秘密です
「あっぶ――!!」
危ない、と声を上げて太宰は、エントランスの階段で足を踏み外した中島の体を抱きとめた――まではよかったが、思いの外勢いがついていたので支えきれず、一緒に数段ばかり転げ落ちてしまった。
「いたた、うぅ、くそ――手が――」
中島を抱えて倒れたとき、咄嗟に右手を段の上に着いて踏みとどまろうとした太宰は、骨折は免れたが手首を捻挫して、医務室の鴎外を「太宰君、君もか」とうならせることになったのであった。
で、助けられた中島は、利き手を怪我して動かせず潜書の他は日常生活にも難儀している太宰を見舞って彼の自室を訪れたというわけである。
「すみません太宰さん、あの、私のせいで――これお見舞いです。よかったら」
と言って、菓子の包みを差し出す。中身は片手ですぐに食べられる桜桃の砂糖漬けだった。
「太宰さんの好きな電気ブランにも、きっと合いますよ」
とも言う。
「じゃあ、夜に食うかな」
と、太宰は機嫌よく受け取ってくれた。中島は改めて太宰に怪我を負わせたことを謝った。太宰の方は、さして気にしている風でもなく、
「いーっていーって、ま、俺が勝手に助けたわけだしさ」
「いえ申し訳ないですよ、やっぱり」
「気にするようなことじゃないのになぁ」
と言いながら、ついうっかり包帯巻きの右手を伸ばして机の上のノートを端へ追いやろうとして、
「いてて」
などとやっている。中島は太宰のそばへ寄って、代わりに机上を片付けた。
「こっちに物を寄せればいいんですか?」
「ああうん、もらったお菓子置きたいだけだからさ」
「その様子じゃ毎日の寝起きも大変なんじゃないですか――?」
「そうでもないけど? 安吾やオダサクが頼んでもいないのに世話してくれるし――あいつら人のこと面白がって着替えのときにダッサい服着させようとするんだよなぁ、覚えてやがれっての」
と憎まれ口を叩くが顔はへらへらと笑っている。
「飯は食堂の方で気ー遣って食べやすい物を出してくれるし、風呂とかも一人で結構なんとかなってるし」
「ちょっと、意外ですね」
「何が?」
「いえ、それは、その」
と、中島が言い淀んでいるのを見て、ははん、と太宰は察して、
「華々しく心中未遂したとかならともかくさぁ、こんな捻挫程度でちやほやされたら逆にカッコ悪いだろう」
と言う。
「カ、カッコ悪くはないでしょう、私を助けようとしてくれた怪我なんですし」
「―――」
そうかな? と、太宰はワンテンポ遅れて額など掻いている。中島は、あてが外れた気分であった。いっそ、太宰の方からちやほやしろと言ってくれれば、こちらも仕方ないからとそうしてやって、負い目を感じずに済むのだが。などとずるいことを考えている。
「太宰さん、あの、他に何か不便はありませんか?」
「――ないこともないけど」
えっ、と中島は愚直に太宰の言葉へ飛びついた。
「な、何ですか? 私にできることならお手伝いしますよ」
「まあ――そのぅ、オダサクたちに頼めないことではあるんだけど」
「というと?」
「いやぁ――」
「何なんですか」
太宰がやたらと言い淀んでいるのが焦れったく、「言ってくださいよ」と中島はせっついた。するとようやく覚悟を決めたような顔をして、太宰は、自分より少し背の低い中島の耳元へ屈み込んで口を近づけ、
ごにょごにょ、
と中島にしか聞こえないようにそっとささやいた。
途端に、中島は首まで真赤になった。どころかいささか顔つきが険しくなったのを見て、太宰はぎくりと大袈裟に後ずさりをした。
「うわっ! ちょちょ、あっちの中島君になるのは勘弁して! わ、悪かったからさ――」
だけど仕方ないじゃん、と口を尖らせる。
「俺だってこんな若くて健康な成人男子に転生しちゃったんだからさぁ、そりゃ、わかってほしいというか」
「――わからないとは言ってないです」
中島は眼鏡を押し上げるふりをして赤らんだ顔を隠した。声色からして“表”の中島のままらしい。太宰はほっとした。
「そ、そう――そりゃ、よかった」
「て、手伝ってあげればいいんですか?」
「えっ、何を!?」
中島にすれば先程のたった一言でも意を決した言葉だったのかもしれない。やりきれなさそうにうつむいた中島の顔を見て、太宰は自分の道化が随分悪者になったような気持ちがした。
「中島君、ほ、ほんとにしてくれるの? 無理しなくてもいいんだけど」
「そうやって情けをかけるのやめてくれませんか――」
と言われると太宰には返す言葉がない。ベッドの上に両足を伸ばして座り込んで、トラウザーズのボタンを左手だけで外した。
中島はベッドの縁に腰掛けて太宰の手元をじっと見ていた。カーテンを引いた室内はほんのりと暗かった。
「ええと、では、その――」
「よろしくお願いします――」
と色気のない台詞を交わして、太宰が居住まいを正すと、開いたトラウザーズの穿き口へ中島の手が伸びてきた。が、一旦、思い直して離れた。
「やっぱ、よしとく?」
「いえ、そうではなく――」
中島は手にはめた黒い手袋を脱ぎ捨ててから、改めて触れてきた。ほっそりとした白魚のような指の先が太宰のトラウザーズの中へソッと潜り込んだ。で、中島は妙な顔をした。
太宰にも、中島が何を思っているのかはだいたい察せられた。
「しょうがないだろ――こんな状況じゃ興奮するより緊張しちまうよ」
と言い訳がましい声を上げる。
「春本でも見ますか?」
「見れないでしょ! 中島君の目の前で!」
「そ、そういうものですか」
困りましたね――とつぶやきながら、中島は、つ、と太宰の下穿きの中へ手を差し込んだ。太宰がうめく。
「あの、太宰さん、その、いつもはどんなふうに」
「どんなふうにったって――そんなのみんな一緒じゃないの」
「そういうものでしょうか――」
中島はおずおずと手を動かし始めた。
「う――」
あぁ――と太宰がため息を漏らし、目をきつく閉じて眉根を寄せる。中島はそんなことになんとなく満足感を覚えて、五本の指を陽根へしっかりと巻きつけた。
「あ、あのさ、よかったら――」
と、太宰が言う。薄目を開けて、照れくさそうに中島の方を見ないように目をそらしながら。
「中島君が自分でやってるようにしてくんない」
「―――」
「いや?」
「いいですよ――」
と請け負ったが、自分の愚息と他人のそれでは随分勝手が違う。
「人のだと難しいですね、やっぱり」
「いや――いいよ、すげーいい――」
と、太宰は演技でなく正直に言った。中島の手は強く握って動いたり、指を解いてなだめるように撫ぜたりを繰り返していた。時折、焦らすようにして指先だけで陰嚢の方までなぞって行ったりもする。
「ん、ッ――」
ぐび、と太宰の喉が生唾を嚥下して大きく動いた。中島は気をよくして薄く笑った。
「自分でしててもそうやって、人にするみたいに焦らすわけ?」
「少し――」
恥ずかしそうにはにかんだ中島の表情と口ぶりに、太宰は何か性的な秘密を嗅ぎ取った。ほとんど直感的に、それは、自分の嫉妬心を刺激するような秘密に違いないと思った。
「いつも何考えてしてるんだ?」
と低い声で中島へ問うた。
中島は答えない。
「教えてよ」
「秘密です」
「じゃあ俺のこと考えたことある? 俺と寝たときのこと――」
と畳みかけた。
「――秘密です」
太宰はやにわに左手を中島の背へ回して抱き寄せると、風のように中島の唇を奪った。すぐ離れて、眼鏡が邪魔だとぼやいて、中島のややずり落ちかけていた眼鏡を外して畳みもせずに枕の上へ置いた。
そうしてから再び接吻した。今度は性欲を露わにして貪った。
「ん、んッ、太宰さん――!」
中島は羞恥心から太宰を押し返そうとした。が、反対に強く抱きすくめられた。太宰は痛めた右手も中島の体へそっと這わせた。
「中島君、手」
と乱れた息でささやく。
「止めないで。もうすぐだからさ――」
中島は、手中で脈打った陽根を思わずきつく握り締めた。すると太宰が、痛いと情けない声を出した。
「すみません――」
手の力を緩めて、陽根の先から根元まで大きく扱いた。先端に先走ってにじんできた体液を塗り付けるようにして動いた。太宰に口を吸われているうちに、
(あ――)
と気が遠くなってきた。
太宰が食いしばった歯の間からうめき声をもらし、一際体を強張らせて達したときも、中島はただぼんやりと太宰の肩に寄り掛かったまま荒い呼吸を繰り返していた。
「あっやば、ちり紙間に合わなかった」
「馬鹿」
と、急に中島が怖い声を出したので、太宰はギクリとして、
「えっ?」
慌てて、中島のうつむいて垂れた前髪を掻き上げて顔を見た。
「――あまり“奴”を追い詰めるな」
と中島は言った。
「いや、別に追い詰めたつもりはないんだけど――実際どうなの? さっきの話」
「秘密だ」
「それって、つまり俺の考えが正解だってこと?」
「お前の考えていることなど知らん。ただ――“奴”が多少の罪の意識を感じていたとだけ言っておく」
中島は太宰の肩に額を押しつけて、じっとそのまま動かないでいる。
太宰には、そんな中島の姿が無性に愛おしく――性愛的な意味よりは、むしろ人間的に――感じられた。半分お道化て、もう半分は真剣に、
「あのさぁ、俺、もう一回くらいは大丈夫そうなんだけど」
とささやくと、
「そういうことは“奴”の担当だ」
と、大真面目に叱られてしまった。
(了)