ヴァジニティ

「ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ――
 とかなんとか、機嫌のいい独り言をつぶやいてふらふらと後をついて来る太宰を、中島はちょっと振り返って、やれやれと顔をしかめた。
 中島は、手に懐中電灯を持って図書館の夜番の見回りの最中であった。太宰を拾ったのは医務室の前の廊下で、太宰が鍵のかかった医務室のドアをがちゃがちゃいじくっていたところへ、中島が不審に思って声をかけると、自室の鍵を紛失して今晩寝る場所がないのだと言う。外で飲んで帰ってきたらしい太宰は、相当に酔っぱらっている様子だった。
「太宰さん、そういう時は管理室にマスタアキイを借りに行けばいいんです」
 中島は仕方なく、太宰に付き添って管理室に戻るはめになったというわけであった。
 中島は、太宰に酒を控えてはどうかと、言ってみた。
「いつもそんなに酔って、その、よくないと思いますよ」
「なぜ、いけないんだ。どうして悪いんだ。あるだけの酒をのんで、人の子よ、憎悪を消せ消せ消せ、ってね、むかしペルシャのね、まあよそう、悲しみ疲れたるハートに希望を持ち来すは、ただ微醺びくんをもたらす玉杯なれ、ってね。わかるかい」
「わかりませんよ」
「キスしたいなぁ」
「じょ、冗談はやめてください。どうして私となんて――
 辟易してしまう。太宰は中原中也のように酔って暴れることはないが、さりとて若山や井伏のごとく泰然としているという風でもない。全く浮ついている。
 中島は、太宰が、何やらくすぐったそうな顔をしているのに気付いた。
「何ですか?」
「いや、何というか、なんだ」
 今のは別に、誰と﹅﹅キスしたいという話ではなく、ましてや中島君としたいだなんて一言も口にしなかったのだけれど。と言ってやったらどんな顔をするかしら、と思い、太宰は一人にやついている。
「俺が中島君にキスしようとしたら、もう一人の中島君が出てきて止めてくれるかね?」
「し、知りません」
「試してみようか」
「からかわないでくださいよ。人が悪い」
 中島は冗談だろうと言って、てんで取り合ってくれる様子がない。
「中島君が本気で嫌がれば、もう一人の方も現れるだろうさ。な、そうだろう? って聞こえてんのかな? “彼”の方にも?」
「そうやってお道化て――太宰さんは本当にお芝居が上手ですよね」
「芝居じゃないよ。なあキスしよう」
「しません」
「俺は本気だよ」
「あ、あなたの言うことに嘘がなかったためしがないですよ」
「じゃあこれから初めて本気になるから」
「じゃあってなんですか、じゃあって」
 太宰は、にやにやだらしない顔つきをしているばかりで、とても本当のことを言っているようには見えなかった。信用すると馬鹿を見る。恥ずかしく気まずい思いをするのはこちらなのだ。
「な、懐中電灯を消してくれよ」
 などと太宰は言い出した。
「なぜです」
「明るいところだと恥ずかしい」
「もう、何の話をしてるんですか」
「だからさ、キス」
「しません」
「俺だってたまには本心を言うさ」
「そのたまに﹅﹅﹅が今だっていう保証が、ど、どこにあるんですか」
「嫌ならもう一人の中島君に交代して、俺を張っ倒すなりなんなりすればいいだろ?」
 埒が明かない。
 中島はこれ以上酔っぱらいには付き合っていられないと思い、さっさと管理室に連れて行ってしまおうと、歩を速めた。するとその拍子に床の絨毯で靴の裏が滑って、どうにかすっ転ぶのはこらえたが、弾みで右手の懐中電灯を取り落とした。
 それを太宰が拾い上げた。交錯した光の帯が、太宰の手中で最後に中島の顔へ向けられた。中島は眩しさにうつむいて光源から顔をそむけた。
「あ、ありがとうございます、拾ってくれて、太宰さん」
 てっきり懐中電灯を返してくれるのだと思って手を差し出したが、太宰はそうしてはくれず、
 パチリ、
 と小さな音を立てて懐中電灯のスイッチが切られた。
 にわかに一面闇である。
「ひゃ――
 という中島の悲鳴さえはばかって小声になったほどの、静まり返った夜更けの暗闇が二人を覆った。
 不意に、中島は太宰に強く腕を引かれた。
「ひっ」
 太宰は優男の外見そのまま、さして腕力はなかった。その代わり手が大きくて腕がすらりと長い。それを巻きつけるようにして抱き寄せられると逃れがたいものがあった。
 ずい、と太宰が顔を近づけて来て、その長い前髪が鼻先をかすめた。
 中島は思わず身を縮めた。両目をぎゅっとつぶった。
 が、そのまま十も二十も数えるほども経っても、何も起こらなかった。ただ頬に太宰の息が、か細くかかっているのだけはわかる。最初は規則正しかったそれが、次第に、くっくっと震え出した。
 中島は恐る恐る目を開けてみた。眼前で太宰がさも可笑しそうに笑っていた。
「もう一人の中島君にならないな」
 からかわれたのだ。
(やっぱりそうだ、この人は)
 と気付いて、中島は羞恥心と傷付けられた自尊心からひどく赤面した。
「知りません――!」
 と、太宰の腕を逃れようともがく。
「痛、いったいって、いや、はは、ごめんごめん。そんなに怒んないでよ」
 太宰は、この青年にしては珍しく心底愉快そうであった。中島は憎らしげにそっぽを向いた。
「やっぱり、あ、あなたは嘘つきですよ」
「ごめんって」
 太宰は中島の首の後へ手を回すと、そっと引き寄せて、接吻した。
 口と口とが離れるのと同時に、ぱっと飛び退くようにして中島から離れた。抑えがたく手足に走る震えを中島に悟られたくなかったから。
「俺ってジェントルマンだからさぁ、嫌がられてない確証がないとキスもできないわけ。だから中島君を試すようなことしちゃったわけ。ゆるしてね」
 と、ことさらに明るい声を出す。口元を手で覆ったまま固まっている中島をちらと見やり、全身がくすぐったそうに肩をそびやかした。
「あー、なんというか、こうね。たまーに正直なことをやるとさぁ――
――照れるんでしょう」
 と中島がぼそりと言った。太宰は、返す言葉もない。
 パチリ、と懐中電灯のスイッチを入れて、中島へ手渡した。中島がその明かりで太宰の姿を照らすと、首筋の辺りまで顔を真っ赤にしているのがわかった。
 よごれを知らぬヴァジニティは――聴き覚えたばかりのその文句を、中島は、自分も血の上った頬をしながら、胸の内でこっそりとつぶやいた。

(了)