにも辛抱できない。すぐ戻るよ」
 芥川は席を立つと、去り際に堀の前髪を手のひらでくしゃりとでた。
「心配症だなぁ、辰ちゃんこ。いい子だね」
 まっすぐ自室に戻って、煙草をあえぐように立て続けに吸った。右目にかなりはっきりと見えている歯車は、煙を吸って気が落ち着くと薄らいだ。
(人が感じる違和感なんか、最初のうちだけだ)
 早く“生活”を取り戻したい。そのためには、何よりも島崎への償いを完済することが先決であった。

四十四

 追い立てられるような心持ちで部屋を出て、堀たちの元へ戻ろうと廊下を急いでいると、例の帝國図書館新聞の前に島崎が立っていた。芥川はつい歩を緩めて、最後にはそこへ立ち止まった。
 島崎は明らかに一度は芥川の方を振り向いておきながら、死んだ魚のような陰気な目つきで知らんぷりをしていた。
(ああ、また低気圧)
 芥川は気が重いのを自ら鼓舞して、島崎へ呼びかけた。島崎は新聞に載せた自分の記事を読んでいるようだったから、
――僕に付きまとっていた君のことだから、てっきり今度も僕の方へ取材に来るのかと思っていたよ」
「あまり思い上がらないことだよ、君」
 島崎は低い声でぐさりと返した。
「……まあ太宰が思った以上に口が重くて、僕も難儀はしたけれど」
「彼は存外口が堅いよ」
「旅先で随分仲良くなったらしい口振りだね」
「仲良くかどうかはともかく――彼の心の柔らかいところへ僕が思いがけず触れてしまったのには違いないね。それも不躾ぶしつけに」
「君はたいてい不躾ぶしつけだよ、自覚はないようだけど」
 と根暗に、ぐさぐさ嫌味を言われる。芥川は閉口しつつ、もうしばらく粘った。
「それに、太宰君が僕に帰ってくる気を起こさせたようなものだから――
「二重に命の恩人ってわけ……潜書でも助けられて、自殺も思いとどまらせてもらって」
 島崎の口調は一語一語発する度に陰鬱いんうつに、とげとげしくなっていくように芥川には思われた。そのときは、それが島崎の嫉妬の発露だとはわからなかった。
「よかったじゃない」
「よかったと思っているよ。なんだかんだと言っても――君への償いを済まさないままではやはり寝覚めが悪いからね。何もかも平かにして、また元のようにここで生活していければそれでいいじゃないか」
「償いだって」
 ふ、と島崎は鼻で笑った。その思いの外よく通った冷笑に驚き、芥川は思わず周囲に目を走らせた。幸い廊下には他の誰もいなかった。
「また君の自己正当化が始まった」
「そんなつもりじゃあないよ。なにも全く忘れてなかったことにしようと言うのじゃない、僕は僕に非のあることはきちんと返済をしたいと言っているんだよ」
「で?」
――で、とは?」
「で、どうやって償ってくれるつもりなの」
「どうって言われてもね。それは君が望むことじゃないのか」
「じゃあ接吻キスしてよ」
 と島崎は死魚の目で芥川の青い目を見上げた。その水底の色をした瞳が、ぎょっと見張られて、まぶたの縁の白目もき出しになったのを見て、島崎は意地の悪い顔つきになった。芥川は返答しかねて言いよどんだ。
「それが、なんだ、君の望みかい」
「そうだよ」
「じゃあ、後で場所を改めて――
「今」
 今でなければと、島崎は言った。あるいは本気でなく、そう言って芥川をなぶることができれば、それでいいと思っていたのかもしれなかった。
 しかし、芥川は接吻した。
 島崎のあくどい冗談にまるで気づかないような様子で、ほとんど衝動的に島崎の小柄な体の上へ身を屈めて、物も言わずに小さな接吻を与えてしまった。かえって島崎の方が驚いて芥川を押し返して離れた。芥川は島崎が声を上げないように彼の口を手で押さえて、用心深く辺りをうかがった。
「満足したかい」
 と小声で尋ねると、島崎は恨めしげに首を二度横に振った。

四十五

接吻キスなんてするんじゃなかった)
 と芥川は数日ばかりも思い暮らした。しばらくの間忘れていた島崎の肉体をかいなで思い出したような心地がした。夜になると、浅い眠りの間に彼を陵辱する夢を何度も見た。
 朝晩はかなり涼しくなってきたというのに、寝汗をびっしょりかいて目覚める。気を鎮めるために起き上がって煙草を吸いながら、
(早くあの夢を忘れたい)
 と、つくづく思う。忘れて、静かな生活に戻りたいと。そのために、どうしても島崎から、もうあのことは過ぎたことだという、君を許すという、そのたった一言を引き出さねばならぬと。
 週末、芥川は島崎を誘って他出を試みた。といっても、初めから二人連れ立って図書館を出るわけにはいかなかった。スキャンダルを恐れる心の方も芥川の中から消えてしまったわけではなかった。
 芥川は、夏目のために評判の羊羹ようかんを買いに行くのだと言って、一人で先に出発した。島崎も後から適当に理由を付けて出てくる手はずだった。
 二人は隅田川にかかる両国橋の上で待ち合わせた。鉄製の大きな三連アーチの、ちょうど真ん中で待ち合わせた。
「大川で会おうだなんて、君にしては、気の利いたことをするよね」
 芥川が小一時間もぼんやり待った頃、そんな皮肉げな台詞とともに島崎は姿を現した。
「本当に来てくれるとは、君にしては親切にしてくれるじゃないか」
 と芥川もやり返した。島崎は別段気を悪くしたようでもなく、芥川と並んで欄干へ両腕をもたれた。
 芥川は島崎の風体をまじまじと見下ろした。島崎は藤色の着物を書生風に着込んで、はかまも着けていた。
「何の用で出かけると言って来たんだい、君」
「寄席を観るんだって言って」
「よく田山、国木田両兄が一人で行かせてくれたものだよ」
「別に僕だって一人きりで出歩くことはあるよ」
 着流しによそ行きの夏羽織といった姿の芥川が書生姿の島崎と並ぶと、ちょっと得体の知れぬ二人連れといった風情である。
 島崎は隅田川の音もなく流れる青い水面を親しげに眺めている。
「好きだよ」
 と、不意に言った。
「え――
「隅田川……」
 ああ、大川。と芥川は相槌あいづちを打った。
 「君は?」と島崎は問うてきた。
「僕も好きだ――
 と芥川は答えた。島崎は長い睫毛まつげを震わせて川面かわもに見入っていた。
「今日は気圧が高いようで過ごしやすいよ」
 と、芥川は真面目に言った。

四十六

「隅田川の砂揚場辺りに、ときどき入水自殺をした死骸しがいが上がったという噂を聞くことがあるんだ」
 と橋を渡りながら島崎は話した。
「僕はその現場を見たことはないけれどね……いつも噂だけそこにこびりついているんだよ。それを聞くと、たまらなく懐かしい気持ちがする」
「何を思い出して?」
「……何をということはないよ。ただこの……生ぬるい、何もかもんで流れていく川に自分もいずれはみ込まれる予感がして愛おしい」
―――
「君が旅先で企てた自殺の方法を当ててあげるよ。川に入るつもりだったに違いないね」
 と島崎は、断言した。
「君が醜怪な死に方を望むとは思えないし……僕たちには死ねるほどの量の薬品なんかそうそう手に入れられないし……極めつきに君は太宰を連れて行った」
―――
「太宰は君とは違っただろう?」
 太宰じゃなくいっそ僕を一緒に連れて行ってくれれば……と島崎は途中まで言いかけて、それはやめてしまったけれど。代わりに、
「僕と君とは似ているんだよ。君は否定するだろうけどね」
「君はいつも僕のことを――いや、何かにつけて知ったような物の言い方をするよ」
「年上の余裕というやつかな」
 と冗談だか本気だかわからない声で淡々と言う。芥川は恨めしそうに、隣をちょこちょこと歩く老大家を見下ろした。
「年上の余裕とやらがあるのなら、僕に一言『過ぎたことは忘れよう』と言ってくれてもよさそうなものだけどね」
「それは身勝手……」
 ぴしゃりと島崎は言い捨てた。
「僕は嫌だ。忘れてしまうのは……」
「君こそ、自己中心的だよ」
「そうかもしれない」
 島崎は、案外、素直にうなずいた。前を向いたまま言った。
「だけどさ、身勝手や自己中心的でない愛情がこの世にあるものだろうかね。どんな献身も、人のために自分の命を投げ出すのだって、突き詰めれば自分がそうしたいがためにするだけのことじゃない」
「珍しい」
「何が?」
「いや、君にしては現実的なことを言うと思っただけ」
「僕の頭は」
 と自分の額を指差し、
「君が思っているほどお花畑じゃないからね」
――僕のような若輩風情が書いたもののことなんかよく覚えているよ」
「忘れたことはないよ」
 島崎は、しばし口をつぐんで芥川の次の言葉を待った。が、芥川は芥川で、押し黙っていた。島崎は、ちらりと芥川へ流し目をくれた。
「……それだけ?」
「?」
「僕は昔、君のことを慧敏けいびんだと評したけど、どうかすると鈍いところもあるんだねぇ」
 と感慨深そうに、細い息を吐ききるようにしてつぶやく。

四十七

 橋を降りて回向院の方へ向かって歩いた。
「この辺りには河童がいたの」
 と島崎が子供のような口調で隣の芥川へ尋ねた。
「昔はね」
 と芥川は、自然年長者のように答えた。
「僕が子供の頃には、京伝の墓の石塔を友達と一緒にいたずらをして倒して、よく坊さんにしかられた」
「今ではもうその河童もいないのかな」
「隅田川も泥だの油だの一面に流れているからね――それでも厩橋うまやばしの下辺りには、歳を取った河童の夫婦がいまだにんでいるかもしれないよ」
 島崎にせがまれて、二人は回向院の中まで見物に入った。本堂から届いてくる読経の声を聞きながら鼠小僧ねずみこぞうの墓の前を通ると、物乞いが三、四人もいて、芥川たちに一瞥いちべつをくれた。信心から人々に削られた鼠小僧ねずみこぞうの墓は、今では墓石の前に「御用の方にはお守り石を差し上げます」との紙札がしてある。
 それを過ぎ、水子塚の前を曲がって国技館の後ろにある京伝の墓まで行ってみたが、芥川が幼い日に戯れたという河童の姿はなかった。
 寺の外へ出る前に、二人は寺務所へ立ち寄った。島崎がお守り石を欲しがったためであった。
 回向院を離れて、ようやく芥川の目的の菓子屋に着いた。そこで芥川は羊羹ようかん一竿ひとさお買い求めた。島崎は時期も終わりかけの氷レモンを頼んだ。
 店の中の小さなテーブルに差し向かいに座り、島崎一人もくもくとかき氷を器からスプーンですくっては口に運んでいる。芥川は煙草を吸いたかったが、店に遠慮して我慢していた。
「口寂しそうだね」
 と、島崎がからかい半分に氷をすくったスプーンを差し出してくる。芥川は嫌な顔をして見せた。
「そんなことより、君、寄席を観に行くと言って出てきたんだろう。ぼろ﹅﹅が出ないようにせいぜい気をつけたまえよ」
「うん」
「落語か人形芝居か、近頃評判だったのは上方の地獄八景亡者戯じごくばっけいもうじゃのたわむれ――
 と寄席の演目を思い出そうとしていた芥川が、不意に、
「んっ」
 と妙な声を漏らし、慌てて口を押さえる。島崎は知らん顔をして氷の山をスプーンで崩している。そのテーブルの下で、島崎の片足が芥川の着物の裾を割ってすねすねの間へ入り込み足首に足首を絡めた。
「君――
 と芥川が抗議をしようとすると、島崎は反対の足先をも芥川の足へ絡めた。
(一体何を考えているんだか)
 菓子屋を出て途中で別れて図書館へ帰ってからも、芥川はそのことを思い出して落ち着かぬ気持ちでいた。自室で煙草を吸おうと思い、両切りの片端を唇に挟んだところで燐寸マッチを探したが見つからない。外へ持ち出していたかしらと着物のたもとを探ったときに気がついた。
「いつの間に――
 指先に触れた物をたもとから取り出してみると、石の入ったお守り袋であった。回向院で島崎が求めていた物に違いなかった。
 島崎の隣を歩いていたときに、こっそりとたもとへ落とされたものであろうか。その意味を考えると、芥川はいっそう落ち着かぬ気持ちがした。

四十八

 九月も末日近くになったある日、有碍書への潜書から帰った芥川は医務室で補修の順番を待つ島崎と鉢合わせた。
 医務室の片隅で、頼りない古ぼけた長椅子に座って、隣には心神喪失しきった島崎がいて、その巻き毛の頭は芥川の膝に預けられている。芥川自身精神耗弱していたからということを差し引いても、もはや膝の上の島崎の頭をのけようという気持ちは起こらなかった。
 やるせない予感にぼんやり浸りながら目をつぶる。消耗した精神はやがて眠気を兆してきた。
「芥川君」
 と鴎外に呼ばれて目を覚ましたとき、芥川は一人であった。島崎は先に補修用の寝台へ移ったらしい。
 芥川も鴎外に促されて寝台へ入った。周りには白いカーテンを引かれた。さっきうとうとしたせいか寝付けず、暇つぶしに鏡花の文庫本を読んでいた。
 ふと、カーテンの隙間から人影がのぞいた。芥川はてっきり鴎外が様子を見に来たのかと思い、
「どうぞ」
 と招き入れた。しかし入ってきたのは予想外に一足早く補修を終えたらしい島崎であった。
――森先生は?」
 と芥川は、どんな返答を寄越されるのかわかっていて、それでも聞いた。先刻の予感が現実となって川の水のようにとめどなく押し寄せてくる。己はそれにみ込まれるのをただぽつねんと立って待っている。そんな頼りない心持ちがする。
 島崎は、やはり芥川の思っていた通りの返事をした。
「しばらく、戻らないって……」
「そう――
 芥川はためらってから、その間に島崎が間近まで迫っていたほど長い時間ためらってから、ようやく、諦めのついた声を発した。
「僕はいまだに君を犯したときの夢を見る。もう――忘れたいよ」
「僕は嫌だ。君に忘れられてしまうのは」
「僕たちはどこまで行っても平行線だ」
「そんなこともない」
 島崎は芥川の上に覆いかぶさり、唇に唇を強く押しつけて吸った。
 芥川はなすがままに、島崎のしたいようにさせた。もっとも、それは、補修のためのさまざまな装置や計器につながれた己の体の自由が利かないせいでもあったけれど。
――老獪ろうかいな手口だよ」
 と、島崎の顔が離れると芥川はささやいた。
「僕が身動きの取れないのをいいことに」
「年上の手管と言ってよ」
 くすりと島崎は笑った。そしてすぐに真面目な顔になり、
「一つはっきり言っておかなくちゃならない。僕は、君を恨んだことは一度だってないよ」
「嘘だ」
「なるほど君は僕を“偽善者”だと言うけれど、僕は少なくとも嘘はついていない……」
―――
 芥川の清々しく青い目元が切なげにゆがめられた。島崎はそのまぶたへ接吻した。
 装置につながれたままの芥川に、島崎は自ら上になって、その痩せた体を預けた。最初の夜がああ﹅﹅であった二人にとっては、それが初めて抱擁らしい抱擁だった。

四十九

「珍しいこともある。明日はやりでも降るんじゃねえか」
 と菊池が皮肉を垂れたのも無理からぬ話で、芥川が宵のうちから湯船に浸かるなどというのは珍事であった。しかも洗髪までして、じれった結びにしたれ羽の髪もそのままに廊下をふらつき、その道々菊池に出くわしたのであった。
「おいおいその髪、早く乾かしちまえよ。風邪引くぜ」
「うん」
 芥川のどこか上の空な調子に、さすがに菊池は目ざとく気がついた。
「どうした? もう熱でもあるんじゃねえのか?」
「そうかもしれないねぇ」
 と芥川はあくまでものらりくらりとかわして、自室へ戻った。
 まだ髪も乾ききらぬ頃、来客があった。戸口を忍ぶように低くたたかれた音に芥川はハッとして、文机の引き出しを閉め、
「誰だい?」
 と問うた。
「僕だよ」
 と島崎のか細い声がした。芥川は「鍵ならかかっていないよ」と答えて、招き入れた。
「仕事の邪魔をした?」
 と、島崎は畳へ上がりながら、文机の前に座り込んでいる芥川を見て小首をかしげた。芥川はかぶりを振った。
「いや」
「ならよかった」
 島崎は芥川のそばまで来て、膝を折ってちょこんと座った。寝巻の浴衣と羽織の上からでもわかる細身の体躯たいくを、芥川は時間をかけてつくづく眺めた。
(あんなにも軽かったのだ)
 と、昼間医務室での抱擁を思い出していた。腹の上に抱えた島崎の体はまるで少年かと思うほどに恐ろしく軽かった。最初の夜には、そんなことさえ気が回らなかったというのに。
 やがて夜具が敷かれた。芥川が電灯を消そうとすると、島崎がそれを拒んだ。
「明るくしておいて……」
「なぜ」
「君の顔を見ていたいんだ」
「あまり見られると僕だって少々恥ずかしいのだけど」
「僕は君のことを知りたい……ずっとこの目で確かめていたいよ」
「君――
 芥川はそれでも天井の照明を消したが、机の上の電灯だけは残して、身じまいをした。
 寝床の中で島崎の痩身を抱き寄せた。と、腕の中で島崎がささやく。
「体が冷たい……髪を洗った? ちゃんと乾かさないからだよ……」
「そんなものは、じきに温まる――
 芥川は、島崎の浴衣の脇前に結んだ帯へ手を伸ばした。
 島崎は上下とも下着を着けていなかった。
 最初の夜にはあれほど冷感だった島崎の体が今は素直に芥川の行為に応えた。
「はぁ、はぁ、は、んんっ……」
 枕をんで声を殺しながら、後ろから芥川が押し入ってくる鋭い性感に震え上がった。自ら腰をうねらせてそれを助けようとさえした。
「もっと奥まで教えて……君のこと……」
 恍惚こうこつと、ほとんどうわ言に近い睦言むつごとを漏らす。
「これ以上は無理だよ。君の体、小さいから――また熱を出されても困る」
 言いながら芥川は動き始めた。うつ伏せに体を投げ出している島崎の背にすがりついて動いた。
「ん、ン、んっ」
 島崎は赤らんだ目元からこちらへ流し目を寄越した。芥川はそれを避けるように、両手を夜具と島崎の体の隙間へ差し込んで小さな乳首を指先でもてあそんだ。そんな愛撫あいぶにも島崎は切なく震えた。
「布団を汚したらごめんよ……」
 一度済んでも二度三度と貪り合った。
「僕一人置いていかないで」
 と島崎は一晩のうちに何度もささやいた。その意味を後になってから寝物語に芥川が問うと、
「僕はどうも人の先を行ってしまうと思われているようじゃない……置いて行かれるのには慣れていないんだよ」
 とあいまいあいまいな答えを返してきた。

五十

「藤村、お前のこの間の新聞記事、評判よかったぜ」
 と田山がまるで自分のことのように嬉しそうに教えてくれた。島崎は素朴な調子で首をかしげていた。
「この間のどれ?」
「だからほら、太宰に出張先での潜書のことを取材しただろ? あれだよあれ」
「ああ、あれか……」
 と、島崎はようやく理解した。二人はそういう話をしている最中にも、次号の帝國図書館新聞の発行に向けて図書室の背の高い書架の間を資料集めのために歩き回っていた。
「あれは、あまり気負わずに書けたのだけど、みんなが気に入ってくれたのならよかったよ」
「お前が太宰に取材するなんて珍しいと思ったけどな。オレはてっきり芥川の方に聞きに行くのかと思ってた」
 言いながら、田山はとある書架の前で足を止め、並んでいる郷土史の表題と手の中の覚え書きを見比べた。
「ああ、これこれ。あったぜ、独歩に頼まれた本」
「どうしてそう思うの?」
「えっ何が」
「僕が芥川の方へ取材へ行くだろうって」
「だってそりゃ、お前いつもそうだっただろ? なんだよ、気がつかねえと思ってたの? お前、口は悪いけど、本当は芥川と仲良くなりたいんだろ」
 よいしょ、と田山は声をかけて書架から重い本を引っ張り出した。
「悪い藤村、ちょっとこれ持ってくれ。もう一冊出さなきゃなんない」
「うん……」
 島崎は本を受け取って、書架の前で懸命に背伸びをして高い棚へ両手を伸ばしている友の背をじっと見つめた。
「ねえ花袋」
「待てよ、今ちょっと大変なんだから――
「君はちゃんと僕のことを知ってくれているんだね」
「そりゃ親友なんだから当然」
「それを自信を持って当然と言えるところが君らしいよ……褒めてるんだからね、僕は」
「何なんだよ急に。今日ちょっと変だぜ、お前」
 と田山は口では言いつつも、満更嫌でもないらしく、照れくさそうにしている。おそらくそれを隠そうとして、急に話の矛先を元の方へ戻した。
「そうそう、さっきお前の記事が評判よかったって話したじゃん。独歩がさ、お前にこれからもああいう記事か、それか小説でも書いてほしいってよ」
「国木田が?」
「うん。この間のは、お前にしてはちょっと脚色が多かったとも言ってたけどさ」
「注文の多いやつだね、彼も」
 と言うと島崎はふと真面目な顔つきになって、しばし口をつぐみ、何事か考え込んでいる様子だった。
「おーい、藤村?」
「ん……ごめん、何でもないよ。国木田の要望のことは、考えておくから……」
 図書室で資料集めを終えると、島崎は田山と別れ、図書館本館を離れて居住区の別棟へ帰った。田山には体調でも悪いのかと心配そうな顔をされた。
「近頃少し寝不足だから、小一時間ほど休んでくるだけだよ」
 友に対する島崎の返答には、秘密はあっても嘘はなかった。

五十一

「ふあ――
 と芥川は大欠伸おおあくびを漏らしそうになり、
「おっと失礼」
 と、煙草を持っていない左手で口を押さえて、同席している谷崎へびた。昼下がりの談話室には、二人の他にも、文士たちが多くは昼飯でふくれた腹を休めに来ていた。
「どうにも、寝不足でね」
 芥川は唇に煙草を押しつけて二、三口続けて吸った。谷崎はなんとなく意味ありげな流し目を寄越した。
「芥川君、君近頃少しやつれたように見えます。そのせいかどことなく色っぽさが増したようにも」
「よしておくれよ」
「ふふ、いいひとでもできましたか」
帝國図書館こんなところでどうやっていいひとなんか見つけるって言うんだか」
「まあそれはそうですけどね。人生何が起こるかわかりません」
「人生にそんな面白い筋書きはないよ。よい小説にだって必ずしも面白い筋書きがあるわけではないのと同じさ」
「また、その話」
 君も好きですねぇ、と谷崎は少なからずあきれたようにぼやいた。
「よい小説にはよい組み立てがあるものです。話の面白さを除外するのは、小説の持つ美点を捨ててしまうようなもの」
「もちろん、入り組んだ筋道を幾何学的に組み立てる構成力が小説にとって必要でないわけではないよ。ただ僕は、その上に小説にとって大切なものは『詩情』であると思っているということさ」
「私には君の言うその『詩情』というものがわからないのです」
「人生には、たとえ筋立てはつまらなくとも、詩的精神を誘われるようなことがあるじゃないか。心が、動くことが――
「それはわかりますけどね」
 私に言わせてもらえば、と谷崎は言葉を継いだ。
「その人生に筋立てがないからこそ、人は筋のある小説を求めるのだと思いませんか? 喜怒哀楽の感情の渦のような日々に疲れたときに、小説を求めたことは君にだってあるでしょう。その中に自分の人生の物語を見つけて安心したこともあるでしょう」
―――
「君がかつて書き連ねてきた数多の『筋のある小説』に自らを見出し、救われた人も多いでしょう。それを否定するのはやめていただきたいですね」
「否定するわけではないよ。ただ――
 ただ――と言ったきり、芥川はむっつりとうつむいて黙り込んでいる。その重苦しい息をさっと払うように、谷崎が言った。
「今日のところは、私に分があったようですね。ふふふ、そうあっさりと決着がついてはつまらないですから。次回の君の反駁はんばくれったく待っていますよ」
「魔性だなぁ、相変わらず、君は」
「うふ」
 谷崎は着物の袖で口元を押さえ、字面に似合わぬ低い声で艶っぽく笑って見せた。
 さてと、と芥川は声をかけて長椅子から腰を上げた。
「あら、もう行くのですか?」
「どうしても眠くてね。頭も働かないから君に言い負かされてしまったよ」
「では、次は目のえたときにいらっしゃい」
「そうさせてもらうとも」
 芥川は、部屋で少し昼寝をしてくると告げて談話室を出た。
「館長や司書の君には内緒にしておいておくれよ」
 と、いたずらっぽく人差し指を唇の前に当てて、谷崎へ言い残して行った。

五十二

 部屋へ帰る、とは言ったが、自室に帰るとは芥川は言わなかった。谷崎へ嘘はついていない。ただ、秘密があるだけだった。
 芥川は人目を忍んで島崎の自室までやってくると、戸をたたきもせずにそっと細く開き、その隙間から中へ滑り込んだ。
 島崎は先に帰っていて、畳の上に寝転がり、天井の一点を見つめて何か考え事をしている様子だった。それでも、戸の開く音ですぐに芥川の姿に気づき、
「……何かあったの?」
 と、彼の微妙な顔色から察して尋ねた。そんなことにも気がつくほどの仲に二人はなっていた。
 芥川は答えず、そのまま島崎の体の上へ我が身を投げ出した。
 半時ばかりも貪り合ったのち、元のように身づくろいをして、それから少し話をした。芥川が胡座あぐらをかいて座り込んでいる膝に島崎は頭を預けて横になっていた。
「アベラアルとエロイズの事蹟じせきを君知ってる?」
 と島崎が言う。
「フランスの坊さんと尼さんでね、互いに深く愛し合った二人は、今もその国にあるカソリック風の御堂の中に、二人寄り添った姿の寝像の下で眠っている」
「僕たちも近頃はよく並んで寝ているよ」
 と、芥川が乾いた声で言った。
「うん……」
 島崎は芥川の脚へ手を着いて半身を起こすと、顔に顔を寄せて接吻をねだった。芥川は応じた。
 島崎は双眸そうぼうを開いたままでそれを受けた。芥川一人が、両目を固く閉じていた。
(君も目を開けて僕を見て……)
 それだけのことが、たったその一言が島崎には言えなかった。かつて魂が砕けたときにも、砕けず残った想いのはずなのに。
(僕のことを君も知って)
 ただそればかりが島崎には言えなかった。もうずっと、長い間言えないままでいた。いつも心が激するばかりで。その心のやり場を独りぼっちで求めているばかりで。
 唇が離れると、不意に芥川は右目を押さえてうずくまった。
「どうしたの」
 と、島崎もその目をのぞき込むように屈んだ。
「目が痛いの……?」
「違う」
「大丈夫?」
「君の中にも見えるんだ」
「何が……?」
「歯車が――
 時折は、そのような日もあった。しかしそれでも、半月ばかりの間、二人はほとんど恋仲の人のように過ごしていた。
 芥川はよく自室の文机の引き出しを開けて、秘密の文書を取り出して、その一つ一つを長い間眺めた。それらを書きまた受け取った頃の己と、今の己を比べてみた。
 今の己は「生活者」に違いなかった。それは己の想像していた“生活”とはいささか違ってはいたけれど、人目を忍んで逢瀬を繰り返し愉楽に溺れるのもまた人の営みに違いなかった。
(この“生活”がいつまで続くものだろう)
 そんなことを考える度、芥川は隅田川を思った。隅田川の底にたまった泥に混じっていずこへか流れ行く己を思った。

五十三

 雷鳴いまだ遠く。
 雨はそれよりさらに遠く、かすかな気配を伝えてくるばかりである。その夜は最初の晩と同じく嵐の予感がした。ただし晩夏の野分とは違い、秋の雨夜は底冷えがしていた。冷たく不快にまとわりつくような、着物の袖さえじっとりと湿気を含んで重くなるような室内に一人座り込んでいた芥川の元へ、思いがけず島崎が訪ねて来て、
「これを読んでほしいんだ……」
 と言って、芥川の膝先へ大きな封筒を差し出した。中には十枚ほどの原稿用紙が入っていて、一番上に島崎の署名があった。
 請われるままに、芥川は読んだ。
 読み終えて、芥川は震え上がった。空気の冷たさのせいばかりでなく、両腕にぶつぶつと鳥肌が立って、背筋が冷えきっていた。
「君!!
 と、島崎へ詰め寄った。
「君、これをどこかに発表するつもりなのか!?
 島崎は、芥川が読み終わるのを待つ間、窓際にぼんやり寄りかかって真暗な外ばかり見ていた。芥川に詰問されて、のそりと居住まいを正した。
「僕のことを、芸術のために他人の迷惑を顧みない自己中心的な人間だと言ったのは君だったっけ」
「なぜ」
「君も知ってるよね、僕が友達と一緒に新聞を作ってること。あれに、僕の書いた小説を連載しないかって話があるんだ」
「なぜ!!
 と芥川は悲鳴のような叫び声を上げた。
「なぜ――
 手の中の原稿用紙の束を握り締めて、その場に突っ伏すようにしてうなだれた。その原稿には、芥川と島崎自身のことが――特にあの最初の夜の出来事ついて――どういう理由で﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅島崎が芥川の部屋を訪ね、二人の間に何が﹅﹅起こったのかということについて――ほとんど事実そのままに、人物の名前は変えてあったが、人が読めば二人のことだと察せられてしまうに違いないことが、島崎の几帳面な字で書かれていた。
 その上に島崎が「連載」という言葉を出した以上、きっとこの続きも、何もかもあからさまに書かれるのだろうと芥川は思い、苦悶くもんで顔をひどくゆがめた。
 島崎はただただ悲しげにそんな芥川の姿を見下ろしていた。
「あの夜も、こんな嵐の来そうな頃だったね……」
 と陰鬱な声がその口からこぼれた。あたかもその言葉と一緒に魂まで抜け落ちたかのごとく、島崎は抜け殻のせみのように背を丸めて小さくなった。
 芥川の息が間近に迫ったのを肌で悟ったときにはすでに彼の手が肩にかかり、荒々しく畳の上に押し倒されていた。
 愛撫あいぶも何もなく、芥川はいきなり島崎の寝巻の裾を割って入った。それもあの夜と同じだった。島崎は寝巻の下に上下とも下着を着けていなかった。それはあの夜とは違っていた。
 水底の魚の死体ようにぐったりと横たわっている島崎の痩身に芥川は乗りかかり、獣じみて動いた。島崎は初め少し抗っただけで、あとは抵抗しなかった。あの夜と同じだった。違うのは、あのとき島崎の体は何の反応も示さなかったのが、今は芥川の無体な行為にも震えていた。
「はあ、はア、はぁ、は……!」
 外で稲光が発し、数拍遅れて重い雷鳴がとどろいて、島崎のあられもない声をき消した。
 しかしそれでも、芥川の狼藉ろうぜきはやはり長くは続かなかった。途中、じ気づいて一旦は島崎の体を離した。

五十四

 右目を押さえてうずくまろうとした芥川の体へ島崎の方から追いすがっていった。畳の上へ倒れた芥川の腹を膝でまたいで自ら犯された。
「あぁ……!!
 雷鳴と雷鳴の合間にれた声を上げ、か細い体を懸命に揺すり立てた。
 芥川は島崎の生白い肌を自らの上に見つめていた。あのとき死んだ魚の腹のようだと思ったその肌が、今は上気して血色を帯び命を帯びているのを見つめていた。
 島崎は白磁の喉を芥川へ見せながら、だらりと開いた口であえいだ。
「あッ、あっ、あぁ、あアァ」
 雷がその声をき消す。
「っく――
 芥川もたまらず腰が突き上げるように動いていた。島崎も彼の陽根に自らの肉壁を擦り付けるように動いた。肉体の快楽の記憶を全て吐き出すように動いた。陽根を締め付けるように動いた。悩ましげに腰を上下させて奥の奥まで芥川を迎え入れるように動いた。
 やがて雨が雷に追いついて窓を激しくたたき出した音にも二人は気がつかなかった。彼ら自身嵐の一部となったように肉体を交え精神こころを犯し合った。
 互いに追い詰め合って、二つの体を深々と貫くような絶頂に身をゆだねた。
「あぁ! アァ! ああぁっ!!
 と、島崎はまるで慟哭どうこくのごとき声を上げた。そして、急にぷっつりと糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
 ずるりと二人の体が離れた。
「はぁ、は、は、は……」
 島崎は畳へ体を預けることをせずに、汚れた脚の間もそのままによろよろと立ち上がって芥川へ背を向け、寝巻を直した。芥川は島崎が雨の音に隠れて泣いているのではないかという気がして、
「君――
 と呼んだ。帯を結びながら振り返った島崎の目に涙はなかった。死んで白濁した魚の目であった。
「君……」
 と、島崎は呼び返した。
「君は僕の小説を読んですぐに、僕があれをどこかに発表するつもりだと思ったらしいけど、僕は別にそんなことはどうでもいいんだ……花袋や国木田に原稿をせがまれてはいるのは本当だけどね」
―――
「僕はただ、君に読んでもらいたかっただけ……」
 あの原稿は君にあげる。と島崎は言う。
「もう僕には必要のないものだから」
 と、濁った瞳と対照的に澄んで透明な声で言う。静かな諦めがそこにあった。
 芥川は、自室で一人朝まで座していた。夜更けに嵐が通り過ぎたのを音に聞きながら、やがて静寂が訪れた中に秋の虫たちが現れ始めたのを音に聞きながら、石のように文机の前に座っていた。机の上には島崎が残していった原稿が封筒に収められたままで置いてあった。
 島崎の言葉をいろいろに思い返しながら、彼と自分の間には、おそらく近いうちに“生活”が戻ってくるに違いない予感を覚えていた。その生活は、きっと自分が以前から思い描いていたような平穏なものだろうと思った。こうして、嵐の夜に互いを犯すようなこともない、平穏無事なものだろうと。
(それが、僕たちの流れ行く先か――
 明け方頃になって、芥川は手で顔を押さえてすすり泣いた。ぽつり、ぽつりと嗚咽おえつが漏れた。今夜のことをいくら悔やんでも、一度流れて行った川の水は二度と同じところを流れることはない。そのびしさからあふれてくる熱い涙へと右目の中の歯車は一つずつ溶け出していった。
 涙が枯れるまで、長い間それの流れ落ちるに任せた。そうしながら、芥川は、ある一つの決意へと辿たどり着いた。
(最後に、僕がやらなくてはならないことがある。何もかも過ぎ去って、ここへは戻らないというのなら)

五十五

 それは「墓」を作ることだと言って、ある日の夜明け前に芥川は島崎を連れて図書館の中庭へ出た。
「もうこの時期になると朝方はいささか冷えるね……」
 と、後をついて来る島崎はしきりに自分で自分の腕をさすっている。もはや彼が芥川の体で暖を取ることもなければ、芥川の方から抱き寄せることもない。無防備な寝巻でなくきっちりと洋服を着込んでいるし、今はちゃんと下着も着けているのだろう。
「しっ――
 と芥川は人差し指を唇に当てて、静かにするようにと仕草で伝えた。まだ薄暗い刻限で人気はないが、万が一ということを芥川は恐れた。
 島崎は声をひそめ、
「それにしても、君も妙なことを考えつくよ」
 と、芥川の思いつきをそっと笑った。
「だって僕らは文筆家だからね」
 と芥川もやはりそっと言った。
「過ぎ行くものを一つの物語として編まずにはいられない。つまり一応の結末というのが必要なんだよ。筋書きのない小説に僕は芸術を感じるけれど、そればかりではつらすぎる」
「……そうだね。君はそういうやつだよ。だから、芸術至上主義に徹せないんだ」
 二人は庭の池の端まで来ると、適当な庭木の陰を探した。まだ若い山桃の木がよかろうと思われた。あまり人目に付かない奥まったところに生えていたし、実を付けるにしても来年の初夏のことであるから。その根元へ人頭ほどの大きさの穴を掘った。
 島崎は手の泥を払いながら芥川の顔を見上げた。
「で、このお墓に何を埋めるの?」
「これを」
 芥川は脇に抱えていた包みを開いて、中から封筒を二つ取り出した。一つは島崎にも見覚えがあった。自身が書いた小説を収めて芥川へ渡したあの封筒に違いなかった。
「そっちは?」
 ともう一つの方を指して尋ねた。
「僕の書いた小説」
 と、芥川は答えた。
「僕が館長と、太宰君と一緒に帝國図書館を離れる前に書いて友達へ残そうと思っていた小説さ」
「………」
「寛には読ませたけれど、複写コピイはないよ。これきりだ」
「僕には読ませてくれないの? それ」
 芥川はかぶりを振った。
「読まないでくれ」
 頼む――と芥川は請うた。有無を言わせない重い口調だった。
「……貸しにしておくよ」
 というのが島崎の返答であった。
「でもせめて題くらいは教えてくれる?」
「僕は『流轉るてん』と付けたよ――
「ふうん、いいじゃない。由来は?」
「主人公が最後には川の水や泥と一緒になって流れて行くからさ」
 封筒を丸め、穴の中に二つの死骸しがいのように並べて横たえ、泥をかけた。そして埋めた跡がそれとわからないように、土をならし草や石で覆い隠すようにしておいた。
「紙は土に還るのかな?」
 と島崎が言う。芥川は首をひねった。
「さあ――それが?」
「土に還るものなら、巡り巡ってまた新たに生まれることもあるかもしれないよ」
「よしてくれ」
 芥川は懐から煙草の箱を取り出した。
「墓前に供える線香の一つもないのでは寂しいからね」
 一本抜いてくわえ、燐寸マッチを擦る。煙草の先にぽっと赤い火がともって、紫煙が薄明の大気に溶けるように立ち上った。芥川はそれを二人の小説を埋めた跡への手向けとした。

(了)