道化師の心臓

「実は、食堂で働いてくださっている皆さんがしばらく休暇を取ることになりまして――
 と、司書婦人が文士たちの前で申し訳なさそうに説明したところによると、一週間ほどの間、彼らに当番制で自分たちの食事の配膳をしてほしいのだという。
 司書の背中にくっついて来たアカが、
「職員の休暇取得日数が足りてないことが監査でバレそうだから、その対策だぞ」
 と余計なことをぼやいて、司書に慌てて口を押さえられていた。
「もご――ちぇっ、錬金術師アルケミストだって職員なのに、オレたちは対象外だって言われるしさ」
 そのことがアカとしては甚だ不満というわけらしい。
 司書は文士たちの方へ向き直り、改めて丁寧な口調で頼んだ。
「そういうわけですので、あの、皆さんの仕事を増やしてしまってすみませんが、よろしくお願いします。もちろん私たちも当番に入りますので」
 文士たちも、面倒くさがる者こそちらほらと見受けられたが、強いて反対するほどの者はいない。
 配膳当番はくじで決めることになり、一週間分の当番表が食堂の片隅に貼り出された。
 それを見に来た太宰治が自分の名前を探すと、木曜日の夜の当番で、中島敦と一緒だった。
「太宰クン、ちゃーんと当番守らなアカンよ。中島クンはああいう感じのお人やから、太宰クンがサボっても怒らへんやろけど――いや怖い方なら怒るやろか」
 と軽口をたたいたのは連れ合って来た織田である。太宰は、むむ、と口をとがらせた。
「俺はね、これからはちゃんとするんだから。ご飯をちょちょっとよそうくらい朝飯前だって」
「夕飯の前やな太宰クンの当番は。ま、せやったらええんやけど。カレー大盛りで頼むわな」
 で、その当日、木曜日の夕飯時になった。
 食堂には太宰と中島の他に、アカの姿もあった。三人のうちでは彼が最もこの仕事に手慣れているらしい――といってもまだ、二回目だそうだが。
「たかが配膳と思うなよ。これだけ大所帯でしかも食い意地の張った若い男がいっぱいときた。ご飯を配るだけでもちょっとした戦場だぜ」
 とアカは先輩風を吹かして言う。あながち大袈裟おおげさな話でもないらしい。
 太宰は、有無を言わさず着させられた白いフリルのエプロンが自分に似合っているかというようなことばかり気にしているようだった。
「どうせならこの際可愛い女給さんのアルバイトでも雇ったらいいのに」
「アンタらが生きてた頃はそれでよかったかもしれないけど、今はそういうこと言うとセクシャルハラスメントになりかねないんだぞ」
 と太宰に言い返すアカの方は、子供用のカッパだかワニだかのマスコットのアップリケ付きエプロンを着けている。
 アカがこの場では隊長だった。太宰はカレールウを、中島は白米を皿に盛りつけるように申し付けられて、それぞれ大きな鍋とおひつの前に立たされた。アカは付け合せのサラダや果物を配ると言う。
 皆が夕食に集まり始める時間にはまだいささか早かった。
「だけどさ、可愛い女給さんてのはいいもんだよ。ロマンだよロマン。青春の思い出ってやつ」
 と手持ち無沙汰の太宰は、アカに向かってさっきの続きを説いていた。
「昔俺の通っていた大学にも地下の大食堂があって、女給さんの少女が働いていたわけだよ。ひらひらよく働くいいだった。学生はみんな黒い詰め襟でうじゃうじゃ集まってるとまるで密林かって光景の中に、白いエプロンの女給さんは可憐な蝶々みたいだったよ」
「へーぇ――
 アカは物珍しそうな顔をして聞いている。少年ながらすでに帝國の公僕として錬金術を極めている代償に、そういった世間のことには疎いのかもしれない。
 すると、素直な聴衆を得て太宰の方も興が乗ってきたらしい。
「俺なんか、こう、よくおまけなんかしてもらっちゃったからね。缶詰の赤いさくらんぼが俺だけ一個多かったりして。いや俺は、ちゃんとそのに言うんだよ、『失礼、数が合わなくなるよ』ってさ。そのはちょっと驚いた顔をしてから、かぶりを振るんだ。『試験期間ですもの』とか言って、はにかんで、俺はちょっとそのの丸い目を見つめて、そのはまた給仕の仕事に戻っていくんだ――
「ふぅん、それで、ロマンス? っていうやつが始まったりするわけ?」
「ま、まあそういうこともあったりするかな」
「デートに誘ったりするんだろ? 遊園地とか、活動写真とか。館長だってたまにチケットを二枚持ってその辺でもじもじしてたりするもんな」
「そ、そうだなぁ、彼女も真面目に働いていたからいつもってわけにはいかなかったけど――
 そんなような太宰とアカのやり取りを、中島は一人黙って聞いていた。
―――
 中島は太宰と同じ大学に通っていたし、奇遇なことに入学した年も同じだった。大学の地下に食堂があったことも知っている。詰め襟の学生で満員のその中で、可憐に働いている女給さんの姿も確かに記憶に残っている。
――だけど」
 と、中島は、つい口に出してしまっていた。
「だけど太宰さんは、よく﹅﹅と言うほど大学に来てたんでしょうか――
 と言い終わる前に、太宰の顔からサッと血の気が引いたのがわかった。
(あっ)
 と中島が思ったときには、アカの方も急に興が覚めてしまったような白けた目つきになっていた。
「なーんだ、今の作り話かよ? ちゃんと聞いてソンした。あーあーやだねこれだから文豪ってヤツは、いかにもそれっぽいまことしやかなことばっかり言うんだからさ」
―――
 太宰は返す言い訳が見つからず、ただうつむきがちに、しょんぼりしていた。一度は物言いたげに中島の方を向いたが、憐れっぽい目をして見せただけで、結局もぐもぐと口をつぐんでしまい何も言わなかった。
 やがて、食堂に夕食を取りに来る文士が一人二人と現れ始め、そのうちに仲のいいグループ同士でも集まってわっと詰めかけた。
 織田も気の合う仲間と一緒に食堂へ来た。今夜のメニューは好物のライスカレーだから、少なからず浮かれた気分だった。長い脚で大股に歩いて、自分の皿を取って、まず中島のところへ白米をよそってもらいに行った。
「どうぞ、オダサクさん」
「中島クンおおきに。さて次はカレー――ってカレーの鍋遠っ! 太宰クン、なんでまた一人だけそないな隅っこにいやはるんやか」
 と、織田の驚き方は少々大仰だったけれども、実際のところ太宰は一人だけ中島やアカから離れたところに移動して、しょぼくれた顔でカレーを配っている。扱いに慣れている織田が上手にそれとなく聞き出したところ、
「うぅつまり、なんというか、これが俺と中島くんたちとの今の心の距離みたいな――
 と太宰は、むにゃむにゃ胡乱うろんな返答を寄越すのだった。


 中島は、自分も食卓に混じってライスカレーを食べながら、先刻の出来事が頭から離れないでいた。太宰のついたささいな嘘を暴いてしまったことである。
 嘘をつくのはよくない。
 それはそうに決まっている。嘘を発見し正した己の行いは間違いなく正しく正義である。
 しかしその正義を振りかざした先に何があったかと考えれば、
―――
 ただ、一人の道化者の小さな心臓が傷ついただけだったのじゃないか――という気がするのである。その正義は正しいには違いないが、果たして善い行いだったのかしらと。
 正義を為して人を傷つける。正義を為して裁かれる。遠い歴史の記録や物語にもそんなことはいくらでも書き残されていて、中島の広々とした記憶の書架から一つ一つ呼び覚まされては去っていった。
 考えたところで「これ」と答えの出るようなことではない。それでも、考える価値のあることだった。
 中島はライスカレーの味もよくわからないまま、思索にふけった。


 夕食の間、館長と司書婦人の姿が見えなかったことに気がついていた文士は案外少なくなかったらしい。
 考え事に夢中になっていた中島は気づいていないくちだった。夕食ののち、談話室で将棋や文学論議に興じている文士たちの隅に混じっていると、午後九時を過ぎた頃に館長と司書が図書館へ帰ってきた。二人は一緒に劇場にでも行っていたらしく、そろってよそゆきの格好だった。談話室の幾人かが窓の外を見ながらその話を始めたとき、中島は自分がなんだか察しの悪い人間に分類されたようで恥ずかしかった。
 館長だけが談話室へ挨拶に来た。文士たちがあれやこれやと言って館長をからかおうとすると、彼はそれに先んじて、
「お土産だ。数は全員分ある」
 と、銀座辺りで買い求めたらしい、チョコレートや果物の砂糖漬けが詰まったきらびやかな箱を差し出すのだった。
 幸田などが世話を焼いてお菓子を配ってくれているところへ、中島も自分の取り分をもらいに行った。幸田は「一人二つだぞ」と大きな声で皆に釘を差していた。
 ふと、中島が視線を感じ、振り返ると、少し離れたところに太宰が立っていた。太宰もやっぱりお菓子をもらいに来たのだろう。しかし先に中島がいたので近づくに近づけなくなり、彼がこちらを振り返るとプイと顔をそらしてしまった。
 中島は、ちょっと考えてから太宰の分もお菓子をもらい、自分から太宰のそばまで歩み寄っていってそれを手渡した。中島の両手の上にはさくらんぼのボンボンと芒果マンゴーの砂糖漬けがそれぞれ二個ずつ、合わせて四個。半分こするのである。
「どうぞ」
 中島は渡すときに、さくらんぼのボンボンを太宰の手へ一つ余計に載せてやった。太宰は整った眉を困った形にして、
「数が合わなくなるよ」
 と言った。
「じゃあ返してもらいます」
 と中島がボンボンを取り返そうとすると、しかし太宰はそれも惜しいらしく、「ちょっと待って――」と悩んだ挙げ句に芒果マンゴーの砂糖漬けの方を中島へ押しつけた。太宰の手にはさくらんぼが二つ、中島の方には芒果マンゴーが二つ載っている。
「中島くんはそっちの方が好きだろ?」
「まあ――好きですね」
「そうだろう? その方が“あっち”の中島くんともケンカにならないだろうしさ。よかったよかった」
「別にそんな、お菓子くらいのことで“彼”と揉めたりしませんよ」
 まだなんだかぎこちない調子の太宰に向かって、中島は配膳係のときのことを謝った。
「あのときは、すみません――て、私が謝ることなのかなとは、思いますけど。その、嘘はよくないです」
「うん。ごめん。いやいいんだ。――あんなのは本当の嘘でもないよ。あんなつまらない嘘はいつだってじきにバレるもんさ。わかってるんだよ。どうせバレる、そのときが少し早くなっただけ」
 太宰は言い訳なのか、ごまかそうとしているんだか、そんなことを早口に言った。中島は、道化というのもどうしてなかなか、切ないものだなと思った。

(了)