六・一九

 中島が補修用の寝台に寝ていると、白いカーテン越しに隣の寝台から、
「俺ってやっぱダメだわ――ほんとダメ――
 と、太宰がぼそぼそ独り言を垂れているのが聞こえる。昼間、図書館の文士や職員総出で記念すべき日﹅﹅﹅﹅﹅﹅を祝ってもらってご機嫌な調子だったと思ったのに、半日も経つともうこれである。
(わざと聞かせるために言っているんじゃないだろうな)
 と中島が思いたくなってしまうほど、太宰の自虐の声ははっきりと届いてくる。ついに耐えかねて、
「お前、うるさいぞ」
 と文句を言ったら、太宰はぱったりと口をつぐんだ。やれやれ静かになったと思っていると、しかし今度は、しくしくしくと声を殺して嗚咽など上げ始めたからたまらない。それも、本当に泣いているわけではあるまい。嘘泣きにすぎないのだ。
 太宰を黙らせる手はないか――と中島は思案して、ふと思い出した。
―――
 上着の懐を探ると、手のひらに収まるほどの大きさの小箱が指先に触れる。“奴”が朝からずっと入れっぱなしにしていて、取り出す機会を逸していた物だった。
(人に見られたら恥ずかしいとか、何か問われたらどうしようとか、そんなつまらないことを気にしているからだ。一日中肌身離さず持ち歩くつもりだったのか?)
 と、中島は例のごとく我と我が身に閉口してしまうのだが、まあ“奴”の羞恥心もたまには役に立つようだ。
 中島が懐から取り出したのは、紅玉色の綺麗な紙で包装された贈り物の小箱だった。寝台の端までいざって行って、カーテンの隙間からそれを太宰の寝台の方へ差し出した。
「おい、こっちへ手を出せ」
 と太宰へ促したが、太宰はといえば億劫そうに、
「何だよ、用があるなら中島君がこっちに来てよ」
 などとのたまう。
「俺はお前と違って勝手に寝台を抜け出したりはしないからな。いいから手を出せ」
「何なの一体――
 太宰はしぶしぶカーテンから腕を出した。二人で腕を伸ばせば、どうにか手が届く距離だった。太宰は指の先で中島から小箱を受け取った。
 太宰は、なんとなく意外そうな顔で、その小さな包みを手の中でくるくるといじくり回している。
――これ、開けていいの」
「お前にやったんだ。好きにしろ」
 これで今度こそ静かになったかと、中島はため息をついて、一眠りしようと枕に顔を埋め、目をつぶった。
 太宰が赤い包装紙を剥がしてみると、やはり赤い箱があって、それを開けると中には装身具を留める台座があって、真新しいタイピンが輝いている。高価な物ではなかった。鍍金めっきの、どこにでもある飾り気のないタイピンだった。装飾はといえば、小さな水色のガラス玉が一つはまっているばかりである。
 太宰はますます意外そうな顔になって、中島の寝台の方を向いた。
「俺に?」
「先月の返礼のつもりだろう」
 とだけ中島は答えた。太宰はまじまじと贈り物を見つめた。
「俺と言えば、やーっぱ色は赤じゃないの?」
 とお道化てしまってから、すぐに後悔する。こういうところがダメなのだと本気で嫌になる。
「そんな色が好きなんだろう」
 と中島が言う。眠たげなそぶりを見せる割には饒舌である。
「清い色だ」
 清涼な、とどまるところなく流れゆく水の色だ。太宰の焦がれる瞳の色だ。
 太宰は、黙りこくっている。ようやく静かになった、と中島はぼやいて、
「俺は眠る。邪魔をするなよ」
 と釘を刺し、じきに寝入った。
 太宰は、
(邪魔をしてやろうか)
 と思った。お前は俺の何のつもりなのだと中島に問いたい気持ちが、水色のガラスを見つめているとふつふつと湧いてくる。俺たちは単なる同年の輩か? 友人か? 知り合い以上友達未満といった体か。そういう言葉に成形してしまいたい誘惑に駆られる。
 で、実際に言葉にしてしまうと、その反動は凄まじく、死にたいほどに赤面するわけである。わかっている。自分のことだ。
 朝から何も手につかないほどそわそわして、心配で心配で仕方がないくせに、いざ今日の日を皆に祝ってもらえてホッとしたとなると、ああいった物言いしかできない。そんな自分のことだから。本当は、こんな日でも普通に過ごすのが一番だと思う。
 太宰はどうにも考えあぐねて、結局、中島の安眠を邪魔するのは勘弁してやることにした。


 ちょうど太宰が補修を終えて、寝台を出る身支度をしているとき、隣の寝台でも中島が起き出した気配がした。
 白いカーテンが畳まれ、顔を見せた中島は眼鏡をかけており、手で乱れた髪を梳いていた。寝台を下りようとしていた太宰に気がつき、そのネクタイを見て「あっ」と声を上げた。
「わ、私そのタイピン、もう渡したんでしたっけ――どうも見つからないなと思ってたんです」
「ああ、もらったよ、さっき中島君が寝付く前に」
 少しぶっきらぼうに太宰は答えた。中島は、意外そうな顔になり、
「ええと、それは、つまり私がというか――あの」
「中島君は、いつも中島君だろう」
 と言ってやると、中島はしきりと照れていた。自分が自分であることに照れてしまうとは、難儀だなぁと太宰は思う。
 赤くなって自分の世界に浸っている中島を眺めながら、太宰はさほど悪い気もしなかった。この距離を言葉で測ってはいけないのだと思った。言葉をるのが生業の文士としては、気弱という気もするが。
「ねえねえ、似合う?」
 と中島のイマジネーションの世界に試しに割り込んでみる。水色のガラス玉のはまっているタイピンを着けたネクタイを摘んで、ひらひらさせる。
「えっ、え、ええもちろんですよ」
 と、中島は気がついてくれた。
「清い色でしょう」
 と嬉しげに評した。
 太宰は、うなずいた。

(了)