六月の外套

 六月十八日のことである。
 例によって太宰が、
「なあなあ中島君、今夜部屋に遊びに行ってもいーい?」
 と、言い出したのが、事の発端だった。
 それだけ聞くとなんだか意味ありげなセリフだが、なんのことはない、太宰は中島の蔵書をタダで借りられることに味をしめているだけである。中島としてもお世辞にも歓迎するという風ではないが、生来の実直さゆえか、よほど別の用事があるとかでなければ断ったことはない。
 それが、その日は珍しいことに、
「え、ええと、今日はちょっと困ります――
 と、断った。特別何か用事や約束事があるというわけでもなく、ただ太宰には来てほしくないのだと言う。
 となると、内心非常にうろたえてしまうのは太宰の方である。口では、
――ああ、そうなの? じゃ仕方ない」
 とあっさり諦めたようなことを言うが、心中穏やかでいられない。そもそも断られるなどと思ってもみない。これまで何度も中島の部屋を訪問したし、本だって何冊も貸してもらった。だから今度だって快く――とは言わずも、許してはくれるだろうと思っていたのに。
 ハッ、
 と、太宰は何か思い当たることでもあったのか、急に自分のチョッキの裾やシャツの袖に鼻先を押し当てて匂いを嗅ぎ始めた。
「何してるんですか、太宰さん」
「え、いや、また香水の匂いが気に入らなかったのかと思って――
 以前そんなようなことがあった。太宰が中島の部屋で本を読んでいる間、主を机に追いやってベッドに寝転がっていたら夜具に香水の匂いが移った。それでひと悶着もんちゃくあったのである。今度もそれかと思ったらしい。
 が、中島は「違いますよ」とかぶりを振っている。
「と、とにかく、今日は困ります」
 と中島はつれなく、太宰をエントランスホールに残して一人で外出してしまった。
 太宰はその後ろ姿が見えなくなるまで見送ってから、「はあぁ」と一人嘆息した。なまじ今まで割合親切にしてもらっていただけにかえってつらい。自分では思い当たることがないが、何かよほど中島の気に障ることをしてしまったのかもしれない。
(結局そうやってすぐ愛想尽かすんだったら、最初から親切そうな顔なんてするなよな――
 と身勝手な文句でひ弱な自分の心を守った。
「ちぇ」
 太宰は両手をトラウザーズのポケットに大袈裟おおげさな動作で突っ込むと、しょんぼり肩を縮めて館内へ戻って行った。


(すっかり遅くなってしまった――
 中島が帝國図書館へ帰ってきた頃には午後七時を回っていた。日の長い時節であるからまだ空は薄明るかったけれど、夕食が始まるのに間に合うかは微妙なところである。
 中島は、小脇に風呂敷包みを大事そうに抱え、自室へ急いだ。
 その途中、廊下で食堂へ向かうところらしい太宰とすれ違った。
「遅かったじゃん」
 と、太宰は声をかけてきた。なんとなくねたような調子だった。
 太宰は、中島が抱えている風呂敷包みに視線を落とした。中島は、まずいところを見られた、というようにそれを抱え直した。
 太宰は別段それは何だと聞いてくることもなく、
「急がないと晩飯間に合わないよ」
 と言って、ぷいと先に行ってしまった。ちょうど昼間とは立場が逆になったような格好になった。
(太宰さん、虫の居所でも悪いんですかね?)
 と、中島は首をひねりながら自室の鍵を開けて滑り込んだ。
 ベッドの上へ風呂敷包みを置いてほっと一息。結び目をほどくと、綺麗に畳まれた黒鳶色くろとびいろ外套マントが出てきた。中島はそれを両手で広げてためつすがめつした。
 洗濯屋に出した後の独特の洗剤の臭いがつんと鼻をつく。
 縫い目はどこもほつれ一つない。外套マントの裾をめくってみると、表と同色の生地が張り直されて新品同様になっている。
 中島は満足して、それを外套コート掛けに丁寧に掛けた。
(明日の太宰さんの誕生日に間に合ってよかった)
 と安堵あんどした。
 太宰の外套マントなのである。それがどうして今中島の手にあるのか、説明すれば、ようするに太宰が質に入れてしまったのを、中島がどうにかこうにか請け出してきたというわけである。
 先月、五月五日――をだいぶ過ぎてから太宰がくれた椰子やしの実の灰皿は今は中島の机の上、書物や人形やら皆からの贈り物に囲まれている。それを買うために太宰は身辺の物を質草にしたらしい。と中島は察した。
(いや、たぶん私への贈り物のためというより、大部分遊ぶお金のためだとは思うけれど――
 まあとにかく、中島は顔見知りの質屋を何件か訪ね歩き、ついに見覚えのある黒鳶くろとび外套マントを見つけた。
 で、店主に頼んで請け出したはいいが、検めてみると、昨冬随分着込まれたらしくあちこち縫い目がほつれて、裏地も傷んでいた。中島は太宰へのお返しのつもりで、それを直しに出したのだった。
(太宰さんが喜んでくれるといいんですけどね)
 勝手なことをしたと怒られたりしないかしらと、心配する気持ちもある。すぐに渡してしまいたい気もするし、明日までは秘密にしておいて太宰を驚かせたいとも思った。
 人への贈り物のことであれこれ悩むのはなんともくすぐったく、しかし、悪い気がするものでもない。
 そうこうしながらふと時計を見れば、もうとっくに夕食が始まっている時刻だった。
 中島は慌てて部屋を飛び出していった。


 太宰はその晩どこかへ飲みに出かけてしまったらしい。
(こうなると外套マントは明日の朝渡すしかないな)
 と、中島も思い、夜は図書室で過ごした。日付が変わる頃まで漢語の勉強をして、部屋に戻ると、暗い廊下の自室のドアの前になにやら黒々した影がわだかまっている。
 中島は初めぎょっとしたが、近づいてみれば妖物の類でもなんでもない。酔っ払って座り込んでいるただの太宰であった。太宰は酩酊めいていして居眠りをしていた。
「え、ええと、太宰さんあの――大丈夫ですか?」
 と、中島が揺り起こすと、太宰は、あー、とか、うー、とか、うめいている。
「どうして、よりによってこんなところで寝てるんですか」
――て言ったから」
「え?」
「中島君が――今日﹅﹅は来るなって言ったから」
「い、言いましたけど」
「じゃあ~~日付が変わればいいんだろ!?
「屁理屈ですよそれは」
 中島の手を借りて腰を上げた太宰は、思ったより足腰はしっかりしていた。頭の方も、口ぶりほどは酔っていないように見受けられた。
――夕飯の前にすれ違ったとき」
「はぁ」
「なんか、これくらいの風呂敷包み、隠すみたいにして持ってただろう。あれ――俺には見せられないとか、そういうこと?」
(鋭いな)
 と中島は内心舌を巻いた。観察眼というか、物事への敏感さはさすが文筆家というところである。
「いえ、見せられないというわけじゃ、ないですけど」
 部屋の鍵を開けると、後ろから太宰が酔った振りをして無理やりついて入ろうとしてきた。
「ちょ――やめてくださいよ」
「いいじゃん、見てもいいんだろ」
 太宰が無造作に中島の肩をつかんだ。太宰にとっては、それはいかにも何の気なしの動作だった。が、中島にしてみれば、暗いところで上から見下ろされながらそんな扱いを受ければ威圧を感じるには十分で――
 ギクリ、
 とした。太宰の方がである。
 急に中島の顔つきがかげったと思うやグイとネクタイをつかまれ、まるで言うことを聞かない犬の手綱でも締めるように引っ張られた。
「げ――
 太宰は前のめりになりながら中島の表情を見た。暗がりでもはっきりわかる鋭い眼光にもう一人の﹅﹅﹅﹅﹅中島の気配を感じて、慌てた。
「うわ待って急に出てこないでちゃんと予告して!!
 いきなりつかんで悪かったから、と、謝った。
―――
 眼鏡の奥でかげっていた中島の表情が不意に穏やかな目つきに戻る。きょとんとして、握っていた太宰の赤いネクタイを離すと、
「すみません――なんだか頭がぼーっとして」
 と謝った。太宰はホッとして襟を直した。
「たいがい過保護だよね、あっちの中島君もさ。部屋に入ってもいい?」
「いいですよ、もう」
「もう一人の方は?」
――いいんじゃないですか?」
「てきとーなこと言うんだから案外」
 とはいうものの、今度はもう一人の中島の気配が現れることもなかった。許可が下りたということなのかもしれない。
 中島が先に室内へ入り、天井の電灯をけ、太宰が後から入ってドアを閉めた。
「まあなんにせよ、もうすぐに六月十九日ですし」
 と中島が言う。中島の視線の先を太宰も追った。
 外套コート掛けに、見覚えのある黒鳶色くろとびいろ外套マントが掛かっているのを見つけた。
「ああっ俺の冬の一張羅――なんだよいつの間に? しかもなんか綺麗になってない?」
「質屋から出したら傷んでたので直しちゃいました。――気に入りませんでした?」
「いやいや助かるって」
 ラッキー、と太宰は嬉しそうにはにかんで外套マントを取ると、気持ちのいい手つきでバッとそれを広げて肩へ羽織った。
「やっぱこれでなきゃ」
「太宰さん暑くないですか」
「暑い」
 と太宰は笑った。
「まあ実のところ、夏の間は質屋に預けておいて、冬になったら返してもらいに行くくらいのつもりだったりしてね。まさか中島君が――とは思わなかった」
――それは、私が勝手なことをしちゃったみたいですね」
「あ、気を悪くした? 俺は嬉しいんだよ、ほんとに」
「太宰さんのその外套マントを見つけて、あれこれ考える間もなく、これは、と思って引き取ってしまったんですよ」
 と、中島はなんだか柄にもないようなことを言った。どこかで聞き覚えのあるようなセリフである。
――へへ」
 太宰は、照れた様子だった。
 むずがゆそうに、しばしもじもじしていたが、どうにもこらえきれず照れ隠しをせずにはいられなかったらしい。外套マントの裾を摘んで、
「ともあれこいつをまたカッコよく着こなして見せるために、冬までは死ねないなぁ」
 などと、ちょっと悪趣味な冗談を言うのであった。

(了)