水月

 昼間、蓮池に架かる橋を渡るとき、ひょいと池の水面を覗くと、枯れた蓮の合間に自分の冴えない顔が映って揺らめいていた。その振動のリズムが、何かおいでおいででもしているようであった。
 夜になって、中島が同じように橋から池を覗くと、昼間ほどはっきりとは姿が映らず、黒っぽい影がゆらゆらしているばかりである。奥の水面には楕円の月が映り込んで明るい。
 あるかなしかの風に水面が揺れる妖しげな振動が中島を誘うのだ。昼間のように明瞭には映らない水鏡が、却ってそこに夢現の境界を感じさせる。
 中島は、いつの間にか橋を下り、池の縁に立っていた。そこから再び水面を覗いた。
―――
 水面に浮かぶ水月は、天の月が映っているのではなくて、地の月とでも言うべきつがいの片割れが、水底で輝いているのではないかと思う。
 水鏡の向こう側に行けば、黒々した自分の影の真実の姿に逢うことができるのではと。思う。
(私は知りたい――
 知りたい、知りたい、と念じながら、中島はその場で靴を脱いだ。袴の裾を少し持ち上げ、足の先を池の水に浸けるとぞっとするほど冷たい。ひゃっ、とたまらず足を引っ込めた。急に現実に引き戻されたような気がした。
 しかし脳裏のどこかに、夢から覚めまいとする自分がいて、
(これはただの自殺ではないんだ。私は私の本質を見極めるために行くんだ。それが私にとってどんなに大切なことか、たとえ、誰も理解してくれなかったとしても――決してみじめな死じゃない)
 と、現し世に帰りたがる自分をなだめ、すかして、引き留める。
 中島は、思い切って池の中へ入った。すると思ったより浅く、膝が隠れるほどの深さしかなかった。水底は泥でぬめぬめとして気色が悪い。
(本当に死ねるのだろうか)
 と、いささか不安を覚えた。もっと深さが必要ではないかとか、こんなところで死に損なったら大層みっともないだろうなとか、雑念がわっと頭の中に押し寄せてくる。
 そして極めつけのように、
「こんな夜更けに入水自殺とは穏やかじゃないなぁ、中島君」
 と、おどけた声が橋の上から降ってきた。そんなわざとらしい物言いをする者は、帝國図書館の文人にもそうはいない。
 中島は橋を見上げた。
「だ――太宰、さん――
 こちらを見下ろしていたのは、思った通り、太宰治であった。夜目にもわかるけばけばしい風体、間違いない。
 面倒な人に見られてしまった。と、中島は口にこそ出さなかったが、思った。顔には出ていたかもしれないが、闇に紛れて太宰には見えないはずだ。こちらからも太宰の顔色は窺えなかった。
「初々しいなぁ」
 と太宰が言う。
「中島君、自殺は初めてなんでしょ? ダメダメ、そんなんじゃ死ねないなぁ」
 などと、なぜか偉そうだから困る。中島は面くらってしまい、つい、どもって、
「な、何が、ダメなんでしょうか。ここでは、浅すぎますか」
 と間の抜けたようなことを尋ねた。太宰はかぶりを振った。橋を下りて、中島がいる辺りの水辺までやって来た。
 中島は月明かりの下に太宰の顔を認めた。太宰は薄っすらと笑っていた。
「いや――覚悟の問題さ」
 と、太宰は答えた。張り詰めた、実にいい声だった。が、次に口を開いたときには、またいつもの道化に戻っている。
「ま、死のうと思えば洗面器に顔浸けたって死ねるんだ。でもちゃんと腹が据わってないとさ、ほら、死に損なっちゃうから」
 そこでそんな覚悟の決まってない君にコレをあげよう。と太宰は言い、
「じゃーん」
 黒いチョッキのポケットから、封を切ったばかりのポケットウィスキーの小瓶を取り出して、中島の手に押しつけた。
「こいつを一本ぐいーっと空けて水に飛び込めば効果テキメンだ! あとは、やっぱりこれかな」
 と言って右手を差し出す。その手のひらに赤い紐のようなものがぐるぐる巻きにしてあった。よく見れば、いつもは首に巻いているネクタイである。
「それをどうするんですか」
 と中島が尋ねると、太宰は笑って答えた。
「決まってるだろ、一緒に死ぬ相手と手と手を結んでおくんだよ」
 ネクタイも太宰に押しつけられ、中島はそれを受け取ってウィスキーの小瓶と交互にまじまじと見つめた。
 そうしているうちに、なんだか馬鹿馬鹿しい気分になってきて、視線を上げて太宰の顔を見た。
「私を止めてくれようとしてるんですか?」
「違うね」
 太宰はなんとなく怒ったような声を出した。
「死にたいやつぁ死ぬがいい」
 それに嘘や裏はなく、太宰の心から出た言葉のように中島には感じられた。
(たぶんこの人は、本当に私が死んでも、構いはしないんじゃないかな)
 と思った。考えてみれば自分が死んだとき、ちゃんと悲しんでくれる人はどれほどいるものか。たとえそのときは悲しい気分になったとして、その後自分を記憶していてくれる人が一体何人残るものか。なんとも心細い思いがする。
 心中で「死にたい」と思っていた気持ちが急にしぼんでいくような気が、中島にはした。なんだ、結局自分は、自分の死ですら他人にどう思われるかとばかり気にしているんじゃないか。と、自分に幻滅して、悲しくなった。
 中島はとぼとぼと池の縁に向かい、水から上がった。濡れて泥まみれの足が泣きたくなるほど冷たかった。
 気力が萎えて、その場に座り込むと、なぜか太宰も隣に来て座った。しばらく黙り込んでいたが、やがて我慢しきれなくなったように、
「俺がどうして都合よく現れたのか、聞いてくれてもいいんじゃないの?」
 とわめいた。そう言われて、中島は手の中のウィスキーと赤いネクタイを見つめ、それから遠くの水面にゆらめいて映る月を見遣った。
――太宰さんも、池を覗いて、水月に誘われてここに来た、ということでしょうか。私が先客で邪魔をして、死に損なわせてしまったようですけど」
「ちょっと、そういうのは俺が自分で語りたかったのに。先回りしないでほしいよなー。これだから秀才君は」
「私がいなければ、太宰さんには死ぬ覚悟がありましたか」
「覚悟なんてそんなもん、なくたって死ぬときは死ぬさ」
 太宰は中島の手からウィスキーの瓶を取り返し、ラッパで一口飲んだ。中島も少し飲ませてもらうと、冷えきっていた体の芯がぽっと熱くなった。
 中島はネクタイも太宰へ返した。手渡しながら首をかしげた。
「太宰さんには、これで手と手を結びたい人がいるんですか?」
「んん? 俺?」
 太宰はアルコールのせいで若干気の遠くなったような様子だった。
「俺はね――そうだな、誰でもいいや」
 という答えが本心なのか、おどけなのか、中島もウィスキーでぼやけた頭では判じかねた。太宰は、
「この際だから中島君でもいいよ」
 などとのたまう。
「私は、太宰さんでは困ります。私には他に結ばれたい人がいます。ただ、彼と手と手を結びつけることはどうやってもできないんですけど」
 と応じて、中島は池の水面を眺めた。足元に自分の影が黒々とわだかまり、ゆらゆら揺れている。
みなも﹅﹅﹅というものは、私たちに向かっておいでおいでをしているようです。水底から呼ばれているような、そんな気がしませんか」
「そうさなぁ。まぁ――たまには死にたい気分になることもあるってことでしょ」
 太宰は返してもらったネクタイを首に巻き直すと、つまらなそうな顔をしている中島を横目に、手近な小石を一つ拾い上げた。それを思いっきり振りかぶって、池の真ん中へ放り投げた。
 小石は、ぽちゃんと水面に落ちた。丸く幾重にも広がる波が、水月をしばしの間掻き消した。しかしじきに水面が穏やかになると、月はやはりそこに明るく浮かんでいるのだった。

(了)