椰子とラム

 実行しなかった後悔は実行した後悔より重い。などと格言じみた形式の言葉に誰がしたのか知らない。が、中島にも身にしみて覚えのあることである。
「あ、あの椰子やしの実の灰皿、売れてしまったんですか――
 帝國図書館からほど近い商店街の中に建つ小さな骨董店でのことである。
 近頃中島は、外出やお遣いのついでにここへ立ち寄っては、店先に並べてある手頃な陶器などを眺めていた。その中に見つけた、手のひらほどの大きさの、銀で椰子の実を半分に割った形に鋳造した灰皿がお気に入りだった。
 さほど高価というわけでもないが、さりとてすぐに買う決心がつく値でもなく。欲しかったが、なんとなく、買うのを先延ばしにしていた。
(次のお給料が入ったら買おうかな)
 給料日と給料日の間頃になると毎度そう思う。しかしいざ給料日になってみると、細々した日用品や書籍なども欲しい。
 で結局、
(次こそは買おう)
 と思いつつ、店先でうっすらほこりをかぶっている椰子やしの実を通りがかりに眺めていたわけである。
 それがとうとう売れてしまったという。
 その日も中島は椰子やしの実を眺めにやって来て、それがいつもの定位置に陳列されていないことに気がつくとドキリとし、
(あっ――
 と思った。だが、もしかすると店主が品物の配置換えをしたのかもしれない、という望みもあった。
 中島は薄暗い骨董店の内部を初めてのぞき込んだ。店内に人気はなく、古びていて、天井には蜘蛛くもの巣まで張っていた。一番奥の帳場に気難しそうな顔の老店主がじっと座っている。
(こんなのでちゃんと食べていけるんだろうか)
 と、中島は手前勝手な心配をしつつ、それでもなお声をかけるのをためらってもじもじしている。店主の愛想が悪かったら嫌だなとか、別の高価な品物を勧められたらどうしようとか、そんなつまらぬ心配をして。
――あの、ちょっとお尋ねします」
 それでもついに店主へ申し出た。
 わざわざ店先まで出てきてくれた親切な店主は、明るいところで見るとさして怖い顔でもなく、にこにこと愛想がよかった。心底済まなそうに、
「すみませんね、ちょうどお客さんと入れ違いに売れてしまいました」
 と、頭を下げられて、かえって中島の方が恐縮してしまう。
「い、いえいいんです。そうですか、入れ違いに――
 そう言われると、無性に口惜しい気がしてくるのである。アア、やっぱり初めに見つけたときに買っておけばよかった。そういう後悔が押し寄せてくる。
 店主は、別に他の品物を無理に勧めてくるということもなかった。
「近頃は、あなたのような若い人の間でああいう物が流行っているんですか?」
 と、顎のひげでながら首をかしげている。
「さっきあれを買って行ったのも、ちょうどあなたくらいの年頃の若い青年の方でしたよ」


(思えば私の人生はいつもそうだ)
 と、図書館へ帰った中島は、談話室の隅で一人ちんまりとしている。たかだか灰皿一つの話がいつの間にか人生の話にまで頭の中で大きくなっている。
 あのとき決心しておけば。
 自分の人生にはそんなことばかりだ。やってみる前から頭でっかちな心配ばかりして、ぐずぐずして、結局機を逃してしまう。考える前にとにかくぶつかっていけば、案外上手くいったこともあるかもしれない。
 しかし頭ではそう考えることができても、長年身に染みついた心配性。どうにもならない。一歩踏み出す勇気は理屈からは生まれない。
―――
 中島が浮かぬ顔をしていたところへ、
「まぁーたなんか難しいこと考えてる顔してるね」
 とお道化どけた声をかけた人がいる。中島が振り返ってみるまでもなく、太宰治であった。
 太宰は中島の斜め向かいの椅子を勝手に引いて座った。
「はいコレ」
 と、手に持っていた丸い紙包みをさもさりげなく、という風に中島の前に置いた。
「なんですかこれ」
「やっだなー、中島君へのお誕生日プレゼントに決まってるじゃん」
「決まってるじゃんと言われても――私の誕生日はもう十日以上前のことですよ」
「ちょっと遅くなったの」
「ちょっと」
「い、いいだろ細かいことはさ――早く開けてみてよ」
「はあ――
 中島がいい匂いのする包装紙を開いてみると、箱もなくいきなりごろりと中身が出てきた。
 手のひらに載るほどの大きさの、銀製の椰子やしの実の灰皿であった。
「あっ!」
 と、中島は危うく椅子を蹴って立ち上がりそうになった。椰子やしの実と太宰の顔を見比べて、
「私がずっと買おうと思ってたんですよ。太宰さんが横取りした犯人だったんですか」
「ちょ、何の話」
「いや、だからですね――
 中島が一部始終を説明すると太宰は「なんだそんなことか」と笑った。
「よかったじゃん、結局中島君のものになったんだからさ」
「そうですけど――私がこれを欲しいと思ってること、太宰さんは知ってたんですか?」
「まさか」
 とまた笑う。
「だけどいつだったか、中島君、南国に行きたいようなこと言っていたよ。椰子やしの実のジュウスが美味しいだろうとか、実をくりぬいてお土産物にするんだとか。本物の椰子やしの実は重そうだし大きそうだし俺はちょっとなーと思うけど、これなら小さい」
 太宰は中島の手の中から銀の椰子やしの実を取って、優しげな目で見つめながら、自分のたなごころで転がした。中島より手指の長い太宰が持っていると、本当に小さなミニチュアであった。
――お金はどうしたんですか」
 と中島は聞かずにいられなかった。中島でさえ最初ためらった程度の価だったのである。
「お金? お金はさぁ――この間バアのツケ片付けたばっかりで金なくて、なんだ――でもちゃんと一括で払ったからねホント」
 と、太宰はお茶を濁しているが、ようするに身の回りのものなどを売って作ったお金らしいことは中島にも察せられた。
(今度質屋さんでそれらしいものがないか探しておこう)
 と思った。
「私なんかのために、そこまでしてくださらなくても――
「だってさ、骨董屋で見つけて、これだ! って思ったんだよね」
 そんな太宰の性情が、中島にはほのかな軽蔑を感じるとともに果てしなくうらやましい。
 太宰はチョッキのポケットからバットの箱を出して中島へ勧めた。せっかくである。中島もありがたく一本もらうことにした。
「俺も吸っていい?」
 と、太宰も一本くわえて、燐寸マッチで火をけた。そして自分の煙草の先を中島へ差し出した。
「ん」
「私にも燐寸マッチをもらえると嬉しいんですけど――
「火がもったいないだろ?」
 などと太宰がみみっちいことを言うので、中島は仕方なく太宰の煙草から火をもらって、ラムの香りのする煙を味わった。
 ラムは海の酒である。イギリスの船乗りたちはラムを飲んで、椰子やしの生い茂る島々へやって来た。そんな光景を、中島は天井へ立ち上る二筋の煙と、椰子やしの実の灰皿に落とした灰との中に夢想した。いい気分がした。

(了)