マリン・ブルー

1

 春の空のように煙った優しい青、菜の花の黄色、花色。百貨店の飾り窓ショー・ウィンドウには春めいたとりどりの色の洋服や銘仙、かばんに靴、宝飾品などが並べられ、それが銀座通り沿いにずっと連なっている。
 通りの真ん中を路面電車が走って、両端が歩道である。飾り窓ショー・ウィンドウから抜け出したマネキンのような婦人たちが、そこここにいる。
 中島は、彼女たちの脇を通るときなんとなく気恥ずかしい思いをしながら、隣を歩く堀を振り返った。堀の方は、婦人たちよりも飾り窓ショー・ウィンドウの中の方が気になるようである。
「堀さん、気に入りそうなものはありましたか?」
 と中島は聞いてみた。
 堀は、ううん、と可愛らしい声でうなった。
「ええと、この辺りは、ご婦人向けのお店だと思うので、僕は」
「でも辰ちゃんこの身の丈に合う寸法サイズとなるとねぇ、紳士用では少し﹅﹅大きいよ」
 と、堀が言い終える前にくちばしを挟んできた者がある。中島ではない。
 中島と堀が声のした後方を振り返ると、芥川がのらりくらりとした歩調で二人の後をついて来ている。芥川は独り言のような顔をして、
「中島くんもそう思ったから、この辺へ連れてきたんじゃないのかい」
 と余計なことを言う。
「そうなんですか?」
 とは堀は口に出さなかったが、そう問いたげな目で中島の顔を見上げた。
 中島は慌てたようにかぶりを振った。
「そ、そういうわけでは――
 芥川の他にもう一人、中島と堀にくっついて来た人物がある。その人は、二人より先を歩いていて、自分はさもたまたま﹅﹅﹅﹅同じ方向へ行くだけなのだ、と知らん顔をしている――つもりらしいが、さっきからちらちらこちらを盗み見ていることに中島は気がついている。
「太宰さん」
 と、中島はその人物の名前を呼んだ。
 聞こえなかったということはあるまいが、先を行くその人はまごまごしているばかりで返事をしない。
 もう一度、中島は呼んだ。
「太宰さん、太宰さんは、どこかよさそうなお店に心当たりはありませんか」
「ちょっ、俺に矛先を向けないでよ」
 と太宰はやはりまごついているばかりであてになりそうにない。
 妙な雰囲気の四人連れは、微妙な間隔を空けたまま、春の陽気の銀座通りをとことこ歩いていく。
 (あてにはするまい)と中島が思っていた太宰が、しかし、ふと足を止めて、
「あっ――ここなんかいいんじゃない」
 と、通りすがった店の飾り窓ショー・ウィンドウを指差す。小さなかばんやベルト、襟巻きといった小間物を売る店で、飾り窓ショー・ウィンドウの陳列棚には若い男女のマネキンが立ち、おそろいの襟巻きを掛けている。
 堀も興味をかれたようであった。
 太宰はなぜかバツが悪そうな顔をして、弁解らしきことをもごもごつぶやいている。
「ああいや、その、俺はこうね、ひょいっと見上げたところに俺の服飾センスにびびっとくるお店があったってだけで――
 店の入り口で後の三人を待っていて、中島と目が合うと気まずそうに赤面し、さらに後から芥川が来るとその色をますます赤くさせた。

2

「太宰さん――
 と中島は呼びながら、太宰が店内の姿見の前に立って革のベルトを腰に当ててみたり、髪を直したりしているところへ近寄った。
 太宰はギクリとした様子だった。
「な、なんだよ、俺は通りすがりの部外者だよ?」
「もう、何言ってるんですか? どうして私たちについて来るんですか。私――か、堀さんか芥川さんかに用があるんですか?」
「いやその、それはさ、今日――今日は」
 太宰は何か言いたそうな顔こそしているが、出てくる言葉はむにゃむにゃ胡乱うろんで要領を得ない。
 太宰がちらと視線を上げると、自分たちから少し離れた別の姿見の前で、芥川と堀がまた何か戯れているのが見える。堀は襟巻きを買うつもりらしい。綺麗な色の物をいくつか選んできて、それらを胸元に当てながら真面目な顔つきで鏡の中の自分とにらめっこしている。その周りを芥川が大きな体でうろうろしながら、ときどき小声で堀をからかっているようである。
 太宰は視線を元に戻した。
「ていうか――あ、芥川先生は、なんで中島くんたちについて来てるわけ?」
 話をそらされた、と中島は表情を曇らせたが、それについてはひとまず言わないでおいた。
「いや、私にもよくわかりません」
 そもそも、今日中島が堀と一緒に出かけることになったきっかけはこうである。
 一週間ばかり前――
 中島が、図書館の近隣の猫たちの集まるお気に入りの場所へ行こうと、煮干しの入った袋を抱いて中庭を横切っていたとき、
「ひゃ、蛇――
 という悲鳴を聞いた。
 池の方からだ、と察知して中島は立ち止まった。池を見、空の映り込んだその清い水面を、きらめく鱗の青大将がすうっと一筋泳いでいるのを見た。
 池端のベンチで堀が腰を抜かしていた。
 東屋あずまやで煙草をんでいた芥川が、やはり中島と同じように堀の悲鳴を聞きつけ、そちらを見やってにこにこしている。
 池を悠々と泳いでいた青大将は上陸する気配を見せる。蛇とはいえ何か感じるところでもあるのか、よりにもよって座り込んだままおびえている堀の方へ向かっていくそぶりである。
(さて、いつ助けに行ってあげようか)
 と芥川は煙草をふかしながら面白がっている。意地の悪い先輩である。
 堀は、自分の方へにょろにょろと向かってくる青大将を追い払う勇気も出ず、といって逃げられもせず、まさに蛇ににらまれたかえるの体だった。
―――
 喉も潰れたようになって、息をするのも忘れてベンチの上で必死に体を縮めた。
 その堀の顔面蒼白なのを見て、意地悪な先輩もさすがに心配を覚えた。
(ああ、いけない)
 と慌てて煙草を灰皿に押しつけ、腰を上げたそのとき、芥川の視界にサッと青い影が走った。

3

 堀のそばに風のように駆け寄った中島は、ブーツの爪先で青大将を向こうへ払った。
「しっ、しっ」
 と二、三度も払うと、青大将もなんとなく迷惑そうな様子で、ベンチの下をくぐって草むらの中へ姿を消した。
「大丈夫ですか、堀さん」
 と、中島が呼びかけるとようやく、堀は人心地がついたらしい。今まで止めていた息をホーッと長く吐いて、
「中島さん――
 ありがとうございます、とささやくように言う。情けないところを見られたと思うらしく、さっきまで青白かった顔ににわかに血が上ってくる。
「か、格好悪いですよね、たかが、蛇くらいで」
「いえ、やはり苦手なものは仕方ないでしょう」
「でも」
 そのときになって、ようやく、
「辰ちゃんこ」
 と東屋あずまやの下から芥川も声を上げた。
「あっ、芥川さん、今までずっと見てたんですか?」
 堀は芥川の姿に気がつくと、いっそう頬を赤くして、愛らしくそれをにらんだ。
「いやいや、僕もちょうど今助けに行こうと思っていたんだよ」
 と芥川は言ったが、なんだか言い訳じみてしまうのは否めない。
「芥川さんのことだから、僕が困っているのを見て可笑おかしがっていたんじゃないですか?」
「ひ、ひどいなぁ、辰ちゃんこ」
 と分の悪い芥川は放っておいて、堀は中島が差し出してくれた手を取って立ち上がろうとした。すると、「きゃっ」と声が漏れる。堀が首に巻いていた襟巻きが、何の拍子にかベンチの端に引っかかって、立とうとしたときさらに引っ張られた。
「堀さん、危ない」
 と、中島がそれを外してくれたが、襟巻きの端は無残、破れてしまっている。
「お気に入りだったのに」
 と堀は惜しがった。
「よく似合っていましたものね」
 と中島が言った。堀は、はにかんだ。
 堀はしばらく考えて、惜しくはあるが新しい襟巻きを買おうと思う、と言った。それで、その話のついでに、今度二人で一緒に買い物に出かけようということになった。
 芥川は、まるで年頃の娘に交際相手ができた父親のような具合で、むむむと眉間にしわを寄せながら一部始終を眺めていた。
――と、いうことがあって、私と堀さんは一緒に出かけて来たんですけど」
 中島は太宰にそこまで語り終えた。
 太宰は首をひねっている。
「で、芥川先生はなんでついて来たわけ?」
 さっきと同じことを聞いた。
「いや、わかりません。ただ、私と堀さんが談話室で待ち合わせていたところに、なぜか芥川さんも澄ました顔で待っていて」
「ふうむ」
「それで、何やらわからないまま三人で図書館を出ようとしたら玄関のところに太宰さんがいました」
 と言って、太宰の顔を見る。
「あなたは、どういう理由があってあそこで私たちを待ってたんですか?」
―――
 太宰は、あらぬ方へ視線を泳がせている。

4

「お話は済みましたか――?」
 不意に、堀がやって来て、太宰と中島二人の顔を見上げた。
「ほ、堀さん、どれを買うかもう決まったんですか?」
 と、中島はそわついた動作で堀の方を振り返った。
 堀は柔らかな薄紅色の襟巻きを広げて見せた。
「はい、これにしようと思います」
「素敵ですね」
 と中島は褒めた。
「きっと似合いますよ」
「辰ちゃんこのほっぺの色と同じだ」
 と、向こうから芥川が口を出してくる。揶揄やゆする口調である。にやにやしている。
 からかわれて薔薇バラ色になった堀の頬の色と、襟巻きの色と、確かに似ていた。
 そこへ太宰がぽつりと漏らした。
「いい色だよ、朝焼けの富士山とおんなじ色だ」
 きょとん、とした目を堀が太宰に向ける。中島も、意外な気持ちで太宰の顔をまじまじ見た。
 太宰は急に照れくさそうにそっぽを向いて、
「富士山は日本一のいい山だよ」
 とそんなことをむにゃむにゃ言っている。
 堀は、結局その薄紅の襟巻きを買って、それの入った紙包みを嬉しげに抱えて店を出た。
「堀さん、どこかカフェにでも寄って休んで行きませんか。ご馳走ちそうしますよ」
 と、中島は歩道へ出ると堀を誘った。付き添いの二人は別に誘ったつもりはないが、ちゃんとついて来ている。
 太宰は芥川と並んで歩くのが恐れ多いような神妙な顔つきで、そのくせ嬉しいらしくもじもじしながら、ぎくしゃくへんな歩き方をしていた――と中島はチラと目の端で拾い見た。
 四人はカフェーの軒下まで来た。
 店先に張り出したガラスケースの中をのぞいて、精巧なろう細工の焼き菓子やクリームを眺め、あれがいいこれが美味しそうだと言い合うのも楽しい。
「僕はこの洋酒のケーキが食べてみたいです」
 と堀が言い、
「ちょっと酔っ払っちゃいそうですね。でも美味しそうです。私はモンブランにしようかな――バナナのクレープもいいな」
 と中島も目移りしている様子である。
「僕、いちごパフェ食べたいなぁ」
 というのほほんとした声も頭上から降ってくる。芥川である。そしてそれを聞きつけた太宰が調子のいいことを言う。
「あっ、あ、芥川先生、もちろんどうぞどうぞ! 中島くんがおごってくれるらしいんで!」
「太宰さん」
 中島は慌てて、
「あなたと芥川さんの分は払いませんよ」
「え、ええ、俺が金持ってないの知ってるでしょ――特に今日﹅﹅はその、他に金使うことがあったもんだから全然、まじすかんぴんというか」
「自分の責任じゃないですか、それは」
 と中島が言うと、太宰はなぜだかねて、それにしょんぼりしてしまった。

5

 カフェーに入ると、問答無用でウェイトレスに捕まり四人掛けのテーブルへ通された。中島が「後の二人は別会計です」と主張する暇もない。
 明るい窓際の白いテーブルだった。中島と太宰が、堀と芥川がそれぞれ並んで席に着いた。
 堀は中島と向かいになると、そわそわしながら手提げかばんを開けた。
「あの、中島さん、今日は五月五日――中島さんのお誕生日ですよね」
 と言い、かばんの中からリボンを掛けた小箱を取り出した。
「おめでとうございます。これ、プレゼントです」
「わぁ、覚えていてくれたんですか? ありがとうございます――開けてみてもいいですか?」
「もちろん、どうぞ」
 小箱の包み紙は真白で、掛けたリボンは深紅だった。中島がそれを丁寧にほどき、包みを開けると、中身は、干した果物やナッツにチョコレートをまとわせたお菓子である。
「もしかして――これは手作りですか?」
 と中島は気がついて、堀へ尋ねた。
 堀ははにかんで、
「はい、永井さんと一緒に作りました」
「えっ、永井さんって、永井――荷風さんのことですか」
「そうですよ。永井さんもショコラがお好きなんです。それで、僕が誘って――もし中島さんが嫌じゃなかったら、どうぞ。永井さんも自信作だって言ってました」
「ありがとうございます――もちろん、頂きます」
 中島は堀と永井が手づから作ってくれたというチョコレートの箱を大事そうに手のひらで包んで、珍しく頬まで上気させて喜んだ。
「永井さんも意外とゆかしいことをするね」
 と、芥川が感心顔で言った。それから、
「誕生日だったのかい、中島くん。おめでとう」
 と、そつなく言った。
 太宰は、中島の手中のチョコレートを見つめて「なにそれ超うらやましい」とでも言いたげな顔をしていた。が、芥川の声でハッと我に返り、
「あ――中島くんおめでとう――
 と、こちらは取ってつけたように言う。言ってから、もどかしいような、寂しいような顔になってうつむいてしまった。
 やがて、洋菓子や珈琲コーヒーが運ばれてきた。中島はクレープ、堀は洋酒をたっぷり染み込ませたケーキ、二つの珈琲コーヒー洒落しゃれた骨董品のカップに注いであった。
 芥川は赤いいちごが飾られた牛乳のクリームのパフェを正面に置いて嬉しそうにしている。
「太宰くんも何か頼めばよかったのに」
 太宰一人、檸檬レモンの皮を浮かべた水ばかり飲んでいる。

6

「辰ちゃんこ、いちごを一つあげようか」
 はいあーん、などと芥川はふざけているのか本気なのかわからないような調子で、いちごとクリームをすくったスプーンを堀の方へ差し出したりする。
 すると、また堀は赤くなって怒る。
「も、もう芥川さんやめてください!」
 そんな様子の先輩たちを前に並べて、太宰がなんとも羨ましそうに細いため息をついている。
 と出し抜けに、中島が言った。
「太宰さんもしてもらいたいんじゃないですか?」
 太宰はほとんどわざとらしいくらい、檸檬レモン水にむせた格好をして、
「な、ななななな何を言うんだい中島クン」
 と、これまた息をするより早くお道化どけた。咄嗟とっさの防衛本能というやつかもしれない。
 芥川は、よく事情をわかっていないらしい。
「なんだ、太宰くん、やっぱり何か食べたかったのかい。それともいちごが好きなのかな? 赤いから――?」
 といちごの乗ったスプーンの先を向けられた太宰は、そのいちごよりもなお顔を真っ赤にして、突然椅子を蹴って立ち上がると、
「す、すみません俺ちょっと、お手洗いに――
 もごもご言い、なぜか隣の中島の腕をつかみ、一緒に立ち上がって洗面所の方へ行ってしまった。
「ええっ、ど、どうして私までなんですか、ちょっと――
 と中島が抗議しても、太宰はぐいぐい引っ張るものだから敵わなかった。
 残された芥川と堀は、どちらからともなく顔を見合わせた。
――やっぱり面白い子だね、太宰くんは」
 と芥川は言い、スプーンに乗せたいちごを口に入れてもぐもぐやっている。
「ちょっといね」
「芥川さん」
 と、堀は物問いたそうな目で芥川を見上げた。
「芥川さんは、中島さんのことが嫌いですか?」
「どうして?」
「だって――なんとなく中島さんに意地悪な感じがします」
「それはさ、辰ちゃんこ、君が彼と仲良くするんだもの」
 芥川が言うには、
「僕の方が昔からの付き合いで、君のことだってよく知ってるのに。ぽっと出の後輩に君を取られたらつまらないよ」
「そんな、子供じゃないんですから――人のことを取るとか、取られるとか」
「ふふふ」
「笑わないでください」
「君も小説家なら、そういう人心の柔らかさも理解してくれなくちゃ」
 芥川はクリームをすくって口に入れた。
「そりゃ、僕も大人だからね、中島くんとも仲良くしたいと思っているよ」
「本当ですか?」
「辰ちゃんこがいいと思う相手なら、悪い人間のはずがないよ」
 その言葉、声の調子ともに信頼に満ちている。
「だけどね、僕はこう見えても恥ずかしがり屋なんだ。だから、つい照れ隠しに意地悪なことも言ってしまう」
(そ、それは本当でしょうか)
 なんだか怪しいなぁ、と堀は思った。
 芥川に洋酒のケーキをひと欠片かけらあげたり、そのお返しにシロップ漬けのいちごをもらったりした。太宰と中島はなかなか戻ってこない。
「そうそう、そういえば辰ちゃんこ、今日は中島くんの誕生日だったのかい。僕も何か贈り物を用意してくればよかった」
「今夜は食堂でお祝いですよ。きっといちごのケーキも出ますよ」
「あ、そうか、しまったいちごとクリイムがだぶった――
 二人は仲のいい兄弟のようにたわいなく戯れている。

7

 一方で、太宰と中島の方は――
 困惑している中島の手を太宰が引き、店内の片隅にある手洗いへ連れ込んだところである。
「太宰さん、なんですか、お手洗いなら一人で行ってください」
「中島くんねえちょっとさっきの見た!? あああの芥川先生が、芥川大先生が! 俺に! いちごをあーんって! あーんって――
 ヤバイもう一生目の裏に焼きつけとかなきゃとかなんとか言って太宰は、両手に顔をうずめながら一人身もだえしている。
「さっきの太宰さんの様子は喜んでたんですか――芥川さんにからわれたのが嫌だったのかと思いましたよ。太宰さん、急に席を立っちゃいましたから」
「えっ、お、俺そんなに嫌がってるように見えた? 俺はただ格好悪いところを見られたくなかっただけなんだけど」
「私に言ってもしょうがないじゃないですか。私は理解しましたけど――
 まあとにかく、憧れの芥川さんに優しくしてもらってよかったですね。と言う。しかし口ではそう言いながら、中島は内心別のことを考えていた。
 少しだけ、期待を込めた視線を太宰へ向ける。
(今なら、私とあなた、二人だけですよ)
 と念じてみる。言いにくかったことを言うなら今ですよ、と。どういう理由で、今までずっと後をついて来ているのかとか――
 その念が通じたのかわからないが、太宰が、ふと、
「あ、そ、そういえば、今日中島くんの誕生日だけど」
 と話の矛先を変えてきた。
「そうですけど」
「あの、なんていうかタイミングがなくてさ、その、つまり言いそびれてただけで、俺もちゃんと朝から覚えてはいたんだよ? 朝から――
――朝からずっとですか」
「そ、そうだよ。もちろん」
 中島は、堀や芥川と一緒に図書館を出てきたとき、その玄関先で太宰と鉢合わせたことを思い出していた。
 太宰はエントランスホールの階段の手すりにもたれて、人を待っていた風情で、
「あっ、中島くんやっぱり図書館の方にいたんだ。もしかしたら猫の集会所の方にいるのかとも思って見に行ったけどさ、いなかったから」
 と中島の姿が目に入るなり体を起こしたが、中島が堀と芥川を伴っているのに気がつくと、その先は口をつぐんでしまった。
 太宰は中島の格好を見た。いつも洋服に袴で済ませている彼が珍しくよそ行きを着ている。
「出かけんの?」
 とそっけなく聞いた。
 中島は、堀と銀座へ買い物に行くのだと答えた。
「へえ銀座、いいね、銀座はいいところだからね――
 と、太宰がつまらなそうな顔で言ったのも、中島は覚えている。
 太宰は中島たち三人を、やはりつまらなそうな顔で見送り――見送りきれずに、やがて後を追いかけて来たのも、中島は覚えている。

8

 太宰は何か他にも言いたいことがあったらしい。が、言い出しかねて、そっぽを向き、洗面台の鏡をのぞいて前髪を直したりなぞしている。
 髪に直すところがなくなると、今度はスラックスのポケットに手を突っ込んでごそごそやっている。
 中島も黙って太宰が口を開くのを待っていた。自分から踏み込んでいく労をいとい、太宰の方からそれとなく言って欲しいと思う、妙な自尊心と悪癖の怠惰が首をもたげてもいて――
 二人ともなんとなくそわそわ、もじもじして、いたずらに時を過ごしていたそのとき、急に手洗いの入り口のドアが開いた。
「なんだ、二人ともまだ手洗いにいたのかい」
 と声をかけて入ってきたのは芥川であった。なにやら気まずい雰囲気の太宰と中島を交互に見やって、
「?」
 と小首をかしげる。
 太宰と中島は顔を見合わせ、そろってバツの悪そうな表情になると、そそくさと手洗いから出て行ってしまう。
 芥川はもう一度首をかしげた。
(どうも、まずいところに居合わせたみたいだ)
 悪いことをしたかな、と顎の先をきながら洗面台の前に立つ。
 手を洗おうとして前にかがんだとき、足元に小さな青い紙片が落ちていることに気がついた。
「?」
 芥川は三度みたび首をかしげた。
 紙片をつまんで拾い上げた。着物の袖でちょっと拭ってから手のひらに載せてみる。それは浅草公園にある水族館のチケットだった。それも二人分。
 チケットの表の面は色鮮やかな南国の海の色に塗られ、その真ん中をつがいの海豚イルカが絡み合うように泳ぐ画が描かれている。そして裏には、水族館のある場所の地図や開館時間などが細かな字で記してある。今月いっぱいの南洋展のチケットだということも、受付番号も書いてあった。
(はて、落とし物かな)
 と思いながら、芥川はそれをたもとへしまった。
 そのとき、太宰が駆け戻ってきて、
「あ、あ、ああの芥川先生、ここに、その、チケット、みたいなもの落ちてませんでした!?
 と、ドアを開けた格好のまま大きな声を出した。
(あ)
 もしやと思い当たって芥川はたもとを押さえた。――が、そのことは顔に出さない。
「大事なものなのかい?」
「え、ええそれは、はい――すごく――
「そうなんだ。でもごめんね、見なかったよ」
「そんなだってついさっきまでポケットに入ってたのに。どこで落ちたって言うんだよ――あ、ああいやあの、すみません芥川先生失礼しました!」
 太宰はぶつぶつ言いながら、すぐにきびすを返して出ていく。
 芥川は、中島や堀と図書館を出るときに、玄関先で鉢合わせた太宰の様子を思い出した。
(それに今日は中島くんの誕生日で、僕は太宰くんが落とした二枚のチケットを拾ったわけだ)
 稀代きだいの小説家の頭の中に、一つの物語が浮かび上がってきた。
(なるほど――

9

 カフェーを出た後は少し街中をぶらぶらして、街角で見つけた鳥獣店になど立ち寄って過ごした。ことさらに堀が中をのぞいてみたいと言ったので。
 軒先に鳥籠のいくつも掛けてある玄関をくぐると、店内には近く競売に出されるという洋犬や、店の主人が飼っている大きな白い雑種犬がいた。
 堀はその白い犬と何か心の通じるものがあるらしく、
「お前、可愛いね」
 と、その犬の首を抱くようにしてしきりにでてやっている。
 中島は主人に頼んで洋犬の子犬を抱かせてもらった。
 太宰と芥川はといえば、カフェーを出て以来ずっとしょんぼりしている太宰は店の入り口から先には進めないでいるし、芥川に至っては店内に入るのも恐ろしいらしく、外で煙草をふかして待っている。
「中島さんは犬は好きですか?」
 と堀が聞いた。
 中島は子犬を愛おしそうに抱きながら、
「そうですね。猫が一番好きですけど、犬や他の動物も好きですよ」
 と言い、それからしばし考え込んで、
「子供の頃――学校の先生に宇宙が滅びる日のことを聞いて怖くなって、もしそのとき自分が居合わせたら、こんなふうに温かくて優しい犬を抱いて最後の時を過ごしたい――なんて考えたりもしました」
 と、少し恥ずかしそうに言った。すぐに照れ隠しのように笑ってごまかした。
「変ですよね」
「そんなことないですよ。とっても繊細で、ロマンチックです」
 堀は笑いもせず、穏やかに肯定してくれた。中島は勇気づけられる想いがした。
 中島は子犬を抱いたまま、急にくるりと太宰の方を振り返った。
「げっ」
 と太宰は情けない悲鳴を上げた。
「ちょ、待って俺犬だめなんだよ! こっち来ないで」
「だけど、太宰さんも犬を飼ったことがあるって聞きましたよ」
 中島が子犬を差し出すと、太宰は足がすくんで気をつけの姿勢になった。ぎゅっと目をつぶった。
「あーもう煮るなり焼くなり好きにして!」
 いやに往生際がいい。
「そんな、取って食われるわけじゃないんですから」
 中島は笑いだした。腕の中の子犬はフゥーンとかすかに鳴き、太宰の方へ興味ありげに鼻先を突き出す。
 太宰は子犬の鼻息がかかる度、ぴくぴく身じろぎした。
「お願いします、いい子だから、そのままじっとしてて――
 と、いたいけな子犬に対して腰の低い太宰が、中島には可笑おかしい。
「あはは、太宰さん、気持ちはわからなくもないですが」
「わ、笑わないでよもう」
 店内のにぎやかなのを聞いて、ときどき外の芥川がチラと中をのぞき込む。が、犬たちと目が合うと、さっと軒の陰に隠れた。

10

 翌日のことである。
「馬鹿なんじゃないのか?」
 と、中島は太宰へ冷ややかな言葉を浴びせた。有碍書への潜書中のことである。
 眼下に初夏の田畑の景色が広がる丘の上に中島はツンと立っていて、太宰はその後ろで野に座り込んでいる。足元に青々と生えた「草」や「野花」をぶちぶち指でむしりながらねた顔をしていた。
「タイミングが悪かっただけなんだよ」
 と言う。
「いかにもその通りだ」
 と中島が応える。
「タイミングが悪かった。“奴”は堀と外出する約束をしていたし、お前はそれを知らなかった。それだけのことだ。それを昨日“奴”に素直に言えばよかったと言っているんだ」
 “奴”も“奴”だ、と言う。
「まったく、うじうじと――
 と、批判的な口調ではあるが心持ち歯切れが悪い。
「なんやかんや言って中島くん自分には甘いよね」
「うるさいぞ」
 太宰は、はーぁとため息をつきながら空を仰いだ。
 空が青い。
「なあ中島くん、南国の空や海はきっと、もっとずっと青いんだろうなぁ」
―――
「それを中島くんの誕生日に一緒に見に行きたかったよ――もっとも、浅草公園のはビニイルの作り物なんだけどね。それでも見に行きたかったよ」
――現世に帰ったら“奴”にそれをそのまま言ってやれ」
「うう、有り金はたいた水族館のチケット」
 と、太宰はいつまでもめそめそしている。
 それからも二人は、二、三の実りのない話をしたが、そのうち太宰は会派の仲間から弓の稽古に呼ばれたのでよそへ行ってしまった。
 中島は一人残って、眼下の里の風景がゆるやかに侵蝕されて崩れていくさまを見ている。――否、一人ではなかった。
「出てこい、芥川。そこにいるだろう」
 と中島は振り返らずに言った。
――鋭いなぁ、背中にも目が付いているのかい」
 と言って芥川は「樹木」の陰から出てきた。
「馬鹿な。『木』の払いが一本多かったぞ」
「えっ、そうだった?」
 芥川は背中に垂れた長い髪をひとで、首をひねっている。
「用件を言え」
 と、中島は促した。
「そうつっけんどんにしないでおくれよ。僕は仲良くしたいと思っているんだから」
「太宰もお前も、そういうことを“俺”に言うな」
 芥川は構わず中島の隣へ来ると、同じように景色を眺めた。
「ああ、いい風だね、ここは」
「何の用だ」
「用というほどのこともないけれど――
「早く言え」
 と中島はかした。

11

「太宰くんと南国の海を見に行きたかったかい?」
 と芥川は聞くのだった。
「僕や辰ちゃんこはよほど邪魔だったかな」
―――
 中島は芥川の真意をみかねて横目でにらみ、それから己の心に問うようにしばし目を閉じて考えた。
 目を開けた。
「確かに俺は南洋が好きだ。たとえ作り物だとしても街中に現れたそれを見物するのは面白いだろう。だが、俺は――太宰もああは見えても――いい大人だからな。またいつでも行けるだろう。それより昨日の外出はなかなか愉快だった。珍しいものも見られた」
「?」
「大の男がたかが丸々した犬を怖がって、てこでも動かなかった様子だとかな」
「それは忘れてほしいなぁ」
 芥川は苦笑いしている。
「人はただ単になりふり構わず、がむしゃらに、互いだけ欲し合えばいいというものじゃない」
 と、中島はなんだかあいまいなことを、結論づけるように言った。
「わかったよ」
 と芥川はうなずいた。にっこりした。
「君と太宰くんとは互いに優しく穏やかに想い合っているというわけだね」
「やめろ、妙な言い方はよせ。適当に距離を取っているだけだ」
「照れなくてもいいのに」
「照れてなどいない」
 芥川は着物のたもとを探り、
「これ、君に渡しておくよ」
 と、中島の手へ、海豚イルカの描かれた二枚のチケットを押しつけた。
「これは――
 と中島は察した。芥川は、同じ場所からついでに緑色の煙草の箱を取り出して一本くわえた。燐寸マッチで火をける。
 美味そうに吸って、吐いた「煙」がたなびき、やがて「風」になって細く伸びていく。
「太宰くんがカフェエのお手洗いに落としたようだから、拾っておいたよ――ちゃんと綺麗に拭いてあるよ?」
「なぜすぐに太宰に返してやらなかった?」
「うん」
 と芥川はごまかそうとしている。
「うん、じゃない、答えろ」
「そうだね――太宰くんがそれをずっと大事にポケットに入れて、しかし君にどうしても渡せなかったことに詩を感じたから――とでも言っておこうかな」
「詩か――
「素晴らしい作品を手元に置いておきたいと思うのは人情だ」
「酷い男だな」
畢竟ひっきょう、小説家だということさ」
 それにしても、と中島が手のひらに載せたチケットをまじまじ見つめて言った。
「お前、どうやってこれを現世からここまで持ってきたんだ」
「知らないよ。さっき煙草を吸おうと思ってたもとを探ったらちゃんと入ってたんだ。それだけ想いのこもっているものだということかな」

12

「俺に渡されたところで、現世に帰ったらお前の着物の中に戻っているんじゃないのか」
「さあ、どうだろう。試してみたらいいよ」
「試す?」
「物語に多少の不思議を付け加えることには、小説家としてやぶさかでない」
 君もそうだろうと芥川は中島へ言う。
「ふん」
 中島も否定はしない――
 文士たちがそろって帰還したのは、その日の日暮れも近くなってからのことであった。
 近頃は日の入りも随分遅くなった。すでに七時の夕食が近い。文士たちは帰ってきた順に食堂へ向かったり、怪我けがを診てもらいに森のいる医務室へ向かったりした。
 中島も帰ってきた。まだ夢からいささか覚めきらないふうで、ぼんやりとして、有碍書の中でのあいまいな記憶を辿たどろうとしても、つらつら考えているうちにそれが現実だったのか夢なのかわからなくなるような始末である。
(やっぱり、だめだな。思い出せない)
 重たいまぶたをこすろうと右手を上げたところで気がついた。
「あれ――?」
 右手が、どういうわけかきつく握り拳を作ったままで固まってしまっている。
 左手で右手をこじ開けようとしたが、なかなか上手くゆかず苦心した。潜書中に何かあったのだろうかと心配になり、気持ちばかり焦る。
 中島が封印の書棚の陰でもたもたしている様子に気がついて、太宰が近づいてきた。
「どうしたの、中島くん」
「あ、太宰さん、いえ、ちょっと手が――この有り様で」
「うわちょ、何これ? 鴎外先生にでも見せた方がいいんじゃないの?」
 と、太宰はうろたえながらも中島に手を貸した。その右拳をどうにか無理くり開かせた。
「痛た――だ、太宰さん、もうちょっと優しくお願いします」
「いやいや、これぐらいしないと、指が曲がっちゃって戻らないんだって」
 そうしてようやく開いた中島の手の中を、二人が「やった、やった」とのぞき込むと、そこに青い海の色のチケットが二枚重なっていた。
 それは強く強く握り締められていたせいでしわくちゃになってしまっていたけれど、広げてみると、表面にはむつまじいつがいの海豚イルカの絵が描かれている。
 太宰が、ハッとして二枚のチケットをにらんだ。裏面の受付番号を三度見直した。
「うっそ! ええ、なんでだよ、これ、俺が昨日中島くんに渡しそびれた水族館のチケット――あっ!」
―――
 太宰は慌てて口をつぐんだが時すでに遅し。
 中島は、まだぎこちない右手をでながら、きょとんと太宰の顔を見上げていた。
――どういう理由で、太宰さんがくしたチケットが私の手の中にあったのかわかりませんが」
 と、中島は太宰と並んで、廊下を食堂へ向かいながら言った。
「嬉しいですよ。私は南洋好きですし」
「きっとね、中島くんに南の海を見せてあげたい! ――って俺の想いが強すぎてどこからか舞い戻ってきたんだろうよ。一介の紙切れながら骨のあるやつだよ」
 と太宰が赤い顔をして答える。
 二人はきっと明日にでも、連れ立って出かけるのだろう。東京の街中に現れた青い海を泳ぐ海豚イルカを見物に。

(了)