ふたり遊び

「わ、私は、喘息の気がありますから、お、お酒は控えているんですが――
 と、しきりに照れながら言う中島に、あの酒乱の連中ときたらなんやかんやといちゃもんを付けて三杯も四杯も立て続けに飲ませた挙句、中島の酔態が情けないと笑ったのである。
 恥ずかしがり屋の中島にはそれが大変に堪え、ほうほうの体で酒盛りの席から逃走した。その背に向かって、
「あんだよ、付き合いの悪いヤツだなぁ、おめえ」
 と、つまらなそうに、はばかりなく大声で吐き捨てたのは不良詩人の中原中也であった。が、酩酊と羞恥心で心が千々に乱れていた中島にはそれが誰の声であるかもよくわからず、ますます恥ずかしそうに小さくなって寝室へ逃げ帰った。
 暗い部屋で一人きりになると、ようやく人心地がついた。
「ああ、ひ、酷い目に遭った」
 アルコールによる喘息の発作を生じなかったことだけが不幸中の幸いであろう。
 ほーとため息をつき、明かりも点けずに寝台の端に座り込んだ。その呼気の酒臭さに自分でも辟易してしまう。頭の中はもやがかかったようにぼうっとしている。そのまま寝床に横になりたいという欲求がむらむらとへその辺りから湧いてくる。
 中島はのろのろと重い腰を上げて身仕舞いをした。
 寝巻に着替え、寝台へ這い上がった。眼鏡を外して枕元の卓へ置くと、周りの世界はみな滲んで、自分一人が闇の底に沈んでいるような心持ちがしてくる。
 寝床へ入り、掛布団を鼻先まで引き上げる。
 横になってもなお、酔いのために頭はぼんやりしている。目をつぶってみたが、案外すぐには寝付けず、先程酒席で嘲笑われたことなどが脳裏にちらほらと蘇ってくる。
 強い羞恥心が中島の体をさいなむ。
 掛布団の下で嗚咽を漏らし、そのときふと気がつくと、中島の右手は知らず知らずのうちに脚の付け根へ向かい、その辺りを手のひらで慰めるように撫で回していた。
 一瞬、中島は酔いも覚めたようになり、びっくりして、慌てて手を背中の方へ遠ざけた。
「わっ!」
 と、思わず悲鳴まで上げてしまう。急に胸がドキドキと早鐘を打ち始める。
(今の体でもこんな欲求があるものなのか)
 冷や汗の出るような発見であった。身も心も昔よりもっとわけのわからないものになってしまった自分だが、少なくとも身の方は結構以前と変わらぬらしい。
 触りたいと思うのは、欲情というよりは安心感を得たいがためであった。中島は、誰にともなく恥じながら、背中に回していた手を前に戻した。
 このような“不自然な性行為”を覚えたのは、確か(旧制)中学四年生頃のことだったかと思う。そのときもやはり寝床の中で、誰に教えられるでもなく、ある晩ひょいと覚えたのであった。
 若年の頃のそれは、ただただ肉体の愉楽を追い求めるようなもので、時も場所も選ばずに衝動的に欲するようなものだった。それが年を長ずるにつれて、精神的な慰めや言い訳、どうしようもない罪悪感を伴うようになった。
「うぅ――
 かすかな呻き声が寝床へ染み込んでいった。アルコールの臭いのするため息が熱い。
 初め、寝巻の上から恐る恐るさすっているだけだった右手の動きが、だんだんと熱っぽくなってくる。
「んっ――
 今度ははっきりと性的な快感を求めて五指が動く。とうとうそれが寝巻の中まで忍び込み、手首から先を蛇のようにうねうねうごめかす。
 脳裏にはいろんなことがとりとめなく浮かんでは消えた。少年の日に友人たちと回し見た春画のこと、京城で春を売る少女のこと、童貞を破った思い出、南洋パラオで夾竹桃の家に住む女と見つめ合ったこと、麻雀クラブで妻と出会った日のこと――それぞれが少しずつ欲望を掻き立てては消えていった。
 一つの想いに集中することができない。
 手指は懸命に働いているのに、今ひとつ気持ちが乗り切らない。
(もどかしい――
 こんなときにまで中島の思索の悪癖が邪魔をする。
――はぁ、はぁっ」
 少し疲れてきた右手をだらりと休ませ、指先だけ動かして、愚息の裏側を上に下になぞった。
(こんなことさえ、我を忘れてするということができないんだ、私は)
 ああ――とため息のように深い息を吐く。いつもこうだ。
 自己嫌悪で冷めかけてきた心に、ふと別の考えが浮かぶ。中島は昔から、自分の内側に器械人形の操り手のような存在があって、身体の何気ない動作などその操作によるものではないのかと感じることがあった。“私”とは私のどこに存在するのかと悩むのに馬鹿馬鹿しいほど長い時間をかけたことも多い。
(私を操る者――私の主人、か)
 それは、近頃ちょくちょく現れているらしい“彼”なのだろうか。いつも“私”の外から“私”を見つめている“彼”なのだろうか。本当は、“彼”が主で“私”が従なのではないか。
 と、思索というよりは単なる空想の類だったが、それが実に危険な空想であった。
 どくり、と中島の胸が高鳴った。
「っ――
 にわかに手指の動きへ熱が戻る。
 冷えかけていた心に再びぽっと火が点いたかと思うや、油紙をめろめろ舐め広がるように大きく燃え上がる。
 私の主人たる彼がこのような不自然な性行為を望んでいるのだ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅という想像が、中島をわけもわからず興奮させた。愚息をなぶる指が自分の指ではないように感じられた。
「っあ、あっ、く――!」
 思わず切羽詰まった声が漏れそうになって、慌てて顔を枕に押しつける。
「ふぅ――
 熱い吐息を綿の中へ吐き、且つ吸う。
 手のひらにぬらぬらと濡れた感触がする。先端から滴る汁を塗り付けるように手首を深く曲げて使う。
(助平野郎)
 と、頭の中に“彼”の声がした。
 否、本当に“彼”が喋ったわけではなく、中島の妄想が生んだ声であった。それは中島自身にもわかっていた。“彼”は中島の耳元で、とろけるように甘い声色で責め立ててきた。
(なに、助平大いに結構。そうだ、そう、手を止めるなよ。素直に振る舞えばいい――俺のことが好きなんだろう)
 “彼”は中島の肉体の弱点を全て知り尽くしていて、そこを執拗にもてあそぶ。
「うっ、うぅ」
 中島は声を押し殺してうめいた。腰から下がガクガク震え出しそうなほど気持ちがよかった。
 “彼”が意地の悪い口調で繰り返す。
(好きなんだろう)
(ち、ちが、違います――
 と中島は“彼”に反駁しようとしたが、手の中の物が硬く張り詰めて、体中の血液が煮え立っている有様ではどうにもならない。
 “彼”はさらに言う。
(何が違う? お前は昔からそうだったじゃないか。俺のことだけ愛しいと思っていたじゃないか)
 そう、“俺”のことだけ――と、“彼”は反芻するように口の中でその言葉を転がしてから、言い方を変えて吐き出した。
自分﹅﹅のことだけ愛していたじゃないか――
(や、やめて)
(やめない)
 と“彼”は笑った。
(そうやって羞恥心にまみれているのだって、結局は我が身可愛さなんだ。俺たちの他は誰も見てやしないのに、何を恥ずかしがることがある?)
(やめてくれ――
(自分は本当はこんないやらしい人間じゃない、と誰に向かって言い訳してるんだ?)
(やめて――
 いやだ、やめて、と思いながら快楽を貪る。
 “彼”になじられればなじられるほど気持ちがよくなるような気さえするのである。
「はぁ、はぁ、はぁ――
 息が上がっている。
 真っ暗闇の中で、自分の息遣いと、少々乱暴なくらいせわしなく動く手が布団とこすれる音だけを聞く。そうやって虚しく時間が経つにつれて、頭の中にいた“彼”がほろほろと解体を始めたのが中島にはわかった。
 文字を眺めているうちに、意味の無い線の交錯としか見えなくなる。ちょうどあんなようなものだ。所詮は自分の妄想の産物に過ぎなかった彼は、一歩離れて見ればただの不格好な無意識の集まりであった。
(ああ待ってくれ、醒めないでくれ)
 まだ最後の高みまで達していない。いつもこうだ。
 中島は、脳裏から消えゆく“彼”の幻想に追いすがり自慰にのめり込もうとした。もう少しでいい、酔っていたい。酔わねばならぬと思うほどに息が詰まりそうになる。
 荒々しく呼吸をした。と同時に、大きく、唸る虎のような低い声で喘いだ。

   * * *

 はた、
 と中島が目を開けると一面の闇であった。
 初め、
「えっ――
 といささか間の抜けた声が出た。が、すぐに事情は飲み込めた。目覚めた場所がいつものような戦いの場でなかった上、自分の意思ではなかったから、少し戸惑っただけだ。
 中島がいたのは“奴”の寝床の中だった。枕から顔を上げ、目が闇に慣れてくれば、部屋の中の様子もなんとなく見て取れる。
「ちっ!」
 と、舌打ちをした。夜中意味もなく叩き起こされたような気分だった。不機嫌を隠そうともしない。
 中島はおもむろに寝返りを打って仰向けになった。自分の下半身の異常はあまり直視したくなかったが、そうもいかない。
 どういうわけで“奴”が急に内側に引っ込んでしまったのかわからないが、何もこんなときにと文句の一つも言いたくなる。
 “奴”がいきそびれた男性器は腹に付くほどそり返って、早く続きをしてほしそうにひくついていた。
―――
 中島はまぶたにかかる邪魔な前髪を掻き上げ、うなじまで撫で付けた。それからその手を目の上に置いて、ついさっきまでの“奴”の所業を一つずつ思い出していく。
 中島は、しばしその格好のまま微動だにせず固まっていた。
 そしてだいぶ経ってから、
――馬鹿なんじゃないか?」
 と、ぼそりとつぶやいた。本心からそう思った。
「馬鹿か。何を考えていやがるんだ“奴”は。よりにもよって俺のせいにするやつがあるか、あんな」
 俺がお前にあんなことをすると思っているのか。と、腹立たしいような、悲しいような、切ない気持ちがした。
 いくばくの間、その気持ちに浸った。
 やがて、中島はまぶたの上の右手を下ろした。その手を、そろそろと、床を這わせながら、脚の付け根へ向かわせる。触れると、そこはまだ熱を失っていなかった。
 自分で慰めたわけではないのに、手の先には感触の覚えがあり、体が快楽を記憶しているというのは妙な感覚である。
「っ――
 裏側を指先で上下になぞる。
 根元を握って先まで滑らせ、先端から滴る体液をすくって塗り付けた。
(やっていることが“奴”と同じじゃないか)
 と、我と我が身に閉口してしまう。
 だいたい、“奴”の弱いところも、どうされたら気持ちいいのかも、自分が知り尽くしていて当然なのだ。二人は一体なのだから。
 恋しい相手と一つになれない苦悩は世間に多いが、本当に一つであったらあったで悩ましい。
「う――っく――
 “奴”が執拗になぶっていたのと同じところを中島も愛撫する。
「こうやって俺が慰めてやればお前は満足か?」
 と、“奴”に言ってやりたい気分だった。
「は、はぁ、はぁ――
 “奴”がほとんど達する直前まで昇りつめていたせいで、あまり長くはもちそうにない。
 “奴”は俺の所業に気がつくだろうか。つかないのじゃないか。このまま頂にまで達させてやっても、目覚めれば単なる夢精だと思い込んで、それに自己嫌悪して、また俺をダシに自己呵責に浸るのじゃないか。と中島は思った。
 どうにも、癪に障る。
(俺のことが何もわかっちゃいない)
 と、怒りとも悲哀ともつかぬ切ない感情が、またも胸中にふつふつ湧き出してきた。
「いい加減悟れ」
 と唸るような声が漏れた。
 そのとき、中島はふと思いついて、一旦愛撫の手を止めると、焦れったいと訴えてくる愚息を放っておいて、両足を行儀悪く使って掛布団を足元へ蹴り寄せた。
 両手を寝巻の胸元へかける。力を込め、前合わせを左右に引きちぎった。
 糸の甘かったボタンが、ニ、三個ぷちんと飛んで寝床の上に転がった。残ったボタンは一つずつ外して前を開く。
 暗闇に、生っ白い痩せた裸体がぼんやり浮かんで見える。念を入れて腹の辺りにしっかり爪痕でも残しておいてやろうか、といささか嗜虐的なことを考えぬでもなかった。が、本当にそれができるかと問われれば、できなかった。
 中島の手が自分の(“奴”の)胸板を這う。腹の上を通り、脇腹、太ももとゆっくり滑り下りて、鼠径部へ到達する。待ちかねていたところをそろそろと撫で回した。
「っ、は――
 焦れた分余計に気持ちがいい。
 中島の手つきは“奴”ほど乱暴ではなく、むしろ優しかった。潤んだ先の方を掌で転がしたり、根元まで指を絡めたり、承知し尽くした動きで慰めた。
 口元が吸い付く先を求めるように、ゆるく開いたり閉じたりする。漏れる息が熱い。
 限界が間近に迫ると、真ん中より少し上の方を握って小刻みに愛撫した。
「あっ、く、っ――!!
 足先から頭頂まで刺し通すような強い愉楽を感じた。
 両足の指を寝床へ突き立ててこらえた。
 どろどろした精液が生白い腹を汚した。跳ねながら射精を続けるそれを最後まで指でなだめてやった。
 そうしていってしまって、快楽の波が引くと、途端に、
「ああ――
 とため息が漏れる。馬鹿なことをしたと思う。
(お前のせいだ)
 と、内心“奴”へ文句を垂れる。ただしそこに怒りはない。どうしようもない奴だという、愛着があるばかりである。
 眠りたい。ゆっくり。と中島は思い、目を閉じた。こんなとき一人で眠らずに済むのだから、一つ体というのも悪くはない。

   * * *

 はっ、
 と中島が次に目覚めたときには、それからどれくらい時間が過ぎていたものか知れない。
「えっ――
 と間の抜けた声が出た。どうして眠っていたのだろう。と考えるより先に、
「くしゅん!」
 とくしゃみをした。やけに寒いと思ったら布団を掛けていなかった。寝床に掛けたシーツも乱れて、半分剥がれている。おまけに、自分が寝巻をぼろ布のように四肢へ巻きつけているだけの姿をしていることに気がつき、
「ひえっ!」
 と、思わず悲鳴まで上げてしまう。腹の上にまだ瑞々しい精液がこびりついているのを見て、かっと顔に血が上った。
 初め、夢精をしたのかと思った。随分酒が入っていたことだから、自慰の最中に眠りに落ちてしまって、そのまま――しかしそれにしては、今の自分の姿は異様としか言いようがない。
 次に思いついたのは、自分には夢遊の気があって、眠りながらに自慰の続きをしたのでは、ということだった。が、それもありそうにない。そんな兆候は今までなかったし、それに、見れば寝巻のボタンが引きちぎられてなくなっている。自分にこんな臂力は出せないはずだ。
(と、なると)
 あとは“彼”の仕業だとしか考えられない。“私”と“彼”と二人で一つの体を使って痴戯にふけったのか。
 中島は顔どころか全身が朱に染まりそうなほど恥ずかしくなって、枕にこめかみを預けて呻いた。
(“彼”はどんな気持ちがしただろう)
 自分の醜態を見て、“彼”はどう思ったかしらと、そのことばかりで頭がいっぱいになる。妄想の中の光景と同じように、自分をひどくなじっただろうか。
 それともあんな不埒な妄想をしていたことさえ“彼”には筒抜けで、私に腹を立てただろうか。だからこんなめちゃくちゃな有様にされてしまったのか。
 羞恥心に打ちのめされていた心を、
「くしゅ」
 という小さなくしゃみが現実に引き戻した。
 ともかくこのままでは寝られないからと、枕元の眼鏡を取って掛け、電灯に明かりを入れた。寝台に起き上がって、汚れた体の始末をした。
(そういえば)
 と、体を拭きながら気がついた。
 “彼”は寝台や寝巻こそしっちゃかめっちゃかにしてくれたが、体には、どこにも、かすり傷一つ残していかなかった。
 思えばいつもそうだ。“彼”は自分の代わりに戦ってたくさんの傷を引き受けてくれる。深い傷を受けたときなど、それが癒えるまでの間苦しんでいるのは“彼”の方らしい。自分は長い間“彼”の陰で眠っているばかりだ。
(どうして私なんかにそこまでしてくれるのか)
 中島にはわからなかった。
 寝巻のズボンは穿き直したが、ボタンの取れた上着はどうにもならない。しかもボタンの一つは寝台の下にでも落ちてしまったようで、探そうにも朝にならねば埒が明かなさそうだ。
 仕方なく寝巻の前を掻き合わせただけで寝床に入った。
 電灯を消して、眼鏡を外した。
 酒が残っているのか、少し頭が痛かった。
 目をつぶって枕に顔を埋める。“彼”の匂いを探すようにしているうちに、中島は静かに眠りについた。

(了)