傘の下

 冷たい秋雨の降りしきる中、図書館の中庭に出ている物好きは太宰や中島の他にはいなかった。とはいえ、建物の方を見ると、談話室や自室の窓辺に立って雨に濡れた庭の景色を眺めている文士の姿もちらほらとある。
 太宰と中島は、それぞれ蛇の目傘をさして、庭の蓮池に架かる橋の上で肩を並べている。初めに太宰がいて、一人で水面を見下ろしていたところへ中島がやって来た。司書から太宰への言伝に来たのだが、そのときに些細なことで気まずい雰囲気になった。
―――
 中島はむっつりと押し黙って、池面に雨粒が作る水紋が丸く広がっては消えるのばかり眺めている。太宰が横でへらへら笑っているのがまたやりきれない。
「機嫌直してよ」
 と弱った顔をされてもだめである。
「ねえ、キスしてあげるからさぁ」
 この人はどうも、何かあるととりあえず接吻すると言っておけばごまかせると思っているフシがある。と中島は近頃わかってきた。
「結構です」
「そんなこと言わずに、さ」
 と、太宰が肩へ肩を押しつけてきて、蛇の目と蛇の目の先がぶつかった。
「ひ、人に見られますよ――
「大丈夫、見えないって」
 傘の陰で、太宰は密かに中島の唇を奪った。深入りせずすぐに離れて、耳元やこめかみの辺りへも、水面に落ちる雨粒のような一瞬の接吻をぽつりぽつり与えた。それからもう一度唇へ戻ってきたとき、中島の口は薄く開きかけていた。
 太宰は、赤い舌先を覗かせて己の上唇をちょろりと舐めた。そうして舌なめずりをしてから、接吻の続きに取り掛かろうとして、しかし、そうはいかなかった。
「あ」
 と太宰が間の抜けた声を漏らした息が口元へかかり、中島は閉じていた目を開いた。
 太宰は池の方を向いて、水面を見下ろしていた。中島もつられて同じ場所を見た。
 波紋が浮いては消える水面の鏡に、傘の下に隠れた二人の姿がそのまま映り込んでいた。頭隠して――なんとやらだ。
「ちょっ、は、離れてください!」
 と中島が慌てて太宰を押し返した拍子に、傘の先から滴った雨粒が頬を伝った。それがたまらなくひやりとして感じられたのは、ただ秋雨の冷たさによるばかりではなかったかもしれぬ。

(了)