落花流水

 中島の部屋は他人の家の匂いがした。人を訪ねて行ったときに玄関先でぐ、あのなんとも言えぬ、他の家族の生活臭と体臭とを太宰はいだ。
「へーえ、案外生活感あるなぁ」
 と太宰が言うと、中島はちょっと肩で笑って、
「電灯も何も点けていないのに、そんなことがわかるんですか?」
 と、太宰に先立って部屋に入り、机の上の電気スタンドのスイッチをひねった。橙色だいだいいろの光に照らされた机の隅に小さな本立てがあって、泉鏡花の短編集と古代中国に関する書物が一冊ずつ置いてあった。本立ての横で黒猫と子豚のぬいぐるみが肩を並べていた。そこだけ女児の机の上のようで、太宰には可笑しい。
「もう何を笑ってるんですか? どうぞ、入ってくださいよ」
 勧められるままに太宰は室内へ踏み入った。入ってすぐ右手の壁際に書棚がある。どの棚も文学書や歴史書でほぼほぼ埋まっている。太宰は物珍しげにそれを上から下まで眺めた。
「いや、やっぱ俺の部屋よりよっぽど生活感あるって。俺んとこなんか本棚もないよ」
「でも、よく芥川さんの本なんか読んでるじゃないですか」
「あれは図書館で借りたのさ。俺さぁ、自分の部屋に物があるのダメなんだよね。やっぱ、人生身軽なのがいいよ――
 悪いんだけど中島君、寝巻か何か貸してくれない。と太宰は言った。黒いベストの端を摘んで、
「帰り道で安吾にゲロ引っかけられちゃったんだよな」
 と弱った顔をしている。中島は箪笥たんすを開けて浴衣を出してくれた。
「夏物しかないですけど」
 構わない、と太宰はそれを受け取ってシャツの上から着た。到底着丈が足りず、裾からトラウザーズを穿いたままの足がにょっきり出ていた。
「ちょっと、一度安吾の様子を見に行ってくる」
 と、太宰は言って出て行った。一人残された中島は、やれやれとため息をつきながら自分もパジャマに着替えた。
(どうしてこういうことになっちゃったんだろう)
 こんな夜更けに太宰を自室に招くことになろうとは――
 太宰が中島へ話したところでは、今夜は太宰と坂口と二人で図書館の外へ飲みに出かけていたのだという。今夜の坂口は、何か心にわだかまりがあったらしく随分泥酔したのだという。それを太宰はなんとか肩に抱えて帰ってきて、坂口の自室の前に立ったところで、部屋の鍵を出そうとして彼の服のポケットを探ってみると、
(財布がない――
 と気がついた。忘れてきたのか、それとも落としたのか――と考えてみて、ふと思い当たったことがあった。
(まさか)
 慌てて自分のトラウザーズのポケットに手を突っ込んだ。そこにやはり財布の手応えはなかった。
 帰り道のことだった。酔って吐き気を催した坂口を道端で介抱してやっていると、不意に背後から女の声がした。
「あの、もし、大丈夫ですか」
 と。知らない声である。太宰が振り返ってみると、後家風の日本髪に結った見知らぬ女がこちらへ屈み込んで心配そうな顔をしていた。
 こんな様子の女がこんな時間に供も付けずに、と太宰は不審に感じ、大丈夫だよと答えて女には関わるまいと思った。美人局つつもたせにでも遭ってはたまらない。
(あのときにられたんだ)
 女は美人局つつもたせなどではなくスリであったかと思った。
 財布自体は大した額も入っていなかった。惜しくはない。しかしその中へ一緒に自室の鍵を入れていた。坂口も、ポケットをどう探しても鍵が見つからないということは同じだったらしい。
 そういうわけで二人して締め出されてしまい、どうにか織田を叩き起こして坂口の体だけは預けたが、自分が今夜寝る場所がない。
(井伏先生のところへでも頼みに行ってみようかな)
 と井伏を訪ねたが、井伏は寝入っているらしく、何度ドアをたたいても返事がなかった。そういえば昔、井伏と一緒に旅行に行って、飲みすぎて眠り込んだ晩に宿が嵐で浸水して死ぬ思いをしたことがあった――とそんな記憶がふとよみがえり、また恥ずかしいことを思い出してしまったと、暗い廊下で一人赤面した。
 結局今晩行くあてがなく、途方に暮れた。談話室の長椅子で寝ようかしらとか、医務室が開いていないかしらとか、考えつくところは全て当たってみたが、共用スペースはどこも当然施錠されていて、いたずらにドアノブをがちゃがちゃ鳴らしただけであった。
 で、もう廊下で朝が来るまで待つしかないのかと、医務室のドアの前に座り込んでいたところを、夜番の見回り中そこへ通りかかった中島に拾われたというわけである。
「だ、太宰さんですか? そこにいるのは――
 中島は、きゃっと悲鳴を上げて、廊下の隅にあった太宰の姿を初めは何かあやしの影に見まごうたりもした。が、懐中電灯の光を当ててよく見ればただの太宰である。事情を聞いて、いくらか同情もした。
「あの、よ、よかったら、私の部屋に来ますか?」
 と言うのに、何か恥ずかしさを感じて、なるべく当たり前のことのように聞こえるよう気を揉んだ。太宰は、ねており、「行かない」と言った。
「でも」
「行かない」
 と太宰はもう一度言った。
 中島は、やれやれとため息をついた。太宰を置いて歩きだした。三十歩ほど歩いてから振り返ると、太宰はまだ医務室の前でしゃがんでいた。
――本当は俺に一緒に来てほしいんでしょ?」
 と、太宰が甘ったれた、そのくせどこか自信なさげな声で言った。流し目をそっと中島の方へ寄越した。
「そんなことは、ないですけど――
 と中島は答えて、元の方向へ歩きだした。後ろから太宰が追いかけて来た足音が聞こえた。
「中島君がどうしても来てほしいって言うなら、仕方ないなぁ」
 などとのたまう。太宰のそういうところ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅を中島はそのときはありがたく思った。
(どうしてあのとき、『私の部屋に来ますか』なんて、言う気になったんだろう)
 中島は身仕舞いを終えると、ベッドの端に座り込んで太宰が帰ってくるのを待った。それがまた、なんだか恋仲の相手でも待つような格好に思えて、おかしな心地がする。そわそわして、何度も居住まいを改めた。
 さっきまで太宰がいたのはほんのわずかな間だったけれど、それでもいなくなってみると室内がひどく静かになった気がする。夜更けは、無音で、ああ独りぼっち――自分の場合は二人ぼっちという方が正しいかもしれないが――だな、と、そんな気が。
 やがて、坂口の様子を見に行っていた太宰が帰ってきて、中島はほっとしたような気分で立ち上がった。太宰もまた、なんだか妙に落ち着かなさそうであった。
「? 坂口さん、大丈夫でしたか?」
 と中島が尋ねてみても、上の空といった調子で、
「えっ、ああ、安吾は元気そうだった――けど、オダサクとその、参ったなぁ、明日すげー顔合わせづらい――
 とかなんとか、中島にはよくわからないことをぼやいていた。
「まあ、坂口さんに何事もなかったならよかったじゃないですか。私たちもそろそろ寝ませんか?」
 と中島が言うと、太宰はなぜか耳の先まで赤面して大いにうろたえた。
「えっ俺と!?
「ほ、他に誰がいるんですか」
「お、おお俺今の体では初めてだから、やさしくしてくれる――?」
「もう何言ってるんですか?」
 太宰はどうも変な勘違いをしているらしいと、中島も悟って照れてしまった。
「なにも、こんなときまでお道化どけなくても。明日の朝も早いですから――
 と太宰にベッドへ入るように勧めた。
「それとも、床で寝ますか?」
 太宰が大人しく寝床へ潜り込んだのを見届けてから、中島は電気スタンドのスイッチを切った。にわかに一面闇である。
 手探りで寝床の端をめくって、足先からするりと中へ入った。冷たくひえきっている布団の奥で、太宰の体だけおこっているように熱を放っていた。
 二人でベッドの端と端に寝ても、それでも体のどこかが触れそうになる。何かの拍子に柔らかい素足の先と先が触れて、太宰は驚いたように足を引っ込めた。
 じきに目が慣れてきて、薄ぼんやりと部屋の中の様子がわかるほどになった。中島は眼鏡を外すと、丁寧に折り畳んでベッドの脇の小さなテーブルへ置いた。
「眼鏡」
 と太宰がささやくように言った。
「外したのか」
「そりゃ、寝るときはそうでしょう」
「まあ、それもそうか」
 他愛のない遣り取りばかりしている。そんなことでもしていなければ息が詰まりそうだった。
「なあ中島君、どうして俺を拾って部屋にまで入れてくれたわけ」
 と太宰が聞いた。
「どうしてって、だって太宰さん、困ってたじゃないですか」
「だからってさぁ、わざわざ――俺が言うのもなんだけど、管理室にでも連れて行って知らん顔しちまえばよかったのに」
―――
 私にもわかりません。と、中島はぽつりと答えた。
――そっか。わかんないか」
「すみません」
「別に謝るようなことじゃないけどさ」
 ごろりと、太宰が寝返りを打って、中島の方を向いた。中島はぎくりと身を硬くした。太宰は、心外そうに、
「何もしないって」
 と、言う。もし俺の方から何かするとしたらこのくらいだ、とも言う。言いながら、片手で寝床の中を探って、中島の手の先に触れた。それを握ることさえせずに、ただ手の甲をそっと押し当てるようにだけした。
 中島は、なんとなくもどかしげな目つきで太宰を見た。
「わからない人ですね」
 と、つぶやくと、
「お互い様」
 と言い返される。
「そういえば太宰さん、確か不眠症だったでしょう。眠れそうですか」
「中島君が、そのまま向こうへ寝返りを打たないでくれたらね」
「?」
「それをやられると、なんとなく、心中でもしたくなりそうな気がする」
「物騒ですね」
 中島は、目をつぶった。随分長い間ためらってから、自分も太宰の手に手を押しつけるようにした。すると太宰の手に震えが走ったのが可笑しくて、それがつい顔に出ていたらしく、太宰がむっと機嫌を損ねたらしい気配がする。
 手の甲に触れる太宰の手は大きくゴツゴツしていて、皮の上に浮いた骨や血管の感触が伝わってきて、そこだけやけに男性然としていた。

   * * *

 びしい。
 ただその一言を言ってくれればよかったのに。と、太宰は思いながら、先に寝入ってしまった中島の顔を見ていた。
 寂しいんだろう。寂しいって言えよ。どんな言葉よりその一言の方に共感をそそられるに違いないんだから――と思う。けれど自分だって言わないのだからやっぱりお互い様なのだ。
 幸福は一夜遅れて来る。その夜を一人あてもなく待っている自分の寂しさ﹅﹅﹅と、中島の寂しさ﹅﹅﹅とは同じであろうか。
(信頼を裏切るな)
 という激しい己の声を耳元に聞きながら、太宰は少しずつ中島の方へ身を寄せていった。何もしない、何もしない、と己に対してまでお道化どけた弁解をした。
 ついに頬と頬が触れるまで近づいた。寄り添うと、中島が外郭にまとっている孤独の気流のようなものにこちらの体も包まれ、自分の持っている多少性質の似た気流と程よく溶け合った。
 寄り添って眠る以上の不埒ふらちをする意気地など元よりなかった。胸の奥が滝壺のような音を立てていた。
 待っている。と思いながら目をきつく閉じる。闇。体内に音ばかりが聞こえる滝の流れは、己の上に舞い落ちる花弁を待っている。

(了)