カラスの行水
「俺、長風呂なんだよね」
と、そういえば、いつだったか太宰がそんなことを言っていたような気がする。そのときには、
「そうですか」
と聞き流した中島であったが、頭のどこかに引っかかって残っていたらしい。
もう日付も変わる頃になって、中島は一人遅れて浴室へやって来た。
(すっかり遅くなっちゃった。これで仕舞湯かな)
ドアを開けてすぐが脱衣所で、その奥の板戸で仕切られた先が風呂場になっている。
手早く入浴を済ませて出ようと衣服を脱ぎ始めた中島の耳に、ふと、風呂場の方から、
〽夢が浮き世か浮き世が夢か、夢てふ里に、住みながら、住めば住むなる世の中によしあし
と風呂場の方から反響して、湯船でいい気分になっているらしい、気持ちよさそうに唄う太宰の声が聞こえてきた。
中島は板戸を細く開けて中を
風呂場の方は、体を洗う流し場と、一度に四、五人は入れる浴槽とに分かれており、太宰は浴槽の隅に肩まで
板戸の開いた音で、中島と目が合った。
「ひえっ! な、中島くん? やだなぁ聞いてた?」
中島は湯気で曇った眼鏡を額へ上げ、目をうんと細めた。
「太宰さん一人ですか?」
「そ、そうだけど――」
一旦板戸が閉められ、ややあってから裸体になった中島が改めて戸を開けて入ってきた。中島は白い木綿のタオルを片手に流し場の方へ行ってしまった。
太宰は
「助平ですね」
とは中島は言わなかったが、視線を感じるらしく、小さくなって体を洗い始めた。
太宰はなんとなく悪いことをしたような思いがして、中島に背を向けた。浴槽の縁に両腕を乗せた。その上に頭を預けた。
中島がタオルで体をこすっている気配と、排水口へちょろちょろ流れる水の音と、湯船にゆらゆら波立つ音ばかり背中で聞いている。
やがて、中島が体に湯をかけた音が聞こえ、湯船の方へ入ってきた様子を感じた。こちらを見られているような気がした。
「すけべ」
と太宰は言ってみた。中島が、湯の中で身じろぎした気配――
「――別に、何も見えませんよ」
と中島が言った。
「ああ、それもそっか」
太宰も合点がいった。振り返って見ると、中島は浴槽の反対側の隅にいて、さらし首のごとく顎から上だけ水面に出している。距離にして二メートルほど。
「眼鏡がないとほんとに見えないんだなぁ」
「嘘じゃないですよ」
「いや、疑ってる訳じゃないんだけどね」
太宰はへらへらと笑いながら、手を水底に着きながら、じわじわと中島の方へ近寄ってくる。ちゃぷちゃぷと湯船に
二人の距離は一メートル余りになった。
「見える?」
「見えません」
太宰はさらに近づいた。中島ははなから隅にいるので逃げ場もない。
鼻先三十センチまで近づいた。
「これなら見えるよね?」
「――見えません。もっと近くに来てくれないと」
「―――」
二人の間の距離がなくなった。
しばしの
「へへ――」
と何かむずがゆそうな顔をしながら、
中島は間近にある太宰の二の腕から肩の方へぺたぺたと手を触れてみた。存外
「くすぐったいよ」
太宰はそっと逃れた。そのことを
太宰は体を離すと湯船を出た。
「カラスの行水」
と中島が言った。太宰が振り返って見ると、中島は鼻先まで湯に沈んで、不服そうにぶくぶく泡を吹いている。
「――カラスの行水って言いますけど、太宰さんは長風呂だって言ってませんでしたか」
「いくら俺が長風呂でも、これ以上はのぼせちまいそうだから、ね」
と、太宰は冗談めかした口調で言うと、板戸を開けて脱衣所の方へ姿を消してしまった。
〽夢が浮き世か浮き世が夢か――と、戸の向こうで太宰がまた機嫌よく唄い出した声を中島は聞いていた。やがてその声も止み、太宰の気配はしなくなった。
中島は一人広い湯船を味わった。どうせ仕舞湯だろうと思って子供のように湯にもぐったりいっぱいに体を伸ばしたりしてみた。
そうして気が済んでから出ると、脱衣所を出てすぐのところで、太宰が壁に背中で寄りかかって待っていた。
「ひやっ!」
と中島が驚いて飛びのくと、太宰は心外なという顔をした。寝巻らしい丹前に細帯を締め、まだ湿ったままの前髪が額に張り付いている。
「へくし!」
太宰は派手なくしゃみを一つした。中島が
「長風呂をしても湯冷めをしてたら意味がないんじゃないですか」
と言うと、太宰はにやにや笑って、
「これから中島くんにあっためてもらうんだからいいのさ」
と、
(了)