李陵

 今、彼の手に一冊の作品集がある。それは、彼自身が生前書き残した多くはない小説から、さらに選り抜かれた十数作をまとめたものである。恥ずかしがり屋の彼は、己のあずかり知らぬところで自分の古い作品が出版され、そして自分でそれを手に取っているということが、どうにも照れくさいらしかった。
 表紙、裏表紙とためつすがめつしてから、彼は本を開いた。
 目次に並ぶ題名のうち、一つだけ、彼が付けたのではないものがある。
『李陵』
 という題である。この小説は彼の遺稿だった。題を与えられぬまま彼が夭逝したのち、友人の文士であったF氏が、できるだけ無難で淡泊な題をと選んで付けてくれたものである。F氏の友情を彼はありがたく思うばかりだった。
 彼はページを丁寧にめくり、『李陵』の冒頭へ目を落とした。

 漢の武帝の天漢二年秋九月、騎都尉・李陵は歩卒五千を率い、辺塞遮虜鄣を発して北へ向かった。

 と、武張った書き出しで始まる李陵の物語は、純粋な歴史小説として捉えられる向きがおそらくは多いのではないか。
(でも、私にとっては――
 そればかりではない。と思いながら、彼は、古い傷痕でもなぞるように、『李陵』の冒頭の一文を指先でそっと撫でた。
 この小説には三人の男が登場する。
 初めに、題にもなった騎都尉・李陵。
 次に、李陵の旧友で、匈奴に投降した彼を庇ったがために宮刑に処された太史令・司馬遷。
 最後に、李陵のもう一人の友で不屈の漢史、中郎将・蘇武。
 かつて彼はその骨太な筆致でもって、この三人を彫り上げた。雄大な古代中国の風景の中から、ペンをのみにして力強く削り出し、彫り込むようにして描いた。
 打ち込まれていく鑿の一刀一刀に、彼の精神が宿っていた。そうして彫り上げた男たちに残る鑿跡は、雄々しくもどこか哀しい。
(私の書くものは、どうあがいても“私”だった)
 李陵、司馬遷、蘇武。三人それぞれに対して、彼は愛着を感じる。三人の鑿跡に宿る“私”を彼は見つめる。
 思う。
(こうして新たな生を受けた今も、変わっていない。彼らは、私だ)
 無論、彼は古代中国の武将でもなければ官吏でもない。帝國図書館に暮らす一介の文士に過ぎぬ。
 それでも、その安寧な文士の日々の中にさえ、李陵も、司馬遷も、蘇武も、確かに息づいている。

「中島さんは、新しい小説を書かないのですか」
 と、人に聞かれるのが中島は苦手だった。聞かれると、たいてい適当なことを言ってごまかしてしまう。
 近頃、帝國図書館の文士たちの間では、転生して得たこの新たな体で再び筆を取って創作活動を行おうという者が多いらしい。島崎藤村などは筆頭、自費出版まで試みて館長に止められたそうである。そういう多少の制約はあれ、皆、新生の喜びを詩や小説に表したいという意欲に燃えている。
 周りがそうだから、自然、中島も、
「書かないのか」
 と聞かれることは多い。先だってその質問をしてきたのは、他でもない、中島の敬愛する泉鏡花だった。
 その日、蔵書点検のために文士たちは駆り出され、各人広大な図書室の自分の持ち場へ散らばって仕事に当たっていた。たまたま鏡花と場所が近かった中島は、埃を嫌い遅々として捗らない鏡花の仕事まで甲斐甲斐しく手伝った。そんな中、ふと鏡花が先のようなことを尋ねてきたのだ。
 中島は返答に困った。
「そう――ですね、近頃は、皆さんそういう気概を持ってらっしゃるようですね」
 と、姑息なことを述べてごまかそうとしたが、鏡花には通用しない。
「人のことはいいのです。僕は中島さんが﹅﹅﹅﹅﹅どう考えているか聞きたいのですよ」
 と言う声こそ優しげだが、鋭く突いてくる。
「わ、私も、小説を書きたいという気持ちはあるんです――
 と中島はようよう答えた。鏡花は喜んで、畳み掛けてきた。
「それは素晴らしいことです。どんな小説を書いているのですか? やはり、中島さんの得手とする漢籍を主題にした歴史物語ですか?」
「いえ、それがまだ小説と言えるようなものは。それに、題材も漢籍以外のものを今は考えています」
「そうなのですか?」
「はい」
「ですが、なぜ?」
 と鏡花に理由を問われ、中島は再び口ごもってしまう。
 なぜか。そんなことは、今の帝國図書館内に出来上がりつつある文壇の雰囲気を見ればわかるではないか。鏡花ほどの人物がそれに気付かないとも思えない。と、中島は歯がゆく思う。
(文壇へ帰りたいと望んでみても、今のあの場で私の小説が評価される望みはないんです、たぶん)
 と、口には出せぬまま、中島は鏡花の顔をちらと見て、すぐに目をそらした。
 中島には師もなければ、志を同じくする仲間もない。何かの主義を掲げてもいない。同じ歴史好きということで吉川英治など親しくしてくれるが、彼は大衆小説作家という点で、純文学を志す中島には住む世界が違うように感じられる。
 そして結局文壇というところは、そういう交友関係が物を言い、その中で流行の文学が生まれ、それ以外は冷遇される世界なのだと、中島は思う。
 中島の心は決まっている。誰にも認められないまま自分の書きたいものだけ書き続けるか、それとも今一応は文壇に従って当たり障りのないものを書いておいて、その中に機を見て本当に書きたいものを書く――そのときこそ流行に左右されないような力作を――か、この二つの外に道はないのだが、中島は、後者を選ぶことに心を決めたのである。
 しかし己がそんなふうに考えるようになった事情を鏡花に話すことは、さすがに気が引けた。自分の考えを決して非なりとは思わないけれど、現実的には文壇で認められる近道はそれしかないと思うけれど、どう話しても弁解の調子になってしまう気がする。
「いろいろな小説を書いてみたいんです」
 結局、鏡花の問いにはそのように答えた。
「いろいろな小説、ですか」
 と、鏡花は今ひとつぴんとこない様子である。
「ええ、たとえば、自然主義や白樺派の方のように私の身の回りのことを私小説風に書きたいとか、鏡花さんの書かれるような幻想的な小説に挑戦してみたいとか、そういう想いがあります」
「ああ、なるほど――
 鏡花は一応納得してくれたらしい。
「そういった勉強をしてみるのもよいことではあるでしょう」
「新しいことに挑戦していると、たくさん発見があります」
 と中島は言った。嘘ではない。
「事実や自分の気持ちをありのままに文章にするというのは、一見簡単なようで、その実とても筆力が問われることですし、逆にロマン的・幻想的な文章というのも難しいものです。自分の未熟さを痛感します」
 本当に書きたいものだけを書くのが正しく、文壇の流行に乗るのは卑しいものと頭から決めてかかるのは、余りに短絡的ではないかと、中島にはそんな気がしている。流行るものには流行るだけの理由がちゃんとある。
 中島は、近頃の文学に対する己の雑感を理路整然と鏡花に語って聞かせた。鏡花もそれなりに興味を持って聞いてくれて、次第に調子が出てきた頃のことだった。
(そんな自分の意思が空っぽなことを得意になって話して、何になる)
 と不意に、心のどこかで誰かが呆れている声が、中島の胸奥へ響いた。突然感じた“彼”の気配に、中島はギクリと身を震わせた。
 心の内側から己を見つめる“彼”の態度の中に、何か富者が貧者に対する時のような――己の優越を知った上で相手に寛大であろうとする者の態度を感じた。その中に浮かぶかすかな憐憫の色を中島は恐れた。
「? 中島さん?」
 と鏡花が、中島の顔色が悪いのに気付いた。中島は慌ててかぶりを振った。
「い、いえ、何でもありません。すみません、ぼんやりしてしまって」
「先刻から立ち仕事をしっぱなしですからね。少し休みましょうか」
 幸い、鏡花には動揺を気取られずに済んだようだ。
 中島は、鏡花に新しく書いた小説を読んでもらいたい気持ちがあった。できれば鏡花の方からそれを言い出してくれないかなと思う。が、鏡花は何も言わなかった。

(“奴”のだらしなさにもほとほと困ったものだ)
 と、中島は仲間の文士たちから一人離れて先頭を歩きながら考えている。
 有碍書の世界は例によってあちこちが魂を失ったグロテスクな文字の群れと化していて、路面もところどころそんな様子だから、歩きにくいことこの上ない。足元の「石」を蹴飛ばして、中島はずんずん歩いて行く。
(“奴”のあの甘っちょろい精神は今に始まったことではないとはいえ)
 今回は特に甘い。甘すぎると思う。
(なにが「今一応は文壇に従って当たり障りのないものを書いておいて、その中に機を見て本当に書きたいものを書く」だ。どうして、そういう風にものを考える真似事﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅しかできないんだ)
 もっと素直になれ。と、心の内側に向かって言い聞かせる。
 とそのとき、
「中島さん、中島さん待ってください」
 と後方から呼び止められ、中島は立ち止まって振り返った。仲間の鏡花が、踵の高い靴でぱたぱたと走って追いついて来たところだった。
「この先は道が危ないので、秋声と島崎さんが先に偵察に出てくださるそうですよ」
 と鏡花が言い、後に続いて藤村がのんびりした声を上げた。
「身軽な人間が先に行った方がいいんじゃないかと思ってさ。僕と秋声が様子を見てくるから、二人はこの辺りで待っててよ」
 それは俺たちがのろまだという意味か? と中島はよほど聞き返してやりたかったが、ともあれ藤村と秋声は先に行ってしまって、中島と鏡花二人が残された。
 照れくさそうにそっぽを向いている中島に、鏡花の方から声をかけてきた。
「そういえば、以前失くしたと聞いていた眼鏡、図書館ではかけていましたね。見つかったようで何よりです。でも、こちらの世界ではやっぱりかけていないのですね」
―――
 中島は決まりの悪い顔をしている。そんな中島の横顔を鏡花がじっと見つめる。やがて、中島は観念した。学校の先生に叱られた子供のように素直に謝った。
「今は見えているんだ」
 と説明した。
「今は? というと? 見えないときもあるのですか」
「ある。自分でも理由はわからない。おかしな体だと思うだろう」
「なんだ、そんなことを気にしていたのですか。僕は変だとは思いません。僕たちの体のことですから、いろいろと不思議も起こるでしょう」
 と、鏡花はむしろ好もしげに苦笑する。
 中島は安心した。中島にとっては鏡花に嫌われるのが唯一恐ろしい。自分だけならいいが、“奴”が嫌われるのは困る。
 鏡花が言った。
「中島さん、今の雰囲気のあなたからの方が本心を聞けそうな気がします。尋ねたいことがあるのですが」
――何だ」
「先日お話したことを覚えていますか? 新しい小説を書かないのかという話です。あのとき、あなたから聞いたことは、あれは本当にあなたの本心だったのですか?」
(見抜かれている)
 と中島は思った。
――あのときは、思うところあってああ言ったが、俺は他人が何を書いているかなんてどうでもいい。俺は俺にしか書けないものを書きたい」
 と正直に答えると、鏡花は得心がいったというように微笑んだ。
「よかった、中島さんならそう言うだろうと思っていました。書きたいものというと、やはり漢籍や歴史小説ですか?」
「そうだな。前世で最後まで書き上げられなかったこともあるしな」
「それは、もしかして『李陵』のことですか」
 そうだと中島はうなずく。
「今はそう呼ばれている。自分では題を付けられなかった。どうにも、画竜点睛を欠くという気分だ。題してくれた友には感謝しているが」
 と言い、どこか遠くを見るような、うっとりした目つきをする。
「今度こそ俺の手で完成させたい。もう一度、蒙古高原の草原のような気が遠くなるほど美しい風景に李陵のような男を生かしてみたい。古い大陸の都で司馬遷のような男の生命がのたうつ様を書きたい」
「他の皆さんの書くものと違っていても?」
 と鏡花が問うた。中島は、はっきり「応」と応じた。
「他人に認められるかどうか、そんなことは俺にはどうにもできない。それは運命の領分だ。運命が俺を認めないというのなら、俺は運命と意地の張り合いをしてやるまでだ」
 中島の強情な痩せ我慢を、しかし鏡花は滑稽や笑止とは見なかった。運命に屈するでもなく、その前で自刃するでもなく、苦しくとも寂しくとも平然と笑殺して行かせるものが、意地だとすれば、この意地こそは誠に凄まじくも壮大なものと言わねばならぬ。
(今は痩せ我慢でも、いずれは大我慢に成長するに違いない)
 と、鏡花は楽しみにさえなるのである。
「中島さん」
 と呼んだ。
「今のあなたはまるで蘇武のようです」
「蘇武――俺の書いた蘇武のことか?」
「ええ今の﹅﹅あなたはね。あなたは不思議な人です。この間などは、そう例えるなら李陵のように、どこか自分を偽っているような雰囲気がありました。まるであなたの中に全く違う二人の人間が住んでいるようです」
「それは違う」
 と、中島はすかさず言った。
「俺の中に別人が住んでいるんじゃない。全てひっくるめて俺なんだ。少なくとも、俺はそうだと思って――
「なるほど、それもそうですね――そうに違いありません。僕も、自分の中にいろいろな僕がいますが、僕は僕ですからね。中島さんの方がよほど慧眼でした」
 鏡花にそんなふうに言われると中島はこそばゆいらしく、彼にしては珍しくうつむき加減で顔色を隠している。歯に衣着せぬ物言いの中島が照れているのが鏡花には可笑しい。
「でも、一つの体にニ人の人間が住んでいるなんて、小説の題材としては面白いと思いませんか? 美しい御寮人の中に二つの女性の魂があって」
「それに男が惑わされる話か?」
「いえそうとは限りませんよ。たとえば、片方の女性は未だ神性の宿る少女なのです――
 と鏡花も新しい小説の着想を楽しげに語り、それに中島が率直な感想を寄越すのを喜んだ。

 中島が自分の意識を取り戻したのは、その日の潜書が済み、有碍書を浄化して、帝國図書館へ帰還した直後のことだった。
「あっ――
 と、気がつくと、そこは見慣れた図書館の一室で、乱立する赤い縄で封印された書棚に交じってさまざまな計器や不可思議な装置が唸りを上げ、コチコチと歯車を軋ませている。
 中島は仲間たちから少し離れたところにぽつんと立っていた。初めは、長い夢から覚めたようなぼんやりした気分で、次第に頭が冴えてくる。それでやっと、ああ帰ってきたのだと思う。
(お、終わったみたい――みんなに恥ずかしいところ見せてなきゃいいけど)
 例によって潜書中の記憶は霞がかかったようにあいまいである。ちょうど、目覚めた瞬間に直前まで見ていたはずの夢のことを忘れてしまったように。
 視界がすっかりぼやけて物が何も見えない。上着の懐から眼鏡を探し出し、それから大童になっていた髪も両手で梳いて直した。
 ふと、背後から、
「中島さん、さっきの話、きっとですよ。約束しましょうね」
 と鏡花に声をかけられた。
「えっ――
 と、中島は怪訝な顔で振り返った。鏡花がにこにこと笑ってこちらを見ていた。
「中島さんが心から書きたいと言っていた渾身の歴史小説のことですよ。きっと書いてくださいね。僕が一番の読者になります。約束ですよ。僕も新作を書いたら、必ず中島さんに見せますからね」
―――
 はい。と、中島はわけがわからぬままに返事をしてしまった。返事をしてから、よくよく考えた。そして、
(“彼”だ)
 と思い当たった。
 潜書中に現れた“彼”が、自分の書きたい小説のことを鏡花に語ったのだろう。たぶん、何の嘘もごまかしもなく、純粋に、一途に、己の心を鏡花にぶつけたのだろう。
 中島の心は動揺した。誰に認められようと認められまいと“彼”は中島のもう一側面であり、従って中島の心の笞たるに変わりはないに違いないが、しかし、天はやはり見ていたのだという考えが中島をいたく打った。
 見ていないようでいて、やっぱり天は見ている。中島は粛然としておそれた。今でも自分のやり方を決して非なりとは思わないし、理想に走る“彼”より自分の方が現実的だとは思うけれど、現実的な己を恥ずかしく思わせるような事を“彼”が堂々とやってのけ、しかも、それが他でもない鏡花を喜ばせて、自分が望んでも与えてもらえなかった言葉を“彼”は与えられたのだという事実は、何としても中島にはこたえた。
 胸をかきむしられるような女々しい己の気持ちが羨望ではないかと、中島は極度に恐れた。
(私は“彼”に嫉妬している)
 とはどうしても認めたくなかった。
 自分で自分に嫉妬するなんておかしいではないか。と思う気持ちと、どうしても“彼”を自分だとは思えない気持ちがせめぎ合い、苦しかった。
 その日の晩から、中島は“彼”のために机に向かい始めた。きっかけは“彼”だったにしろ、鏡花に新作を読ませると、わけもわからぬまま約束してしまったのは、他ならぬ自分である。
 “彼”に言いたいことは山ほどあった。しかし結局それは、小説に対する己の志が那辺にあったかということ。その志を行う前には、文壇の中に飛び込まねばならず、もっと世間を知りいろいろなことを勉強して、地盤を固める必要があると考えていたのだ、という事情に尽きる。“彼”の誇り高い精神の前では愚痴にしか聞こえまい。中島は、それについては言うまいとこらえた。
 中島は、薄暗い自室で机の電灯を頼りに、毎夜下書きを書き進めた。図書室から借りてきた歴史書を脇に積み上げ、時にはそれをめくりながら、頭の中にある物語や景色を一字ずつ文字の形にしていく。
 書きながら、これでいいのだろうかと何度も自問し、気に入らない文は潔く書き直した。“彼”の心がわからない以上、中島は自分の書きたいものをひたすらに書き付けている。それしかないのだ。が、“彼”はどう考えているものやら。
 一生懸命になって書いていて、あるとき不意に、それまで原稿用紙に端正な文字を連ねていたペン先ががくりと震えた。
 中島の厚い眼鏡の下で、涙が頬を伝わっていた。女々しいぞと自ら叱ってみても、どうしようもなかった。
(私はどうして、こんなに必死になっているんだろう)
 と、魔が差した。
(どうして“私”ではだめだったのだろう)
 という、中島を何度も苦しめた問いが、再び心の内に蘇る。
「僕が一番の読者になります」
 と言ってくれたときの鏡花の笑顔を中島は思い出した。あの笑顔は“私”に向けられたのではない。“彼”へ与えられたものだった。
(私も鏡花さんにあんなふうに笑いかけてもらいたかった)
 今懸命に小説を書いている、そのきっかけを得るのは“彼”でなく“私”でありたかった。“私”が、自分での力で、自分の言葉で勝ち得たかった。
 中島はとうとう書けなくなって万年筆を置いた。両手で顔を覆い、机に伏せ、声を殺して泣いた。
 すでに夜が遅かったこともある。どれほどの間そうしていたのか、やがて中島は泣き疲れて、しばし眠り込んでしまった。

 眠りに落ちほどなくして、中島は目覚めた。のろのろと鎌首をもたげた。
 まだ頬が涙で濡れている。眼鏡を取り、手のひらでごしごしと顔をこする。鼻先まで垂れている長い前髪を掻き上げた。
(どうして“俺”はこうなんだ)
 自責の念が中島の心をさいなむ。いつもそうだ。“奴”のためと思って、“奴”を悲しませるまいと思ってやったことは全て裏目に出る。
(どうして俺たちはわかり合えない)
 自分が“奴”のためにすることが、ことごとく“奴”を苦しめる。鏡花に好かれ認められれば“奴”は喜ぶのではなかったのか。しかし実際には、“奴”の苦悩は先の通りだった。
 自分が憎まれるのはいい。憎まれても、疎まれても、いい。それで“奴”が『中島敦』として満ち足りて生きていけるのなら。今の“奴”はそんな精神とはほど遠い。
―――
 一体、何が――誰が――誰のどういう所が、悪かったのだろう。誰を恨めばこの煩悶から逃れられるのだろう。と中島の胸中に思索が――反省が訪れた。
 “奴”も、鏡花も、他の誰も悪くないのだから。中島は最後に憤懣の持って行き所を自分自身に求めようとする。実際、何者かに対して腹を立てなければならぬとすれば、結局それは自分自身に対しての他は無かったのである。だが、自分の何処が悪かったのか? “奴”のために鏡花の前で弁じたこと、これはいかに考えて見ても間違っていたとは思えない。
 しかし動機がどうあろうと、このような結果を招くものは、結局「悪かった」と言わなければならぬ。どこが悪かった? 己のどこが? どこも悪くなかった。“奴”のために尽くしたこと、己の心を正直に鏡花へ語ったこと、何も悪くない。己は正しい事しかしなかった。強いていえば、ただ、「我在り」という事実だけが悪かったのである。
 中島は虚脱の状態で座っていたかと思うと、突然椅子を蹴って立ち上がり、傷付いた獣の如くうめきながら暗い室内を歩き回る。そうした仕草を無意識に繰り返しつつ、彼の考えもまた、同じ所をぐるぐる回ってばかりいて帰結するところを知らない。
 何度目か椅子に腰を下ろしたとき、ふと、机の上の万年筆と原稿用紙に目が向かった。別に、それでもって“奴”に手紙でも残そうなどと思ったわけではない。自分の成すこと全てが“奴”を傷付けるのに、そんな勇気が湧くはずがない。
 中島は原稿用紙を手に取り、“奴”が書きかけている習作の下書きを読んだ。
 いつもどこか生きる真似事をしているような“奴”が、その書中の人物としてのみ心から活きていた。現実の生活では安穏たる“奴”の口が、魯仲連の舌端を借りてはじめて烈々と火を噴くのである。あるいは伍子胥となって己が眼を抉らしめ、あるいは藺相如となって秦王を叱し、あるいは太子丹となって泣いて荊軻を送った。
 中島は原稿を机の上に戻した。
(続きを――!)
 書きたいと、どうしようもないほど思った。
 この習作は完成させられなければならない。
 鏡花の、
「中島さんが心から書きたいものを、きっと書いてください」
 という言葉は、今なお中島の耳底にある。しかし、中島の心の中に在って、小説の執筆を思い絶たしめないものは、その鏡花の言葉ばかりではなかった。それは何よりも、小説そのものである。
 小説の魅力とか、情熱とかいう楽しいものではない。昂然として自らを持する自覚ではない。中島は恐ろしく我の強い男だが、臆病者である。臆病ゆえに尊大ぶる「我」があるばかりだ。
 それでも、そのみじめな「我」で、
(小説を書かねば)
 と思う。それはほとんど、いかに理解し合うことが難しくても最後までその関係を絶つことの許されない自分と“奴”と同じで、宿命的な因縁に近いものと、中島自身には感じられる。
 中島の胸には拭い去れない不安があった。自分の一挙手一投足がまた“奴”を苦しませるのではないかという不安が。しかし、“奴”が目覚めた後、小説を書くのを諦めてしまうのはもっと恐ろしい。
 中島は懊悩の末に、意を決し、万年筆を取った。きつく握りしめて、ペン先を書きかけの原稿の末尾へ落とした。

 はた、と目覚めると、中島は原稿用紙を前に机に突っ伏してしまっていた。
「しまった、居眠りしてた――
 体を起こしたとき、眼鏡をかけていないことに気付いた。夢うつつで外したのだろうかと思って机の上を探ると、眼鏡は電灯の下にきちんと畳んで置いてあった。
 眼鏡をかけて時計を見た。随分時間が経ってしまっている。今夜はこれくらいにしてもう寝ようかと、広げたままだった原稿用紙を集めた。
 机の上を片付けながら、寝入る前に煩悶していたことを思い出して暗鬱とした気持ちになった。
(私が一生懸命小説を書いたところで、何になるんだろう)
 そんな想いが、どうしても胸の底にわだかまっている。
(書かなくては)
 と思う。思うが、最後まで書き続けるには筆が重い。書けなかったら鏡花にどう言い訳したらいいかしらなどと、弱気も湧いてしまう。
 ひとまとめにした原稿用紙に目を落としたとき、
「あれ?」
 と違和感を覚えた。用紙の枚数を、ひいふうと数えてみると、寝る前より二枚ばかり多い。
「この最後の段落――こんなの書いたっけ」
 どう読み返しても、増えた用紙二枚に渡る末尾の段落に見覚えがない。
 その段落は蒙古高原の気の遠くなるような美しさを、鮮烈に、訴えかけるように、しかし端正な文字でもって書き尽くしている。中島の字には間違いない。
(まさか――
 “彼”が?
 と、ようやく思い至った。中島の心が突風に吹かれたように波立つ。“彼”の他には考えられない。
 中島は、呆然と原稿用紙を見つめた。一体どういう風の吹き回しか、“彼”の気まぐれか。今までずっと、何も言ってくれなかったくせに――
 “彼”の書いた文を何度も読み返す。中島の“彼”に対する複雑な感情からすれば、嬉しいというよりは、
(どうして今更)
 という気持ちの方が大きい。
 ただ、“彼”の筆致は嫌いでなかった。たった二ページに満身創痍というくらい推敲で真っ黒になっている。欄外にまではみ出した文字もいくつもある。書きながら、苦しんでいるのがわかる。中島と同じだった。“彼”にとって何がそんなに苦しいのか中島にはわからなかったが、それでも、苦しくても書かねばならぬという意志は痛いほど伝わってくる。
「最後まで書き上げるんだ、俺もともに背負うから」
 と、“彼”は言ってくれているのかなと中島は思った。さすがに勝手な想像が過ぎるような気もしていささか恥ずかしくもなったが。
 翌日、中島は再び筆を執った。ただ小説の完成への意志だけに鞭打たれて、傷ついた脚を引きずりながら目的地へ向かう旅人のように、とぼとぼと稿を継いでいく。しかし、決して悄然たる姿ではなかった。
 中島はその後も孜々として書き続けた。“彼”と“奴”の二人の筆が交じったこの習作は、人知れず書き上げられた。これに推敲を加えているうちにまた幾日もが過ぎた。
 度重なる推敲で原稿用紙にもはや一文字も書くスペースがなくなると、新しい用紙に書き直してさらに増補改刪を加えた。ときには、中島の気づかない間に“彼”の手らしい訂正が入っていることもあったし、それが用紙の表に収まらず裏まで続いていることもあった。中島も“彼”の文を遠慮なく書き直した。
 最終稿の原稿用紙は二百枚を超えた。清書をして最後の筆を置いたとき、中島は机の椅子の背に寄りかかったまま呆然とした。深い溜息が腹の底が出た。目は窓の外の朝の景色に向かってしばらくはいたが、実は何ものをも見ていなかった。虚ろな耳で、それでも中島はどこからか聞こえてくる時計が七時を打つ音を聞いた。完成の喜びがあるはずなのに気の抜けた漠然とした寂しさ、不安の方が先に来た。
 完成した習作を綴じ、鏡花に渡すまではそれでもまだ気が張っていたが、渡してしまうと急に酷い虚脱の状態が来た。中島は身も心もぐったりとくずおれた。以前に比べて幾分、生きた人間じみた顔つきになったようにも見えた。

 彼は『李陵』を読み終えて作品集を閉じた。
 机の引き出しを開けると、あのとき鏡花に渡した習作がそのときの形のまま残してある。清書の原稿の上から鏡花の細かい字で熱心な書き込みがされ、さらに自分でも何度も手直しをして、原稿用紙はすでにぐずぐずになっている。そのままで残しておこうと思うのである。
 作品集を引き出しの中の一番上に置いて片付けて、彼は椅子に深く座り直した。
 机の上にはまっさらな原稿用紙の束と一本の万年筆ばかりがある。彼は万年筆を手に取ると、とぼとぼと、それでいて猛然と、新たな物語の冒頭を紡ぎ出した。

(了)