最後の日
太宰が相変わらず中島の部屋へ本を読みに来ている。
「なぁ、そういえば中島くんてさ、大学の卒論は荷風先生がテーマだったんだろ?」
と、やはり相変わらずベッドに寝転がって、文庫本を開いたまま、机で書き物をしている中島の背中にちょっかいを出す。
中島も別段振り返りもせず、
「耽美派の研究です」
と言った。ついでに、
「太宰さんの卒業研究のテーマは何でしたっけ」
と言ってやると、太宰はうろたえて、
「えっ、えーと卒業研究ね卒業研究――って俺が中退なの知っててそういうこと言うんだからなー!」
などとお
ふふ、と中島は微笑した。
「私たちくらいの世代には、永井さんはある種の憧れ的存在じゃありませんでしたか。だけど中学校の頃なんか、上級生にはにらまれましたね、軟派だって言われて」
「軟派だなんぞ言うやつは永井荷風の上っ面しか見ていないんだ」
「ええ、私もそう思いますよ」
「にしても、今日びじゃ荷風先生だってほとんど古典の仲間入りをしてるんだからね。軟派どころじゃないよ」
と太宰がなにやらしみじみ言い、話はそこで途切れた。
中島は、同年の太宰とその頃の文学についてちょっと意見を交わしただけでもなんだか珍しい気分で、その気分を壊したくなかったのでしんみり黙っていた。
四半時間も経った頃、太宰の細い寝息が聞こえてきた。
「太宰さん――」
と中島は呼びかけて、やめた。寝つきの悪い太宰のことである。うたた寝でも、睡眠薬なしで眠れるときにはそうさせてやった方がよかろうと。
念のため、うつ伏せに倒れている太宰の肩の辺りの匂いを嗅いでみたが、風呂に入ったばかりらしい
夜半、暗闇の中で太宰は、ふ、と目を開けた。
ベッドの端で窓の方を向いて横向きになっていた。窓はカーテンが開いている。中島が近頃寝るときにはいつもそうしておくのを、太宰は知っていた。
「―――」
寝返りを打ってみると、反対側の端で、寝巻に着替えた格好の中島が向こうを向いて寝入っている。太宰が足の指でちょんちょんつついてみても到底目を覚ましそうにない。
「中島くんは寝つきがいいなぁ――」
とつぶやいた己の声も、暗闇の中ではなんだか妙にハッキリと聞こえる。それが寂しい感じで、口をつぐんだ。
「―――」
(このまま朝まで泊まっていこうか)
と考えたけれど、またいつぞやのように帰るタイミングを逃して朝飯を食いっぱぐれることになるかもしれない。と思い直し、帰る決心をした。
決心をした、とは言うがぐずぐずもしている。
中島の背中へそっと身を寄せてみたりもする。が、やはり中島が起きてくれる気配はなかった。それで結局、中島の寝息の規則正しさだけ聞き届けるとベッドから出た。
(信頼を裏切るな。信頼を裏切るな、ってね)
よっ、と中島の体を
靴に足を突っ込んで、顔を上げたところに中島の書き物机がある。きちんと片付けられた机の上からは、中島がさっきまで何をせっせと書いていたものやらも知れない。太宰も、ちょっと手元を
机の片隅に、人形や土産物やらを並べた一角がある。南国の
太宰はぬいぐるみの一つを手に取った。ぬいぐるみといってもいろいろある。中島の好きな黒猫、「敦」の名前から転じたらしい子豚、泉鏡花にもらったと思しき兎、その他に子犬や白い虎――太宰はそのうちの一つを取った。
「そんじゃね、おやすみ」
と、太宰はささやいて、ぬいぐるみの鼻先を中島の寝顔の鼻先へ押し当てた。そっと。
そしてそのぬいぐるみを、さっきまで自分が寝ていた場所へ、自分の身代わりのように置いて、太宰は部屋を出た。真暗な廊下をひそひそ歩いて自室へ帰った。
明け方、窓から差し込んで来た薄明かりで中島は目覚めて、隣で寝ていたのが太宰でなく、ふわふわしたぬいぐるみだったことに気がついた。
「――随分変わり果てた姿になりましたねぇ」
などと、眠い頭でつぶやきながら枕元の眼鏡を取ってかけ、それをまじまじ見た。太宰もなにやら可愛らしいことをする。
白い丸々した子犬のぬいぐるみであった。
中島は、先日の誕生日に、太宰と、堀と、芥川と四人で外出したときのことを思い出した。
あんなに犬を怖がっていた人が、自分の代わりに犬のぬいぐるみを置いていくのかと思った。他にもぬいぐるみはいくつもあったのに――
中島はその白い犬のぬいぐるみを腕の中に抱いてみた。柔らかく、優しい温かさが宇宙の終わる日を夢想させた。
朝食の食堂で太宰の姿を見つけた中島は、それとなく、犬のぬいぐるみのことを聞いてみた。
太宰は、
「俺さぁ――犬は苦手だしそのくせなぜか好かれるし、おまけに自分がなーんか犬っぽいところもある気がして昔から嫌だったけど、でもそれが世界最後の日になれば、そんな犬でも中島くんの慰めになるんだったら、悪くないよね」
と、少し気恥ずかしそうに言った。
(了)