五・五

「中島君、今日の潜書中ものすっごい機嫌悪かったじゃん」
 と、言って、太宰は右手の指に挟んだゴールデンバットを一口吸い、ふうと細い煙を吐いた。
 食堂で皆集まっての夕食が終わって、一服したい者だけが残って各人思い思いに煙草を吸ったり、茶や珈琲を喫している。太宰と同じテーブルで中国紅茶をすすっていた中島は、急に話しかけられて、きょとんとしていた。
「えっ、そ、そう、でしたかね」
「相変わらず覚えてはいないんだ」
「はぁ――すみません、あまりはっきりとは」
「もーね、すっげー怖かったから! 今日の中島君」
 と、太宰は大袈裟な身振り手振りで道化て見せる。
「一人でずばずば侵蝕者斬り捨てていっちゃうしさ、話しかけられてもツーーーンとして誰とも顔合わせようとしなかったよ」
「そ、それはすみませんでした」
 と、中島が恥ずかしそうに小さくなった。
「せっかく、皆さんに誕生日を祝ってもらったばかりだっていうのに、申し訳ないことをしてしまいました」
 おかしいなぁ、と首を捻る。
(いったい何が“彼”の気に入らなかったんだろう)
 今日五月五日の昼間、帝國図書館の職員たる文士、司書らが集まって中島の誕生日を祝ってくれた。中島は心から嬉しかったし、もう一人の自分もきっと喜んでいるだろう――と思っていたのだが。
 恐縮している中島に、太宰は「別に気にしてない」と手をひらひら振り、
「他のやつらも、中島君があんなにわかりやすく照れているのを見て、面白がりはするかもしれないけど、腹を立てるほど子供じゃないでしょ」
 と言う。中島はますます、きょとんと目を丸くした。
 やがて中島ははにかんでうつむいた。しきりと手の中で茶器を回したり傾けたりしている。太宰はその様子を慎重に窺ってから、ようよう腹を決めて切り出した。
「そうそう、そういえば」
 何が、そういえば、なのかわからないが、努めて明るく道化けた声を上げたとき、しかし、ちょうどテーブルの脇を通りかかった坂口安吾に話の腰を折られた。
「ああ太宰、アンタに貸し出してる本、明日が期限だぜ。ちゃんと返せよ、中島敦全集第三巻﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 坂口はニタニタと笑いながら太宰と中島を交互に見た。あからさまに太宰をからかっている様子で、太宰に大声でわめかれても蛙の面に水である。
「ちょおおっ!? 安吾!! なんでわざわざ今そういうこと言うわけ!?
「アンタのことだからと思ってな! ちゃんと返さないときっちり取り立てるぜ、俺が当番だからな」
 坂口は、くっくっと肩を揺らしながら行ってしまった。後には気まずい雰囲気で黙り込んでいる太宰と中島が残された。
「え、ええと、太宰さん、あの、私の書いた物を読んでもらったみたいで」
 と、中島が沈黙に耐えかねて言うと、
「ああ、まあね――
 と太宰は、さもどうでもいいというような返事を寄越してくる。そして苦りきった顔で、上着のポケットから葉書大の藍色の包みを取り出した。包みには細い金色のリボンがかけてある。それを中島へ無造作に差し出した。前もって考えておいた段取りもなにも、坂口のおかげでどこかへすっ飛んでしまった。
 中島は受け取った包みを見て、それから太宰の顔をまじまじと見た。
「誕生日プレゼントってやつだよ。開けてみなよ」
 言われるままに中島がリボンをほどいて、包装紙を剥がすと、中身は華美な赤い薊の装丁のボードレールの詩集であった。
「美しいですね」
 と、中島が感嘆すると、太宰は気をよくしたらしく、十八番の道化も幾分持ち直したと見える。
「でっしょー? 俺くらいになると本の装丁も自然とハイセンスなの選んじゃうわけ。俺ってばフランス文学も勉強してるからさー、ボードレエルは」
「ボードレエルが好きなんでしたね、太宰さんは。『あきらめよ、わが心、獣の眠りを眠れかし』」
―――
「私も昔読みましたしね。『遍歴』と称して歌にも詠んだことがありますよ。『ある時はボードレエルがダンディズム昂然として道行く心』。その私の余り上手くない歌が、人の手でまとめられて全集第三巻﹅﹅﹅﹅﹅に載せられてしまって、太宰さんのような人にも読まれてしまったわけですから、照れくさい限りですよ」
 中島は詩集から顔を上げた。
「遠い昔を思い出します。懐かしいものを選んでくれてありがとう、太宰さん」
 太宰は「どういたしまして」とも答えず、どうにもバツが悪そうに、すぱすぱと立て続けにバットを吸っている。
(あなたこそ、わかりやすいじゃないですか)
 と中島は愉快な気分になり、思わずにやけそうになるのをこらえた。いっそからかってやろうかとも思ったが、道化に見えて案外傷つきやすい太宰をむやみにいじめるのも可哀想だからやめておいた。
 中島が小さな詩集を開いてみると、包装紙に含ませてあった香水の移り香がふわっと立ち上った。詩集の表紙の薊に揃えた、かすかな花の香が洒落ていた。

(了)