残り香

(結局今夜もこんなに遅くまで居座られてしまった――
 中島が机の上の時計を見るとすでに日付が変わろうという刻限だった。近頃中島の部屋へ本を読みに来る太宰は、たいてい夕食が済んでから来て、書棚から勝手に一、二冊取ってベッドに寝転がり、黙々と読んでいてくれればまだいいのだが一冊読み終わる度に書評を論じたり四方山話を始めたりするので中島は落ち着いて書き物もできない。
 太宰がやっと帰った頃にはこんな時間になっているのだから困ってしまう。中島はやれやれとため息をつきながら身仕舞いをして、電灯を消し、寝床へ潜り込んだ。
 は、いいが、
―――
 その晩はどうにも寝付けず、寝床の中で落ち着かなそうに寝返りばかりしきりに打って、結局ろくろく眠らなかった。
 翌朝、朝食時に食堂へ降りる階段の途中で太宰を見つけた。
「おはようございます」
「おはよう。顔色悪いじゃん、寝不足? 遅くまでお勉強でもしてたんでしょ――って何、なんなの!?
 中島は何を思ったか太宰の肩先に顔を近付けて、すんと鼻梁をうごめかせ、
「やっぱり、この匂いですよ――太宰さんのコロンの匂いが私の部屋の寝具に染み付いていて昨晩は参りました」
 と言った。太宰は、ああ、と合点がいった。
「あっ、ああ、そういうこと? でもいい匂いでしょこれ」
「あ、あなたにとってはそうでも、匂いには人それぞれ好みというものがあるんです」
「そうかなぁ」
「とにかく、今後は私の部屋に来るのは香水の類を着けていないときにしてください」
「なんなら中島君の好きな匂いに変えてあげてもいいけど」
「い、いやそういうことじゃなくてですね――だいたいおかしいでしょう、どうして太宰さんが私の好みに合わせるんですか。それじゃまるで、その――
 というやり取りがあり、以後太宰が中島の部屋へ来るときは、香りの強い物は着けずに来るようになった。
 ある晩、いつものように中島の部屋のベッドで寝転がって本を読んでいた太宰は、やがてうとうとと眠気を兆した。不眠がちで夜寝付けない彼には珍しい。そのとき自室に戻ればよかったが、本の先が気になって、夢うつつに読み進めているうちにそのまま寝入ってしまった。
 どれくらい眠ったものか、ふと目覚めると、部屋の明かりは消えていて、机の電灯だけが点いていた。それを頼りに中島が机に向かっている姿が目に入った。中島は、太宰が目を覚ましたことには気付かず、黙々とペンを動かしていた。手に付いた洋墨の汚れも気にせず、時折長い前髪を耳の先に掛けながら、熱心に原稿か手紙か何か書いている。
 太宰の体の上にはいつの間にか掛け布団が掛けてあった。冷えないようにと中島が掛けてくれたに違いないが、
(意外だな)
 と太宰は思った。
 中島の寝床の中はなんともいえない他人の匂いがした。その人の体臭ばかりではない、石鹸や綿や塵芥の匂いまでまぜこぜになった不可思議な匂いがした。
 太宰は、この間コロンの匂いを怒られたとき、てっきり中島がその匂いを嫌っているのだと思ったが、どうやらそうではないらしいと今になって思い至った。自分の匂いに包まれた寝床の中に他人の匂いが紛れ込んでいる、そのいささか性的な出来事を叱られたのだろう。
(なるほどこれは――照れる)
 太宰は中島が気付いていないのをいいことに、寝床深くもぐり込んで、目から上だけ出して、彼が気持ちのいい筆運びで書き物をする姿を眺めた。その生乾きの洋墨の匂いまでもが、離れたベッドにいる太宰の鼻先へ不思議と届いた。

(了)