息もできぬほど

 ひゅう、
 ひゅう、ひゅうう、
 と、息を吐く度に喘鳴がする。咳も多く、寝台に寝かせようとすると却って苦しむから、布団の上に起き上がらせたままにしてある。
「すみません――
 と、中島は、脇に付き添ってくれている吉川に向かって、苦しい息の合間にときどき謝っては申し訳なさそうにうつむいている。
「ご、ご迷惑を――おかけし、て――
「ああ、敦くん、気にすることはないぞ。喋らなくていい」
 吉川は病人の耳元へ大声で言いながら、武骨な手で一生懸命に中島の背をさすってやっている。
「すぐに医者が来るからな」
 と励ましてはいるのだが、肝心の医者が一向に来ない。その間にも、中島の具合はますます悪くなってくるし、呼吸困難で意識も朦朧とし始めたらしく、ぼそぼそと何かうわ言のようなことを口にし出して、
(こりゃいかんな)
 吉川は唸った。いっそこちらから、あのしかめ面の元軍医の首根っこを掴んで連れてこようかと、今にも腰を上げようとしたそのときになってようやく、医務室の入り口に医者は姿を現したのであった。
「遅くなってすまなかった。先約があったのでな」
 と悪びれもせずに言う。吉川が、
「鴎外先生」
 と呼びかけたが返事も寄越さない。こんなときくらい、融通を利かせてもいいではないか。と吉川は不満に思いつつ、言い直した。
「林太郎先生」
「ああ。病人かね。てっきり怪我人かと思っていたが。図書室で倒れたそうだな」
 鴎外は革製の医者鞄を抱えて、寝台のそばまで来た。鞄には薬品や注射器等がしまってあった。医務室に置いておくと、いつの間にか紛失していることがよくあるからである。
 鴎外は中島の様子を一瞥し、それから吉川の顔を見た。事情を説明しろ、という目つきである。
「図書室で蔵書の整理を手伝っていたとき、にわかに息苦しげにし始めたのだ」
 と、吉川は簡単に伝えた。
 鴎外は、今度は中島に向かって、
「今この身体で喘息ということもあるまい」
 と優しく言い聞かせたが、中島は目も虚ろに喘鳴と激しい咳の交じる息を吐いているばかりである。その中で、誰かの名前を執拗に呼んでいるようなうわ言を何度ももらす。
「どうした、敦くん。気を確かに持ちたまえ」
 吉川がしきりと励ましているのを横目に、鴎外は医者鞄を開けた。中島にアドレナリンを一本打ってやり、注射器を片付けながら言った。
「中島君、君は神経質が過ぎるようだ」
 そして吉川に向かい、君の大声は患者に障るから、というようなことを言って医務室から追い出してしまうと、中島の容態をカルテに書き付けた。
 じきにアドレナリンの効果が現れてきたらしく、中島の喘息発作はようよう収まった。それと同時に頭の方もはっきりしたようで、
「鴎外先生――
 と、鴎外の姿を認めて呼んだ。が、すぐに恥ずかしそうな顔をして「林太郎先生」と言い直した。
「あの、あ、ありがとうございます。どうも、お手数をお掛けして」
「無理をしてはいかん。横にはなれそうか?」
「はい、あの」
 中島は発作の間にずれた眼鏡を直しながら、まごまごしている。呼吸は戻ったが、アドレナリンの作用によるものか頭痛がするし、不安感がある。
「た、たぶん平気だと思うんですが、その、もし先生がお持ちでしたら、エフェドリンを頂けないでしょうか」
「今夜の分だけならあげよう」
 と言って、鴎外は鞄の中から薬を探した。探しながら、なんとはなしに中島へ尋ねた。
「さっき呼んでいたのは細君の名前かね」
 中島ははっとした顔になり、恥じて真下を向いた。
「恥ずかしがることはあるまい。うわ言で何度も誰かを呼んでいた」
「そうでした、でしょうか――自分ではよく覚えていないんですが、ともかく情けないところをお見せしてしまいました」
は細君に看病をしてもらったのでは? その思い出が無意識のうちに蘇ったのだろう」
「え、ええ――そ、そうかもしれません。彼女は本当に最期の最期まで、私が発作で苦しんでいるといつも背をさすってくれて」
「よほど愛していたのだろう」
 鴎外の口調にからかうようなところはなく、至って生真面目なものである。その澄んだ声に、中島は却って恥ずかしく、居心地が悪くなってしまい、もじもじと言い淀んだ。
「そう、ですね。少なくとも“私”はそうです――“彼”の方が何と言うかはわかりませんが」
 鴎外は少しばかりのエフェドリンを中島へ渡した。
 中島は、それを受け取ってすぐ医務室を離れるつもりでいたのだが、思いの外鴎外に興味を持たれ、話は続いた。楽しい会話というよりは、精神病患者が医師の面談を受けているような体ではあったが。
「“彼”とは上手く折り合いがついているのかね」
「はあ、たぶん」
「不思議なものだ。元は一つの人間だったものが真っ二つに裂かれて、その間に全然闘争がないものかな。同じ人間だったからこそ、争いが生まれそうなものだが」
「全然ないわけでは――“彼”は私のことを、愚図だとか、甘っちょろいとか、思っているに違いありませんし」
「君の方は?」
「私は、四六時中、“彼”のことを考えているばかりです」
 と、中島は寂しげに言う。かぼそい声で鴎外に問うた。
「おかしいでしょうか?」
「おかしくはない」
 と鴎外は答えてくれた。
 中島はさらに言った。
「まだ私が一つのものであった頃、私はいつもいつも自分のことばかり考えていました。自己の存在について、自己の性質について。責めるのも、甘やかすのも全て自分自身でした。私、私と、私のことばかり考えて、そんなに私が偉いのか。そんなに私が恋しいのかと――
―――
「それが今は、“彼”のことを考えていられるわけですから」
 それで君は救われたのか。と鴎外は聞こうとして、やめた。その代わりに、今夜はよく眠るようにと言って、多少の鎮静剤を中島へ処方した。


 その晩、中島は割合によく眠った。
 発作の不安はあったが、なんとか横になって床に就き、鴎外に出された鎮静剤も次第に効いてきて、うとうとまどろみながら寝入った。
 夜半、夢を見た。
 突然、音もなく寝室の天井が落ちてくる夢だった。そんな小説を書いた覚えがある。が、夢の中のことだから、ともかく必死でもがき、といって徐々に降りてくる真っ黒な天井をどうすることもできない。一刻ごとに空気が濃く淀む。呼吸が困難になってくる。
 いよいよ天井が間近に近付き、耐えがたい重みが胸を圧したとき、ふと横を見ると、一人の男が立っている。
 “彼”に違いない。と中島は半ば盲信的に思った。すると男の姿は本当に“彼”に見えてくる。こちらを見下ろしている。
「どうしようもないヤツだ」
 とでも言いたげな目つきをしている。
 “彼”が手を差し伸べると、それによって黒い天井は支えられ、もう落ちてくることはない。
 それから、“彼”はもう一方の手で中島の胸をひと撫でした。自作の小説であれば、それで呼吸困難から救われるのである。しかし元来の喘息のせいか、中島は咳き込んでしまい、喉からひゅうひゅうと音が漏れた。
 “彼”は、中島の上へ屈み込んでその背をさすり始めた。別段優しい言葉をかけてくれるでもない。ただ黙々と、怖い顔のまま、さすり続けている。
 やがて中島は深い眠りに引きずり込まれ、目覚めたときには夜が明けていた。
 夢のことは、はっきりと覚えている。夜のうちに軽い発作を起こしたのかもしれない。不安に思い、鴎外にもらったエフェドリンを全部飲んでしまった。
 寝床に起き上がり、ぼんやりとした頭で昨晩の夢について考えている。
 助けてくれたのは――自分が執拗に助けを求めたのは“彼”にであった。苦しむ自分の背をさすってくれたのは、吉川のような仲間でも、かつての妻でさえなく、“彼”であった。
 そのことを中島は恥じた。すっかり恥入ってしまい、朱に染まった顔を掛布団にうずめ、嗚咽を漏らした。

(了)