ユダの踊り

 元はと言えば、例のごとく中原中也に強引に飲みに連れて行かれそうになっていた太宰が、
「いやっ、あの、今夜はちょっと――そ、そうだ、中島君、中島君と一緒に出かける予定がある! あるんです!」
 などと、その場しのぎの嘘をついたのが悪い。もちろん、中島はその場にたまたま居合わせただけで、そんな話は初耳である。
「えっ、い、いや太宰さん、私はそんな――
 と口を挟みかけたが、言い終わるより早く、中原がものすごい形相でこちらをにらみつけてきた。
「あぁアアン? そうなのか中島ァ!?
「いっ、いえその――
 こうなると中島も、不良詩人の中原に目をつけられるのは嫌だし、といってまるきり平身低頭して「違いますから許してください」と言うのもあまりに意気地がないようで、何も言えなくなってしまう。
 不気味な沈黙があったのち、
「ちっ!」
 と中原が忌々しげに舌打ちをした。くるりと踵を返すと、太宰と中島を残して、一人面白くなさそうにどこかへ行ってしまった。
 ほー、と、太宰が安堵の息をついた。
「あーーー怖かった。ぜったいに殴られると思った。中島君がいなかったら殴ってたってあれ」
「あ、あの太宰さん、おかげで私まで中原さんの不興を買った気がするんですが」
「そうかもな」
 と太宰は無責任なことを言う。
「そんな――だいたい、どうしてあんな嘘をついたんですか?」
「だってさ、もう三日も続けて中也の徹夜酒に付き合ったんだ俺。これ以上は肝臓ぼろぼろになっちゃう」
「だったら、中原さんにも正直にそう言って差し上げればいいのに」
「言えないよ」
 この太宰の感覚が中島にはわからない。友人同士なら自分の気持ちを隠さず伝えるのが正しいのではないかと思う。
「ところで中島君。今夜はどこに行く?」
 と太宰が言い出したので、中島は驚いた。
「ええ、本当に私と一緒に出かけるつもりなんですか」
「だって中也に嘘がバレたら後が怖い!」
 じゃあ嘘をつかなければいいじゃないですか、と言いたいのだが埒があくまい。
「太宰さんはどこに行きたいんですか」
「俺の行きたいところでいいの? じゃあストリップでも見に行く?」
「えええ、いや、それは」
「はは」
 と太宰は可愛らしい笑い声を立てた。
「冗談さ――そうだね、ダンスホオルにでも行かないか? 中島君もダンスくらいできるでしょ」
「まあ、少しは」
「じゃあ決まり!」
 という次第になったはいいが、中島は、考えてみればダンスホオルに着ていくような洋服の用意がない。そのことを太宰に言うと、
「ネクタイも持っていないわけ?」
 と驚かれてしまった。中島は恥ずかしそうにうなずいた。
「ネクタイは俺のを貸してあげるよ。だけど上着はサイズが合わないだろうな」
「太宰さんは上背がありますからね」
「誰か借りるあてはないの」
 と言われても、中島の心当たりといえば、吉川は体格が違いすぎるし、乱歩もそうだ(それに乱歩に借りを作ると、またぞろ“彼”に会わせろとか言われそうだ)。
 それで結局、太宰が織田作之助に頼んでくれた。
「オダサクはああ見えて細っこいんだ。あんまり体が強くなくてさ」
「それは知りませんでした。いつも陽気な方だから――
「うん。陽気なやつなんだ」
 待ち合わせの約束は夕方六時。中島は三十分前には自室で着替えをして、支度を済ませた。
 姿見を覗いて、太宰に借りた臙脂色のネクタイを結ぶのに四苦八苦している。どうにかそれが気に入った形になると、織田に借りたチョッキと上着を着た。
(織田さん、本当に細いな)
 中島も痩せている方だが、織田の洋服は中島とさほどサイズも変わらない。中島は、織田に同情する気持ちになった。織田の例のケケケという甲高い笑い声を思い出した。
 運命はいつも理不尽だ。
 着慣れない洋服を着た自分を鏡に映すと、なんだかちぐはぐな感じがする。整髪剤を付けずにぱさぱさした髪ではおかしいかなと思いつつ、手で髪を後ろへ撫でつけてみたり、分厚い眼鏡がよくないかしらと思って外してみたり。眼鏡がなくては鏡の中の自分の顔も見えなくて、一通りしかめつらをした後で、結局眼鏡も髪も元に戻した。
 時間通りに中島は太宰と落ち合い、一緒に図書館を出た。 太宰の洋装は、一見いつも通りという風だが、昼間から着替えたシャツが上等で、袖のカフスも洒落ていた。
「さすが、おしゃれですね」
 と中島が感心すると、
「いや、実は、俺も人に借りたんだ」
 と太宰はどこか決まりが悪そうである。後で中島が洋服を返すときに織田から聞いたことだが、それは嘘だった。そういう嘘をままつくのが太宰であった。中島には太宰がよくわからない。
 図書館から繁華街まではいささか距離がある。
「電車ですか?」
 と中島が太宰の意向を尋ねると、太宰は円タクで行こうと言う。
 タクシイの中で、二人がなんとなしに窓の外を眺めているうちに、街の空は夕から宵に変わった。二つの境は明瞭でなく、ずっと見ていても、さっき夕があって、今は宵があることしかわからない。
 暇つぶしに、二人は文学談義の真似事などしてみた。太宰はタクシイから見える空の表情に人の心の妙を託して書くのだと言い、中島は同じ題材でも常しえなる宇宙の妙を書きたいと言った。これからダンスホオルになんか行くにしては、しんみりと照れくさい話だった。タクシイの運転席で聞いていた運転手も、おかしな二人連れだと思っていたに違いない。


 ビルヂング六階にあるダンスホオルは大衆向けで、チケットも手頃な値段であった。
 その割に服装にはやかましく、学生服はダメ、ネクタイなしではダメと、厳しい。入り口で店員がこちらの風体をじろじろ見回してくるので、中島は居心地の悪い思いをした。
 入って左手にバンドのステエジ。奥には見物席やバアがあって、踊らないときはそこで休めるようになっている。
 ホオルは七割方、客とダンサアで埋まっていた。なかなか盛況であった。中島が、ホオルの天井のシャンデリアがきらきらするのを眺めている間に、太宰はさっさと人波に飛び込んで行った。
 太宰は、数名の女ダンサアから声をかけられて、そのうち一番手近な娘と踊った。一曲終わると、太宰は中島のそばへ戻ってきた。
「太宰さん、モテますね」
 と、中島はからかった。太宰はおどけて、
「まあね! いわゆるモテ期ってやつ?」
 と言った。言ってから、ぽつりと付け加えた。
「不潔だよね」
―――
 中島が何も答えられないでいると、太宰は再び踊りに出て行ってしまった。
 中島も、一人ぽつねんとしているのも馬鹿らしい。できるだけ上手いダンサアを探して、相手を頼んだ。
 バンドの次の演奏は切ないタンゴ。いい曲だった。鍵盤から始まって、感極まるようなヴィオロン。管楽器が繰り返し呼び合う。どこかもの悲しい、しかし芯はめろめろと燃え盛っているような、生命を秘めているような、いい曲だった。
 良曲のおかげもあって、生前からの久方ぶりにしては上手く踊れたと中島は思った。相手のダンサアのステップが自信に満ちて巧みだったのもよかった。
 ダンサアの方も、中島のダンスを上手だと褒めてくれた。
「ありがとう」
 と、中島ははにかんだ。お世辞でも悪い気はしない。そんな卑小な喜びにくすぐられる、自分の自尊心がみじめだった。
「大変な仕事ですね。どうしてこの職に?」
 と中島は、捻くれた自分の気持ちの罪滅ぼしのようなつもりで、ダンサアを労った。若い女ダンサアはちょっと笑って、
運命さだめですので」
 とだけ、美しい声で答えた。
 ダンサアと別れて、中島は一人ぽつんと取り残されたような、心もとない気分だった。
 広いホオルをわらわらと行き来する客やダンサア、彼らは皆己の運命を知っていて、ただ自分一人だけが知らないのではないか。
 今夜洋服を貸してくれた織田も、自分の運命を知っていて、その理不尽さも知っていて、それでもケケケと笑っているのかしらと思った。
 中島は、見物席の方に移動した。バアで酒を頼んで、さほど強くもないのに三杯も四杯も飲んだ。
 ホオルの方を眺めていると、ときどき太宰の姿が目に入る。太宰は一曲ごとにダンサアを替えながら、けばけばしい風体でくるくる踊っている。
 曲が終わってダンサアと別れる度、ダンスの間はきざに気取って、おどけていた太宰の顔つきが一瞬陰鬱に沈む。そしてまた新しいダンサアを見つけると、気取る。
(嘘つきのユダが踊っている)
 と、中島は酔いの回り始めた頭で思う。太宰は何か、裏切りのユダを題材にした作品を残していたような気がする。
 ふと、中島の胸に妙な欲求が湧いた。太宰のところへ歩いて行って、胸倉を掴んで、
「ユダの運命を知っていますか、最後には首吊り自殺ですよ」
 とわめいてやりたいような、そんな気がしたのである。酔っていたのだろう。
(他人の運命はわかるのに、なのにどうして自分のことは何も見えないんだろう)
 無性に悲しい気持ちになり、椅子を蹴るようにして立ち上がった。
 きっ、
 と、人波の中にちらつく太宰の顔をにらみながら、中島は足を踏み出した。途端に、よろけた。
 はっきりと覚えているのはそこまでで、その後の記憶が、情けないことに定かでない。


「全く、何をやっているんだか」
 と、中島の心のどこかで、誰かがあきれてぼやいている声がする。
「何が、他人の運命はわかるのに、だ。わかってなんかいるものか。何もわかっちゃいない――
 そうやって分厚いレンズ越しにしか物を見ようとしないから、本当のことがわからない。毎日姿見を覗いていても、俺の姿さえ見つけられないんだ。と誰かが――“彼”が言う。
 中島の閉じた瞼の裏に、一枚のガラス窓が薄っすらと映った。それを挟んで向こう側に、こちらを向いて立っている人影も見える。あれが“彼”かしら。と中島は思って、目を開けて見ようとするのだが、眠くてどうしても瞼が持ち上がらない。
「何をやっているんだか」
 と“彼”はもう一度、ひどく優しい声でぼやいた。その声に、
「何やってるの、中島君」
 と、急に現実の声が重なった。指の細い手で背中から肩を叩かれた。
 はた、
 と中島は目を開けた。いつの間にか、半分眠っていたらしい。中島はダンスホオルの見物席近くの窓へ額をつけて寄りかかっていた。
 すぐ目の前の窓は、夜景に室内の光が反射して鏡のようになっていた。いつもと同じ自分の冴えない顔が映っている。中島は酔い覚めの目で、驚き顔にそれを見つめた。
 夜景の鏡には、中島の背後で頼りない顔をしている太宰も映り込んでいる。
「中島君、大丈夫か? 酔ってるのかい。なんでそんなところにいるの」
 と、太宰に問われ、中島は振り返って、事の次第を思い出そうとした。
「え、ええと――
 胡乱な口振りが我ながら情けない。
「確か、バアの方から、太宰さんのところへ歩いて行こうとして――それが、どうにも、足元がふらふらだったもので」
 たぶん、酒のせいでふらついて、壁伝いに行こうとでも思ったのだ。そして途中、窓の前で立ったままうつらうつらしてしまった、そんなところだ。それからどれくらい時間が経っているのだろう。
「み、みっともないところを見られてしまいました」
 と、中島が、酔いのせいばかりでなく真赤になってうつむくと、
「ま、他に誰も気にしちゃいないでしょ」
 と太宰は慰めてくれたつもりらしい。事実、バンドの音楽と踊る人々の靴の音に満ちたホオルの中で、二人のことを気にかける人間など一人もいなかった。
「何か俺に用でもあったわけ?」
「いえ、そ、それは、何でもないんです、別に」
 中島は、酔いが覚めてみれば、太宰にユダの運命が云々と詰め寄ろうとしていたなんてひどく幼稚だったと思った。
(私にこの人の何がわかるというんだか)
 しかし中島にそういう態度を取られると、太宰としては却って構ってちゃん心が疼くらしく、
「えええー気になるなぁ。なになに、俺に一緒に踊ってでもほしかったの?」
「いやそれはないですけど」
 中島はにべもない。しばし口をつぐんで何事か考えてから、ふと眼鏡を外して、裸眼で太宰の顔をにらみ上げた。
「な、何なの。中島君、まだ酔っているんじゃないの」
 太宰はいささか気圧されて、身を後ろに引いた。
 中島は、うんと目を細めて、首を左右にかしげながら、太宰の顔をためつすがめつしていたが、やがて落胆して眼鏡を掛け直した。
「やっぱり、これなしでは私には何も見えませんね」
 はあ、とため息が漏れる。太宰から視線をそらし、そのまま窓の外の夜景を見た。真っ暗な街のあちこちで五色のネオンが光り、天の川のように帯を作っていた。
 太宰が、思うところあったらしく、
「何と言うか、あれだ、芸術だね」
 と不意に言った。中島はてっきり夜景のことかと思い、うなずいた。
「夜の景色は美しいですね」
「いや、俺が芸術だって言うのは、それを見ている中島君のこと」
 中島は狐にでも化かされたような顔になって、太宰を振り返った。
 嘘つきの、イスカリオテのユダ。
 中島は、太宰がユダを題材にして書いた小説の題と顛末を、そのときふと思い出した。
――太宰さんこそ、芸術的ですよ」
 と中島は言い返した。珍しいことだ。まだ酔いが覚めていないのだろうと思う。
 太宰は得意気に、ふふんと笑った。
「そりゃ俺だって芸術に決まってるじゃん。繊細なんだよ、俺って」
「繊細かどうかは知りません。ただ、常しえなる宇宙の一瞬を、太宰さんのような人がもがきながら生きている様は、自然が削り出した目茶な形の彫刻を見るようです」
 今度は太宰の方が狐につままれたような顔をする番だった。太宰にそういう表情をさせたことに、中島は満足した。
「勝った」
 と思わずつぶやいていた。口元がほころぶ。
「ちょっ! 勝ったとか負けたとかそういう話なわけこれ」
 太宰が食ってかかってくるのが愉快である。中島は己の心の中に、そんなことを楽しむ自分もいるのを見つけて、少し嬉しくなった。
 中島は、勝ち逃げするつもりで、太宰にお礼を言った。
「太宰さん、今夜は楽しかったですね。誘ってくださってありがとう」
「どういたしまして!」
 ユダは、可愛らしくふくれ面をしていた。

(了)