青は藍より出づ
「太宰、おい太宰、大丈夫か?」
井伏が手を伸ばして、テーブルへ突っ伏してうとうとしている太宰の頬をぺちぺちと
対して井伏はゆっくりゆっくり飲んでいる。
「昔から変わっていないなぁ、せっかくいい酒と
と、頬を
「うぅ――」
と太宰がうめく。
「いぶせ先生」
「お、起きたか太宰。吐くか? 吐きそうか? 手洗いは右の奥だぞ」
手洗いは店の左手の奥である。井伏も正気なようでいて、案外酔いが回っているのかもしれぬ。
太宰はむにゃむにゃと
「髪に触らないでくださいよ――髪型が乱れる」
とかなんとか、文句を垂れている。井伏は苦笑して、手にした杯を空にした。最後の一滴まで唇に押しつけた。
「あぁまったく、可愛げのないやつだよお前は」
「そんなことはないです」
「師匠の俺より芥川のケツばかり追いかけてるしな」
「うぅ」
と、太宰が決まり悪そうにテーブルの端へ伏せる。「本気にしなくていいんだぞ」と井伏は笑っている。
結局すっかり
「太宰、起きてるか? 寝てるのか? おい、重いぞ」
どうにかエントランスホールまで
「おっ、中島君、ちょうどいいところに。すまないが、ちょ、ちょっと手伝ってくれ――」
と呼び止められた中島が「えっ」とそちらを見ると、玄関先で井伏が太宰を半ば背負うようにしてうずくまっていた。慌てて駆け寄って手を貸した。
「だ、大丈夫ですか? うわ、お酒臭いですね――」
ことに太宰の方は思わず顔をそむけたくなるほどの臭気を放っている。しかも夢うつつで足腰が立っていない体は鉛のように重い。
「ああ、助かった」
と、井伏がすっかり手を離してしまうと、中島の細腕では太宰が倒れないように支えるので精一杯だった。
(て、手伝うとは聞きましたが丸投げにされるとは聞いてませんよ)
と文句を言えない自分が情けない。こんなときにこそ“彼”が出てきてくれたらと思うのだが、「馬鹿の相手は俺の役目じゃない」とでも言いそうなもう一人の中島は沈黙しているばかりである。
「大きな子供をおんぶするのはオジサンには腰にこたえるよ。――悪いが中島君、後を頼まれてくれないか。オジサンちょっと手洗いが近くて――」
「えっ! ま、待ってください」
井伏は本当に小用が切羽詰まっていたらしく、そそくさと手洗いのある方へ向かったつもりらしいがてんで逆方向に走って行くので、
「井伏さん、お手洗いはそっちじゃありませんよ!」
と中島はつい井伏の後ろ姿へ大声で呼びかけた。
その声で太宰が目を細く開けた。まだ夢の中にいるような目つきで遠ざかっていく井伏の背を見て、声にならない声を漏らした。
井伏先生置いて行かないで――と、中島には聞き取れた。
「太宰さん、目が覚めましたか?」
と肩を揺すってやると、太宰はようやく、はたと覚醒したらしい。ぱちぱちとまばたきをした。
「あ――?」
「井伏さんが図書館まで連れて帰ってくださったみたいですよ。一人で歩けますか?」
「――いやダメみたい」
太宰は、中島の体へだらんと寄りかかってきたが、それがフリであるのは明らかだった。中島は太宰を押し返した。
「ごめん」
と太宰は謝った。
「部屋に帰って寝るわ」
と、言う。中島が太宰と別れて自室へ戻るために歩きだすと、しかし太宰が後をついて来るのがわかった。ふらついている足音を隠そうともしない。
中島の部屋へ「お邪魔します」とも言わずに入ってきて、奥で寝巻に着替えている中島にまとわりついた。
「さっき、何か夢でも見てたんですか?」
ふと、中島が問いかけた。
「?」
「井伏さんが行ってしまったときのことですよ」
「ああ――」
太宰は勝手にベッドへ座り込んで、編み上げの靴の紐を頼りない手つきで解き始めた。
「ちょっとね、昔の夢」
「昔っていうと、転生する前のですか?」
「うん、大戦のときに文士徴用があってさ――そういやあのとき、中島君は本郷にいなかったな」
「そう、だったでしょうか。よく覚えていませんが――」
「そのときに井伏先生だけ合格しちゃって、先生は南方に行く羽目になったってわけ」
その夢を見ていたのだと言う。
「まあ先生は案外早く帰って来れたんだけど。徴用決まったときは、さすがに弟子としちゃ寂しく思うじゃん」
太宰の口調はお
「太宰さんは一緒に行かなかったんですか」
「俺? 俺は肺が悪かったから――」
と言う声は心細そうに消え入った。
聞いてはいけないことだったかもしれない。と中島は思った。
「すみません。聞かない方がよかったですね――」
と謝ると、太宰は、
「別に謝るようなことでもないでしょ」
と肩で笑った。
やがて中島は身仕舞いを終え、部屋の明かりを消してベッドの中へ潜り込んだ。太宰にも「入りますか」と尋ねたが、太宰は、自分は机でも貸してもらえればそれでいいと断った。
中島はじきにうとうとし始めた。まどろみながら、太宰が掛布団の端をめくって隣へ入ってきたのがわかった。
しばらく寝たふりをしてから、そっと目を開くと、太宰はこちらに背を向けて寝ていた。眠ってはいないだろう。不眠症の彼のことだから。
「―――」
中島は目を閉じて、心の中で、自分自身に向かって何やらあれこれと言い訳をした。それからやっと決心をして太宰の方へ身を擦り寄せる。太宰は一瞬体を
そのままどれくらい時間が過ぎたのか、
「俺の胸ヘンな音する?」
とふいに太宰が低い声を発した。中島はかぶりを振った。
「変な音はしませんが――」
「そりゃ、よかった」
変な音はしないですけど、脈は倍ですよ。と中島は言おうかと思ったけれど、太宰が可哀想な気がして黙っていた。
太宰は、静かに寝返りを打ってこちらへ向き直ると、長い腕を中島の体へ巻きつけるように伸ばしてきた。
「カッコつかないよなぁ」
とバツが悪そうにつぶやく。中島は慰めてやった。
「寂しがるのは、別に、カッコ悪くはないですよ。ましてや、師と離れ離れになって寂しく思わない人なんて」
「そうじゃないんだ。そう思うのは人情だとしてもだよ、そういうところをさ、見せたくなかった相手だっているってこと――」
と言って、太宰は中島へ長い接吻をした。唇を離さないままで掛布団をつかむと、二人の頭の先まで引き上げてしまった。
(了)