三日月

 ほ、
 と芥川が吐いた紫煙は人魂のような形のまま天を目指そうとして、しかしじきに風に掻き消されてしまった。煙草は、両切りのゴールデンバットである。それを際限なくすぱすぱ吸っている。だのに声の一つも枯れたりせず、
「ああ、寛、随分待たせてくれるじゃないか」
 と甘い声で友を呼ぶ。
 小用を済ませて一行に追いついた菊池は、芥川が腰掛けている倒木の端に自分も腰を下ろした。キャメルを咥え、芥川に火をもらって一服する。
 二人が座っている倒木の枯れた皮がボロボロと崩れる度、その一つ一つが「皮」の文字になって落ちていく。二人とも見慣れたもので、驚きもしない。
「ここもだいぶ侵蝕が進んでいるようだね」
 と芥川が煙を吐きながらのんびりと言う。菊池が受ける。
「そう思うなら、もう少し危機感てもんをだな」
「ま――これ吸い終わってからね、行こうか」
これ﹅﹅ってのはそれ一本のことだろうな? 一箱じゃなく」
「ふふん」
 芥川の着流しの膝へよじ登ろうとしていた小さな「虫」の字を、彼はそのほっそりした指先でもって、ぴんと弾き落とした。
 そんなのどかな光景を、
(あああっ、俺もあの虫でいい、あの虫の一字になりたい――
 と、少し離れた木陰から、いやに熱っぽい目で見つめている太宰治がいた。そして、別にそれとつるんでいるわけでもないが、一人ぽつねんと休息している中島敦も、近くにいた。
――おい」
 と、あるとき不意に、中島が太宰を呼んだ。太宰はいかにも心ここにあらずという風に、
「あん、何か用、中島君」
 振り返りもせず、ぞんざいな返事を寄越す。
「お前、芥川に用があるならさっさと声をかけたらどうだ」
 と中島は見かねて言った。
「それとも芥川がよほど嫌いで、そんなににらみつけるようにしているのか」
「はぁあ!? んなわけないじゃん――
 と太宰は喚きかけたが、はたと視線を感じて口をつぐんだ。芥川、菊池両兄が「何事か」という顔で太宰と中島の方を見ている。
 太宰は一、二度わざとらしく咳払いをすると、ほとんど芝居がかった身振りで、中島の隣に馴れ馴れしく座り込んだ。
「イヤダナァ中島君、俺が芥川大先生を嫌いだなんてそんなわけあるはずがないじゃぁないか」
「馬鹿馬鹿しい」
「ていうか俺のどこを! どう見たら! そんなふうに見えるわけ?」
「俺は見たものを見えたままに言い表しただけだ」
 という中島の明快な返答に、太宰はいささかぐさりとやられたらしい。急にいじけたように背中を丸めて小さくなり、足元の「草」の字から「くさかんむり」をぶちぶちむしったりなぞしている。
「俺はただ芥川先生に迷惑をかけたくないだけなんだ」
 とかなんとか、ぶつぶつ言い始めた。
「俺みたいな悪い男がさー、そばに寄りついたら迷惑なだけだろうしさー――先生には可愛い後輩だと思われていたいじゃん、幻滅させたくない」
(馬鹿馬鹿しい)
 と、中島は改めて思った。
(何もかもお前の頭の中だけの話じゃないか。芥川の気持ちを直接聞いたわけでもなければ、自分の本当に客観的な姿さえわかっていないんだ。それで、独りよがりな考えを巡らせては身悶えしているだけじゃないか)
 しかし、所詮は他人事である。わざわざそれを太宰に説いて聞かせてやる義理はない。と思っていたのだ。
 思っていたのだが、肩を並べて隣で太宰がえんえんと、
「ぶつぶつ――ぶつぶつぶつ――
 とぼやいているのがどうにもうっとうしい。で仕方なく――このまま太宰に際限なく喋らせておくよりは自分が喋る方がましに違いないから――仕方なく﹅﹅﹅﹅中島は言ってやった。
「お前のような奴を俺は他にも身近に知っている。頭でっかちな、ためにもならないことばかり考えている奴だ」
――へえぇ?」
 と太宰はさすがに愉快でなさそうな返答を寄越した。が、中島の話を遮るでもない。中島は構わず続けた。
「例えば、奴もさる小説の大家を尊敬しているが、その前ではっきり物を言えたことが一度もない。いつも、自分の言葉を相手にどう思われるかばかり気にしている」
―――
「といって、直接相手に何か言われたわけではない。ただ自分の頭の中で勝手に心配して、勝手に上辺を取り繕っているだけだ」
「それってさ」
 太宰は不愉快そうな顔をやめて、まじまじと中島の横顔を見た。聡く、何か気がついたらしい。が、口を挟むのはこらえて、中島がさらに語るのを待った。
 中島は続けた。
「奴は自分の姿――容姿なり、思想なりが他人の目にどう映るのか甚だ気にしているくせに、自分が本当は何者でどういう姿をしているのか、自分では少しもわかっていない」
「自分の本当の姿をきちんと知ってるやつなんて、一体この世にどれほどいるもんかね」
「わからないならわからないでもいい。だが、わからないと口に出して言うばかりで、本気でわかろうと行動を起こす気配がしないのには、まったく、閉口する」
「中島君、それってさ――
 と太宰はまた言いかけて、しかしためらう。ぴしゃりと中島が叱った。
「後に下がるな。言え」
 太宰は、ああ、とか、うう、とか口ごもってから、言った。
「そいつのこと、たぶん俺も知ってるな」
 今俺の目の前にいる。とまでは、太宰は結局口に出さなかったが、中島はうなずいてくれた。
「そうか」
「そいつはさ――真面目すぎるというか、優しすぎるのかね。人に嫌な思いをさせまい、嫌われまいとして、却ってつい馬鹿なことをやっちまう」
「お前こそ、本当はただ己の自尊心が傷付くのが恐ろしくて、他人と正面から向き合うのを避けているだけじゃないのか」
「どーなんだろうなぁ」
 太宰は天を仰いだ。細長くゆがんだ巨大な「雲」の字が、風に吹かれて青空をたなびいていた。
「お前と奴が同一ではあり得ないにしろ、生きる真似事をしている点は似ているな。ふ――まあ俺も、人のことは言えない」
 と言う中島の声は、注意して聞けば平時より幾ばくか優しかったようである。
「中島君はいつも口が悪い割に、好きなんだよな、そいつが。その“奴”のことが」
 と、太宰は何気なく口からいずるままに言った。それが思わぬ効能を示して、にわかに中島を赤面させた。
(しまった)
 と太宰は中島の様子を見て、ひどく困った。悪事を犯してしまったような心持ちがした。
 このような場面に遭遇するとたまらなく恥ずかしいから、己はいつも頭でっかちに余計なことを考えて、心配して、警戒しているのだ。それを怠るとこういうことになる。それは我が優しさなりや、我が臆病な自尊心なりや。どちらにしろ、こうなってしまっては、己には道化るより他すべがない。
「参ったなぁ」
 と、太宰はわざとらしく、整えた髪が乱れない程度に頭を掻いた。
「俺にはそーいうシュミはないんだけど」
「?」
 中島が赤い顔を怪訝そうにゆがめてこちらを見た。太宰は、努めてキザな口調で言った。
「いやだって? 中島君がそいつを好きで、そいつは俺に似てるところがあるわけじゃん? ということは俺も中島君の好みのタイプなのかもしれないけど俺にはそっちの気はないからね俺は手つないで一緒に死ぬなら基本的に女がいい!」
――馬鹿と口をきくとやはりロクなことにならないな」
 と、中島には吐き捨てられてしまった。おどけない方がまだマシだったかしらと、これはこれで後悔した。
 中島の不機嫌なため息が、一旦、うっすら半透明な、小さな「風」の字になってから渦を巻いて溶けて消えた。ため息交じりに言う。
「面倒くさいやつだ」
「悪かったね」
「悪い。他人と一緒に死のうというのも気に入らない」
「俺ってー、寂しがり屋なんだよねー。ま、どうしてもって言うなら中島君と一緒でもいいかな。男と死のうとしたこともないじゃなし」
「馬鹿を言え。願い下げだ」
 などと、ちくちくやり合っている二人を、少し離れた場所から芥川と菊池が指差しては、
「寛、見なよ、ちわゲンカしてる」
「若いモンはいいねぇ」
 と軽口を叩き合っている。ささやくほどの、風に乗ってさえ届きそうにない声であったが、太宰がつとこちらを振り返った。
 芥川が目を青白い弦月のごとく細めて、その月に太宰の姿を映した。
 太宰は、目をそらしながら赤面した。芥川の双眸が三日月のようになった。

(了)