二匹のケダモノ

 その晩、中島は夜番に当たっていて、午後十時と午前一時の二回、図書館内の見回りをしなければならなかった。
 十時の方はまだどこも人の姿があるが、一時ともなると夜遊びに出かけている者以外は寝静まっている。暗くひっそりとした図書館内を、懐中電灯の頼りない明かりで照らして歩く。自分たちの子でもあり母でもある文学書に異常がないか、あるいは泥棒などに入られないよう施錠を確かめるのが仕事である。
(何もなければいいけど――
 と、中島は気乗りのしない様子で一人とぼとぼと歩いている。夜番の勝手はわかっているし、別段暗いところが怖いということもない。
 ただ先日、ちょっとした事件があった。夜中、織田作之助が図書館でお化けを見たというので騒ぎになったのだ。が、幽霊の正体見たり枯れ尾花。実はお化けの正体は、暗がりを一人でふらついていた島崎藤村であった、という笑い話である。
 織田は皆に笑われたが、却って楽しそうな様子で、このことを幽霊譚として語り継ぐのだなどと言って、例のごとくケケケと笑い飛ばしていた。
(もし私が織田さんと同じ目に遭ったら、とても耐えられないだろうな)
 と中島は思う。あんなふうに人に笑われて、まず平静ではいられまいと思うのだ。きっとひどくうろたえて、何の気の利いたことも言えず、ただただつらい気持ちがするだけだろう。
 世間の人はどうして平気なのかしら。と思う。どうして自分ばかり、こんなに心が弱いのか。
 中島が食堂の前を通りかかったときだった。
「あれ」
 と、食堂のドアの隙間から暗い廊下へ細く漏れる光に気付いて、足を止めた。
 そっとドアを押し開けてみると、隅のテーブルで一人酒を飲んでいる者がいる。
「太宰さん」
 と中島は入り口に立ったままで声をかけた。
「あの、困りますよ、こんな時間に。鍵を閉めておかなくちゃいけないのに」
「あに、もう見回りの時間なの――
 太宰は中島に気がつくと、随分酩酊したろれつの回らぬ調子で言った。言ったきり、自ら進んで腰を上げる様子もない。中島はもう一度「困ります」と言ったが、太宰は右耳から左耳に抜けているようである。
 仕方なく、中島は太宰のいるテーブルまで歩み寄った。見ればやたら高級そうなウィスキーを台所から持ち出してきて、コップに半分も注いで飲んでいる。
「それ、館長さんの秘蔵のお酒だったと思うんですが」
 と中島は思い出した。
「怒られますよ」
「怒られるよねぇ。みんなに知れて恥かいちゃうよね」
「わかっていて、どうしてそういうことをするんですか」
「だって、みんながさぁ、太宰ならきっとそういうことをやるだろうと思っているじゃないか」
―――
 中島は怪訝な顔つきになり、太宰の面をまじまじと見た。
「太宰さん」
「あにさ」
「太宰さん本当に酔っているんですか? 酔った振りをして私をからかっているんじゃありませんか」
「酔ってるよ」
 と、太宰は凄むような怖い声を出した。
「フリなんかじゃなくてマジで」
「そ――そうですか」
「うん――せっかくだ、中島君も飲みなよ。美味いわ、これ」
 太宰は中島の返事も待たずに、ふらふらと立ち上がり、コップを取りに台所へ向かった。
「えっ、いや、私はいらないですよ!」
 と中島は慌てて断ったが、太宰は聞く耳持たない。持ってきたコップに琥珀色の妙薬をどぼどぼついだ。それを中島へ差し出したが、中島は顔の前でおどおどと手を振っているばかりである。
「なんだよ、俺の酒が飲めないっての?」
「太宰さんのお酒じゃないでしょう。わ、私は世間の人に顔向けできないような真似はしたくありません」
「世間の人ってなぁ誰のことだい」
 ぴしゃり、と平手を食わせるような物言いを太宰はした。
「だ、誰って、館長さんのお酒なんですから、館長さんに悪いですし」
「じゃあ世間の人じゃない、館長さんに顔向けできないんだと言えばいい。憧れの泉先生に呆れられたくないのなら、そう言えばいい。友だちの信頼が惜しいなら惜しいと言えばいいじゃないか」
「そ、それは」
「誰でもない世間﹅﹅の正体、教えてやろうか。そらあね、中島君」
 と、言いながら太宰は、右手の長い人差し指を一度立ててから、すっと中島の鼻先を指差した。
「世間が許さないんじゃない、自分が許さないんだ。世間の人﹅﹅﹅﹅が笑うんじゃない、自分﹅﹅が自分を嘲笑うんだ」
「や、やめてください!!
 中島は、たまらず大声を上げて、太宰の手をはたき落とした。
「あ、痛――
 という太宰の情けない悲鳴で我に返り、中島は自分の逆上に気がついて、みっともないほど狼狽した。
「す、す、すみません、あの、私、あの、お、思わず――
「いや、いいって」
 俺の方こそ、ごめんね。と太宰も謝った。
「今のは仕返しだった」
 何の仕返しと太宰は言わなかったが、中島には見当がつく。さっき、太宰に酔った振りをしているのではないかと言ったこと、
(あれが、何かこの人の心の琴線に触れてしまったのだろう)
 中島は、太宰に勧められるままに椅子に座った。気を落ち着けたかった。太宰がついでくれたウィスキーも、散々躊躇した挙句、結局少し飲んでしまった。
 アルコールが喉を伝い落ちて、ぽっと胸を熱くさせる。
「太宰さん、今夜はどうして一人でお酒を飲んでいたんですか。中原さんや、無頼派の皆さんは?」
 何か会話をしなければいけないような焦りを感じて、そんなつまらないことを尋ねた。
「俺だって一人になりたいときはあるよ。というか、寝つけないもんだからさ」
「寝酒ですか」
 アルコール中毒まっしぐらですよ。とまでは中島は言わなかったが、
「睡眠薬――は、鴎外先生は出してくださらないんでしたっけ」
「俺、中島君にその話したっけ?」
「なんとなく知っていた気がするんですが、私もどこで聞いたのかは覚えてないんです」
「ふうん」
 ふうん――と、太宰は物思いに沈んだ顔で、ぐび、とウィスキーを一口飲んだ。
「ねえ、中島君、侘びしくはないの」
 と太宰は、中島の内側まで届かせようとするように、ゆっくりと問うた。
「太宰さんは寂しいんですか?」
 と、中島は困った顔をして問い返してきた。太宰は、にわかに興ざめたようである。
「もー、中島君てどうしてそうなのかなぁ。そんな君には俺の好きなボードレエルの詩をあげよう」

 あきらめよ、わが心、獣の眠りを眠れかし

 太宰はいい声でその一節を暗唱し、コップに残っていたウィスキーを一息に飲み干した。
 中島は、意味を汲みかねているらしい。掌の中のコップをいじくり回し、ぐずぐずと考えている。
「太宰さん、寂しいのなら」
「いや、寂しくはない」
「寂しいのなら、吠えたらいいじゃありませんか」
―――
 今度は太宰が意味を汲みかねる番だった。右に左に首を捻って考えたのち、ふと天井を仰ぎ、
「がぁお」
 と吠えた。
「本当に吠えてどうするんですか」
 と、中島は苦笑いを浮かべた。
「私たち文士にとって、吠えるといえば、小説を書くことじゃありませんか? 堪らない気持ちを、虎が、空谷に向かって、月に向かって、遠く吠えるようなものじゃありませんか? 他の動物たちがそれを聞いて恐れおののくばかりだとしても」
「もしかしたら、どこかにいる、別の虎が吠え返してくれるかもしれないってこと?」
「そうだったらいいなぁと、思いませんか」
――俺も吠えたよ、昔は。だれか、ひとり、いや一匹、幸福にしてあげたくて」
 と言って、急に、さも愉快そうに笑い出す。
「どうしよう、眠くなってきた」
「それは、それだけ飲めば酔いも回るでしょう」
「うん、もう寝るわ」
 中島もこれで見回りを終えられると、ほっと安心した。
 コップを片付けて、酒瓶を元の棚に戻しておいた。初めはほとんど一杯だった瓶の中身は三分の一近くもなくなってしまっている。
「絶対にバレますよ、あれ」
 中島が不安げな顔をすると、酔っぱらいの太宰が笑って、
「俺が叱られてあげるよ。だーいじょうぶ、俺、慣れてるしさ」
 などと、何も格好よくはない話なのになぜか格好をつけている。
 別れ際、太宰がふいに両手の指を曲げて獣の手を作り、中島に向かって、
「がおぉ」
 と吠えた。そういういきなりの出来事が、中島は苦手なのである。それでつい、
「が、がおー」
 と蚊の鳴くような声で吠え返していた。太宰は意外そうに、しかしどこか嬉しそうに、照れくさそうに両手をズボンのポケットに突っ込んで身を縮める。中島と反対方向に歩きだしながら、ボードレールをささやいた。
「あきらめよ、わが心、獣の眠りを眠れかし」

(了)